テレビ・新聞とインターネットの違い

テレビ・新聞とインターネットの違いについて考えてみます。テレビ・新聞は過去のものでインターネットはこれからのものと考えることができますが、テレビ・新聞が生き残ることが出来るのかどうかという視点から考えてみます。

プッシュ型の情報伝達

プッシュ型の情報伝達手段とは、こちらが何も考えなくても相手から情報が伝えられる伝達手段ということです。

スイッチを入れてさえいれば情報が勝手に目に飛び込むプッシュ型のメディアの代表がテレビです。次に開きさえすれば目に飛び込むので半プッシュ型のメディアだと言えるのかもしれません。テレビ・新聞は情報を一定の基準で判断し、凝縮した状態で伝えます。何故ならテレビは時間という制約があり、新聞では紙面という制約があるため凝縮せざるを得ないのです。このことは必要な情報を効率良く手に入れたい視聴者や読者との利害と一致していました。本来なら情報を凝縮すべきテレビなど、伝える情報が少ないことを補うためにゲストのコメントを入れたり、情報を薄め時間を引き延ばして伝えたりします。テレビをリアルタイムで見てもらえなくなった原因の一つが、引き延ばして作られているからでしょう。

プル型の情報伝達

インターネットはプル型の情報伝達手段です。プル型とは引き出したい情報を選んで引き出したい情報を手に入れる伝達手段です。

手に入れたい元となる情報がなければ、情報がありすぎて選ぶことができません。テレビ・新聞の時間や紙面のような情報の制限が無いので、全てを掲載することが出来ます。全てを掲載出来るがために、必要な情報を得ることが出来るかもしれません。しかし情報が多過ぎて処理しきれない自体が起こり得ます。

情報が溢れかえっているため、間違った情報に惑わされてしまう人がいるのです。

テレビ・新聞とインターネットの違い

テレビ・新聞とインターネットの違いは、知恵を使うのが誰かということです。テレビ・新聞は知恵を使った結果を伝えます。インターネットは全てを伝えるので、見る側が知恵を使う必要があります。そのことを書いていきます。

テレビ・新聞は編集という作業により、テレビ局や新聞社の伝えたい情報が選び出され凝縮された状態で届きます。全てではありませんが、ある程度真偽が確かな情報が伝えられます。

NHKに支払うお金は、情報の選択と凝縮料だと理解すると良いのかもしれません(情報の選択と凝縮に不備があっても支払わない選択肢が準備されていないことは残念ですが)。新聞を読むために支払うお金も、情報の選択と凝縮料だと考えてみるとわかりやすいと思います。この情報の選択と凝縮料が安いと思う人は新聞を買う方がお得ですが、高いと思う人は新聞は買わない方がお得になります。

インターネットは様々な情報を得ることが出来ますが、無料で得ることの出来る情報には限りがあります。莫大な情報の中から、価値のある情報の選択と凝縮には知恵が必要です。インターネットから必要な情報を取り出すことの出来る人は、テレビを見なくなりますし、新聞をわざわざお金を出して読まなくなります。逆にインターネットの情報の中から、必要な情報が取捨選択が出来ない人はテレビ・新聞から情報を得る方が良いのかもしれません(テレビ・新聞に都合の良いことしか伝えてはくれませんが…)。

テレビ・新聞の将来

テレビを見る人は益々減るでしょう。何故なら情報を薄めて伝えているからです。他に娯楽の無かった時代にはそれでも、見る人が多いので仕方ないのかもしれません。しかしこれからは見てくれる人は減ります。であれば必要な情報を凝縮して伝えるような番組だけが生き残ることになると思います。少なくとも録画して見る時代、コマーシャルを見てもらう代わりにスポンサー料を支払うビジネスモデルは破綻しつつあります。

もっと情報を凝縮する知恵を全面に打ち出し、必要な情報を詰め込んだ内容のテレビ番組を作るしかないのではないかと思います。

新聞も宅配モデルが破綻しつつあります。こちらも情報の選択と凝縮代という意味を伝えて、新聞の記事が情報を詰め込む知恵の結晶だということがアピール出来なければ淘汰されてしまうでしょう。

