スーパーでの廃棄問題を考える

先日テレビを見ているとスーパーの廃棄問題が取り上げられていました。その内容がネットで賛否両論とあったので書いてみたいと思います。

商品の取り方について

その内容は牛乳パックが新しいものが後ろの方に陳列されているが、廃棄問題を考慮して前からとりましょうというものでした。その際あるタレントさんが、後ろからとっても良いではないかという主旨のことを言われていました。みんな新鮮な物の方が良いでしょうということでした。その内容に対して賛否両論あるようです。

賛成意見

同じ値段なのだから新鮮なものが欲しいのは当然。

反対意見

このような取り方をする人がいるから廃棄問題がなくならない。

背景

賛否両論あったと思いますが私見を書いてみたいと思います。どちらも間違ってはいないと思います。ただ1リットルの牛乳パックですが、一日にコップ1〜2杯しか飲まない人は出来るだけ賞味期限の長い商品を選ぶのもまた仕方ないことだと思います。何故なら、1日に少ししか飲まない人が賞味期限が短い商品を買っても、結局家で廃棄処分になるだけだからです。逆に子供さんが育ち盛りで1日に牛乳パックが2〜3本飲んでしまうようなご家庭は、賞味期限なんて気にする必要など全くないでしょう。このように人それぞれの生活環境によって求める物が違うため、一概に言えないのではないかと思います。1日に少ししか飲まない人に賞味期限の短い商品を強制したら、家で廃棄になるだけだという想像力を働かせる必要があります。

牛乳の廃棄問題の本当の問題点

牛乳の廃棄問題の問題点は、賞味期限が切れるあるいは迫った商品を廃棄することになってしまうということです。商品の補充の際に奥から新しい商品を補充するため、奥が新しい商品で手前が古い商品が並んでいることが多くなっています。

同じ値段だから新鮮な商品が欲しい消費者と出来る限り売れ残りを出したくない販売者の思惑がずれていることが一番の問題点だと私は思います。

私なりの解決策

私なりの解決策を考えてみたいと思います。もし牛乳の廃棄が問題なのであれば企業が利益を得ようとする企業活動なのですから、消費者の良心に訴えて手前から取るようにお願いするのではなく、企業が損しない仕組みを作るべきではないかと思います。

一言でいえば、賞味期限毎に値下げするのです。例えば1円引き、5円引き、10円引きという具合に、一日賞味期限が少なくなるにつれて下げていくのです。少なくとも私は見切り品での牛乳の値下げは見たことがありますが、賞味期限がしっかりと残っている商品の小幅な値下げは見たことがありません。上記の問題点で書いたように、同じ値段で違いがあるから消費者は新しい物を求めてしまう訳ですから、値段を変えてしまえば良いのではないでしょうか?。販売者からはコストと手間がかかるから無理という声が聞こえてきそうですが、そもそも廃棄することになればコストがかかるのですから、廃棄コストを段階的な値下げとして、消費者に還元する仕組みにしてしまえば、消費者も販売者も得ではないかも思います。手間も当日売り切り商品では、一定の時間になった段階で全ての商品を値下げする訳ですから、牛乳の一日毎の値下げが出来ないとは思えません。

もちろん一日経過する毎の値下げ額は調整する必要があるとは思いますが、一日経ったら細かく値下げというのが消費者・販売者共に利のある理屈に適った対処法だと私は思います。調整の仕方としても最新の物と一日違いなら値引きはなしでも良いかもしれません。逆にとにかく早く売りたいのであれば1日少ないと、1円引きや3円引きなどにすれば消費者が自分の都合に合わせて買うことが出来ると思います。これこそが資本主義だと思います。今は賞味期限が違う商品を同じ値段で売ってしまっていることが問題なのではないかと思います。

もう一つの解決策

私が考えるもう一つの解決策は法律を変えることです。フランスでは食品廃棄物を認めていないらしく、残った食べ物は廃棄せず(出来ない)低所得者などに配布するそうです。日本でもこの仕組みの導入は選択肢の一つとしてありだと思います。誰にどのように配るかという問題はありますが、低所得者には優しい仕組みかもしれません。

廃棄を法律で禁止するのは一つの解決策ですが、私が考えているのは別の解決策です。それは食品廃棄物に大幅に課税するのです。廃棄することが選択肢にならないくらい廃棄コストを高くしてしまうのです。今は廃棄コストが安いので、消費者が買いたい時に商品が無い機会ロスを避けるため、たくさん作って平気で廃棄しているのではないでしょうか?。廃棄コストが非常に高ければ、売ることが出来る分しか仕入れないと思いますし、売れないようであれば売ることの出来る仕組みを必死で考えるでしょう。

