怒る必要のない子育てを提案しています。
今回は怒る意味を考えてみます。怒るのは感情なので仕方ないと考えている人も多いかもしれませんが、アドラーの心理学によると認知の仕方により同じ物事を喜びとして捉えることが出来るかもしれないのです。
例えばすれ違った女の人が自分の顔を見て笑ったように見えたとします。嘲笑われたと認知すれば、怒りを感じるでしょう。微笑んでくれたと認知すれば好意を持ってくれていると感じることが出来るでしょう。怒りの前に認知という作業があるので、アドラーは認知を修正することで怒る必要などないことを提唱しています。ちなみにアドラーはそのことに気付いたので、若い頃に怒るのをやめたそうです。
怒る意味。犬が吠えるのと変わらない
人は意識しているか無意識かは別にして、必ず目的を持って行動しています(目的論)。では人が怒る目的は何でしょうか?相手を支配することです。通常人が人を怒る場合、立場の強い者が立場の弱い者を怒ります。怒るのとでその立場の違いを明確にし、従わせることを目的に怒るに過ぎません。
相手の行動を変えるために怒ると誤解している人がいますが、怒れても人の行動は通常変わりません。何故なら怒られている人には、怒られている理由がよくわからないからです。
怒ることで伝わるのは不快な思いをしているということだけです。言い換えると犬が吠えているのと何ら変わりません。犬が吠えていれば怒っているのはわかります。しかし何を怒っているのか想像するしかありません。何故なら犬とは会話出来ないからです。怒っている人が犬が吠えるのと同じというのは、怒る理由を相手にわかるように説明しないからです。怒っていることしか伝わらず、何をどのように怒っているのかわからないのです。
怒るのは感情をぶつけているに過ぎないのです。感情をぶつけられても、他人には感情は理解出来ないのです。人が怒るのは、相手も共通の認識を持っているはずなのにその認識を持っていないからです。しかし多くの場合相手も共通の認識をしているはずだと誤解していることが原因です。相手も知っているはずだと思い込んでいるので、知らないことが想像出来ないのです。
認識の齟齬があるにも関わらず、共通の認識を前提に怒るのです。認識の齟齬をお互いで修正しなければ怒るのは犬が吠えているのと変わりません。認識の齟齬が修正されないのですから、同じことを繰り返すのは当然です。
怒らない対策
散々怒り散らされた後で、「わかった?」と聞かれて、「怒られている意味がわかりません」とは怖くて言えないでしょう。次は「わかったと言ったのにどうして出来ないの!」と責め立てる情景が目に浮かびます。片手に思い込んで何がわかったのか確認もせずに、「わかった?」と聞くのは客観的に見ればズレ漫才のように滑稽です。怒る目的が相手を支配することなので、「わかった」と言わせると満足出来るのです。相手の行動を変えることが目的であれば、何がわかったのか気になって仕方ないと私は思います。認識の齟齬が修正されたかどうか確認するために、「何がわかった?」と聞いてあげてください。
人を育てるのに怒る必要などありません。相手が知らなければ教えてあげれば良いだけです。いくら自分は常識だと思い込んでいても、相手が知らなければ仕方がありません。怒るのではなく、教えてあげれば良いだけです。もし相手が子供ならその常識を身につけさせてあげるべきなのは誰なのでしょうか?誰のせいで子供は常識を身につけていないのでしょうか?それなのに子供を怒るのは子供が二重の意味で可哀想だと私は思います。常識を身につけてくれない上に、更に怒られるのですから悲惨です。しかし子供が知らないことを親が認識出来ないのも仕方がありません。何故ならいつの間にか常識は身につけたので、自分は人に教えてもらったことを忘れたのです。常識は教えなくても自然に身につくと思い込んでいるのです。子供に常識などありません。親がその都度教えてあげなくては常識は生まれつき身についているなどあり得ないのです。何度言ってもなおらないと言う人もいますが、伝え方に問題があるに過ぎません。一方的に伝えたつもりになっているだけです。物事が伝わったかどうか確認しなければ伝わったかどうかわからないはずです。この文章を読まれた方の子育ての考え方が変わることを私は祈っています。
感情で人を動かそうとするのは幼稚です。何故なら言葉の通じない動物と変わらないからです。人は言葉という魔法を使うことが出来るのですから、言葉で認識の齟齬をなくしましょう。認識の齟齬が無くなれば怒る必要などありません。