私はテレビ局や新聞社が全て潰れるとは思ってはいません。しかし上記のことが出来なければ淘汰されるテレビ局や新聞社が、近いうちに出てくると思います。

考え方を変える人と変えない人の違い

考え方を変えることの出来る人と考え方を変えることの出来ない人がいます。その違いを考えてみます。

考え方を変えることの出来る人は、今の考え方が完璧な訳ではないことを知っているのです。更に良い考え方を身につけるために、考え方を絶えず変更していくことが出来るのです。考え方を変えることの出来る人は、これからの未来のことを考えているのです。

考え方を変えることの出来ない人は、今の考え方が一番だと考えています。もしかしたら完璧だと考えているのかもしれません。だから変えることが出来ないのです。しかし本人はこれまで何とかなったことを根拠に、変える必要がないと思い込んでいるのです。考え方を変えると、これまでの自分を否定するような錯覚があるのかもしれません。過去に引きづられて考え方を変えないのです。

考え方を変える人と変えない人の違い

考え方を変える人は、これからの未来のために考え方を変えるのです。考え方を変えない人は過去のために考え方を変えないのです。

考え方を変える方が自然です。何故なら人は完璧にはなり得ないからです。より良い考え方があれば、良い方に変える方がお得です。

貴方はこれからの未来と過去のどちらが大切ですか?

三菱自動車の燃費不正に思う。性善説は言い訳

三菱自動車の燃費の燃費の不正が発覚しました。
内部告発ではなく、納入先からの指摘でした。

燃費の計測の仕組みが、メーカーから提出されたデータをそのまま使うそうです。性善説の観点で制度設計したのはただの怠慢だと私は思います。ズルをして発覚したとしてもペナルティーが小さければ、ズルをする人はいるでしょう。何しろ少し賢いお猿さんですら嘘をつくのですから、バレないと考えれば人間が嘘をつくのは当たり前です。もしバレてもペナルティーがズルをしたことで得られるメリットよりも小さければやるのが人間です。

日頃は嘘をつかなくても、バレないという隙があれば嘘をついてしまうのが人間です。誰にでもその可能性があるので、性善説での制度設計だから仕方ないというのは怠慢を隠すための言い訳に過ぎません。その隙をなくすように制度設計をするべきです。もしくはバレたら全てを失うもしくは負債を背負う程のペナルティーを用意するべきだと思います。制度設計する人がズルをする隙を残してしまっているのです。

少なくとも抜き打ちで極一部でも実際に検査をすること。不正が見つかった場合には、言い訳を許さず全ての許可を取り直すようなペナルティーを準備するべきだと私は思います。

私が政治家であれば、今自主申告すればペナルティーは無しか最小限で、ある期限をこえると上記のようなペナルティーを課します。ちょうど刑法の自主と同じように扱うのです。知恵のある経営者なら自主申告すると思います。性善説ではなく、人間の本来に沿った制度設計して欲しいですね。

不謹慎狩りをする心理

不謹慎狩りなるものがあるそうです。震災関連でのブログやSNSの書き込みに対して、不謹慎だという意見を書き込む人達がいるようです。震災では困った人達が大勢いるのに、楽しそうにしているのは不謹慎だという内容です。

不謹慎狩りをされたとしても、争うことは無駄なので、争う必要はありません。

不謹慎狩りをする人の心理を考えてみます。目的は不謹慎狩りに対して賛否いずれでも良いので、構ってもらうことでしょう。不謹慎狩りに対して賛成にしろ、反対にしろ反応してもらうことを目的として書き込んでいます。

例えば何らかのことに対して「嬉しい」と書き込んだとしても、熊本では大変な思いをしている人もいるので不謹慎だというような内容です。当事者でもないのに、言いがかりをつけるようなものです。もう一つの心理として、自分は大変な思いをしている人達のことを思いやる心の持ち主であることを周囲にアピールしたいのです。自己顕示欲の強いことを表しているように思います。

不謹慎な書き込みだと感じても、あくまでも不謹慎だと感じた人の主観でしかないのです。不謹慎だとの指摘を読んだ人が賛同してくれるか呆れるかは、読んだ人それぞれです。物事を客観的にとらえることが難しい人は、具体的なことを批判するコメントは控える方が良いと思います。今後不謹慎狩り自体が逆に攻撃されるようになるかもしれないからです。

不謹慎狩りをしている人は、構って欲しいか自己顕示欲が強い可能性が高いので生暖かい目で見守ってあげると良いと思います。もしかしたら究極の「構ってチャン」なのかもしれません。

