嫉妬する人と嫉妬しない人の違い

嫉妬する人と嫉妬しない人がいます。
一般的に嫉妬は醜い感情とされるため、表立ってする人は少ないかもしれません。
隠してはいても嫉妬する人はいるものです。(参考:嫉妬する人の心理

嫉妬する人と嫉妬しない人の違いはわきまえているかどうかです。わきまえるとは自分自身のことを知り、出過ぎず身の程を知っているということです。
自分のことをわきまえている人は自分のことを客観的に考えることができるため、人との違いを受け入れることができるので嫉妬したりはしません。
自分のことをわきまえていない人は自分のことが理解できないため、相手と同じはずだと考えてしまいます。同じはずなのに扱われ方が違うことを受け入れることが出来ないため、嫉妬という感情が芽生えるのです。

自分と他人との違いを理解していれば嫉妬という感情は生じません。
例えば努力が異なれば結果が異なるのは当たり前のことだからです。
極端な話、鳥が空を飛べることを嫉妬したり、イルカが海を泳げることを嫉妬したりはしません(もし本気で嫉妬する人がいるとすれば、それは心の病かもしれません)。何故なら自分と同じではないことが容易に理解できるため、嫉妬の対象にはなりえないのです。

では人に対して嫉妬することがあるのは何故でしょうか?
それは嫉妬する人は勘違いしているのです。
嫉妬の対象も自分と同じ人間だから同じように扱われるべきだと錯覚しているのです。
例えばこれまでの努力や条件が異なっていても、扱いが違うことが受け入れられないのです。同じ扱いをしてもらえないことに不満があるので嫉妬するのです。扱いが違う理由があっても不当な扱いを受けているように歪んだ解釈をすることで、自分を正当化し同じ扱いをされるべきだと言い訳するのです。そういう意味では言い訳人間が嫉妬するのかもしれません。

嫉妬を口にする人は歪んだ心理状態の可能性があるため、少し距離を置く方が良いのかもしれません。
もし自分の大切な人が嫉妬する人であれば、客観的にわかる明らかな違いを教えてあげてください。嫉妬の対象を自分も同じ扱いを受ける権利があると錯覚していることと、嫉妬の対象は自分とは異なる存在であって嫉妬の対象ではないことを理解させてあげるとよいのかもしれません。

人は勘違いの生き物である

人は勘違いの生き物です。
そして勘違いは人から指摘されるか失敗しないと気づくことはできません。
勘違いというのは当たり前だと思い込んでいるため、わざわざ勘違いしていないかを確認しないのが特徴です。

身近な勘違いの一例は、方言です。
全国共通の標準語だと思い込んでいると、方言かもしれないという視点に立てないため修正する機会がありません。他の地方の方とお話すると会話が成立しないことで初めて方言だったと気づくことはよくあることです。

周囲から見ると明らかに勘違いしていても、自分に害が及ばない限り周囲の人達もわざわざ指摘したりしません。何故なら指摘すると相手が嫌な思いをして、せっかく教えてあげても逆に攻撃される可能性があるからです。知らぬが仏という諺もありますので、もしかしたら勘違いしたままの方が幸せな場合もあるかもしれません。

人は誰でも勘違いしています。
全てのことを勘違いせず理解している人など存在しないと私は思います。(もしかしたら存在するのかもしれませんが、私は会ったことはありません)

勘違いの厄介なところは、完全に思い込んでいるため勘違いを指摘されてもなかなか理解できないことです。方言であっても、一人から指摘されたところですぐに理解出来る人は少ないと思います。他の人にも聞いて初めてもしかして方言かもしれないと理解し始めます。大して害のない方言ですら、勘違い・思い込みが激しければ激しい程理解しにくいことです。
ましてや仕事や将来にも関わる勘違いであれば、指摘されてもなかなか理解できないのも仕方がないのかもしれません。

