暗い所で本を読むと目が悪くなるのは間違い

暗い所で本をよむと目が悪くなると良く言われますが、間違いです。私は眼科の医者ではありませんが、論理立てて考えれば間違いであることは簡単にわかります。

一般的に目が悪いとは視力が悪くなることです。言い換えると近視になることを言います。本来目は水晶体というレンズによりカメラの役割をする網膜に像を調整します。その調整が上手くいかず近くしかピントが合わないのが近視です。

暗い所で本を読んでも目が悪くならない根拠は、明るい物を見る細胞と暗い所で物を見る細胞が異なることです。暗い所で物を見る細胞を使つたそして暗いからといってピントを合わせる位置が変わることはないからです。暗い所でも本が読めるのであれば光は目の網膜にピントが合った状態で届いています。

暗い所で本を読むと目が悪くなると誤解された理由は、暗いと光の量が少ないことに起因します。光の量が少ないとピントを合わせることに時間がかかりますし、光が少ないため情報を読み取ることにも時間がかかります。明るい所に比べて暗い所で本を読むと、文字を識別するのに頭を使うのです。暗い所で本を読むと疲れるので、目が悪くなると誤解されたのだと思います。未だに暗い所で本を読むと目が悪くなると言う人は、まだ知らないだけなのです。

暗い所で本を読むと情報が少なく文字を識別するために、読むこと自体に負担がかかります。暗いと能率が悪いので明るい所で本を読む方がお得というのが正確な情報です。

暗い所で本を読むからと言って近視になることはありませんのでご安心ください。

様々な病気が治らなかった理由

様々な病気が治らなかった理由は主食という伝統的な食べ方です。
国も6割は炭水化物(糖質+食物繊維)を食べるように推奨していますが、これこそが様々な病気が治らなかった理由です。過剰な糖質が糖質依存を招き、その糖質が様々な病気を引き起こすのですが、その元となるのが国が推奨する主食という食べ方です。
国が糖質を食べることを推奨し、国民を糖質依存に陥らせることで、病気を引き起こしているのです。かつての食料不足の時代には穀物は重要な食料でした。比較的容易に増やすことが出来る上に備蓄もきくからです。国が人々を養うためには穀物を推奨するのはやむを得ない対策でした。その結果主食という食べ方が当たり前になったのです。昔から食べていたという理由で穀物が人間の身体に適切かどうかの検証がなされませんでした。

今では医療費が増大して国の財政を圧迫しているため、医療費削減が叫ばれています。しかし糖質が病気を引き起こす理屈がわかっている人達にとっては、国が困るのは自業自得のように思うのです。自らぎマッチで火をつけ、自らがポンプで火を消すマッチポンプのような話です。ただ自分が知らないうちに火をつけてしまったことを未だに知らないのです。

かつて税収を増やすために国がタバコを推奨していたことに似ています。一説によるとタバコによる税収は1兆円でタバコによる健康被害に対する医療費は2兆円なので採算が合わないことがわかっています。タバコは禁止する方が合理的な判断ですが、かつてアメリカでアルコールが禁止された禁酒法時代に世の中が混乱したことから、禁止ではなく税額をあげるのが現実的です。少なくともタバコが病気を引き起こすことがわかった今となっては税収のために国がタバコを推奨することはなくなりました。

国が炭水化物を食べることを推奨しているのは、かつてタバコの害を知らない時と似ています。まだ国が糖質が引き起こす病気を知らないのです。もしかしたら糖質の害には気付いていても、農家の反発が怖くて言い出せないのかも知れません。もしかしたら糖質を食べなくなると多くの病気が失くなるので、製薬会社が困ることに遠慮しているのかも知れません。言い出せないのも遠慮しているのも本当だとすれば政治家です。政治献金をもらっている手前本当のことが言い出せないのかも知れません。本来なら給料をもらうのは税金ですから税金を支払う国民の健康を第一に考えるべきですが、そのような私利私欲のない政治家はいないのかも知れません。