ちょっとした考え方を変えることで、企業の出来ること、行政の出来ることなどまだまだたくさんあるのではないかと思います。お金を払う消費者の良心に訴えるのではなく、企業や行政二方面から食品廃棄物がなくなる仕組みを考えてみて欲しいと私は思います。

国民皆保険の薬価における疑問点

国民皆保険のおかげで安心して病院を受診出来るのは間違いない事実です。しかし薬価の決め方に疑問点があります。もし私が制度を作るのであれば別の仕組みにすると思うことを書いてみます。

以前はジェネリック(後発)医薬品の問題点として書きました。今見直してみると先発医薬品に有利な書き方でした。そこで国民に有利な提案をしてみたいと思います。

先発医薬品と後発医薬品

医薬品には自社開発の先発医薬品と特許切れを取り扱う後発医薬品とがあります。先発医薬品は研究開発を行い、安全性や効果を調べる必要があるため莫大な費用がかかります。その開発費用を捻出するために特許で保護して一定期間専売することを国が認めるのです。後発医薬品は保護期間の終了した医薬品を特許をレシピとして作ることで、研究開発費用をかけることなく作ることが出来る医薬品です。開発費用がかからない分安く提供出来るのです。

問題点

成分は同じもので値段が違う・・・。先発品は特許が切れたにも関わらず高い。
同じ成分で開発費用が回収されているにも関わらず、同じ値段ではない・・・。
皆保険のない国の制度をそのままスライドさせているだけのように思います。

競争原理が働かないことも勿体ない仕組みだと思います(競争原理が働いていることを私が知らないだけかもしれませんが)。

私が考える医薬品の薬価の問題点とは、特許期間に専売を認め開発費用が回収された後も、多少下がるだけで似たような薬価で販売されることです。

新しい仕組みの提案

以前の私の考え方はジェネリック医薬品は厚生労働省が金額を決め、それを踏まえたうえで先発医薬品は自社で金額の制約なしで完全に届出制にすれば良いと考えていました。今では別の考えが浮かんできました。それは先発医薬品は特許期間で開発費用は回収出来ている前提です。であれば開発費用が回収されたあとでも薬価が保護され続けているのは過保護なのではないかと考えるようになったのです。過保護なまでに先発医薬品の薬価を維持しておきながら、ジェネリック医薬品の活用を促すのはおかしな話です。開発費用の回収の終わった先発医薬品の薬価を今のジェネリック医薬品の薬価まで下げるべきです。更に安い値段で出したいジェネリックメーカーがあれば、自由競争で価格設定をしてもらえば良いのではないでしょうか?

特許が切れた医薬品の価格は自然と今のジェネリック医薬品価格になり、原価(製造価格)が安く作れる物はジェネリック医薬品が競争することで更に安くなるはずです。そもそも原価も違うはずにもかかわらず、一律先発医薬品のほぼ6割の薬価が設定されているジェネリック医薬品の仕組みがおかしな話です。

保険適応の薬価を厚生労働省が決めるため市場原理が働かないことで、守られているように思います。

ましてや先発医薬品の製薬メーカーの関連子会社が作るオーソライズドジェネリックなんて、箱の印刷が異なるだけで先発医薬品と同じ工場で作る全く同じ製法で同じ製品です。子会社によるオーソライズドジェネリックが出来るのですから、私が提案する上記の仕組みも出来るはずです。少なくとも先発医薬品の価格は今のジェネリック医薬品の価格にすることは出来るはずです。

国は医療費を抑制したいはずなのに、何故先発医薬品の薬価を大幅に引き下げないのでしょう。開発費用の回収のため先発医薬品の特許期間は必要なことはわかりますが、特許期間が切れても薬価を大幅に引き下げないのは何らかの利権が絡んでいるのかもしれません。

離婚裁判に思う

芸能人の離婚裁判が話題になっています。
離婚裁判とは通常夫婦のうちで1人だけが離婚したくて、もう1人は離婚したくない場合に争われるものです。もしかしたら離婚条件の食い違いで裁判になる場合もあるのかも知れませんが、それ程多くはないでしょう。何故ならどちらも離婚したければ離婚条件はお互いが妥協出来るからです。

