人は思い通りにならないと怒る生き物のようです。0歳児でも思い通りにならなければ怒り出します。0歳児が思い通りにならないと怒るのは本能なのかもしれません。しかし大人が他人に対して怒るのは、赤ちゃんのように幼稚な証拠だと私は思います。若い頃に怒ることをやめたアドラーが作り上げた心理学によると怒りは感情であり、感情をコントロールすることは無意味だそうです。怒りを幼稚と捉えたり無意味だお捉えたりするのは、一見矛盾するようですが矛盾しません。何故なら怒る前に認知という作業があるからです。同じ事柄でも人によって捉え方が異なるのです。人によっては嬉しく思うことでも、他の人にとっては腹立たしく思うこと、悲しく感じることがあるのです。
不快だと感じることは仕方がないかもしれませんが、それを怒りと表現するか、悲しみと表現するかは考え方次第です。
例えば子供が片づけをしない事実を見て、怒りだす親がいたとします。
しかし片づけを出来ないことを悲しむ親がいても良いのではないでしょうか?自分が片づけの仕方や意味を教えていないと反省し悲しむ親がいても良いと思うのです。
同じ子供が片づけをしないという事実に対して、怒る人もいれば悲しむ人もいるし反省する人もいるのです。
相手が自分を怒らせるから自分が怒ることは仕方がないと考えている人もいますが、それは自分が絶対正しいという自分中心的な考え方です。その意味で自分が世界の中心である幼い子供と変わらないのです。そのような視点で怒るのは幼稚だと私は考えています。認知に自分の思い込みという問題があるからです。
自分が至らないところがあって、相手が自分の思い通りに動いていないに過ぎません。自分の思い通りに行動しないことを怒るのが幼稚だというのです。特に何度も同じことを言ったのに行動が変わらないとして怒る場合もありますが、言ったつもりということはよくあることです。
怒るのは犬が吠えるのと同じです。
怒ることで相手に伝わるのは不快だと感じていることだけです。
そもそも怒られている側は何に対して怒られているかわからないのですから、怒ること自体が無意味です。
我々は言葉が使える人間なのですから、怒ることで不快を伝えず言葉で不快に感じていることを伝えれば良いのではないでしょうか?そしてお互いで解決策を話し合えば争いはなくなるのではないでしょうか?
怒るのは自分が正しいと思い込んでいる幼稚な証拠だと私は思います。
怒っている人を見ると、自分は絶対正しいと勘違いしているんだろうなと思ってしまいます。逆に絶対正しいのであれば、怒らず教えてあげれば相手が恐縮するはずです。自分が正しいとは信じているけど、相手にわからせる自信がないから怒る勢いで自分の正当性を認めさせたいだけではないでしょうか?クレーマーなどは怒ることで相手を圧倒して、不当な要求をつきつけます。場合によっては相手が恐縮することを目的に言いがかりをつけてきますので、延々クレームを聞かされてしまいます。
怒るのはこれまで自分の思い通りに導くことができた成功体験が行動させるのでしょう。怒ることが幼稚だと理解する人が増えれば増える程、世の中から争いが減ると私は思います。全ての人が怒ることが幼稚だと理解することができれば、争いのない世の中がやってくるのかもしれません。私が生きている間に争いのない世の中がくることを祈っています。少なくとも1人でも多くの人が怒るのは幼稚だと気付くことを祈っています。
まずは病気で困って受診している患者さんを怒る医者に、怒ることが幼稚な証拠だと早く気付いて欲しいと考えています。そのためには患者さんの方から怒るような医者を避ける世の中になってほしいと考えています。