座る二宮金次郎氏の銅像に思う 追記

座る二宮金次郎氏の銅像に思うと題して以前記事を書きましたが、再びテレビでアンケートまでしていたので改めて書いてみます。

座る銅像が良いと考える人が多いのに驚きました。理由は歩きながら本を読んでいる銅像を見て育つとわスマホを歩きながらするようになるからというものでした。

座らせた方が良いと答える時点で、家の仕事である薪を運びながら本を読んでいる意味を理解していないことを示しています。そもそも何を意味する銅像か理解していないのであれば、歩いても立っても意味が無いと思います。

座って本を読む二宮金次郎氏の銅像が何を意味するのか私は教えて欲しいと思います。わざわざ銅像にして何を後世に伝えたいのか私は知りたいと思います。

銅像の目的と伝えたいことがズレていないか疑問です。

テレビで面白かったのは西郷隆盛氏の銅像は刀を持っているのに良いのか?という話でした。確かに刀を持って歩いても良いのかという議論にはなりません。

誰かが歩きながらスマホをすることを促すと考えついて、確かにと思った人が追随してしまったのでしょう。

しかし歩きながら本を読むということの意味を伝えることの出来ない人達の言い訳でしかありません。

逆に座る二宮金次郎氏の銅像にどんな意味が込められているのか説明して欲しいものです。

別人の万引きで自殺について思う

別人の万引きで入試で推薦してもらえず、中学3年生が自殺してしまった事実がありました。
亡くなられた方の御冥福を心よりお祈りいたします。

思ったことを書いてみます。
今回の一件は生徒さんが亡くなられたため隠し切れず大問題になりました。ということは似たような冤罪により人生が変わってしまった生徒さんが他にもいると考えるのが自然ではないでしょうか?
今回の問題は万引きした生徒の進路指導をした教師が苗字だけを記録係の教師に伝え、似た苗字の生徒さんの記録としたことが発端です。職員会議で間違いが確認されたため訂正する機会があったにもかかわらず訂正されることなく、1人の人生が終わりを迎えてしまいました。
進路という人生の一部に関わる重要な情報の管理が杜撰であったことは間違いなさそうです。
苗字だけで情報をやり取りし、確認しないというのは医療の分野ではあり得ない感覚です。医療の分野では患者さんの間違いを防止するために何度も確認するのが常識です。

この問題の根底にある闇を考えてみます。高校入試に絶大な影響を及ぼす内申を決める権利を握っている教師を見張る仕組みが無いことが根本原因では無いかと思います。もっと大きく論じると公務員を見張る仕組みが無いことが根元です。教育委員会が教師を見張ると言っても言わば仲間同士です。多くの場面でかばい合うのは仕方のないことです。全ての教師とはいいませんが、一部の教師は主観によって内申を決めているのではないかと思います。主観で決めてもお咎めは無いのです。このことが教師に感違いをさせているのでは無いかと思います。何をしてもお咎めが無ければ好き勝手してしまうのが人間ではないでしょうか?そういう意味で教師の勘違い(思い違い)から起こってしまったのではないかと思います。

少なくとも客観的に審査する仕組みが必要だと私は思います。生徒の名前を伏せて、審査することでプライバシーの問題は避けることが出来ます。公務員全てに客観的に審査する仕組みを導入するべきだとは思いますが、自殺者が出てしまった学校から取り組み始めても良いのではないかと思います。

非常に残念なことですが、失われてしまった命は戻りません。であればこのようなことが今後起こり得ない仕組みを作り上げることだけが、本当の意味での葬いになるのではないかと思います。関係者の責任を追求したところで少しでも責任を逃れるための言い訳を考えて真実が隠されるだけです。であるなら責任を追求しない代わりに、真実を包み隠さず公表することで、償いとする考え方が良いのではないかと思います。目的は再発防止だからです。再発防止に協力しないのであれば関係した教師の名前を公表するというルールにすれば協力せざるを得ないのではないかと思います。

様々な仕組みを「0から思考」により、全てをリセットしてゼロから作り変えるべき時ではないかと思います。

偏差値の本当の姿 〜偏差値の大逆転の謎〜

偏差値の大逆転として予備校や進学塾などが偏差値の急上昇を宣伝したりします。偏差値急上昇が珍しいらしく、小説が映画化されたりもしています。受験における偏差値の本当の姿を知っている人から見ると滑稽な宣伝です。何故なら努力を怠っていた人が心を入れ替えて努力を始めただけのことです。確かに努力の仕方がわからなかった状態から努力の仕方を教えたのかもしれませんが、全員に当てはまる訳ではありません。元々能力があるのに努力を怠り低偏差値だった人が、努力しはじめただけのことです。そういう人がいるから貴方も出来るはずというのは、無理がありますし騙されてはいけません。

偏差値とは?

