人の動かし方 〜人の困る仕組みを作る〜

人の動かし方について考えてみます。

人を動すとは大袈裟な言い方かも知れませんが、人に頼みごとをしたり、お願いしたり人に思い通り動いてもらいたい場面は良くあると思います。

人の考えていることが手に取るようにわかる天才にとっては、人を動かすのは簡単なことかも知れません。しかし人の考えていることがわからない普通の人にとっては、人に思い通り動いてもらう人を動かすことはハードルの高い課題です。

人を動かすには適切に言葉を選ぶ必要があります。

人は面倒なことはやりたくないため、動かないのが基本です。動かないことを怒っても意味がありません。動かない方が当たり前なのです。その動かないのが基本の人に動いてもらうのは、良いこと・ご褒美か、悪いこと・何らかの罰しかありません。

良いこと・ご褒美はお金や物で動いてもらうことも出来るかもしれませんが、回数を重ねる毎に報酬を積み上げる必要があります。そのためお金や物で動いてもらうのは得策ではありません。

良いことやご褒美は有難うの声掛けや助かったよというお礼という言葉だけでも、十分な役割を果たすこともあります。この作戦は頼みごとや指示などで一度声掛けやお礼を言ってもらった経験が嬉しいと感じた相手だけに有効な方法です。

もっと有効なのは悪いこと・罰を与えることではなくて、相手が困る仕組みを考えることです。子供でも大人でも全ての人に言えることですが、やらないと相手が困る仕組み・条件設定を作るのです。

例えば部下に資料の作成を依頼したとします。出来なくて困るのが上司なら、部下は本気では作りません。部下が困る仕組みにするのです。部下が資料を他の上司にプレゼンし、出来具合を直接評価してもらい、ボーナスの査定の響くなどです。

相手が子供の場合も同じです。子供が困る仕組みを設定するのです。片付けをしなければ、探し物が見つからなくても手伝わないのです。

人を動かすには、動かないと相手の困る仕組みを考えることです。嫌でも動くしかなくなります。

怒らない子育てと怒る必要のない子育て

怒らない子育てと怒る必要のない子育ての違い
言葉も似ていますし、怒らないことでは変わりありませんが、方針は180度違います。

子供に任せて怒らないというのが怒らない子育て、子供を怒らなくて良いように誘導するのが怒る必要のない子育てです。
怒らない子育ては子供が完璧な人格を自ら身につけることができると信じているのか、子供と関わるのが面倒くさいのいずれかです。
もしくは親が周りの人のおかげで身につけた常識も、自分で身につけたと勘違いしているのかもしれません。自然に子供も身につくと考えているのかもしれません。

怒る必要のない子育ては、子供が何を感じて何を考えているかを想像して対処しなければなりません。怒る何倍も愛情が必要です。

怒らないことは良いことですが、子供自身に判断を任せてしまうと子供はどのようにして常識をみにつけるのでしょうか?
子供自身がやって良いことと悪いことを自ら判断し、間違っても教えてもらえない(怒ってもらえない)とすればどのように育つのでしょうか?
少なくとも友達は離れていきます。何故ならその子供自身がルールで友達は従うものだと勘違いしてしまうからです。人に合わせるということを知らないまま成長することになります。友達が離れていっても自分では何故離れたか理解できません。

怒らない子育ては一種の育児放棄?

怒る必要がないように子供を導くのではなく、ただ怒らないだけというのは一種の育児放棄だと思います。
子供に任せるというそれらしい大義名分ですが、結局親が責任を放棄しているだけのことです。
常識を身につけさせてあげるべき親に、そもそもその常識がないのですから仕方がないと言ってしまえばそれまでです。ただ怒らない子育ては一種の育児放棄だと思います。

ただ怒らない一種の育児放棄ではなく、子供を怒らず誘導する怒る必要のない子育てが広まるといいですね。

怒る親と怒らない親の心理

怒る親と怒らない親。
怒る親は自分が子供のことを思っているから怒っていると勘違いしています。
自分が正しいと思いこんで子供を怒っています。
子供をこんなに怒ることが出来る立派な親だと勘違いし、更に周囲にアピールする目的で怒っているかなり勘違いされた親までいます。
怒らない親は子供の自主性に任せるという大義名分で、子育てを半分放棄している場合もあります。
親が怒るのは、自分の優位性を子供達に見せ付けたいがためです。
きちんと大人の世界の『常識』を身につけさせてあげていないのに、その『常識』を知らない・わかっていないといって怒るです。
大人は子供に対して、子供の知らない『知恵』を持っていることで優位性を示せば良いのですが、怒るという間違った優位性を示しているようです。
しかも大人が子供を怒る際に大人が子供にきちんと伝えていないことが原因にも関わらず、子供が知っていて当然として怒っているのは私には奇異に感じます。
例えていうなら大人が堀った落とし穴があったとします。
大人は気をつけて歩きなさいといいます。
大人は落とし穴があるのは当たり前だから、落とし穴に気をつけて歩きなさいとはいいません。
ただ気をつけてといえば落とし穴に気をつけるのは当たり前だと思っているのです。
子供達は違います。隠された落とし穴があることを見たこともなければ聞いたこともありません。気をつけるというのは目に見える石ころにつまずかないことや、転ばないことだと思います。見たことも聞いたこともない落とし穴に気をつけることができるわけがありません。
その見つけることができるわけがない落とし穴に落ちたといって責める親がいるのです。
『気をつけるように言ったじゃない!』と
大人にとっては落とし穴は当たり前だから、意識していないため落とし穴に気をつけると言ったか言っていないか定かではありません。当たり前すぎて言わなくても子供のわかっていると錯覚しているのです。
落とし穴を地雷に置き換えても構いません。
地雷を踏んだという比喩表現にも使われるので、地雷の方がわかりやすいかもしれませんね。
怒らない親は子供が騒いでも気にならないのです。
子供が何かをしても気にもとめません。
もしかしたら子供に関心がないのかもしれません。
子供に関心があれば人に迷惑をかけないように気を付けますし、子供の行動が気になります。
怒らない心理としてはプチ育児放棄に近い心境なのかもしれません。
怒らない親を見かけたら、そんな心理かもしれないと思いながら観察しているともしかしたら理解できるかもしれません。

