資本主義と社会主義で資本主義が有利な理由

資本主義と社会主義という考え方があります。社会主義市場経済という折衷案のような主義もありますが、本質は資本主義です。都合によって資本主義と社会主義を使い分けるので、いいとこ取りという理解にしておきましょう。
基本的な考え方は競争によって淘汰される資本主義と、競争を排除する社会主義とにわかれます。資本主義の方が社会主義よりも優れていることは歴史的に見て議論の余地はないでしょう。今回はその理由を考えてみました。

資本主義と社会主義の違いを一言で言えば競争の有無です。資本主義の方が優れていることから競争する方が優れているということのようです。

その理由を考えてみると単純でした。何億年もの時間、生物同士で競争した結果生き残ることが出来たのが人類です。だからこそ競争するのが当たり前で、生き残るために頑張るのです。そもそも生物は競争しないことを想定していません。 当然人間も競争するのが当たり前なのです。人間だけが想像力を働かせることで競争のない世界を想像し、一部の人達が実現を試みたのですが残念ながらうまくいきませんでした。人間だけが何億年もの進化の歴史を覆すとが出来ると考える方が不自然なようです。

自然界では生存競争のない環境はあり得ません。食べるか食べられるかで成り立っているからです。生物が競争無く生き残ることが出来るとすれば、人間が考え出した極限られた環境において成し得るだけでしょう。つまり生物からすればよほど知恵のある生き物(この場合人間です)が知恵を絞ることで初めて、競争のない環境が実現できます。競争のない環境は極限られた数の生物だけで隔離された場合に一時的に実現できるに過ぎません。しばらく時間が経てば生物の数が増えてしまい、競争が始まります。

人間社会においては、2人の人間が競争無く生き残ることを想像するだけでも困難です。ましてや全ての人間が競争無く生き残ることが出来る環境は実現出来そうにはありません。誰も不満を抱くことのない競争のない世の中は、恐らく人類の知恵では実現出来ないでしょう。例えば2人だけ人間がいる状態で食べ物は1人分しかない場合、通常は食べ物の争奪戦という競争になるでしょう。1人分の食べ物を2人で仲良く分けて食べることは想像しにくいと思います。

資本主義は自然界と似ている

資本主義が有利なのは自然界における自然淘汰に似た仕組みだからです。自然界では突然変異による多様性が、資本主義では様々な経済活動に相当します。自然界では多様性の中から自然淘汰という容赦ない選択により生き残ることの出来るものが選別されます。資本主義では様々な経済活動の中から市場経済という容赦ない選択により、優れたものだけが経済活動を続けることが出来るという意味で生き残ることが出来ます。自然界と資本主義の違いは、自然界では突然変異という偶然の産物ですが、資本主義では経営者の知恵により多様性が生み出されることです。

資本主義も劣るものを淘汰する仕組みが備わっています。私達人類は何億年も生き抜いた自然界も同じです。私達人類には何億年もの進化の歴史を生き抜いた証として競争が身についているのです。だからこそ人間には資本主義、競争が必要なのです。

 

人間における競争の利点

学校では競争を避けるように指導することもあるようですが、進化の歴史から考えると、教育の本来の目的を取り違えて迷走しているように思います。

多くの人は競わなければ最善を尽くすことは出来ません。だから競争するのです。スポーツにおいても試合をするから頑張ることが出来るのです。スポーツの本来の目的は最善を尽くすことです(参考:スポーツなどで順番を競う理由)。勝敗は結果に過ぎません。

人間本来の力を出し切るために競うのです。競うためにトレーニングという準備をし、全力を出し切る競争に備えるのです。トレーニング自体も本来の力を出し切るためです。

人に負けたくないという心理が原動力となって辛いトレーニングも頑張ることが出来るのです。もし無人島に1人でいれば、競う必要はないため辛いトレーニングをしたりはしないでしょう。