勘違いが起こす心理学

他にも勘違いから引き起こされる心理も多くあります。
例えば嫉妬です。
相手と同じはずだという勘違いから、同じはずなのに差がつくことを許しがたいため嫉妬するのです。明らかに努力が異なっているにも関わらず、例えば同級生とかチームメイトなど同じ部分のみに注目して相手と同じはずだという勘違いから嫉妬するのです。異なるということがわかっていれば嫉妬などするはずがありません。空を飛べる鳥がいいなと思うことがあっても、鳥に対して嫉妬する人はまずいません(いるとすればそれは心の病だと思います)
例えば嘘つきです。
嘘をついても大丈夫という勘違いから、平気で嘘をつくのです。嘘をついても誰からも指摘されなければ、嘘が本当だと錯覚してしまうのです(参考文献:自分のついた噓を真実だと思い込む人 (朝日新書))。嘘つきは泥棒の始まりとはよく言ったもので、嘘が平気になると自分の物と人の物との区別が曖昧になってしまいます。嘘つきは人の物を盗ってはいけないという人として当たり前の常識も嘘をついても大丈夫という勘違いで誤魔化してしまうので、人の物を盗るのが平気になってしまうようです。
例えば何でも人のせいにする人です。
自分の責任の訳がないと勘違いしているので、何でも人のせいにしてしまいます。典型的な言い訳人間だと思います。完全に思い込んでいるので、人のせいにしていることを自分自身では理解できません。人から指摘されても人のせいや言い訳を始めます。

大きな勘違い

人類が陥っている大きな勘違いがあります。
それは糖質・炭水化物の扱いです。
人類の歴史において人類の発展に大きく寄与したのは間違いありません。
糖質・炭水化物の代表である穀物のおかげで、人類はこれほど繁栄することができました。
特に日本では江戸時代には給料がお米という穀物で払われるという特殊な歴史があります。そのためか日本人にとってお米に対する思い入れが強く残っているようです。
人類の発展に穀物が寄与した理由は、増殖性・保存性などです。
栄養学も大きな勘違いをおかしてしまいました。栄養学が始まった時点で食べていた糖質が間違っているはずがないという勘違いの元、糖質を食べることが当たり前として栄養学に組み入れられたのです。
勘違いは人から指摘されるか、失敗しない限りわからないのは先述の通りです。
失敗とは糖質による様々な害のことです。害があるのですから闇雲に糖質を食べ続けるのは得策ではありません。得策ではありませんが、糖質である主食を食べるのが当たり前という勘違いを多くの方がしています。勘違いが強ければ強い程、激しければ激しい程糖質を食べないという選択肢を選ぶことが困難になるようです。更に糖質に対する思い入れは糖質依存という心理によって増強している人が大勢います。この糖質依存が糖質に対する勘違いの元凶と言っても過言ではありません。糖質に対する認識を誤らせてしまうのです。

まだ多くの人達は勘違いしたままですが、大半の人達がこの勘違いに気づいた際には糖質革命とでも言うべき大変革が起ると私は予想しています。

勘違いからの脱出法

勘違いから抜けだすのは用意ではありません。何しろ勘違いしている自覚はないのですから。まず何事も勘違いかもしれないという自覚をもつことです。絶対と言い切れないことであれば(場合によっては絶対だと考えていても)、間違いかもしれないという視点を持つことです。
以前書いた常識革命のやり方も有効かもしれません。
とにかく何事も正しいかどうかを疑うことです。この何事も正しいかどうかを疑うことをしていれば、人に嘘をつかれたり騙される確率はぐっと減ります。絶えず疑うために頭を使うことで、正しい知識を身につける確率が上がると思います。
正しいかどうか疑いがあれば、納得できるまで詳しく調べてみることをお勧めします。

このサイトで何度も書いている糖質の害が本当かどうか、ご自身で考えてみるのは勘違いからの脱出法を試す良い一例だと思います。
良かったらお試し下さい。

他人を馬鹿にする人のみかた

他人を馬鹿にする人がいます。
何故でしょうか?
人の行動には必ず目的があります(目的論)。他人を馬鹿にする目的は何でしょうか?目的がわかれば行動が理解出来るかもしれません。
他人を馬鹿にする目的は、自分が他人を馬鹿に出来る程優れていると印象づけることです。本当に優れていればわざわざ人を貶めなくても、周囲の人達が評価してくれるはずです。自分が期待している程には評価されていないため、自分から評価されるように仕向ける目的で人を馬鹿にするのです。そもそも人より優れている人は他人を馬鹿にするという概念そのものがありません。何故ならそんなことをしなくても認められるからです。

他人を馬鹿に出来るのは自分のことは棚上げに出来るからです。客観的に自分のことが把握出来ないがために、自分のことは差し置いて他人を馬鹿に出来るのです。人は誰でも劣っている点も優れている点もあります。誰しも完璧ではないのですから、人より劣っていることは誰にでもあるのです。それをわざわざ指摘して劣っていると馬鹿にする意味はありません。