そもそも離婚裁判という第三者を介してでも離婚したいと夫婦のうちの1人が言い出した時点で夫婦関係は破綻しています。少なくとも夫婦のうちの1人は夫婦関係を継続出来ないと考えているはずです。夫婦とは2人でお互いが協力することで成り立つものです。1人しか継続する意思が無ければ既に破綻しています。その破綻した夫婦関係を裁判で争うこと自体不思議な話です。しかも裁判で認められないことがあること自体がおかしな話です。国としては出来るだけ夫婦でいて欲しい現れなのでしょう。裁判を申し立てた夫婦を離婚させない目的は、出来るだけ離婚させたくないとしか思えません。民法が定められた当時は離婚により特に女性が生活に困ることを想定して、出来るだけ離婚を回避するようにしていたのでしょう。男性が浮気をした上で簡単に離婚出来てしまうと、男性の収入に頼っていた女性は生活に困ってしまいます。簡単に離婚出来てしまっては浮気という落ち度のある男性に有利なため、簡単には離婚出来ない仕組みになっていたのでしょう。簡単に離婚出来ると世が乱れると考えていたのかもしれません。

しかし時代は変わりました。男女平等が叫ばれる中、男性の浮気ばかりではなくなりましたし、収入を男性に頼る女性ばかりではなくなりました。

離婚が珍しくない時代になってもきました。裁判をしても離婚が認められないことがある制度は破綻しています。離婚を訴えた側からすれば、離婚を認められない場合どうやって継続すれば良いのか裁判官に聞いてみたいでしょう。

離婚裁判の提案

離婚裁判を1人が申し立てた時点で離婚は成立し、裁判では条件を争うことにするのです。そもそも離婚を1人が決めた時点で夫婦関係は破綻しています。だから離婚を認めないのではなく、条件を争点にするのです。客観的に第三者からみてどちらに落ち度があるのかを判断し、離婚後の条件を冷静に話し合う場とするのです。離婚は決まっているのですから、条件の調整になるので実際には調停に近い内容になると思います。

浮気をしたなど落ち度のある側からの申し立ても認める代わりに、相応の代償を支払うように仕組みを整える必要はあると思います。

そろそろ現状に合わせた仕組みに切り替えるべき時だと私は思います。

金塊密輸の防止策

相次ぐ金塊密輸に思うで書いていましたが、トータルで得をするから密輸が繰り返されます。何故なら万が一捕まったとしても得をするからです。このサイトを見た訳ではないでしょうが、もっと過激な防止策が講じられました。恐らく金塊密輸は激減すると思います。何故なら万が一捕まったら大損をするからです。

私は金塊を全額没収で罰金と考えていましたが、新制度では密輸した金塊の5倍の金額の罰金を課すそうです(参考:金密輸の罰金、価格の5倍に)。

この仕組みだと5回に一回捕まるだけでトータルで損をしてしまうのでかなりの抑止力になるでしょう。もしこれでも密輸が減らなければ、罰金額を10倍に引き上げるだけで抑止力となるはずです。しかも運び屋が罰金を支払うことになると思うので気軽なアルバイトという仕組みは淘汰されるでしょう。

経済的に犯罪の抑止力を働かせる同じような仕組みとして脱税の防止策が考えられます。脱税をしようとしたら脱税額の5倍の罰金を課すのです。私は脱税額の全額没収を提案していました(参考:脱税に対する重加算税が増税に思う)が、金塊密輸で思い切ったことが出来るのであれば脱税でも出来そうです。

経済犯罪は今回の金密輸の罰金のように損する仕組みを作ることで抑止力を働かせる方が合理的です。何故なら捕まって刑務所に入ってでもお金を得たい人がいるからです。罰則が刑務所だけでなく、捕まったら損する仕組みを用意することで経済的合理性をそぎ落とすことが、21世紀の犯罪抑止に繋がると思います。

民主主義の限界

少し前に民主主義の『意味』についてかきましたが、民主主義は現在最も優れた政治手法の一つです。人類は狩猟採集生活から農耕を始めたことで協力が不可欠になり、大勢が共に暮らすことで政治という概念が生まれました。歴史上は知恵者が独裁をしくことが多かったのですが、問題も多かったため民主主義に至りました。民主主義は競争原理が働くため、政策に不備があると次の選挙では落選することで淘汰されます。自然界の自然淘汰の仕組みと似ているため優れてはいるのです。
しかしその民主主義の限界が近づいています。

