診察時間の長い医師と短い医師の違い

総合病院の医師も開業医の医師にも診察時間の長い医師と短い医師の2種類がいます。
今回はその違いを書いてみます。

一般的には診察時間が長い医師が信頼され、短い医師は待ち時間だけ長くて診察時間は短いとして非難される傾向にあります。しかし診察時間が長い理由によっては信頼できませんし、診察時間が短い理由によっては短い方が良いと考える患者さんもおられることでしょう。

診察時間が長い理由は説明が丁寧なのかもしれませんが、他にも診察時間が長くなる理由いくつかあります。
診察時間は診断する時間と説明する時間にわかれます。
診断する時間がかかるのは判断する基準がよくわかっていないまま診察しているからかもしれません。確かに滅多にない病気かもしれない場合など判断に迷う場合はありますが、多くの患者さんの診断で迷っている先生がいるのも事実です。恐らく医師自身に診断に関する基準が理解できていないのではないかと思います。その場合診断する時間がかかるのは医師が迷っている時間です。
説明する時間が長くなるのは説明が的確ではないため説明を聞いても患者さんの疑問が解消されず、説明する端から新たな質問が沸き起こり延々と疑問が解消されないため診察時間が長くなってしまうのです。あらかじめよくある質問を簡潔に説明するという配慮もしないことが多いため、診察時間が長くなってしまいます。
延々不安を聞いて解消してあげようとされる医師もおられますが、実は不安というのは何らかの目的をもって生み出すものです。治療をしたくないや医師と話をするという目的のために無意識のうちに不安を生み出しているのです。(参考:アルフレッドアドラー 人生に革命が起きる100の言葉)。不安をどのように扱うかは患者さんの問題なので、医師がその不安を背負って対応することで診察時間が長くなるのはお互いのためにならないと思います。

診察時間が短い理由は、診断時間が短く迷いがないのかもしれません。説明に関しては、要点をまとめて簡潔に伝えることができるからかもしれませんが、患者さんの質問を受け付けないから診察が早いのかもしれません。
診断時間が短いのはいい加減で速いのか、経験により診断が早いのかはわかりません。
しかし診察時間の短い医師の話がわかりやすいかわかりにくいかで、どちらのタイプかわけることができます。短い時間で患者さんからよくある質問の内容を織り込んで説明していくため、患者さんにとってはわかりやすく感じます。短い時間で切り上げようとする医師は患者さんがわからないことでもお構いなしで説明を続けます。その場合説明をして一方的に説明をして診察を打ち切るような説明をします。

診察時間が長くても短くても医師の説明がよくわからない場合は別の病院を受診してみるのが良いのかもしれません。

説明の上手な人と下手な人の違い 選択肢の提案

久しぶりに説明の上手な人と説明の下手な人の違いです。
選択を求める際に選択肢の提案の仕方で、説明の上手な人と下手な人の違いが如実にあらわれます。

説明の下手な人は選択肢だけを提案します。説明が下手な人に限って選択が遅いとイライラしたりします。実は自分の説明が下手なために相手が情報不足で選択に戸惑っているにも関わらず、イライラしているのです。選択を求められている人にとっては相手の説明が下手な上にイライラされるなんて災難な話です。
説明が不足している一番の問題は、自分が当たり前に知っていることだから相手が選択肢の内容を十分理解しているはずだと勘違いしていることです。相手が選択肢の内容を知らないということ自体に想像がつかないのです。結果として十分な情報を提供しないまま選択を求めるという、お互いにとって好ましくない状態に陥ります。

選択したとしても十分な情報を元にした選択ではないため、後悔することがあります。何より悩む時間が無駄になります。何故なら判断がつかない訳ですから、実際には悩む訳ではなく困っているのです。