他人を馬鹿にする人の見方

他人を馬鹿にすること自体が実は人より劣っていることを知らしめています。他人より優れていればわざわざ人を馬鹿にしないからです。本人はそのことに気付いていませんので、可哀想でもあります。『他人を馬鹿にする人の見方』は、可哀想な人として見てあげると良いと思います。恐らく誰も他人を馬鹿にする行為自体が、恥ずかしい行為だということを教えてあげなかったのだと思います。その意味でも可哀想な人でもあります。可哀想な人ではありますが、歪んだ心理なので出来れば距離を置く方が楽だと思います。他人を馬鹿にする人が近くにいれば少し離れるようにしましょう。

他人を馬鹿にする人の味方

家族や大切な人などの事情で『他人を馬鹿にする人の味方』になりたいのであれば、他人を馬鹿にする行為は恥ずかしいことだと教えてあげるべきです。他人を馬鹿にすることで実は人より劣っていると認めていることを誤魔化そうと虚勢を張っていると受け取られることを教えてあげるべきです。ただし人の考え方を変えるのは一筋縄ではいかないのでそれなりの覚悟が必要です。その覚悟をしてでも変えてあげたいと思う程大切な人であれば頑張って教えてあげてみて下さい。

 

価値観の違う人の心理は理解できない

人は価値観の違う人の心理を理解することは出来ません。

実は知っていれば当たり前のことですが、このことを知らない人は会話が成り立たないことを不思議に思います。

例えばお金が全てだと思い込んでいる人は、お金の他に目的があって行動している人のことは理解出来ません。お金のためだけに働いている人は、もらえるお金の多寡により行動が変わります。お金を多くもらえるなら行動しても、お金がそれほどもらえなければ行動しません。やりがいなどのお金以外の価値観を元に行動する人は、お金のためだけに働いている人にとっては理解出来ません。逆にやりがいを求める人にとっては、お金の多い少ないにこだわる人の心理は理解出来ません。世の中がうまくまわっているのは様々な価値観の人達が、自分の価値観にそって無理なく出来ることをしているからです。無理をしている人は、何らかのトラブルを起こしたりトラブルに巻き込まれてしまいます。

他の例えで考えてみると、仕事が何より大切と考える人もいます。何事よりも仕事を優先します。他の選択肢は仕事を優先させた上で余裕がある場合にのみ考えることになります。一方で家族が何より大切という価値観の人もいます。仕事は休んででも出来る限り家族のことを優先します。しかし仕事が一番だと考えている人からみると理解が出来ません。家族を言い訳にして仕事をサボりたいだけだとさえ思ってしまいます。逆に家族が一番の人にとっては、仕事を一番と考える人の心理は理解出来ません。家族が嫌いなのだろうか?と不思議に思います。仕事が一番だと考える人は、家族を養うために仕事をしているという自負はあるのかも知れません。しかし仕事を一番にする時点で本来なら家族を養う手段である仕事が、生きる目的になっているのかも知れません。家族を一番に考える人の心理は、仕事が嫌なだけで仕事を避ける口実に家族を利用しているのかも知れません。

価値観が同じ、あるいは似ている場合には相手の心理が理解出来るため所謂気があう仲となります。人は自然と価値観の合う人達が集うようになるのは、お互いの心理がわかるからトラブルになりにくいからです。

人には様々な価値観があり得ます。中には価値観が人とは大きく異なり驚くような考え方をする人もいます。そして価値観が異なるとその相手の心理を理解することが困難なことを知っておくべきだと私は思います。

感情で人を動かすということ

感情で人を動かす人がいます。
私の尊敬する心理学者アドラーは感情で人を動かすことは子供のように幼稚だと切り捨てています。(参考文献:アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉
私は感情で人を動かすのは動物的だと思います。

感情とは泣いたり怒ったりして人を動かすということです。(中には笑顔で人を動かすことの出来る人もいるかもしれません)
泣くことで人を動かそうとするのと、怒ることで人を動かそうとするのは本質的には同じことです。ただ相手が自分より強ければそのままでは太刀打ちできないので泣くのです。相手が自分より弱ければ逆らえないことを見越して怒るのです。もしくは力関係を見せつけ従わせるために怒るのです。