別の視点で見てみると、健康被害を引き起こすことを知らなかった時には麻薬が薬局で売られていました。麻薬の依存性や健康被害が知られている今では考えられないことですが、誰も害があると知らなかった時には全く規制されていなかったのです。

害があることが広く知られるまでは、対策が取れなくても仕方がないのです。

これだけ糖質が様々な病気を引き起こすことを考えると、主食という食べ方そのものに問題があるようです。主食という食べ方をやめるだけで、医療費は何割も削減出来るでしょう。医療費が高騰しているの問題は解決出来ますし、削減出来た医療費を糖質回避では治らない病気の新薬に使うことが出来るのです。

国はまだ知らないのですから今のところ仕方がありませんが、いつになったら炭水化物を6割も食べることを推奨するのをやめるのか私は個人的に興味があります。米農家の問題など新たな問題は起こりますが、医療費の問題が解決し、何より国民が健康になるのですから出来る限り早く主食という食べ方はやめるべきだと私は思います。

回転寿司の価格が下がったからデフレ再燃?

ある大手回転寿司が一皿100円を一皿90円に値下げしたそうです。このことからデフレ再燃と言われているようですが、私は違うように思います。回転寿司が値下げしたからデフレに気付いただけのことです。デフレは以前から現在に至るまで、現在進行形で続いていると思います。

例えば100円ショップに行けば100円とは思えないような商品が多数あります。逆に何か簡単な物を買おうと思えば、まず100円ショップから探すべきだと思います。つまり似たような物が100円に値下がりしているのです。

技術の進歩により似たような物を安く作る知恵者が、価格を押し下げているのです。

バブル崩壊後リーマンショックでデフレに突入したように言われていますが、経済の仕組みがデフレに向かっているようです。

以前は技術の進歩により高機能の物が新たに売り出され世の中を変えることで経済が回っていました。今は技術の進歩により同じ物や似たような物を安く作ることが出来るようになりつつあります。丁度革新的な新製品は高くても、しばらくすると次第に値段の安い製品が出てくるのと同じようなことが様々な分野で起こっています。この仕組みがデフレを長引かせているのです。

デフレにより賃金が上がらなくても、以前より少ない費用で同じような生活をすることが出来るのです。

先程技術の進歩により物の値段が下がると書きましたが、適切な情報により無駄が省かれつつあることもお金を使わない方向に向かわせています。例えば一昔前までは病気のことを知りたければ医者に聞くしかありませんでした。今ではインターネットを検索すると詳しく説明されているサイトを見つけることが出来ます。どのサイトを信じるかの問題はありますが、以前のように医者に聞くしか病気のことを知ることが出来なかったことを考えると格段の進歩です。病気の正確な診断には今でも受診が必要ですが、病気のことを聞くだけであれば受診する必要がなくなりつつあるのです。

情報により無駄が省かれている例としては、電気製品の購入でも行われています。買いたい電気製品が決まっている場合には、わざわざ電気店に行く必要がなくなっています。しかもインターネットで買う方が安く買うことが出来るのです。買いたい電気製品が決まっているのに、店員の説明を聞くという無駄が省かれるから店員の人件費分安く買うことが出来るのです。しかもインターネットで検索することで、より安く買うことが出来るサイトを簡単に比較サイトにより探すことが出来るのです。

電気製品はインターネットで安く買うことが出来るという情報を持っている人は、営業トークを聞く無駄を省くことが出来るのです。

企業努力により安く提供されている物に様々な食べ放題があります。以前は店が利益を出すために、出来るだけ安価な食材をそれなりの価格で提供していました。しかし最近では食べ放題のお店の比較が容易で、費用対効果に乏しいお店はネット上で酷評され淘汰されてしまいます。生き残るためには利益だけを追い求める姿勢を改め、お客さんが得だと思える物を適切な価格で提供する知恵が求められます。今食べ放題で生き残っている企業は知恵を出すことが出来た企業です。

