当サイトに辿り着かれた履歴を見ていると「嘘の是非」の検索で辿り着かれた方がおられました。
嘘の是非とは嘘の善し悪しのことだと思います、「嘘つきは泥棒のはじまり」という諺もあるくらいですから、一般的に嘘はよくないことというのは常識だと思います。私は嘘で得をすることがあれば全て詐欺罪を適応しても良いのではないかとさえ考えています。しかし「嘘も方便」という諺もあります。方便とは元々仏教用語で仏が悟りへと導くための便宜的方法のようです。転じて相手を納得させるための手法というような意味合いがあるようです。「嘘」が時と場合により否定されたり肯定されたりしています。その違いを区別してみます。
日本人は嘘が好き?
嘘とは真実と異なること全てのことです。日本人特有の「本音と建て前」において本音の真実と異なる建て前は嘘です。実際には嘘が好きな訳ではありません。みんなが出来るだけ仲良くするために編み出した苦肉の策だったのです。日本は隣人同士の入れ替わりの少なかった狭い国土の中で、解決の難しい問題に折り合いをつけるために「本音と建て前」という考え方を使い始めたようです。だから真実ではないことがわかっていながら、波風を立てずやり過ごしてきたのです。
これまでは仕方がない一面もありましたが、21世紀になったのですからそろそろ「本音と建て前」という考え方は終わりにしても良い頃合いかもしれません。
嘘が許される場合
嘘は真実とは異なることが問題です。その嘘により誰かが困ることは良くありません。では嘘が許される場合はどのような場合でしょうか?それは相手のためになる嘘です。相手の利益であったり相手の悩みを解決したり解消するための嘘は、方便だと思います。
かつては癌だと告知しなかったのは方便だったのでは無いかと思います。真実を知りたい人にとっては嘘でしかなかったかもしれませんが。
嘘が許されない場合
相手のためではなく自分の利益・自分のためにつく嘘はどんな場合でも許されることはありません。お猿さんや赤ちゃんでも嘘をつくのですから人が嘘をつくのも仕方がないのかもしれませんが、嘘が発覚するとこれまでに積み上げた信用をなくします。
本音と建て前も自分達のためにつく嘘と、解決策のない仕方がないことを説明するための方便とがあるようです。少なくとも自分達のための建て前の無い世の中に早くなって欲しいものですね。