最低賃金1500円デモに思う

最低賃金を1500円に上がるためのデモ行進が行われたそうです。様々な視点から賛否両論の議論が起こっているようです。私は最低賃金が1500円になったら大変だろうなと思います。経営者も大変ですが、労働者の方が更に大変です。その内容を説明したいと思います。

デモに参加した人は最低賃金が時給1500円になれば、自分も時給1500円になると思ってデモに参加しているのでしょう。万が一最低賃金時給1500円が実現した場合、残念ながら3人でしていた仕事を2人でこなすことになります。下手をすると1人でこなすことになるのです。つまり3人に1人か2人は仕事に就くことが出来なくなる世の中がやってくるのです。当然今のままでは1人でこなすことの出来る仕事量は限りがあるので、機械の助けを借りて生産性を上げることになります。逆に考えれば、時給1500円支払う価値のある生産性の高い人だけが雇われて、時給1000円相当の生産性の人は雇ってもらえない世の中になるだけです。

経営者はお金を支払う側ですから、そのことを今でも当たり前に認識しています。しかし労働者にはお金を支払う側の視点がないため、高い賃金を支払う必要があれば支払わなくて済む方法を模索するという視点が抜け落ちているのです。

時給1500円で1人雇うより、代わりに機械に出来る作業は任せてしまうことを考えます。機械であれば文句も言わずミスもありません。今のところ機械には代わりが出来ない仕事をしているとしても、最低賃金が高くなるのであれば機械化される圧力が高まります。開発費をかけたとしても機械に任せる方がトータルとして安上がりなのです。

自分の賃金を上げる目的であれば、デモなど参加せず雇用者に賃上げ交渉を求めるべきです。雇用主や上司に対して賃上げ交渉が出来ないからと言って最低賃金を上げることで、自分の賃金を上げようと考えるのは世の中の仕組みを捉え違えていると私は思います。暗に自分の能力では賃上げしていないことを理解した上で収入を増やそうと考えているようにも思えますが、残念ながら直接交渉できる程度の能力を持ち合わせていなければ、万が一最低賃金が1500円になった場合には仕事をさせてもらえなくなる可能性が高いと思います。

最低賃金を1500円に上げるように要求するよりも、自分自身の生産性を上げるように知恵を働かせて努力する方が理にかなっているように思います。最低賃金で働くのではなく、それ以上の価値を発揮できるようにする視点を持ち合わせることこそが大切なのではないでしょうか?

デモに参加するのも要求するのも自由ですが、最低賃金しかもらえない生産性しか自分にはありませんと周囲にアピールしていることと同じなので、生き方としてはもったいないと私は思います。マーケット感覚を身に着けると視点が変わるかもしれません。(参考文献:マーケット感覚を身につけよう

テレビの問題点

テレビの問題点は誰のために番組を作っているかということを考えると容易に理解出来ます。
一言で言えば、スポンサーのためです。言い換えるとテレビ局の利益のためです。決して視聴者のために作っている訳ではないのです。

テレビ局の理想を考えれば、見てくれる視聴者のために正しい情報を適切に届けることが目的であるべきです。しかし資本主義の世の中のため、お金を支払う人達の都合で理想から歪められてしまうのです。

例えばスポンサーの不利益になることは、テレビ局は放送しないのです。いくら正しい情報であっても、視聴率が取れなければ放送されなくなるのです。逆に考えれば、視聴率さえとれれば多少いい加減な内容であっても放送してしまうのです。いい加減な内容で視聴者を騙してでも視聴率を稼ぐことが目的になっているのです。

直接お金を支払う人達の意向に沿って物事が動いている証拠です。

テレビは誰のものかを考えた時、理想的には視聴者のためのものであって欲しいところですが、現実的にはテレビ局とスポンサーのためのものでしょう。では彼等にとって視聴者は?お客さんではなく、視聴率を稼ぐための手段に過ぎないのではないでしょうか?何故ならヤラセをしてでも視聴率を稼ごうとしているからです。別の角度から見るとコマーシャルを見てもらう目的で番組が作られていることがわかります。テレビを見ていてよくあるのは、内容に期待させて期待させて続きはコマーシャルの後でというものです。チャンネルを変えられないためのテクニックかもしれませんが、大した内容でもないことを引っ張り伸ばしていることが見え見えです。