泣くことで人を動かそうとする場合

泣いて人を動かすのは赤ちゃんの特権です。子供でも泣いて親や周囲の人達を動かすのは、赤ちゃんの頃からの育ち方として泣くことで自分の欲求を満たすことを何度も成功しているのです。希に大人でも泣くことで人を動かそうとする人がいます。人のいないところで泣いているのは本当の涙かもしれませんが、人前で泣くのはある効果を狙って目的を持って泣いているのです。(本人が自覚しているか自覚していないか。つまり意識的にか無意識かは別問題です)
貴方のせいで泣いていのよ。酷い人と暗に責めるために泣くのです。周囲には、この人に泣かされていますよ、同情して下さいという目的で泣いているのです。
泣かれることで動揺してしまうと相手の思う壺です。泣くことになれているので怯んだのを感じ取ると更に大げさに泣くようになります。泣いても思い通りにならないと察すると更に大声で泣き叫びます。これは子供でも大人でも同じです。

対策は簡単です。
悲しいことはわかった。でも泣いても事態は変わりませんし、判断は変わりません。
泣くだけ無駄だから泣き止みましょうと伝えます。
それでも大声で泣くのであれば、過去の成功体験にない思い通りにならない経験なので混乱しているのですがどうして良いかわからないのです。
泣き止んだら教えてと伝えて、その場を立ち去れば良いのです。
そうすることで泣いても動揺しないと伝えることができます。

怒ることで人を動かそうとする場合

怒ることで人を動かそうとするのも泣くことで人を動かそうとするのとよく似ています。
ただ相手が自分より弱い人間だから怒ってしまうだけのことです。
怒ることで人を動かそうとするのは動物の対処法と同じです。
自分の嫌なことをされそうだと吠える。その行動と何ら変わりありません。
動物は言葉を持ち合わせていないので仕方がありませんが、人間には言葉というコミュニケーションツールが用意されているのです。
怒る原因は、本来なら知っているべきことを知らないので責めるつもりで怒るのかもしれませんが、前もって教えていない自分の責任だということに気づけば怒ることに意味がないことに気づくことができます。特に親が子供を怒るのは、教えていないのは誰の責任かを考えることで容易に理解できます。
前に言ったのに出来ていないから怒るということを言われる方もおられますが、例え言ったつもりでもその意味や目的が伝わっていないのです。言ったつもりだが言われた覚えがないという齟齬になっているのです。つまり伝え方に問題があるのです。
確かにきちんと伝えても相手の理解力の問題やモラルの問題でこちらの意図した行動できないこともあり得ます。そのような場合には相手にとって何らかのデメリットを用意し、こちらの意図した行動を促すのです。

怒ろうと思った際に、冷静に相手に何か根本的なことが抜け落ちていないかを考えるのです。
その抜け落ちていることに気づくことができれば、怒っても意味がないことがわかります。
怒らずに相手にわかるように教えてあげれば良いのです。
ただそれだけのことです。

言い訳人間の対処法 出来る言い訳を聞く

言い訳人間は出来ない言い訳を並べます。はっきり言って時間の無駄です。何故なら実際には出来ない理由ではないからです。
出来ない理由ではなく、それらしく聞こえる言い訳だからです。

言い訳人間の対処法は出来る言い訳を聞くことです。
出来ない言い訳は論破されても、他の言い訳を探してくるだけのことです。
だから時間の無駄なのです。
○○という理由でできませんというのは、確かに本当にそういう理由で出来ないのかもしれませんが、言い訳かもしれません。○○という障害がなくなって初めて言い訳か本当の理由かが判明します。とりあえずその場しのぎで○○という理由で出来ないことにするのです。そして○○が取り除かれると出来るのかといえば、出来ないことが前提だから次に△△という理由が出てきて結局できないのです。だからこそ時間の無駄なのです。

対処法として提案する出来る言い訳とは、出来るようになるための理由を聞くことを出来る言い訳を聞くと表現しています。実際には言い訳ではありません。○○が無くなればできますというように、出来るようになることを提案してもらうのです。