説明の上手な人は選択を求める際に選択肢の提案をしますが、相手が戸惑った時点で説明を加えます。つまり悩むのではなく判断がつかず困っていることが理解出来るのです。説明が少し上手な人は選択肢の具体的な内容をそれぞれを説明します。選択肢の具体的な説明をしてもらえるので内容がわからず困ることはなくなります。しかしここから悩むのです。違いはわかってもどのように選択すれば良いのかわからず悩んでしまいます。

説明の上手な人は、選択肢の具体的な選択方法を教えてくれます。選択肢の違いだけを取り出して、相手が選択肢に求めるものを場合分けして提案してくれます。

具体的にはABCの商品があります。違いは性能に応じた値段です。割り切って最低限のことが出来れば良い、あるいは値段の安さで選ぶならCです。とにかく性能の良さで選ぶならAです。コストパフォーマンスを求める、値段と性能のバランスを求めるならBです。といった具合に選択の仕方も含めて提案するでしょう。

説明の上手な人は、話を簡潔にまとめることが出来るので、本来なら相手任せの選択を求める場合でも、早く答えを引き出すことが出来ます。実は説明の上手な人は、相手のためだけでなく自分のためにも上手に説明するのです。何故なら上手に説明することで無駄な時間を短縮することが出来るからです。相手が悩むのを待つことに意味はありますが、相手が困っているのを待っても何も生み出さないことを知っているからです。情報不足で選択出来ない困っている状態を速やかに解消してあげることが、お互いのためになることを知っているのです。

みんなが説明の仕方のトレーニングを受けると良いと思いますが、説明スキルの上達は残念ながら個人に任せられています。特に命に関わる選択を求める医師は、説明スキルの習得を義務付け、国家試験に導入しても良いのではないかとさえ思います。

選択肢の提案だけでなく、選択の仕方まで提案する説明の上手な方が増えて欲しいと私は思います。

知らぬが仏と知らなければ損の違い

知らぬが仏と言う諺があります。知ってしまったがために悩んでしまうあるいは困ってしまうという諺です。
反対に知らなければ損なことも多くあります。
知って困るのと知らなければ困る違いを考えてみました。

その違いを一言で表現すれば、判断出来るか出来ないかです。判断出来ることは知らなければ損ですし、判断出来ないことは知らぬが仏です。
そもそも知らなければ判断がつかないため、何事も知った上で判断するのが基本です。割引きセールや割引き条件など知らなければ損してしまう情報も、知らなければ活用することが出来ない仕組みも良くあります。お得な情報は知らなければ損です。
知らぬが仏と言われるのはどんなものか考えてみます。判断がつかない情報を知ってしまった場合に当てはまります。得られる情報をどのように判断するか想定した上で、聞くかどうか考えるのが一番です。

つまり判断がつかないことは知らぬが仏だと思います。知る前に判断出来ることか判断出来ないことか考えてから聞くかどうか考えるべきだと思います。

良くある話がアレルギー検査です。何事もなく食べているものをアレルギー検査してしまって、結果が陽性でどうしたら良いのか判断に困ると言う相談を受けることがあります。本来なら検査をした医師が検査結果の判断をして指導するはずですが、結果だけ渡して終わりという医師がいるようです。もしかしたら医師もどうすれば良いのか判断がつかないのに、検査料目当てで検査しているだけなのかもしれません。

食べていて問題のない食べ物は本来ならアレルギー検査をするまでもありません。食べて問題がないのですから、摂取試験で陰性です。しかしアレルギー検査をした結果が陽性だと、食べて良いのか不安になってしまうのです。

知る前にその情報の内容をどのように扱うか考えた上で、知るかどうか考えると良いと思います。

仮に全てのことが判断出来る人がいるとすれば、その人は知らぬが仏と思うことはありません。どのような情報であれ、虚偽の情報でさえなければ判断材料が更に増えるので積極的に情報を求めると思います。逆に判断出来ないことが多い人は、知らぬが仏だと思うことが多くあることになります。