コマーシャルを見てもらうために、テレビ番組が作られている仕組みにウンザリした人からテレビを見なくなりつつあります。ビジネスモデルとしては限界に近づきつつあるのかもしれません。テレビ局の人達が危機感をいつ自覚するのか楽しみです。

日本の生産性が上がらない理由その2 残業

かつては生産性が高かった日本の生産性が上がらない理由その1 サービス残業を以前書きました。今回はその2として残業を取り上げたいと思います。

私は以前書いたサービス残業だけでなく、残業という制度そのものが日本の生産性を蝕んでいると思います。その理由を書いてみます。サービス残業では残業をしても残業代を支払わないので、企業側が残業をする方向に仕向けます。残業に対する対価を支払わないため、躊躇することなく残業させるのです。

では残業代を支払う場合に何が起こっているかというと、わざとゆっくり仕事をする輩がいるのです。目的は残業代を稼ぐことです。現在の仕組みでは手を抜けば手を抜くほど収入が増えるのですから、わざわざ急ぐ理由などありません。急いでいるふりだけすればいいのです。上司の仕事は急いでいるふりを見ることです。真剣に働いているかどうかを見抜くのが本来の仕事のはずです。

ちなみに本人はゆっくり仕事をしているつもりは全くありません。真剣に仕事をしているつもりになっているのです。つもりということがポイントです。真剣に仕事をしているつもりのため、真剣に仕事をしろと言われても、真剣にしていると言い返すのです。残業する本人たちは仕事の量が多いと不平を言いながら残業しますが、その実仕事の仕方が問題なのです。わざとゆっくり仕事をする人と、仕事の量が多くて止むを得ず残業になる人の区別がつかないからです。仕事が早くて定時で帰ることの出来る人の方が、仕事が遅く残業代をもらえる人より収入が少なくなるのです。それでも仕事を早くしようと考えるでしょうか?

ゆっくり仕事をする方が収入が増える仕組みを誰も訂正しないことが、日本の生産性が上がらない理由だと思います。問題は途中で仕事の質を判定せず、最後まで同じ人が同じ仕事をすることです。

対策

残業代が長時間労働を生むで書いたように残業代を目的にゆっくり仕事をしてしまいます。かといって残業代を支払わないサービス残業とすると前回書いたような問題が生じます。ではどうしたら良いのでしょうか?

残業代を支払わない訳にはいきませんが、かといって残業代を支払うと残業代を目的にしてしまうことが問題です。残業の仕方を変えるのです。わざとゆっくり仕事を出来ないように、仕事が残った時点で仕事の早い人に引き継ぎ、仕事の早い人が残業するのです。そうすれば仕事の早い人に残業代が支払われるため、能率も上がりますし、残業代が無駄にはなりません。残業を人に任せる場合、引き継ぎ出来ないという人がいますが、人に引き継ぎ出来ない時点で仕事の段取りに問題があるのです。もしくは自分の仕事を人に説明出来るほど理解出来ていないのです。自分の仕事を理解出来ていない人間に残業代を支払うので、ますます生産性が上がらないのです。

引き継ぎが出来ない場合、仕事の目的・到達点と現状を伝えることで代用するしかありません。目的・到達点すら伝えることが出来ないのであれば、そもそもの采配ミスなのかもしれません。采配ミスを炙り出すことが出来るのも、残業を人に引き継ぐ利点です。

当然残業する人の評価が高まり、残業を人にこなしてもらう人の評価は下がります。生産性の低い人と生産性の高い人を見分けることが出来るのです。生産性の低い人は、適材適所の考え方で、適正のある働き方を探す方が良いのかもしれません。人に残業してもらうことになると評価が下がるため、定時で仕事が終わるように全力を尽くすようになると私は思います。つまりゆっくり仕事をする人と、真剣に仕事をする人を見分ける必要がなくなるのが一番のメリットです。