出来る言い訳を聞く

ここでの問題は出来るか出来ないかを聞くと、出来ませんと言い訳されるのです。
何故出来ない?と聞くから言い訳が始まります。言い訳人間への対処法は、どうやったら出来るようになるのか?と聞くのです。
出来るか出来ないかの選択肢から、出来ないという選択肢をなくして質問するのです。
これが出来る言い訳を聞くです。
要するにネックは何で、何をクリアすれば出来るようになるのかを答えてもらうのです。
言い訳人間は出来ないことややらないことを前提に、一つのことを言い訳として提案することは得意ですが、出来るようにするには取り除くべき障害を提案することは苦手です。

どうやっても出来ませんと答えるのであれば、ただ単にやる気がないのかやる知恵がないので、他の人に頼むのが得策です。

我慢できない子供の心理

我慢できない子供を見かけることがあります。
病気が原因の場合もありますが、特に病気がなくでも我慢ができない子供さんもみかけます。公園で遊んでいて待つことなくいきなり「代わって」と声をかけたり、要求を押し通すためにショッピングモールで泣き叫んだりします。

我慢できない子供の心理を考えてみます。
簡単に言えば、我慢できない子供に親が育てた結果なのです。

我慢できない子供の親は他人事のように、悪びれもせず『この子は我慢ができない』と言ったりします。
自分がそのように育てたなどと夢にも思っていないのです。

我慢できない子供の心理から考えてみます。
これまでの経験で我慢せず駄々をこねていれば、親が仕方がないとして自分の要求を受け入れてくれたのです。どれだけ怒られても駄々をこねて泣き叫んでいれば、最終的に自分の要求を受け入れてくれるのですから、自分の要求を取り下げる気は全くありません。我慢できない子供は我満しないことが得する手段だと知っているから、得するように行動しているだけのことです。

親がこれまでに我慢できないように育てたのです。
子供が駄々をこねれば、子供の言いなりになっていただけのことです。言っても聞かないから仕方がないと考えているのです。
親の立場ではそんなつもりはなくても、子供が駄々をこねて我慢しようとしないのがその証拠です。子供は駄々をこね続ければどうなるかわかっているのです。自分の思い通りになると。

我満できない子供を我慢できるようにするのは簡単です。
我満させなければ良いのです。禅問答みたいですが、全く別の選択肢を用意して提案するのです。ここで大切なことは子供がいくら駄々をこねても、子供の要求は認めないことです。そして議論の余地が全くないことを伝えるのです。
○○をしたいといっても、それは駄目だけでなく、○○はしない。でも△△ならいいよ。というように全く別の選択肢を提案するのです。時と場合によっては○○はしないだけでもいいですが、押し問答になってしまうため△△という選択肢を出す方が早く解決します。
いずれにしてもいくら駄々をこねても実現しないことを宣言してしまうのです。子供の思い通りにはしないと宣言しても、結局かわいそうに思って一度でも実現させてしまえば、子供は成功体験として記憶してしまうので決してしてはいけません。

具体的にはお菓子がほしいとして泣いている子供がいるとします。
お菓子は泣いても買いませんと宣言します。
買うか買わないかで議論をしないのです。
でも本ならいいよ。という選択肢を提案するのです。
お菓子が良いと言えば。
会話は打ち切りです。
じゃあ帰ろう。

一度でも駄々をこねることで思い通りになった子供だけが、成功体験として人前で泣き叫ぶことを繰り返しているだけです。決して初めて泣き叫んでいるわけではないはずです。これまで成功した回数が多ければ多いほど買ってもらえる確信をもって、大きな声で泣き叫んでいるのです。

人前で泣き叫んでいるお子さんを見かけたらこんなことを考えながら見守ってあげてください。

死を覚悟した際に走馬灯のように過去のことが巡る理由

死を覚悟すると過去の記憶が走馬灯のように巡ると言われています。
その理由を考えてみます。

死を覚悟するほどの経験をして生き残った方が言われる話です。
亡くなった方は証言できませんので、生き残ることができた方が言われることです。
その理由を考えてみます。

このことは人の記憶のメカニズムに起因します。
通常の頭の使い方では、過去の記憶のアクセスを制限する仕組みが備わっています。何故なら全ての記憶・情報にアクセス出来てしまうと、情報量が多すぎて処理しきれないからです。つまりお目当ての記憶が探せないことを避けるため、記憶へのアクセスが制限されているのです。いわば脳のリミッターがあるような状態です。もしかしたら全ての情報にアクセスすることができると脳がオーバーワークになるため、それを避けるためのリミッターでもあるのかもしれません。記憶へのアクセスの制限がわかる一例が、テストの際に覚えているのに思い出せないというもどかしい経験です。ちなみにテストで思い出せないのは情報が整理されていないため一度にいくつもの記憶が一度に出てこようとして干渉してしまい、テストで出題されたキーワードでは記憶が取り出せないのです。対策は似たような記憶を整理して記憶することです。