他にも不謹慎狩りをする人の心理を思いつきました。幸せそうにしている人にたいして、幸せではない自分が惨めだと考える心理です。素直に受け入れることが出来ないので、被災者に対して不謹慎だと指摘することで幸せな人を攻撃したいのです。幸せそうなことが腹が立つので、攻撃する口実・言い訳を探してきただけのことではないでしょうか?もしかしたら本当の目的は幸せではない自分を理解して欲しいのかもしれません。うまく表現出来ないので不謹慎狩りという形で表しているのかもしれません。

仮に不謹慎だと思うことがあっても不謹慎だと指摘出来るのは当事者だけです。当事者ではない人間が勝手に他人の心情を推し量って、不謹慎だと考えるのは越権行為です。自分の課題には対処すべきですが他人の課題に口出しするべきではないという課題の分離が出来ていない証拠です。他人の課題に踏み込んでいるから、不謹慎狩りが問題になるのではないかと思います。

不謹慎狩りの心理

結局のところ構ってチャンか他人の幸福を妬んでいるかのどちらかでは無いかと思います。対策としてはいずれにしても相手にせず、生暖かい目で見守ることだと思います。

他人は他人、自分は自分。目の前にいない全ての人達に配慮しながら生きていくのは無理です。不謹慎狩りをする人達は困っている人を自分の目的のために利用しめいるだけのことだと思います。ただその目的が普通の人には理解出来ないので、不愉快な思いをすることになるのです。

糖質回避の朝食メニュー 油揚げのチーズ焼き

よく受ける質問で朝食は何を食べると良いでしょう?と聞かれます。

お勧めのメニューを考えてみました。

油揚げのチーズのせ
油揚げのチーズ焼き

アルミホイルの上に油揚げにチーズをのせてオーブンで焼いたものです。

油揚げの賞味期限が意外に短いので食べる分をその都度買う必要があるのが多少難点ですが、チーズの種類を変えることで色々な味を楽しむことが出来ます。賞味期限が短いのはもきかしたら冷凍することでクリア出来るかもしれません(油揚げを冷凍して良いかどうか私にはわかりませんが)。

小腹が空いた際のオヤツやデザート代わりにも良いのではないかと思います。

他にもハムや玉ねぎやピーマンなどピザのように色々とアレンジをしてみると飽きないのではないかと思います。

競うのはお得だけど争いは損な理由

競うのはお得で争いはお互いが損です。

競うこと

競争相手がいなければ良いのにと考えてしまうことがありますが、実は競うことでお互いが高め合うことが出来ます。スポーツなどで競うのも最大限の努力を引き出すためです。そもそもベストを尽くす目的で競うのです。競って勝つことを目的と取り違えている人もいますが、本来は最善を尽くすために競うのです。競うことにより、お互い同士が高め合うことが出来るのでお得です。

競うことはお互いの目的が同じ方向を向いています。勝つことが目的ではなく、最善を尽くすことです。そのため競うことは足し算、場合によっては掛け算です。だから運動会で順位をつけないということは、本来の意味がわかっていない証です。

争い

争いはお互いが潰し合うので勝ち負けが出ても、争う前から考えると何も生み出しません。最大の争いである戦争を考えてみると明らかです。勝ち負けにより賠償金として多少の富の移動はあっても、争いによって失うものに比べたら得る物は極僅かです。

争うことはお互いの目的が相手に勝つことです。相手に勝つために争うので、目的が向き合ってしまいます。お互いの関係を壊してしまったり、直接危害を加えたりしてしまいます。そのため何も生み出さず、何かが壊れてしまうので引き算です。後始末を考えるともしかしたらマイナスの掛け算なのかもしれません。

争うのは無駄なこと

競うことはお互い高め合う意味がありますが、争うことは何かを壊してしまうだけで意味はありません。意味のないことをするのは無駄です。

無駄な争いを仕掛けられても、争わなくて済む方法を探すべきです。確かに降りかかる火の粉は払わねばなりませんが、極力争うことは避ける方がお得です。争うことで何も生み出せないからです。

火の粉が降りかかることのないように、前もって知恵を働かせる方が更にお得かもしれません。

今の政治は競うのではなく、争っているように感じるのは私だけでしょうか?