多くのことを判断出来るようになるためには、出来るだけ多くの判断材料を前もって知っておく必要があります。

あることを知っても、現時点での自分のもっている判断材料では判断出来ないと思えば、知らぬが仏としてあえて知ろうとしないことが賢明かもしれません。

食べ物への依存と食べ物の快楽への依存の違い

自ら栄養を作り出すことの出来るミドリムシを除いて、全ての動物は食べ物を食べなければ生きることは出来ません。その意味において動物は食べ物に依存して生きているのは間違いありません。

人間も動物ですから当然食べ物を食べなければ生きることは出来ません。人間も食べ物に依存して生きていることも間違いありません。

ここで誤解している人がいますが、だから食べることは仕方のないことだと言い訳する人がいます。食べ物に依存していることと、食の快楽に依存していることは別問題です。

食べ物に依存しているのは全員、食べ物の快楽に依存している人は一部です。わかりやすい快楽への依存は見た目でかわる肥満や飲食店での行列です。

更に食べ物への依存と食べ物の快楽への依存では意味合いが異なります。食べ物への依存は食べ物に頼っているという意味で、快楽への依存は程度にもよりますが、度が過ぎると依存症の診断基準を満たしてしまいます。快楽を追い求めることを優先してしまい、自己抑制がきかなくなることで食べ物に傾倒してしまうのです。

食べ物の快楽への依存と表現しましたが、食べ物の中でも特に糖質に依存しているようです。糖質だけでなく食べ物全般に快楽を見出し、依存する人もいるとは思いますが、多くの人は糖質に対する依存(糖質依存)のようです。糖質依存には強い空腹感という禁断症状もあります。依存対象の糖質の血中濃度である血糖値が下がることで、禁断症状を引き起こすようです。

ちなみに辛いものが病みつきになるのは、唐辛子のカプサイシンを打ち消すために出る脳内麻薬に対する依存のようです。

食べ物に対する依存ではなくても、食べることに対する依存もあり得ます。美味しい食べ物や高い食べ物に対して快楽を感じる心理に起因します。お金という制約があるので、このような心理に陥っても問題となることはほとんどありません。多くの人ら美食家として羨ましがられるだけですが、収入とのバランスが取れていない人は周囲に浪費家として認識され、収入が減った際に立ち行かなくなってしまうようです。冷静に考えれば収入が減れば、生活の質を落とすのは当然ですが、食べることに依存していると質を落とすことが出来ないため苦労してしまうようです。

食べ物には栄養補給と楽しみ・快楽としての意味がありますが、楽しみや快楽を優先してしまっていると依存してしまう可能性があります。怖いのは自覚症状がないままに依存に陥っていることがあるからです。

食べ物に対する認識として、栄養補給と楽しみとは一度分けて考えてみると良いのかもしれません。

大切なのは選択肢ではなく選択の仕方

大切なことは選択肢を選んだ結果ではなく、選択肢の選び方を伝えることです。 昨日のやってしまいがちな選択の間違いは相手が考える前に選択肢を提案してしまうことでした。昨日の文章の主旨は、まず無限にある可能性の中から選択肢を選び出すことに意味があるということです。

今回は選択肢を選んだ結果ではなく、選び方についてです。選んだ結果に対しての意見はよく聞きますが、選び方を検証していることはあまり聞きません。潜在的に結果論の考え方で、本来は選び方である経過にこそ意味があると私は思います(結果論と経過)。その選択はこういう理由でダメとかこういう理由で別の選択肢の方が良いと思うと言った選んだ結果に対しての意見や批判を聞きます。

本来伝えてあげるべきことは選び方のはずです。選択肢の選び方の中で選ぶ基準をまず決めて、その基準から選び方を考えることです。アドバイスする人にとってはあまりにも当たり前すぎて、みんながこのように選ぶことが出来るはずだと思い込んでいます。選ぶ基準すらわからない人がいることなど想像がつかないのです。そのため基準を決める当たり前だと思い込んでいることを伝えるのは時間短縮のために省略してしまい、代わりに選んでしまったり、見落としていそうなことだけを指摘するのです。何を基準にすればよいのか全く選び方がわからない人に、いきなり選択を迫ってもお互いが混乱するだけです。