そもそも偏差値とはテストにおいて集団の中の自分の立ち位置を表すものです。集団の平均点を50としてその平均点からどのくらい離れているのかを表すものです。母集団が優秀な中であれば同じ学力でも偏差値は低くなりますし、それほどでもない母集団であれば偏差値は飛び抜けて高くなることもあります。受験とはその偏差値により志望校を序列化し受験校を決める際に活用されています。ある程度受験における能力を表しているからです。
誤解されているのは、偏差値は人の能力を指し示すと錯覚しています。この錯覚は誰もが目一杯勉強という努力をしてテストに臨んだ結果だと思い込んでいることです。適当にしか勉強してテストに臨んだ人の偏差値は低くなりますし、そもそもデータの信憑性が怪しくなります。

多くの人は目一杯努力していますし、他に最適な指標がないため止むを得ず偏差値を使っているのです。

偏差値の本質

目一杯努力した偏差値が本来の偏差値で、目一杯努力していない偏差値は努力の足らなさを測っているのです。低偏差値から大逆転ではなく、本来なら大逆転した後の偏差値が取れたのにサボってい低偏差値しかとらなかったことを喧伝していることになるのです。だから多くの人は恥ずかしくて偏差値の大逆転を自慢したりしないのです。

目一杯努力した人達だけで比べることで能力をはかることが出来るのであって、手を抜いている人の低い偏差値は参考にもなりません。

またレベルの低い人達だけを集めた母集団の中での偏差値を比べてみても、極端に高い偏差値が出て意味がありません。偏差値100以上という状態もあり得ます。

今の偏差値の問題点

偏差値の問題点は目一杯努力していない人の問題だけではありません。受験勉強の試験自体が暗記力と暗記を基にしたパズルを解く能力をはかっているだけです。暗記は正確性、検索性、汎用性において人間は機械には勝てません。パズルを解く能力は今の所人間の方が有利ですが、近い将来これも機械に負けると思います。機械に置き換えることの出来る能力をはかっても私は意味が無いと思います。増してや方程式で解けるようになる問題をわざわざ遠回りさせるつるかめ算なんて論外です。

かつては記憶し素早く検索することが出来るのは人間の脳だけでした。だから暗記力が必要とされたのです。これだけ機械が発達し、記録や検索が容易になった時点で人間の脳に求められるものは大きく変わってきました。受験業界がまだそのことに気付いていないようです。近い将来、このことに気付いている人達だけが得をして、気付いていない人達は取り残される時代がやってくると私は思います。

育児放棄による乳幼児の放置死の報道に思う

育児放棄により乳幼児の放置死の報道が散見されます。亡くなられたお子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
これらの報道を見て思うことがあります。
論調が、育児という当たり前のことをしないとして、親ひいては行政を責めているように思います。
親を庇う訳ではありませんが、親もどうしていいのかわからなかったのだと思います。親の心理としては、暗に死んでも仕方ないとは思ったとは思いますが、育児から逃げ出したい心理に陥っていた可能性が考えられます。

私は責め立てるような報道をしても意味をなさないと思います。何故なら亡くなった命はかえってこないからです。それならば再発を防止出来る知恵を報道する方がはるかに建設的だと思います。例えば検診に来ていなかったのであれば、その時点で強制的に面会する法律が必要かもしれませんねなどです。法的な問題で実現するかどうかは政治家や行政の方に考えてもらうとして、その解決策の一つを提案するような報道であるべきではないでしょうか?
他にも周囲の人達に取材し、よく泣いていたや様子がおかしかったという声を報道することもあります。解決策としては、不自然なことがあった時点で虐待の疑いで通報することを促すような報道が再発防止に役立つのではないかと思います。その際通報先の電話番号を表示するとより効果的だと思います。あるいは再発防止策を視聴者から募るという、集合知から解決策を探すのも一つの選択肢だと思います。