日本の生産性が上がらない理由その1 サービス残業

日本の生産性は他の先進国と比較して高かったにも関わらず、最近では相対的に低迷しています。他の先進国では生産性が向上しいても日本の生産性は向上していないのです。その理由を考えてみます。一言で言えばサービス残業が最大の理由だと考えます。

サービス残業という愚

サービス残業とは残業しているにも関わらず、対価としての残業代が支払われない残業のことです。サービスといっても会社に対して従業員の方がサービスするという滅茶苦茶な理屈です。一見すると会社がタダで従業員を使うので会社が得をしているようにみえます。しかし実はサービス残業をさせるのは愚かなことです。何故なら結局会社が損をしているからです。その理由は本来の残業代が支払われる環境なら当然行われるはずの、労力の取捨選択することなく無駄な作業に時間を費やしてしまうからです。残業代が支払われるのであれば、生産性の低い労働は排除し、生産性の高い労働のみに労力を費やすはずです。わざわざ残業代を支払ってまで生産性の低い労働をさせる経営者はいません。

本当に必要な作業かどうか吟味する労力を惜しみ、無駄かもしれない生産性の低い作業を強いるのです。というよりも労働させる側の視点で考えると、サービス残業は生産性抜群です。何故なら実質人件費がゼロで労働が得られるからです。労働させる側からすれば、一見生産性は無限大になります。対価を支払うことなく労働の成果を搾取出来るからです。

労働者の視点からみると生産性はゼロです。どれだけ成果を出しても対価が支払われないからです。いわば強制されたボランティアです。自発的ではない強制ボランティアなのですから、積極的に急いで働くことはありません。仕事を早く終わらせると次の仕事を与えられる可能性が高いので、むしろゆっくり働きます。

サービス残業では労働することで対価を得るという目的を失っているため、労働する意欲がわかないのです。人間の心理としてどれだけ働いても報酬が支払われなければ、出来る限り手を抜こうとしてしまうのです。つまりダラダラ働くことになるのです。サービス残業を続ける限り日本の生産性が高まることはなさそうです。ただ日本の生産性が高くならないのはサービス残業だけが問題ではありません。実はサービス残業だけではなく、残業そのものが問題だと私は思います。残業の問題は次の機会で改めて書いてみようと思います。

企業が学歴フィルターにより学生を選別する理由

企業が新卒学生を採用する際、学歴フィルターを使用しています。その理由を考えてみます。

一言で言えば、学生を選別する適切なフィルターが他に見つからないためだから気をフィルターがわりに使っているのです。本来であれば仕事に必要な能力を見極め、仕事に必要な能力でフィルタをかけるべきなのです。実は企業側がその仕事に必要な能力の見分け方を把握できていないため仕方なく学歴をフィルターがありにしているに過ぎないのです。仕事に役立つ適切な指標がないため、記憶力と理解力を示す学歴だけでも優秀な学生を選ぶのです。学歴は優秀でも仕事で役立たないことがあるのは、学歴と仕事に求められている能力が異なるからです。

学歴の意味するもの

学歴は単に教科書を覚える記憶力とその内容を使って作られたパズルを解く能力を試された結果に過ぎません。しかも学歴の多くは入学時の能力を表すだけであって、卒業時の能力ではありません。

学歴と仕事のズレ

学歴は教科書を使った記憶力と答えの用意されたパズルを解く能力を競っているに過ぎません。通常仕事とは自分で問題を見つけつの問題を解決する能力が問われるのです。つまり問題を用意されるのか自分で見つけるかの違いがあるのです。しかも試験と異なるのは答えが存在するかどうかわからないことに挑む必要があるのです。正解があるとは限らず、与えられた制約の中での最適解を求めることになるのです。

仕事では問題に気づく能力が試されるのですが、問題に気づく能力自体が欠落していると仕事にはなりません。つまり問題を用意してもらわなければ、仕事を始めることが出来ないのです。