子育ては親を育てる・親も育つ

子育ての意味を考えてみます。

子育ては文字通り子供を育てることです。
しかし実は親を育てる一面もあり、親も育つのです。

どういう意味か考えていきます。
子供が大人になっても困らないように常識を身につけさせてあげることが、一番の目的だと私は思います。

子育てでついつい怒ってしまうということをよく聞きます。
全ての元は親御さんの勘違いです。

大人の常識は子供の非常識だから

大人は子供が知っていると思い込んで、子供が知らないことを怒るのです。
本来子供が知らないことを親が知ることで、大人が当たり前に思っていたことを子供は知らないのだと再認識できるのです。
大人にとっては疑いもしない常識が欠落している子供の考え方を知ることで、いつの間にか当たり前で不思議にも思っていなかった常識の意味を再認識できるのです。この常識の意味の再認識こそが親を育てることにつながり、親が育つのです。

子供の知らないことを知ることで親が育つ

子供を怒る必要はありません。
何故なら子供は知らないだけなのです。
親が知っているから子供も言わなくてもわかるだろうというのは、親の勝手な思い込みです。親は自分が育つ際に誰かに教えてもらったのです。自然に身に着けたつもりですが、誰かに教えてもらったのです。
子供にとってその誰かとは、怒っている親以外あり得ません。
本来は知らないことを教えてくれるべき親が知らないことを責めるのですから、子供にとってはたまりません。
かといって一人では生きていけないので我慢しているのです。

子供は何かをただ知らないだけなのです。

怒る必要なんてありません。

子育てで怒る必要はありません。

怒らない子育てという考え方がはやっているようです。
よいことだと私は思いますが、勘違いされている方も多いようです。
怒らないのと放置を混同されているのです。
子供に任せると称して、放任主義。育児放棄・ニグレクトの一歩手前という人もおられるようです。

放任主義の怒らない子育てと怒る必要のない子育ては全く異なる概念です。
怒る必要のない子育ては、文字通り子供に対して怒らないのはもちろん、怒る必要がない子育て方法を模索するという考え方です。

基本的に子供は物事を知りません。
ただ知らないだけなのです。
知らないからこそ無邪気な言動をしてしまうのです。

子供が知らないことを怒ってもかわいそうです。

何故なら子供が知らないのは誰の責任かを考えればわかることです。
そうです子供が知らないのは親の責任なのです。親の責任なのに親を怒らず子供を怒るのは子供にとってはいい迷惑です。

怒りたくなることもあるとは思いますが、何かを知らないのです。
例えば片づけをしない。宿題をしない。
片づけをする意味を知らないのです。片づけをした方が探し物が早く見つかるというお得なことを知らないだけです。
宿題を早くやる方が時間を有効活用できてお得なことを知らないのです。

大人が知っている目的を子供が知らないだけ

知らなければ教えてあげれば良いだけです。
何度も言っているといわれる方もおられることでしょう。
ただ単に言っただけで子供には伝わっていないだけです。伝われば子供は変わります。伝わらなければ伝わるまで伝え方を変えるのです。

子供の困る仕組みを作る

そして子供の問題、つまり子供が困る仕組みを考えるのです。
片づけをしなければ、大きな箱に全て放りこんでしまうのです。
探すのに苦労をするから片付けた方がお得だと実感させるのです。
宿題をしなければ、放っておくのです。
勉強ができないと将来困ることは伝えてあげてもよいかもしれません。
ゲームなどをして宿題をしないのであれば、子供にとっての仕事である宿題をすることで、ゲームをする権利を得る仕組みを作ってもよいと思います。

最終的に忘れていくか、追い込まれてやるのか子供に選択させるのです。
絶対に手伝ってはいけません。
困れば手伝ってもらえると学習し、わざとやらなくなる動機づけになるからです。

宿題をするかしないかは子供の問題で、困るのは自分だということをしっかり理解させてあげることです。

子供の問題を親の問題と勘違いして、親が困ることのように怒ってしまうのです。
別に子供が宿題をしなくても本当の意味で親は困らないのです。
子供にとっては、親が勝手に困っているけど何でだろう?
何で宿題しないと親が困るのだろう?と思っているのではないでしょうか?

子供が勉強しないことで親が困っていると、子供にコントロールされるようになってしまいます。子供が何か要求があると勉強の手を止め、親を脅し、勉強したら何かしてあげるという条件を引き出すようになってしまいます。
子供が勉強しなくても困るのは子供。と子供の問題を背負わないことが大切です。