そして今の報道でも虐待をしてはいけませんというメッセージは伝わると思いますが、現時点で虐待してしまっている人に向けてもメッセージを発信出来ると良いと思います。多くの場合虐待している人達に虐待しているという自覚が無いからです。虐待してしまいそうという場合の親からの相談先も報道すると、再発防止に役立つと私は思います。もしそういう相談先が無ければ、相談先を作ってもらえるように行政に働きかけると良いのではないかと思います。

報道の目的が見てもらうこと、つまり視聴率なので仕方がないのかもしれませんが、そろそろ再発防止を目的とした報道があらわれても良いと思います。

座る二宮金次郎氏の銅像に思う

薪集めの間に歩きながら本を読んでいた二宮金次郎氏の銅像が、今は座って本を読んでいる銅像に変わりつつあるそうです。

薪集めの時間も惜しんで本を読んだことが逸話として残っています。座って読むなら逸話とは話がずれてしまいます。歩きながら本を読んではいけないという考え方のため、二宮金次郎氏の銅像が座ったのでしょう。私は教務力の低下が放棄を心配してしまいます。

二宮金次郎氏の銅像の背景を説明することを放棄しているのではないかと思います。もしくは理解してもらえないから銅像を座らせたのではないでしょうか?

二宮金次郎氏が子供の頃は、子供が働くことが当たり前でした。勉強よりも家の手伝いが優先されて当たり前の時代でした。そして昼間にしか本が読めなかったはずです。明かりを灯してまで本を読むことは許されない時代でした。仕事としての薪集めの合間に時間を惜しんで本を読むことに意味がありました。当時は山道ですからすれ違う人などほとんどいません。転んでも自己責任です。自分が痛いだけです。このような背景を伝えることで、二宮金次郎氏の考え方の素晴らしさがわかるのです。

銅像を座らせたのは、恐らく先生方もこの背景が理解仕切れていないのではないでしょうか?

確かに現代では歩きながら本を読むことは危険です。自分自身が車に撥ねられるかもしれませんし、誰かにぶつかるかもしれません。二宮金次郎氏が歩いていた頃とは大きく環境が異なるのです。

二宮金次郎氏は、歩きながら本を読んだから凄いのではありません。時間を惜しんで勉学に励んだから凄いのです。時間を節約する手段として歩きながら本を読んだだけのことです。いわば家の手伝いもして、勉強もする知恵を考えたから凄いのです。

このことを伝えることの出来ない日本の未来が心配です。

家という密室の怖さ

家という密室の怖さを実感しました。親がパチンコをするために全裸にして浴室に閉じ込めたことが発覚しました。
怖いのは、周囲の住人の通法で偶然発覚したことです。子供が泣き叫ぶのを不審に思った周囲の住人が通法してくれたから発覚したことを考えると、手足を縛って口にガムテープをして声や音を出せなくしていれば、発覚しなかったのです。幸いにも親と同居人がそこまで気が回らなかったおかげで発覚したようです。もし周囲の人達が気付かなければ、親が帰るまでそのままだったはずです。これが家という密室の怖さです。

家の中が安全という常識が通用しない人達が、日本国内にも存在するという事実です。多くの人にとって子供は大切なかけがえのない存在ですが、自分達の生活を邪魔する存在としかみなせない人達もいるようです。様々な制度を作っている人達にとって想像もつかない考え方をする人達が確かに存在してしまうことに目を向けるべきだと思います。

残念ながら子は親を選ぶことは出来ません。困っている子供がいれば今回のように周囲の人達が手を差し伸べてあげるしかありません。問題となるのは躾と虐待の境界線です。発覚していないだけで躾と称して虐待している親は多数いると思われます。全ての親に世間一般の常識があるとは限りません。怪しければ児童相談所に通報するのが家を言う密室から助け出す数少ない手段だと思います。怪しければ通報が当たり前で、間違っていれば笑い話になる世の中になるといいですね。