問題に気付くことが出来たとしても学歴が高い人に限って、必ず正解があると思い込んでしまい、答えが見つからないと混乱してしまうのです。

学歴フィルターを使う理由

仕事に求められる能力は問題を解く能力の前に、問題を見つけるあるいは作る能力です。そして与えられた制約の中での最適解を見つける能力です。残念ながら今の所、学歴のように客観的にそれらの能力を表す指標がありません。そのためせめて記憶力と理解力を表す学歴フィルターにより学生を選別しているのです。

少なくとも優秀な学歴を得た学生は、勉強に対して継続して努力したことを表します。そのため仕事の上でもある程度耐性を期待出来ると考えるのでしょう。

更にインターネットが学歴フィルターを助長しました。何故ならインターネットでの出願は簡単だからです。手書きとは異なり、いくつものエントリーが容易だから、学生は莫大な数の出願を行うのです。そのため莫大な数の出願を仕分けするために、止むを得ず学歴フィルターを使っているに過ぎません。企業も学歴フィルターが最適と考えている訳ではなくても、学歴の高い人材は低い人材よりは役立つ可能性が高いと考えているのでしょう。

もう一つの理由は無料で入社試験をしているからです。入試のように受験料を徴収すれば良いのです。実は入社試験の受験料を徴収し寄付すると宣言した企業がありましたが、世間の批判に耐えきれず断念しました。営利目的ではなく、本気の入社希望者を振り分けるためにお金を使うのは適切だと私は思います。つまり無料でしているから学歴フィルターを使わざるをえなくなっているに過ぎないのです。学歴にとらわれず優秀な人材を集めたい企業が、入社試験の受験料を適切に徴収するようになることが合理的だと私は思います。私立大学の入試のように営利目的にしても構わないと私は思います。企業の営利活動を部外者が批判するのは的はずれです。

学歴フィルターの今後

学歴の表すものと、仕事で求められる能力とがズレていることに企業が気付いていないはずがありません。とりあえず学歴でフィルターにかけた後で、仕事に役立つ能力を身につけているかどうかを面接などで見極めているのです。これからの時代記憶力は大した意味は無くなります。何故ならタブレットやスマホなど記憶媒体が進化しているため、頭の中に細かく記憶する必要が無くなったからです。

今の所仕事をする上で必要とされる能力を見極める指標を各企業がノウハウとして蓄積していますが、もし普遍化することが出来れば学歴は全く意味をなさなくなります。私は近い将来仕事が出来る能力を見極めることの出来る指標を考え出す知恵者現れると思います。

日頃から問題を見つける能力と、最適解を見つける能力を養うことをお勧めします。

悪い利益と良い利益

実は利益には悪い利益と良い利益があります。悪い利益とは暴利を貪る利益のことで、事業の目的そのものです。悪い利益は利益が事業の目的そのものなので、とにかく利益を追い求めます。良い利益とは適切な利益のことで、事業を継続するための必要経費のようなものです。

一昔前までは全ての企業が悪い利益を追求していました。というよりも良い利益という概念が無かったので、利益を目的として追い求めることは資本主義では当たり前と考えられていました。今でも良い利益という概念を知らなければ、利益といえば当たり前に悪い利益のことを表します。

悪い利益

悪い利益とは周りのことを全く考えず、自分だけの利益を追求することです。仕入れをする取引先のことはもちろん、お客さんのことも利益を追求するための手段としか考えていません。そこまで極端ではなくても、取引先やお客さんよりも利益を優先するのが悪い利益です。

とにかく利益を上げることが目的なので、なりふり構わず利益を追い求めていました。少しでも売るためにお客さんに誤解させてでも有りましたし、場合によっては嘘をついてまで売っていたのです。悪い利益を追い求めた結果食品産地偽装や、燃費の偽装などが行われたのです。悪い利益を追い求めているとお客さんのことが後回しになってしまいます。お客さんを蔑ろにしていることが発覚すると、お客さんに相手をされなくなるので淘汰されてきました。