民主主義の限界

政治家が政治家であるために選挙で票に繋がることだけ実行します。
本当に必要なことを実行したとしても、選挙に落ちてしまえば政治家ではいられなくなってしまうジレンマに陥っているのです。結果として選挙で不利になることは政治家が政治家でいるために実行しません。
そして一部の政治家は選挙で選ばれたという選民意識が振る舞いを歪めてしまいます。

民主主義の限界を一言で表現すれば、政治家にとって選挙が手段ではなく目的になっているからです。

民主主義が限界なのはいくら将来人々のためになる良い政策でも、人々の支持が得られなければ政治家になれないことです。正しいことをいう人が選挙で選ばれる訳ではなく、市民・国民の望むことを口にする人を選挙で選ぶ傾向があるのです。

正しいことを言った人が選挙に勝つ訳ではなく、人々に受け入れられることを言う人が選挙に勝つのです。

正しいことと人々に受け入れられることの折衷案を提案することが出来る人が民主主義の限界を迎えた今の時代の政治家に向いているのでしょう。

限界を迎えた民主主義の延命策

民主主義の次の画期的な政治手法が生まれるまでの間、民主主義を生きながらえさせることのできるとすれば組織票を禁止することだと思います。

組織票は各団体毎に票を集め、選挙協力をする見返りとして団体に有利な政策をしてもらおうとします。その組織票が政治を歪めていると私は思います。医師会も組織票を集めていますが、私は冷ややかな目で見守っています。医師会は選挙協力の見返りに医療費を上げることを望んでいます。少なくとも削減に反対しています。患者さんのためを思えば、医療費は削減されるに越したことはありません。自分達の生活を守るためとはいえ、組織票により政治家・政策に圧力をかけることはフェアではないと私は考えています。同じようなことが他の業界でもあるのではないかと思います。

1人だけあるいは1つの党だけが組織票を集めなくなれば、正直者が馬鹿をみる形で落選してしまいます。全ての政治家・政党が組織票を撤廃すれば、政策の歪みも少しは減って民主主義ももう少しましになると思うのは私だけでしょうか?

少なくとも仕事がらみの組織票は禁止すべきだと思いますが、残念ながらその仕組みを作るのが組織票により足場を固めている政治家達です。このことも民主主義の限界なんだと私は思います。

1人の天才か人工知能が民主主義の次の政治手法を発明してくれるのを待つしかないですね。

日本に影響のないミサイルにJアラートを発動する目的

結果論かもしれませんが、日本に影響のないミサイルに対してJアラートが繰り返して発動されています。このままでは狼少年のようになってしまわないか心配しています。

現在の監視システムの能力から考えると日本に落下する軌道か、通過する軌道かはわかると思います。途中での爆発は落下物が放物線を描くので、日本に爆発物が落下する地点もわかっているはずです。

にも関わらずこれだけ騒ぐのは政府に目的があるのではないかと考えました。防衛予算を増額する目的で国民の不安を煽っているのではないかと考えました。私の考え過ぎなら良いのですが、防衛予算の増額を目的にしたJアラートであれば少し悲しいと私は思います。

防衛予算を増額する目的以外に上空数百キロを通過するミサイルに対して、Jアラートを発動する意味が私にはわかりません。

念のためJアラートを確認してみましたが、日本に飛来する可能性がある場合に発動することになっているようです。上空を通過することをもって飛来するとして発動しているのかもしれません。上空通過の場合はJアラートの必要は無いのではないかと思い、上記のようなことを考えました。

疑惑の神戸市議、いつ辞めるのか?

疑惑がワイドショーを賑わせていますが、領収書を発行した男性が印刷を否定した時点で解決です。お金を受け取らず領収書だけ発行したようです。幾ばくかのお金を支払っていれば詐欺の共犯になりますから隠そうとしたかもしれませんが…。お金を受け取っていないので犯罪にはなっても詐欺の共犯にされるよりはマシとの判断を代理人の方とされたのでしょう。

立件されるかどうかは別にして、領収書が嘘だと発行した人に言われては言い訳のしようがありません。デジタル思考が出来る人は、この事実が出た時点で諦めます。何を言っても取り繕いようが無いからです。

辞めるしかないのは誰の目にも明らかですが、本人はアナログ思考なのでしょう。逮捕されなければまだ助かる道があると考えてしまうのでしょう。究極の言い訳人間なのかもしれません。

ギリギリで辞めた某防衛大臣のようになかなか判断出来ないのかもしれませんが、いつ辞めるかが問題でしょう。架空請求の味方のはずの領収書の発行人から虚偽だと暴露されたのですから、辞めるか辞めないかの議論の余地は無さそうです。