ちなみにある音楽家が子供が言うことを聞かないから子供のゲームを壊したことが武勇伝のように新聞に取り上げあれたそうです。躾と考えているようですが、子供に対するイジメのように思います。何故なら言うことを聞かせるように説明出来ない親の問題であって、行動出来ないからといって子供に責任を取らせるのはかわいそうです。それを武勇伝のように取り上げる新聞もどうかしていますね。正解は言う通りにしないと取り上げてゲームを使えなくすることです。つまり子供でも理解出来る警告を与えてあげるべきです。口で言っていたと親は主張しても、言った(つもり)から理解出来ない子供が悪いと言う理屈を振り回します。これも家の中は密室で子供は親に抗議する手段が無いことが問題です。しかもわざわざ新聞に投稿する程自分自身の行動に酔い痴れています。その間違った行動を新聞に載せることで、密室で困らされる子供が増えそうで残念です。

家を密室にしないために子供が直接SOSを発信出来る仕組みを作る必要があるのかもしれません。今の私には作り方が思い付きはしませんが…

チョコレートを食べるとニキビが出来る?

今日はバレンタインデーですからチョコレートの話題を。チョコレートを食べるとニキビが出来ると言われることがありますが本当でしょうか?

これまでの論文で他の食べ物と比較して、チョコレートを食べたからといって特にニキビが出来やすいという有意差は無いとされています。つまりチョコレートは無実とされています。

糖質を食べ過ぎるとニキビが出来る

しかしチョコレートに限らず糖質を食べ過ぎると翌日か翌々日にニキビが新生するのは事実です。その事実から考えると、論文を確認はしていませんが、チョコレートと他の糖質を比較して差が出なかったという結論が推察されます。つまりチョコレートも他の糖質もニキビを作るから差が出なかったという結論のようです。他の糖質である主食の食べ過ぎでニキビが新生するはずがないという思い込みから陥った錯覚だと思います。

人によってはチョコレートの食べ過ぎでニキビは出来る

事実としてチョコレートを食べ過ぎるとニキビは起こり得ます。実際にはチョコレートそのものではなく、その中に含まれる砂糖である糖質を食べ過ぎるとニキビが出来るのです。恐らく血糖値が一定値を超える程チョコレートを食べると発症します。チョコレートだけでなく、他の糖質との食べ合わせでも血糖値が上がることでニキビが新生します。理屈の上では、空腹時にチョコレートだけ大量に食べたり、食事で糖質を食べた後でチョコレートを食べると症状は出やすいと思います。

チョコレートでのニキビ対策

チョコレートを一定量食べた後でニキビが出来るようなら、次からは量を減らすか、タンパク質(卵やチーズなど)を食べた後でチョコレートを食べるとニキビは出来にくくなります。

アトピー性皮膚炎に対する振り返り法をニキビに応用し、振り返って食べ過ぎを探して繰り返さないように気をつけましょう。アトピー性皮膚炎は翌日には症状が出ますので1日の振り返りですが、ニキビは翌日か翌々日に症状が出ますので、振り返るなら1日か2日振り返る必要があります。

ちなみにチョコレートを食べ過ぎると必ずニキビを生じる訳ではありません。ニキビが出来る人の中にチョコレートでニキビが出来る人がいるということです。

ニキビで悩んでおられる方は、チョコレートに限らず糖質回避をお試し下さい。ニキビが新しく出来なくなるまで糖質を控えるのがおすすめです。

しかしこれが事実であってもテレビでは放送してくれません。その理由はまた改めて書きたいと思います。

殺人犯や嘘つきの手記の出版に対して思うこと

殺人犯や嘘つきの手記の出版がメディアを騒がせています。売り上げ貢献になるから、メディアもわざわざ取り上げなければ良いのですが、せっかくの視聴率を逃したくないメディアはしっかり放送します。

この報道を見てふと思います。殺人犯の手記に至っては本人は表に立つことなくペンネームで書いています。別人が空想して書いてペンネームを騙ったとしても、確認のしようがありません。別人ではないと証明するためにメディアの前に出て下さいと出版社に詰め寄る方法がありました。本人であることをメディアに出て証明されないのであれば偽者だと判断すれば良いのです。そして本人だとしたら、遺族からの損害賠償請求により本が売れたとしても印税を差し止めするのが1つの方法だと思いました(請求権や時効などは調べていません)。そのようにすれば売り上げが上がったとしても賠償に繋がるのであれば意味があると思いました。本人で無ければ出版社を相手に遺族が詐欺として告発する方法もあったのかもしれません。
テレビ局の報道も倫理観云々は言っていましたが、結局のところ野次馬でしかありませんでした。テレビ局も報道するなら一歩踏み込んで、作者が偽物の可能性を指摘し本人確認のために報道陣の前に出てもらうように知恵を使うと良かったと思います。