かつては利益を確保するために企業が高く売るのは仕方ないと考えられていました。その結果物価が上昇していたのです。資本主義の原理で知恵と情報で無駄を省き安く提供する企業が現れると、旧態然とした利益至上主義の企業が淘汰されつつあるのです。このことがデフレを誘発しています。景気が良くならないと嘆いている人もいますが、実は以前に比べて豊かになっているのです。同じお金で得られる物が豊かになっているのです。利益だけを追い求める企業が淘汰されつつあることも豊かになっている理由の一つです。

回転寿司が90円になったからデフレが再燃する訳ではありません。回転寿司が100円という節目の価格を下回ったことでデフレを再度実感しただけのことです。別の視点で考えると、節目の価格である100円を切るということは、それだけ他の飲食店と熾烈な競争を強いられているということです。消費者の立場からすると喜ばしいことではありますが、これからの経済全体を考えると大変な流れだと思います。新しいアイデアが出せる人しか生き残ることは出来ない時代がやってくるでしょう。

ダフ屋対策なら興行主がオークションすれば?

ダフ屋対策で転売を認めないように様々な対策が取られているようです。例えば本人確認を徹底することで転売しにくくなっているようです。

私はそもそも人気イベントは興行主が一部の座席をオークションをして利益を確保することが一番の対策だと思います。どれだけお金を出してでも見たい熱狂的なファンから、熱狂度に応じて青天井でお金を払ってもらうのです。飛行機でいうファーストクラスやホテルでいうスイートルームのように経営に利用するのです。ダフ屋の経営が成り立つのは、興行主の売り出す価格と実勢価格の乖離によるものです。それなら興行主がこの乖離を埋める仕組みを作ることです。興行主のオークションに余分に払うお金がイベントの相手に渡るので、ファンとしても合理的な仕組みだと思います。

高いお金を出してでも見たい人もいるのに、興行主の決めた額しかお金をもらわないのは経済原理から考えて勿体無いと私は思います。

現時点でそのような仕組みがないのは何らかの法規制があるのかもしれませんが、法規制があるなら政治家に働きかけて興行主に都合の良い法規制に変更してもらえば良いのです。

人気コンサートの正式なオークションなんていくらになるのか個人的には興味があります。特に年末に解散するアイドルがコンサートを正式なオークションで募集したらいくらのお金が動くのか、これも個人的に興味があります。

オークションが公平だと思うのは、コネなどの影響を排除して、お金という尺度で見たいという願望を叶えてくれるからです。需要と供給のバランスをオークションという形で調整するだけのことです。みんなが得する仕組みなのに何故導入しないのか不思議です。

何故興行主がオークションする仕組みが無いのか不思議なのですが、これから出てくるかもしれません。

ただ褒めて育てるのは間違い

褒めて育てるというのは良く言われる考え方です。
しかし褒めるという行為の本質を踏まえた上で褒めるべきです。
子供を褒めて育てるという考え方が持て囃されていますが、おだてて育てるという意味であれば間違いです。

褒めるとは出来ないと思っていたことが出来たので称賛するのであって、出来ると思っていたことに対して行うのはおだてでしかありません。だから人を褒める際には注意が必要です。何故なら人を褒めるとは出来ないと思っていることが前提だからです。出来ると思っていることを褒めるのはおだてているに過ぎないからです。そのことを知っている人を褒めると、馬鹿にされたと受け取る人もいるくらいです。基本的に褒めるのは上から下に対してだからです。

褒めてはいけないと言いたい訳ではありません。ただ闇雲に褒めるのは良くないと言いたいのです。出来ないと思っていたことが初めて出来たのであれば褒めて当然です。満面の笑みで褒めてあげましょう。しかし出来ると思っていることであれば、褒めるのではなくて動機付けしてあげると次も頑張れると思います。動機付けとは頑張っている姿を見ることが嬉しいと伝えてあげることです。決して結果だけを見ているのではないことを伝えてあげるのです。