利益を生み出す仕組みを考えるのですが、企業の利益とお客さんの利益が相反してしまいます。上手な仕組みを考えなければ、お客さんの利益を損なってしまいます。一時的な利益を得ることは出来ても継続出来ない企業が多いのは、企業の利益とお客さんの利益という相反する利益の手加減が難しいからです。企業のことしか考えていない悪い利益は、いずれお客さんにわかってしまいます。利益を生み出す仕組みがお客さんの思惑とズレてしまうと、突然利益を生み出すことが出来なくなります。

悪い利益を継続して生み出すことは非常に困難ですが、極々稀に企業の利益とお客さんの利益の手加減が出来る天才的な経営者がいます。残念ながら天才的な経営者から引き継いだ人が上手く経営出来ないことが多いのは、その時その時で絶えず変化する状況に合わせて利益の手加減を変えることが普通の人には出来ないからです。代がわりの際に悪い利益の手加減の調整が出来ない時点で、良い利益の得方に変えることが出来るかどうかです。初代経営者が天才だと2代目、3代目が苦労するのは、悪い利益を追い求める手加減の仕方がわからないからです。

企業の方針が利益が出るかどうかで判断しています。全てを間違うことなく当てることが非常に困難なのは周知の通りです。

悪い利益を追い求める人達はどうすれば儲かるかを考えています。お金が目的ですからお金のことしか考えられないのです。お金を得ることに知恵を絞ります。そしてお金が全ての判断基準であり、お金のことしか考えられない人達の集まりになってしまいます。いわばお金の魔法に取り憑かれてしまった考え方なのかもしれません。

利益が出なければ誰かが責任を取らなければならなくなります。だから余計利益を追い求める悪循環に陥ります。

良い利益

賢い企業は良い利益に既に気付いています。お客さんの利益になるような仕組みを考えるのです。当然企業も経営していく上で利益は必要です。この場合の利益は経営を継続するための必要経費のような位置付けです。

良い利益とは目的ではなく、継続するための手段としての利益です。

良い利益を表す諺を提唱しています。

利益は企業の為ならず

利益を追い求めることは企業の為にはなりません。利益は企業のためにあるのではなく、お客さんのためにあるべきなのです。

このように考えることの出来る企業は経営がブレることがありません。企業の方針は利益が出るか出ないかではありません。お客さんのためになるかならないかです。お客さんのためになるなら行う、お客さんのためにならなければ行わないのでブレることがないのです。お客さんのためになることの中から、如何にして利益を生み出す仕組みを作り出すことに知恵を絞るのです。

もし利益が出なければ継続が出来ないだけです。少なくともお客さんの利益にはなっているので、継続出来ないことが残念なだけです。お客さんの利益によりお客さんさんを喜ばせることが出来たという結果が残るのです。

良い利益とは継続するための必要経費としての利益と、お客さんの利益という二つの『意味』を合わせ持ちます。

この二つの『意味』に気付いた企業は無敵になることが出来ます。まだ数は少ないのですが、確実にいくつかあります。良い利益を追い求める企業がどこなのか考えてみて下さい。

サンクコストの取り扱い方

サンクコストとは一度支払うと戻ってこないお金のことです。サンクとは沈むという意味で、沈んでしまった取り戻すことの出来ないお金のことです。多くの人はサンクコストの取り扱い方により判断を誤ります。

映画館で映画を見ることを思い浮かべてみてください。映画館に入る時点でお金を支払います。これがサンクコストです。どんなに面白くない映画で文句を言ったところでかえしてもらうことは出来ません。映画館に入って面白くない時点で選択肢は、見るか見ないかの二択でしかありません。払ったお金を勿体無いと考えて我慢して見るか、せめて時間は無駄にしないために映画館を出る2つだけです。

払ってしまったお金に引きずられて判断が歪みがちです。映画館を出てしまえば、払ったお金が全くの無駄になるからです。払ったお金を惜しいと考えてしまうので、多くの人が判断を誤ります。取り戻せないお金を判断の根拠にしてはいけないのです。

