もしかしてと疑うこと

生まれ育った環境から当たり前として刷り込まれていること・常識として認識していることが多々あると思います。何もかもが当たり前であり疑ってもみないことがたくさんあります。特に常識として受け入れた時期が早ければ早いほど、何の根拠がなくても正しいと思い込んでしまいます。全く疑うことなく、正しいこととして長年過ごすと、信じている時間に裏づけされたと余計正しいと錯覚してしまいます。
当たり前が本当に正しいのかを疑うことの大切さを考えてみたいと思います。
当たり前の事は疑わないことが常識です。常識を疑ってはいけないわけではありませんが、常識は当たり前に正しいはずであり、その当たり前を疑う事は時間の無駄だからほとんどの人が行なわないだけです。
『常識』の枠の外に答えがある場合何度考えても答えにたどり着くことができません。常識の枠を超えた思考システム(考え方)が必要になるのです。
これまで『常識』とされていることは本当に正しいのか?
これまでは『常識』とされているけれども、本当に理屈にかなっているのか?
どんな『常識』であっても、正しいはずであれば疑われても全く問題ないはずです。理屈にかなっているのであれば、検証すれば疑念は晴れるはずです。
正しいと信じ込まれていることであっても、それまでの歴史や流れから検証が行われていないことも多々あるようです。検証されないまま信じられているというのは一種の宗教と同じです。宗教であれば死んでみないと真偽はわからないと思いますが、『常識』に間違いがあれば検証することで疑念は晴れると思います。
まずは『常識』は当たり前で疑わないのではなく、まず疑うことからはじめて疑いが晴れれば問題がないことがわかるだけです。
いかに当たり前だと思っていても、その『常識』の思い込みの枠を取り外して、疑うことをしてみましょう
まずは『もしかして?』と疑うことが大切です。
ただし常識の枠の外を考えることは誰が行っても構いませんが、常識の枠を超える行動はよく考えてから行うべきです。非常識として驚かれるだけでなく、法律や公序良俗に反する行為かもしれないからです。誰もやらないことはやってはいけないことだからかも知れないと気をつけることも大切です。