ただ褒めるだけでは褒めてもらうことが目的になってしまいます。褒めてもらえないと行動できなくなるのです。そして褒めてくれない相手を憎むようになってしまいます。ただ褒めて育てると、褒められるために行動する幼稚なお子様に育ってしまうのです。

刑罰の『意味』がなくなりつつある

世間一般では法律を守るのは当たり前です。世間一般というよりは法治国家で生活する以上法律を守るのは常識でしょう。人によっては刑罰を受けないために仕方なく法律を守る人もいるかもしれませんが、法律を守らせる目的で刑罰が設定されています。

法律を守らないことに対する刑罰は一定程度の『意味』はあるでしょう。刑罰をなくしましょうと言いたい訳ではありません。刑罰があっても、法律を守らない人は守らないので『意味』がなくなりつつあるのです。正確に表現すると刑罰が一部の人達にとって『意味』がなくなりつつあるのです。

刑罰の『意味』がなくなりつつあることは、以前記載した損得主義の考え方で読み解くと簡単に理解出来ます。必ず捕まる訳ではないし、万が一刑罰を受けてでも法律を守らない方が得だと考えているのです。更に損得主義で読み解くと、ワザと捕まる輩までいるのです。刑務所に入れば衣食住の心配が無くなるので、捕まる方が得だと考える人がいるのです。他にも刑罰の『意味』がなくなりつつある人達は、万引き常習犯です。刑罰が万引き常習犯にとっては軽いため、繰り返すのです。人によっては万引きで捕まることで人に相手をしてもらえるので、あえて捕まる人までいるでしょう。

以前にも損得主義で書いた脱税などは最たるものでしょう。万が一捕まったとしても、得だから脱税が後をたたないのです。犯罪を刑罰で避けるのではなく、犯罪を犯すと損をする仕組みにするのが一番だと私は思います。

法律を守らない人は、法律を守らない方が得だと考えているのです。特に繰り返す人達は繰り返す方が得だと考えるのです。そろそろ仕組みを作り直さなければならない時期だと私は思います。

チャリティーと商売の違い

今年もそういう季節になりました。

チャリティーと商売の違いを考えてみたいと思います。ウィキペディアによると

チャリティーとは慈愛・博愛・同胞愛または慈善の精神に基づいて行われる公益的な活動・行為もしくはそれを行う組織のこと。

私はお金という対価を要求しない行為のことだと思います。チャリティーと称してお金を集め、自らは商売をしている人達がいます。

障害者を見世物にしているということを言う人もいますが、障害者の人達もテレビに出ない権利もあるので御本人が了承されていれば他人がとやかく言う問題ではないも思います。見世物のように見えて嫌なら、テレビを見なければ良いだけだからです。

チャリティーと称するなら、収入を得てはいけないでしょう。海外ではチャリティーで報酬が発生することはあり得ないそうです。日本ではチャリティーと称しながら、キチンと報酬をもらう人達がいるそうです。

私は募金活動で募金箱を持って募金を呼び掛ける人達にも懐疑的です。何故ならその募金が本当に活用されているか保証がないことと、募金活動をする時間があればその分働いて寄付すれば良いからです。目的が募金活動を行う人だと他人から認めてもらうことのように思うからです。お金を集めることが目的であれば、確実にお金になるアルバイトをして自分が寄付する方が確実です。

チャリティーの『意味』を考えてみても良いのかもしれません。自称チャリティーと本当のチャリティーを。

 