相手が選択肢を選ぶ基準すらわからない前提に立って、基準の見つけ方から伝えてあげることが大切だと思います。

例えば中学生に、進学する高校を選ぶ際に、いきなりどこの高校に行きたいかを聞いても意味がありません。何故なら小学校も中学校もほぼ自動的に通う学校が決まっていたので、どのように学校を選べば良いのか全くわからないからです。中学生によっては高校に進学する意味も曖昧なまま、何となく就職はまだしたくないから高校に進学する人もいるでしょう。高校には進学したいけどどのように選ぶのかわからないまま、どこに進学したいのか聞かれるので混乱してしまいます。高校を決める基準が提案されないまま進学先を決めることになるので、偏差値を基準として進学先を決めることにつながります。高校を選ぶ他の基準を中学校や高校が提案しないので、単純に数字で決まる合否に相関する偏差値はある種便利な指標となっているようです。

高校に進学する意味や目的を明確にしてあげることが大切だと思います。どのように選べば良いのかわからない中学生に、高校を選ぶ基準を明確にしてあげるのです。例えば高校ではクラブを頑張りたい、友達を多く作りたい。などの希望があれば、自分のやりたいクラブ活動の熱心な高校に進学する基準をまず考えることが出来るでしょう。他には3年間毎日通学することになるので家からの距離も問題になりますし、義務教育でさないため授業料の問題もあります。友達を多く作りたいのであれば、体育祭や文化祭などこ学校行事を生徒が運営しているなどが基準になるかもしれません。

大学に進学するつもりで、高校卒業の資格を得ることだけが目的なら高校はどこでも良いでしょう。あえて選ぶなら大学の進学実績のある高校を選ぶ方が、希望の大学に進学出来る可能性が高まります。もし進学したい大学が決まっているのであれば、学校推薦がある高校を選ぶ基準もあり得るでしょう。まだわからない中学生には高校を選ぶ基準を見つける手助けをしてあげることからすると良いと私は思います。

社会に出ていても、選択の基準がわからず選択に迷っている人も良く見かけます。一言で出来るアドバイスは、選択の基準を提案してあげることです。

このように選択肢の仕方が大切です。具体的には選び方の基準を教えてあげることこそが大切です。最終的には自分で基準を見つけ出し、自分で選択できるようになることが一つの目標です。出来れば選択の基準を即座に見極めて人に提案できる知恵を身に付けたいものですね。

 

知らぬが仏と知らなきゃ損の違い

知らぬが仏と知らなきゃ損の違い、その違いは知った情報を自分で判断・処理できるかどうかです。

判断や処理出来ない人は知ってから困るのです。だから知ってから困らないように知らぬが仏となります。
知った上で判断や処理出来る人は困るような内容であっても知ってから判断を下せるので、知らなきゃ損となります。そもそも知らなければ判断や処理出来ないと考えるからです。

判断・処理が出来ないと思えば、あえて知ろうとしない方が得策ですし、判断・処理が出来ると思えば積極的に知るべきだと思います。

情報によっては判断出来るものと出来ないものがあるとは思いますが、前もって判断できそうかどうか考えてから、その情報を知るかどうかを考えると良いのかも知れません。

一から十まで聞く人と一を聞いて十を知る人の違い

一から十まで全て聞かないとわからない人もいますが、一を聞いて十を知る人と言われるように物分かりの良い人もいれば、。
その違いは何なのでしょうか?その違いについて考えてみます。

一から十まで全て聞かないとわからない人は、一の大きさそのものがわからない上に、その方向性が理解わからないためのです。そのため全容の把握ができず、全てを聞かないとわからないのです。一を聞いて十を知る人は、一がわかればその大きさと方向がわかっているので全容を把握することが出来るのです。
一言で言えば、違いは一の大きさと方向性を把握出来ているかどうかです。