市場の移転問題で何千億円ものお金が無駄になると問題になっています。何千億円に引きずられて判断を誤りそうです。私利私欲にまみれた輩は、既に使ってしまった何千億円を担保にして、思い通りに事を運ぼうとしています。決してかえることのない既に使ってしまったお金の事は忘れて、使う価値があるかどうかを見極めるべきです。実は原発も同じです。既に原発に使ったお金を無駄にしないために原発を稼働させるのはサンクコストを理解していない人達の考え方です。

払ったお金が勿体無いからといって面白くもない映画を見続けるのは、お金だけでなく時間まで無駄にする愚かな行為です。何千億円という巨額であっても、駄目なら駄目と面白くない映画のように見切りをつける必要があるのかもしれません。巨額であれば巨額である程判断は難しくはなりますが、かえってこないお金に振り回されることなく判断するべきです。

サンクコストに見切りをつけることが出来ないだろうとタカをくくって、計画を無理に進めようとする人がいます。ダムや干潟の灌漑、五輪施設など様々な計画がサンクコストを無駄に出来ないだろうとタカをくくって推し進めているように思います。サンクコストは無視して「0から思考」により、改めて考え直すべきだと思います。

サンクコストに拘るのは過去に拘ることに似ています。過去を変えることは出来ませんから過去に拘るのは無意味です。サンクコストに拘るのも過去に拘るのと同様に無意味です。何故ならサンクコストは今更変えられないからです。変えられないのであれば、変えることの出来ることを考えるようにしましょう。

コストは支払う前に検討するべきことであり、支払ってしまったものをウジウジ考えても『意味』がありません。支払う前であれば支払わないという選択肢がありますが、支払った後であれば取り返すという選択肢はないからです。

サンクコストの取り扱い方は、コストをかけたことを忘れることです。その上で価値があれば利用すれば良いし、価値が無ければ切り捨てる方がお得です。成功する企業はサンクコストを切り捨て、失敗する企業はサンクコストに振り回されています。

人気チケットはオークション販売しては?

日本は資本主義の国です。様々な物事をお金に変換して取り引きを行います。資本主義は競争により発展してきました。
クライマックスシリーズや日本シリーズ・プロ野球をはじめコンサート・イベントの人気チケットなどは興行主によるオークション販売が適切だと私は思います。定価という頭打ちの金額設定の方が一見良心的に思えますが、本来の資本主義の原理からすれば需要と供給の兼ね合いにより金額が決まるはずです。様々な要因により需要と供給のバランスから乖離した金額設定されることにより、購入希望者が殺到して混乱してしまいます。

お金を持っている人が有利でずるいという人もいるかもしれませんが、多くの事柄は需要と供給のバランスから金額が設定されています。どんな金額になっても良いからどうしても欲しい人がいるからダフ屋という商売が成り立つのです。ダフ屋対策にもオークションは有効です。

全てオークションにすると管理が大変だと思いますので、一部の席を興行主がオークションで募集すると私は良いと思います。経済の流れに沿った仕組みだと思います。

オークションの売り上げの一部を優秀選手にプレゼントするのも面白い企画だと思います。

私自身はお金を出してまで見ようとは思いませんので関係ない話ですが、ファンにとってはお金で済むなら何万円でも出したい人も多いことでしょう。

新しい仕組みが出来ると面白いですね。

回転寿司が回転寿司ではなくなる日

回転寿司はお皿にのせたお寿司を回転レーンに流して、好きなお寿司をお客さんがとって食べるというビジネスモデルです。元々は回転寿司のチェーン店でしたが、最近では回転しないお寿司屋さんが出てきました。無駄なことは削ぎ落とされていますが、回転レーンが無駄だったことに気付いたチェーン店が出てきたようです。
以前は高い食べ物の代名詞の一つだったお寿司を、注文の前に作るという工夫により誰でも食べることの出来る食べ物に変えた仕組みでした。