商売は物や労働やサービスに対して対価を支払うものです。資本主義は対価を支払う商売の仕組みにより急速に発展しています。対価を受け取ることで何かを提供するのです。

チャリティーと称しながら対価を受け取るのは、チャリティーと商売の区別のつかない人達がいるのでしょう。

チャリティー活動を否定する気はありません。しかし報酬をもらいながらチャリティーだと称する人達がいるのは悲しいと私は思うだけです。

募金活動をしている人達が時給いくらかで報酬をもらいながら街頭に立っているようなものだと例えるとわかりやすいと思います。

元々チャリティーは宗教的な考え方に基づいて活動することが多いため、宗教が根付いていない日本では馴染まない考え方なのかもしれません。

医者が患者さんを怒るのは筋違い

困ったことに世の中には患者さんを怒る医者がいます。病気を治しなくて病院を受診するのに、病気を治さず怒るのは筋違いです。病気でお金を払って怒られる筋合いはありません。

患者さんを怒る医者の心理を考えるに書きましたが、医者が勘違いしているのです。

患者さんのことを心配する振りをして怒る医者もいますが、それも筋違いです。貴方のことを心配して怒るというのは思い違いです。何故なら病気で困っているのは患者さんであり、医者ではありません。病気で困っている人を怒るなんて私から見れば意味不明です。病気で長い間困った結果治らないので、状態が悪くなってから受診することを怒る医者もいますが、それを治すのが医者の仕事です。早く来てもらえると早く治ったことを伝えてあげれば良いだけです。早く来てもらえると治療が楽だったのに、自分が大変だから怒っているにすぎません。本来なら怒る必要などありません。

医者が患者さんをわざわざ怒るのは、儲けが減るからかもしれません。特に通院しなかったことを怒るのは、診察代を稼げないからではないかと思います。試して通院しなかったことを怒る医者に、怒っている目的は何ですか?と真顔で質問してみると良いと思います。怒る理由を聞いても言い訳を探すだけなので、目的を聞くのです。返事もせず固まっていればお金が目的と考えてまず間違いないでしょう。怒る目的はお金ですか?と聞いてみると、お金ではないと否定するために更に怒り出すでしょう。

怒る医者は色々な意味で勘違いしているので、避ける方が良いと思います。

糖尿病患者さんに食べ方の指導がされていない話

患者さんとお話していて驚くことがあります。それは糖尿病の患者さんと話をしていてわかることです。糖尿病は糖質の食べ方で治る病気です。少なくとも食べ方で改善が期待出来ます。その食べ方を教えてもらっていない患者さんが多いのです。

糖質を控えると糖尿病が改善するのは、理解している人から見ると当たり前の理屈です。何故なら血糖値を直接押し上げる食べ物は糖質だけだからです。

私が糖尿病を診ている医者の怠慢だなと思うのが、糖質の食べ方を指導していないことです。糖質だけが血糖値を押し上げるので、糖質の食べ方で糖尿病が改善するだけの話です。特に糖質を食べる順番で血糖値が上がりにくくなることを知らない糖尿病患者さんが多いことに驚きます。たんぱく質、脂質から食べて、後で糖質を食べると血糖値は上がりにくく、糖質から食べると血糖値は上がりやすくなります。恐らくたんぱく質や脂質が先に胃の中にあると、糖質の吸収を邪魔することに起因すると思います。

医者が知らないだけなのか、糖尿病が良くなってもらっては困るから教えないのかは謎ですが、悲しい話です。

医学情報がネット上で溢れている現在、勉強不足の医者は淘汰されることでしょう。正しい情報と怪しい情報の取捨選択が患者さんにとって困難な今だから許されている状況です。患者さんが正しい情報を共有することが出来れば、勉強不足の医者は淘汰され相手にしてもらえなくなるでしょう。

糖尿病患者さんで、食べる順番のことを教えてくれない医者にかかっている人は、一度医者を変えてみることをお勧めします。逆に糖質を食べる順番だけでなく、糖質を控えることを教えてくれる医者は良心的な医者だと思います。そのまま通院されることをお勧めします。

未来予測 車の未来

私は空想することが好きです。
架空の話や仮の話を考えることが好きです。理解出来ない人から見れば笑われるようなことでも、暇さえあれば絶えず考えています。現在私の持ち得た情報を元に車の未来予測をしてみたいと思います。