サイゼリヤの糖質回避メニュー

外食で糖質回避に困るとお伺いすることがありますが、単品メニューのあるファミリーレストランでは比較的簡単に糖質回避が出来ます。今回はサイゼリヤで糖質回避メニューを考えてみます。

通常ハンバーグはライスとセットにすることが多いと思いますが、サラダとのセットにするとボリュームは十分です。サイゼリヤはサラダの種類が多いので、組み合わせは自在です。

やわらかチキンのサラダ 299円
やわらかチキンのサラダ 299円
ハンバーグステーキ 399円
ハンバーグステーキ 399円

今回のセットはハンバーグ&サラダで698円です。

今度から気をつけますは結局何もしない

何か問題があれば、今度から気をつけますと言い訳する人がいます。
これまで気をつけていないことを認めるのであれば、少しは意味がありますが、多少でも気をつけていたのであれば、反省する振りはするけど何もしないということです。

反省する振りだけならお猿さんでもする(かつて流行った反省猿です)ので、人間ならば具体的な改善策を提示することです。

言葉だけなら誰でも何でも言えます。お猿さんですら嘘をつくのですから、お猿さんより賢い人間が嘘をつけない訳がありません。

今度から気をつけますと言って、その場を言い逃れようとしているのです。具体的な改善策が提示されなければ、反省する振りはするけど結局何もしないということです。

今度から気をつけますと言われたら、どのように?と聞いてみましょう。言葉に詰まれば何も考えてはいないでしょう。その場を取り繕うのが目的です。どのように気をつけて再発を防止するのですか?と質問しましょう。この質問で反省しているのか、反省している振りをしているのかがわかります。

本屋さんは既に茹でられている

本屋さんは既に茹でられていると思います。

茹でらるとは茹でカエルのカエルの例えのように気付かずに逃げ出さないことを表現するものです。実際にはカエルは水の温度が上がると逃げ出そうとするので、疑似科学と言われているようです。考え方としてはわかりやすのでこのように表現してみます。

本屋さんの環境が変わっているのは、電気屋さんと同じです。具体的な商品の陳列を見てネットで購入する人が増えることです。

何故なら紙の本にない魅力が電子書籍には用意されているからです。

電子書籍のメリット

  • スマホでいつでも何処でも読める
  • わざわざ持ち運ぶ必要がない
  • 保管場所がいらない
  • 読み終わった本の始末に困らない
  • マーキングにペンが不必要
  • 安い(古本屋に売れない分値引きされるイメージ?)

電子書籍のデメリット

  • 人にプレゼントすることが出来ない
  • 所有している実感がない
  • 機械が壊れると読むことが出来ない

これからの本屋さん

実際に本を手にとって見ることの出来る魅力はありますが、値段が安い電子書籍には太刀打ち出来ない面があります。まだ本屋さんで買う人が多いため、茹でられている実感はないのかもしれません。茹でられている実感のある本屋さんは、コミックのレンタルなど新しい事業展開をはじめています。これもAmazonが定額サービスをはじめてしまうとレンタルというメリットが一瞬で消えてしまいます。少なくとも電子書籍の期間限定で格安販売が始まればレンタルサービスと競合します。

そろそろ本の定価販売を見直す時期なのかもしれません。もしなしたら電子書籍化されていない本ばかり集めた本屋さんが流行るかもしれません。

他にも既に茹でられている業界はあるかもしれません。時代が大きく変わりつつあります。

受診の目的 薬をもらうこと?

私は受診の目的は病気の治療だと考えています。
しかし患者さんの中には薬をもらうことが目的という方もおられます。具体的な薬をくださいという方までおられます。

医者の本来の仕事は病気の治療ですから、病気が良くなる情報を伝えることが仕事です。残念ながら医者の中には薬を出すことが仕事だと誤解している人もいます。このように誤解している医者が薬屋さんのように薬を出すことで、病院は薬をもらうだけの場所と患者さんも誤解してしまうのです。
医者は薬を出すと処方料が得られますが、説明をしても説明しなくても初診料や再診料は変わらない仕組みです。怒るような医者儲け主義の可能性が高く、薬をくれるだけで情報はくれません。

病気を少しでも改善出来る(薬を少しでも減らすことのできる)情報を教えてくれないのであれば、その医者は勉強不足なのかお金にならないから教えてくれないのかもしれません。穿った見方をすれば、病気が良くなってしまうと薬を出せなくなるのでわざと教えてくれないのかもしれません。別の病院を受診してみるのも一つの選択肢だと思います。