同じ1でも大きな違いがある
同じ1でも大きな違いがあります。
片方は1の大きさが曖昧で、並び方がわかりません。
片方は1の大きさがはっきりしており、並ぶ方向も明らかです。

一の大きさが曖昧で、方向がわからないので一つ一つ並べ方を聞かなければわからないのです。
一の大きさと方向が分かっていれば、一さえわかれば十までの並べ方がわかるのです。

一から十まで聞く人と一を聞くだけで十がわかる人のイメージの違い
一から十まで聞く人は一貫性がイメージできないため全て聞くことになります。
一を聞いて十を知る人は方向がはっきりしているので一を聞けば十まで並べることができます。

つまり一が正確に把握できるかどうかの違いです。

これまでの経験や知識と照らし合わせて一の大きさや方向が把握ができなければ一から十まで大きさと方向を教えてもらわないとわかりませんが、一だけ聞けば大きさや方向がわかるので十まで並べることができるのです。

男女での相手の選び方の違い

男性は女性を顔で選び、女性は男性を性格で選ぶ傾向があるそうです。

私独自の考えではなく、ディスカバリーチャンネルで見た内容が理にかなっていると思いましたので、違いをまとめたものです。

男性は女性を顔で選び、女性は男性を性格で選ぶそうです。

男性は女性を顔で選すぶ

男性が女性を顔で選ぶと言っても時代や地域によって好まれる顔が異なります。それでも無意識のうちに顔で選んでいるのでしょうか?どのような基準で選んでいるのでしょうか?

ディスカバリーチャンネルでは男性が女性を選ぶ基準は、女性の顔が左右対称かどうかだそうです。目が大きい・鼻が高いということは関係がないようです。目が大きくても、鼻が高くても生存に有利にはならないからだと思います。(寒い地域だと高い鼻は生存に有利かも知れませんが)では女性の顔が左右対称だと生存に有利、子孫に有利な可能性があるのは何故でしょうか?それは顔が左右対称だと、以下のことの表れと考えるようです。

  • 遺伝的に問題が少ないこと。
  • 左右対称では無くなる大きな怪我をするような危険なことをしなかったこと。
  • ホルモンバランスも問題ないこと。

これらのことから男性は女性の左右対称性を無意識のうちに考えるようです。女性を選ぶ際に自分の子供のことを考えて遺伝的な観点から女性を選ぶ方が子孫を残す上で有利だった名残りなのかも知れません。

学問的に傾向があるだけで、必ずしも全員に当てはまる訳ではありません。女性の顔を目鼻立ちではなく左右対称性の観点で見てみるのも面白いかも知れません。

かと言って必ずしも顔で選ぶとは限りませんし、目鼻立ちで選ぶ人もいると思います。学問的には男性は女性の顔の左右対称性で選ぶ傾向があるというだけのことです。

女性が男性を選ぶのは性格

女性が男性を選ぶ基準・一番の心配事は、出産後に自分と子供の食べる物を確保してくれるかどうかです。優しくて食料を運んでくれるかどうかで選ぶそうです。つまり性格で選ぶそうです。

多くの動物やお猿さんでは、メスは強いオスを求めました。人間は赤ちゃんが他の動物と比較して格段に未熟な状態で生まれるため、一夫一妻制を採用し、優しく優秀な食料確保者であることを男性に求める傾向があるそうです。他の動物では子育て中でも、メスは食料確保が出来ますが、人間では少なくとも赤ちゃんの首がすわるまでは女性の食料確保が問題です。人類の進化の歴史では女性が生き延びる確率を高めるために、強さよりも優しさを重視する傾向があったようです。

学問的にこうした傾向があるというだけで、最終的には好きになってしまえば、その人が運命の人です。タデ食う虫も好きずきということだと思います。みんなが共通の好みだと人気が集中してしまうので、隠された魅力を見つける能力が備わっている人ももしかしたらいるのかも知れません。