まず自動運転が始まることは間違いないでしょう。実現する時期の問題であって、100年先にも人間が街中で車を運転しているとは到底思えません。運転することがあるとしても、サーキットや遊園地で娯楽としての運転が残っているだけでしょう。

自動運転が普及すると運転免許という概念が消え去るかもしれません。自動運転の操作免許という新しい概念が生まれる可能性はありますが、機械としての車の運転技術を保証する免許という概念は消えてしまいます。そうなると自動車教習所の仕事は全て無くなることになります。

私が考える自動運転の一番最初の導入は高速道路におけるトラックです。連結あるいは追従することで安全性の確保や経済的なメリットをいち早く得ることが出来ます。高速道路だけ自動運転で残りは人間が運転するのであれば、今の技術ですぐにでも実現出来そうです。

いずれにしても自動運転が普及すると、運転手という仕事が無くなるでしょう。例えば長距離トラックの運転手は一番早く自動運転に移行するでしょう。運ぶのが人ではなく物なので、バスよりも早く導入されることでしょう。宅配のトラックは運転は自動運転で、家までの配達は人間が行うことになると思います。経済的な点で議論の余地はありますが、配達員が荷物を持って家まで配達する間は自動運転で通行の邪魔にならないように車を移動させ、配達が終わる頃に帰ってくるようになるかもしれません。そうなると駐車違反という交通違反はなくなるので、監視員の仕事も必要なくなりそうです。

ある程度自動運転が普及すると、安全性が確認されてくるのでお客さんを乗せて運ぶ2種免許の仕事が自動運転化されていきます。まず都市部あるいは地方のタクシーで導入されることでしょう。都市部と地方のどちらが先に導入されるかは現時点では私にはわかりません。都市部での導入は自動運転の方が経済的に安く提供できること、地方であれば人手不足の対策として導入されることでしょう。いずれにしても最終的にはハイヤーのような高級路線以外、ほとんどが自動運転化されてしまいます。100年先には高級路線でさえも、人間が運転すると危ないので許されなくなるでしょう。

自動運転が普及すると

自動運転が一般化すると人間が運転するのは危険な行為と考えられるようになります。現在ご高齢の方が運転されるのを見て不安に思う発想と似た状況になるのではないかと思います。更に自動運転が一般化していれば、事故を起こすのは人間が運転している場合ばかりになるはずです。何故なら自動運転は事故の原因を突き止め、事故が起こらないように全ての自動運転車でその情報を共有することが出来るからです。つまり全ての自動運転車がベテランドライバーで、尚且つ事故を未然に防ぐように日々進化していくのです。全く同じ状況であれば2度と事故を起こさないように賢くなっていくのです。

人間が運転することで事故を起こすようになれば、自動車保険の保険料は跳ね上がることになるでしょう。割高な保険料を支払ってでも運転する一種の贅沢となるのかもしれません。

当然ご高齢の方の免許返納問題も解決されます。自動運転により自分で運転する必要がなくなるので、怖い思いをしてまで運転する人はいなくなります。

過疎地域の交通問題も解決されます。過疎地域に一台共有する自動運転車があれば、買い物や通院に事足ります。あたかもお抱え運転手を手に入れたような感覚です。もしかしたら行政が過疎地域には自動運転車を配置するようになるかもしれません。

全ての車が自動運転になれば渋滞を無くすことも出来るでしょう。何故なら信号が要らなくなるからです。歩行者に知らせるために歩行者のいるところでは信号を設置しても、車だけであれば相互通信により行き交うことが出来るのです。信号があるとしても信号が変わることにより、一斉に動き出すことが出来るのです。更に前もって目的地と到着時刻を設定することにより、道路の混雑も調整出来るため、渋滞を無くすことが出来るはずです。そうなると無駄なエネルギーや時間の消費が無くなるはずです。

事故と渋滞が無くなる世の中が待ち遠しく思います。私が生きている間に実現すると良いなと思います。