注文される前に作るという仕組みが、値段を下げることに役立ちましたが、回転していないお寿司を注文するスタイルが広まりました。そうなってくると回転レーンで干からびたお寿司を食べてくれるお客さんは次第に減ってしまいます。最初から回転レーンを見ないお客さんも多くなります。

回転寿司が生まれた当時は注文する前にお寿司が出来ているのは画期的でした。これ以上ないファーストフードです。安くて早くて美味いのですから、これまで時価で得体の知れない食べ物だったお寿司のイメージを一新しました。多くの回らないお寿司屋さんを閉店に追い込みました。回らないお寿司屋さんの味がいくら良くても、回転寿司の早くて安いお寿司と勝負にはならなかったのです。

回転寿司は非常に競争の激しい業種です。競争が激しいだけに無駄なことをしていては淘汰されてしまいます。今回は回転レーンが無駄だと気付いたのです。恐らく多くの飲食店でこの形に行き着くでしょう。タッチパネルで注文して機械に配膳してもらうか、自分で取りにいくセルフ式かです。

一回の注文で終了し追加注文がなければ、自分で席まで運ぶのが合理的です。牛丼屋さんなどはタッチパネルで注文しお金を支払い、品物を持って自分で席に運ぶのが無駄のないスタイルでしょう。

お寿司のように次々追加注文する場合には、機械に配膳してもらう方が合理的です。ファミリーレストランもいずれは機械によって配膳されるお店が出てくるでしょう。少なくともファミリーレストランでもタッチパネルで注文するようになるでしょう。

無駄を省くことが合理的です。何故なら無駄とは本来なら不要なものだからです。無駄に気付かなかっただけか、技術的に改善策が見出せなかったため無駄ではあっても仕方なかったのです。

少し前までは無駄を省くことが、有利に商売を進める知恵でした。無駄を省くと有利だったのです。これからは違います。無駄を省くのは当たり前で、如何に素早く無駄を省くことが出来るかが問われます。

回転寿司が回転寿司ではなくなる日

回転寿司から回転レーンが無くなると、何寿司と呼ぶようになるのか楽しみです。最初に呼び方を考える寿司チェーンが、飲食店の未来を切り開くかもしれませんね。

生き残るか淘汰されるかは比較によります。回らないお寿司屋さんと比較すると回転寿司は圧勝でした。回転レーンのある回転寿司と回転レーンを無くしたお寿司屋さんがあれば、廃棄ロスの生じる回転レーンは無駄でしかありません。廃棄ロスの分割高な物を食べることになるのです。金額は変わらなくても質の劣るものを食べることになるのです。

無駄の排除

競合が無ければすぐに淘汰されることはないかもしれません。しかし無駄のない他のチェーンにいくことでがっかりしてしまいます。比較することで違いが浮き彫りになるのです。

今は回転寿司チェーン毎に無駄な物が散在しています。削り落としているところもあれば、無駄が残っているところもあります。どのチェーンが何を削り落としているか観察してみてください。全ての無駄を一番に無くしたチェーンが勝者です。

思いつく回転寿司の無駄は

  • 回転レーン(注文品が回転レーンで届くのは論外)
  • 注文を聞く店員(タッチパネルで不要)
  • 配膳する店員(飲み物もセルフ・自動配膳で対応)
  • 下げ膳する店員(専用レーンに流し入れるだけで洗浄する)
  • 待ち時間(予約システムで改善)
  • 座席(ネットオーダーで持ち帰り対応。お店で食べることが無駄という考え方。待ち時間短縮に繋がる)
  • シャリ(糖質が不要だという糖質回避の考え方です。このことについては改めて書きます)

私の知る限り全てを突き詰め兼ね備えたチェーン店はないようです。これらの無駄を全て削ぎ落とした企業が他を圧倒すると思います。どの企業が一番乗りするのか楽しみです。回転寿司から新しい名前を生み出す企業に注目です。