恐らく他にも発覚すると思いますので、早目に辞める方が傷は浅いと思います。疑惑の神戸市議が賢ければすぐに辞めると思います。すぐに辞めることが出来ればいずれは復活出来る可能性が残りますが、すぐに辞めることが出来なければ号泣議員のように復活出来る可能性は限りなくゼロになるでしょう。生暖かい目で見守りましょう。

そもそも政務活動費がほぼノーチェックということに問題があります。議員さんも一般市民並みのお金のチェックを受けて欲しいですね。

今日は8月15日、私にとっては平和記念日

今日は8月15日です。日本では終戦記念日とされています。何故日本ではと限定すふのは日本では玉音放送により終戦を告げた時点で終戦とされていますが、戦勝国は条約を調印した時点を終戦としているからです。正確には戦争を放棄することを日本国民が受け入れた日なのかもしれません。

私は一昨年も、昨年も書きましたが平和記念日として、日本が再び戦争をするまで平和を実感する祝日にすることを望んでいます。終戦記念日とすると戦勝国の国の人達との認識の違いを指摘される可能性があるため、この日から戦争をしていない平和記念日という認識を提唱しています。終戦記念日とすると日にちの問題だけでなく、日本から仕掛けた戦争の終結を祝うことに異論が出る可能性があるからです。

中途半端な山の日よりもお盆でもある8月15日を平和記念日として祝日にする方が国民にも受け入れられやすいと思います。

祝日を制定する国会議員の皆さん、8月15日を平和記念日に制定してはいかがですか?

少なくとも私は心の中で72年間戦争をしていない日本を誇りに思いながら、平和記念日を祝っています。10年、20年、30年と私にとっての平和記念日が続くことを望んでいますし、私の死後も100年、200年、1000年と平和であり続けることを祈っています。私が生きている間に平和記念日が祝日として制定されるといいですね。

間違いを正す仕組み

人間のやることには間違いがつきものです。人間である限り物事を絶えず完璧にこなすことは不可能です。

であれば、間違いを正す仕組みが必要なはずです。間違いを修正する仕組みと言い換えても良いかもしれません。政治が混沌としスッキリしないのは間違いを正す仕組みが存在しないからではないでしょうか?

世界的に主流の経済の仕組みは資本主義ですが、間違いを正す仕組みが自然に働くため繁栄しています。何故なら間違った商売は選ばれることなく物やサービスが売れず淘汰されてしまうからです。多くの人が求める商売が結果的に正しいとわかるのです。丁度生物が自然に適したものが生き残ることに似ています。そのため民間企業は自己責任において様々な商売を行い、適切な商売は繁盛し不適切な商売は淘汰されるのです。不適切な商売を行うと人々に選んでもらえず、経営が成り立たないことで自然と正されます。間違いが自然と正される仕組みが資本主義の本質です。

資本主義は自然淘汰の仕組みが備わっているため、成り行きに任せておけば優れたものが勝手に生き残ります。そのため商売を始めようとする人は、前もって出来る限り知恵を働かせるのです。資本主義の利点は自然の成り行きに任せれば良いため、間違いを正す仕組みを必要とせず、管理者が不要であることです。

自然の成り行きに任せれば良いため資本主義が選ばれているのです。人間が考え出した様々な物事には間違いを正す仕組みが必要です。例えば医者の間違い、医療ミスを正す仕組みとしては裁判があります。間違いを正す仕組みがあるから、間違いをおかさないように気をつける心理が働くのです。もし今でも医療ミスという間違いを正す裁判という制度が無ければ、患者さんは泣き寝入りするしかありません。医者も気をつけるという発想はないでしょう。もし裁判という医者の間違いを正す仕組みが無ければ、自分の行動は全て正しいと勘違いしてしまう医者だらけになっていることでしょう。

人間がやることは間違いだらけです。その中から最適解を手探りで探しているような状況です。間違いがあってはいけないとして隠すから解決が遅れたり泥沼に陥ったりしてしまいます。人間だから間違いが当たり前で、間違いがあれば正せばよいと考え方をそろそろ変えないと勿体無いと私は思います。イジメがなくならないのはイジメがあってはならないという視点から物事を眺めているからです。イジメは一定割合で起こるものだから大事に至る前に解決という視点に立つことです。これも間違いを正す仕組みの一つだと思います。

間違いは起こるものなので、大事に至る前に正す仕組みを作りましょう。例えば議員さん達が様々な問題を起こしても身分が保証されているため剥奪されることはありません。特に政党の比例代表で選出された議員は、政党の代表として選出されているので政党をやめてしまえば議員資格を喪失するはずです。にも関わらずそのような仕組みが存在しないため、開き直ることで議員に居座ることが出来てしまいます。少なくとも政党の比例代表は離党すれば議員資格喪失という仕組みにするべきです。そうしないのは法律を作る自分達政治家がいつそういった状況に陥るかわからないからではないでしょうか?