今回話題になっているのは嘘を並べて自殺者まで出た問題に関する手記が出版されるようです。お金になると思う人達が群がるのでしょうが、今回の件では実験の再現がで調査費だけでも莫大な費用がかかっています。ここで本人に賠償請求をしてしまうと良いと思います。そうすることで印税が入ったとしても、調査費用の補填として使われるからです。印税が本人の手に入らなければ、本人達の思惑が外れてしまうので良いと思います。自分達の嘘の上塗りをする都合の良い主張をした上で、更に印税まで手にしようとするのですから多くの人達が呆れています。その思惑を肩すかしするために、嘘のおかげで生じた調査費用を請求するのは当たり前のことだと思います。その当たり前のことを手記の印税から支払ってもらうようにしてしまえば良いだけのことです。

恐らく自分のついた嘘を真実だと思い込んでしまう人だと思います。

そんな人がいるのか?と思われるかもしれませんが、この本を読んでみて納得です。
驚くべき思考回路をしている人がいるようです。何より驚いたのはこのような不思議な思考回路の人が身近にも存在することです。自分のついた嘘を真実だと思い込んでいるとしか思えない行動を取る人が知っている人にも複数いることです。あの人もそうだ、この人ももしかしたらと考えながら読み進むと合点がいくことが多々ありました。

おまけですが、号泣議員も同じような思考回路です。
嘘に嘘を重ね、都合が悪くなると泣いて済ましていたのでしょう。泣かれた時点で呆れて相手にしなる人が多かったのだと思いますが、本人は泣いたことで許されたと誤解した可能性が考えられます。泣くことで許されると誤解していたのでテレビの前でも号泣することができました。彼は裁判で裁かれることで嘘が駄目なことだと理解することでしょう。
もしくは嘘つきな上に典型的な言い訳人間なのかもしれません。

解散が噂されるグループに関して

解散が噂されるグループがあります。事の真相はわかりませんが、漏れ聞こえる内容からは独立を画策したが失敗したのかもしれません。本人達が何も語らないので真相は今の所闇の中です。

わかっている事実から類推してみます。スムーズな独立はどうやら無理のようです。

ここでグループのメンバーの心理を考えてみます。グループのファンのことを一番に考えるならどんな無理難題を言われても全て受け入れグループを維持するはずです。少しでも自分のことを優先する心が勝れば解散ということになると思います。

解散に導く、ファン以外のメンバーの優先する内容としては自身のプライドや自身の扱われ方、お金などだと思います。それら全てを投げ打ってでも解散を避けるなら大したものだと思います。

漏れ聞こえる内容からはマネージャーを盛り立てることを目的に解散するようでしたが、その目的が無くなった今何を目的に芸能活動をしているのかが問われます。

こんな目で見守ってみたいと思います。

戦後70年、平和が70年

今日8月15日(土)は70年前に戦争が終わったことを表す、日本にとっては大きな意味のある1日です。終戦記念日と言われています。戦争が終わって70年です。

そして戦争を仕掛けることも戦争に巻き込まれることもなく、70年を平和に過ごすことが出来ています。ほんの70年前には世界中を巻き込んだ戦争をしていたことは、今の日本を見ていると想像がつきません。

70年前の戦争は様々な意味での人の欲深さを物語っています。そして当時は武力でねじ伏せるのが当たり前だったのです。

戦争は軍需物資を扱う人以外は、トータルで見ると誰も得しない仕組みです。取り返しのつかない破壊と殺戮の分、人類全体でみると必ず損をする負け戦です。勝者が敗者から賠償金をせしめるとしても、お金が移動するだけで何も生み出してはいません。破壊と殺戮の分お互い損するのですから、損得を考えることが出来るだけで、無駄な争いはしないはずです。

ましてや人類が相手を思いやる心のある人の集まりであるならば、人類は必ず争いの無い世界を実現できると私は信じています。

戦争の終わった日から、平和を祝う日になるといいですね。私は8月15日を祝にすることを提案します。そして100年1000年と平和が続くことを心から祈っています。

平和が続き、戦争という言葉や概念が無くなりますように。

21世紀にはまだ戦争なんて無駄なことしてたんだって、という未来が来るといいですね。