あくまでも学問的にはこのような傾向があるということです。

 

怒ると叱る、諭すの違い

怒る・叱る・諭すという言葉があります。それらの違いを考えてみます。

怒るより叱る方が良いと思っていましたが、それよりも諭すのがベストだと私は思います。

怒る

怒るは感情を相手にぶつけているだけのことです。相手に伝わるのは怒っている・不快な思いをしているということだけです。怒る場合感情に任せて怒るので、相手に何故怒っているのか伝わりません。

怒っている人は、当たり前だと思っていることが相手に抜け落ちているので、怒っているだけのことが多くあります。しかし相手に当たり前という感覚が無いので、怒っても全く伝わりません。怒られても意味がわからないのです。

叱る

辞書によると目下のものの良くない点を指摘して強く咎めることのようです。

相手を責め立てるニュアンスが含まれています。感情に任せて怒るよりはましですが、相手が悪いことが前提なのが私には抵抗があります。ただ知らないだけのことを責めるのは可哀想にも思います。もしかしたら自分が教えるべきことなのて、そのことを知らないとして叱ってはいないでしょうか?教えるべき人が教えていないことを叱るのはルール違反だと私は思います。

諭す

辞書によると目下のものにわかるように説明して、納得するように教え導くことだそうです。

諭すには責め立てる意味合いは込められていませんので、相手が知らないだけのことを教えてあげるのですから私は最適な言葉だと思います。相手が知らないことは仕方のないこととして受け入れ、知らないことを責めずただ教えてあげる、諭すという言葉。無駄な争いを無くす魔法の言葉だと思います。

怒る、叱る、諭すの違いのまとめ

怒るは感情で責め立て、叱るは感情はないものの責め立て、諭すは責めず教え導く。

怒るよりも叱るよりも諭すを心掛けてみませんか?

話の早い人と話の通じない人の違い

同じ話をしていても、相手の理解力には雲泥の差があります。
その理解力をある程度揃えるために、学校によっては成績別のクラス編成を行います。
本来なら日常会話でも話の早い人と話の通じない人とでは説明の仕方を変えるべきだと思います。
この理解力の差があることが問題です。

話の早い人

話の早い人というのは理解力に優れた人です。一つは元々の知識量が多く、相手の言っていることを理解しやすいことが考えられます。もう一つは知らないことでも知っていることから想像力を働かせて、極力理解しようとすることです。
いわば情報を受け取る守備範囲が広い人が話しの早い人です。
一を聞いて十を知るタイプです

途中説明を省略しても間の情報を持ち合わせた知識で埋め合わせて、正確に理解してくれるので話が早く正確に伝わるのです。

話の通じない人

話の通じない人は理解力に乏しい人です。こちらの伝えていることがなかなか理解してもらえません。伝え方に問題がある場合もありますが、様々な角度から説明してもピンと来ず、どうしても理解してもらえません。
その理由は知っていることだけ理解できて、知らないことは全く理解しようとしないことに起因します。知らないことは知らないとして諦めが早いとも表現できます。話の早い人であれば、例え知らないことであっても想像力を働かせることで極力理解しようとしてくれますが、話の通じない人はあまり想像力を働かせることはありません。
話の通じない人は悪気があるわけではありませんが臨機応変に対応することが難しく、杓子定規にわからないことをわからないとして話を打ち切ってしまいがちです。性格として面倒なことを避ける傾向にあるようです。
いわば情報を受け取る守備範囲が狭い人が話の通じない人です。

対策は出来るだけ簡単な例え話を例にして、少しずつ理解してもらうことです。
そして細かく全て説明することです。相手も知っている常識だと思って途中の話を省略することなく事細かに説明することです。
言い換えると一から十まで言わないといけないタイプで、実際には一・二・三ではなく、1.1、1.2、1.3、1.4という具合に更に細かく説明しないと理解してもらえないことを覚悟しておくことです。