小学校新設問題、獣医学部新設問題など間違いは起こるものです。責め立てると必死で隠そうとしてしまいます。当然犯罪の責任はとってもらうのですが、間違いの起こらない仕組みつまり再発防止策に協力してくれれば減刑などのメリットを与えることで経緯を全てはっきりさせるべきです。そもそも間違いは無いという視点で制度設計されてしまっているため、綻びが出ると今回のように大騒ぎになってしまいます。そろそろ行政にも間違いを正す仕組みを取り入れて欲しいですね。私の思い付く具体的な間違いを正す仕組みについては改めて書きたいと思います。

第二次世界大戦も間違いを正す仕組みが存在しなかったため、結果として原爆という悲劇に行き着いたのではないかと思います。何故なら戦争の勝敗という意味では、戦争開始して一・二年もすれば決着はついています。何しろ日本には資源がないのですから戦争が長引けば長引く程不利になります。戦争の間違い、つまり負けを認める仕組みが無かったため原爆という決定打を打たれるまで受け入れられなかったのです。しかも広島だけでは間違いを認められず長崎にも落とされてようやく受け入れることが出来ました。

そもそも戦争をすること自体が間違いですからありとあらゆる手段を講じて間違いを避けるべきです。万が一間違いが起こってしまった場合には、出来る限り早く被害が少ないうちに正す仕組みを考えるべきです。間違いは起こらないから考えないではなく、間違いは起こるから正すという考え方をするようにしましょう。

防衛大臣の辞任に思う 何故今!?

かなり前に防衛大臣は辞任するしかないだろうなと考えていました。以前記事を書いたので確認してみると3月の記事でした。防衛大臣なのに自分の身も守れない様子だったからです。

政治の素人の私から見ても合理的な判断が出来ているとは思えませんでした。様々な失言や質問に対して壊れたレコードのように同じ返答を繰り返す姿を見て痛々しく見ていた人も多かったと思います。

ついに辞任したようですが、3月に辞めていれば傷が浅かったと思うのは私だけでしょうか?合理的な判断をすれば3月の時点で辞めるのが妥当だと私は考えていました。何故なら話の内容に合理性がなかったからです。遅くとも4月には辞めると考えていたので予想が外れ驚いていました。後付けで考えてみると、その後小学校新設問題、獣医学部新設問題と立て続けに問題が発覚したため有耶無耶になったな過ぎませんでした。乗り切った訳ではなく、他の問題に埋没したに過ぎませんでした。

その後も選挙応援での発言が自衛隊ならぬ自民隊のように聞こえたため問題とされました。

間違いは誰にでもありますが、法律と言葉を駆使する仕事である弁護士だけに言葉の選び方はもう少し慎重になるべきでした。更に誤魔化そうとしてしまったため逃げ道がなくなってしまいました。

記者との受け答えを見ていてもあらかじめ用意された原稿を暗唱しているに過ぎません。恐らく自分で考えて話すと、国会での答弁や自民隊の時のように問題発言をしてしまうので誰かなら原稿以外発言しないように言い含められていたのでしょう。

辞任が今になった理由ではなく、目的を考えてみます。何故なら今になった理由は逃げ道が無くなったからに過ぎません。逃げられそうにないところまで追い詰められたことをようやく今理解したに過ぎません。今辞任に至った目的は、内閣の支持率低下を食い止めることだと思います。他のことでも内閣が責め立てられていますが小学校新設問題・獣医学部新設問題は逃げ道が無さそうです。少なくとも辞任すると回避出来る報告の隠蔽問題だけでも辞任で乗り切ることを目的としているのではないかと思います。

現状からは恐らく実現しないと思いますが、自衛隊に関する憲法改正を本気で考えていたのであれば、3月時点で手を打つしか無かったと思います。そのまま続投を許してしまったことは、先見の明のある知恵者が内閣周辺にいないことを意味します。知恵者はいても、残念なことにこれまでの支持率から勘違いしてしまったのかもしれません。知恵者がいれば今からでも軌道修正して欲しいものです。知恵者がいなければ…。この国は何処に向かっていくのでしょうか…。