話が少しそれましたが、要点は通常の頭の使い方では全ての記憶にはアクセスできないようになっています。
死に直面した瞬間、生き残る術を必死で探すようにできているようです。
少しでも生き残る可能性を探すのです。
脳のリミッターが解除されるので、すべての記憶に一気にアクセスすることができます。死んでしまっては元も子もありませんので、脳のオーバーワークを避けるために制限している余裕はないのです。
死に直面した状況で、生き残るために役立つ情報を探すため、脳内に残っているすべての記憶に一気にアクセスするのです。これまでの経験の中からこの状況で少しでも生き残る可能性の高まる方法を探すのです。

幸いにして生き残ることができた場合、これまでにない経験の記憶へのアクセスを思い出す際に、走馬灯のように様々な記憶が沸き起こったように感じるのではないかと思います。
実は一気に情報にアクセスしてしまうのですが、脳が処理しきれないので少しずつ思い出したと錯覚してしまうのだと思います。

死を覚悟した瞬間時間が伸びた感覚になるのも、これまでにない脳の処理が原因だと思います。大量の情報を一気に処理するから、ゆっくりに感じるのだと思います。
落下実験で処理能力は変わらないという実験をみたことがありますが、下にネットが張ってある安全な実験のため、死ぬ!と思わなかったことが実験結果に影響があったのだと私は思います。

自慢する人の心理

本人は事実を伝えているだけで自慢している自覚はありませんが、聞いていると自慢している言動をする人がいます。本当に優れていればわざわざ優越をアピールする必要はありませんが、あえて自慢するのは何故でしょうか?その心理を考えてみます。

自慢する人も自慢する目的があります(本人は自慢している自覚はほとんどの人にありません)。自慢する目的は、自慢により賞賛されることです。ただ驚かれるだけでも心理としては賞賛されていると受け取ります。驚かれることを期待して自慢する心理が働きます。驚かれることが人に認められたいという承認欲求を満たしてくれるのかもしれません。

自慢は人より劣っているという劣等コンプレックスの裏返しの考え方で、劣っていることを隠すために優れていることをアピールするようです。優れていることを認めてもらいたいという優越コンプレックスの表れとして自慢するのか、何らかの劣等コンプレックスを隠す目的で自慢しているのかもしれません。

自慢しても驚かれないなど期待した反応がないと不機嫌になったりがっかりしたりすると、承認欲求の強い人なのかもしれません。あまり人に認められることがないので、自分からアピールしないと認めてもらえなかったのかもしれません。自慢しても期待した反応がなくてもがっかりしたりせず、次々他の自慢が続くようなら何らかの劣等コンプレックスを隠す目的で必死で自慢:自己アピールしているのかもしれません。

承認欲求の強い自慢タイプの人は、本来ならもっと認められていても良いはずだと勘違いしていることから自慢がはじまります。もっと認めて欲しいんだなと暖かい目で見守ってあげましょう。劣等コンプレックスを隠す目的で自慢する人は、何の劣等コンプレックスを隠したくて自慢するのか考えてみるのも面白いかもしれません。

とはいえ人は多かれ少なかれ、他人に認めてもらいたいものです。他人に認めてもらいたいと思って人に自分のことを伝えても、伝えられた側がそんな自慢してと受け取る場合もあります。程度の問題でもあるようです。いつも人に認められたいと思っていると、いつの間にか自慢しかしない人と思われてしまうかもしれません。

本当に優れていれば、自慢して人に認めてもらう必要はないはずです。そんな人になりたいですね。

怒るのも怒られるのも元は勘違い

怒るのも怒られるのも元を辿ると何らかの勘違いが原因です。
例えば先日掲載した患者さんに怒る医師は、自分は怒ることが許される程偉いと医師が勘違いしていることが原因です。または怒る程真剣に患者さんのことを考えているという勘違いです。質問されると怒り出す医師の勘違いは、質問する内容が失礼だと医師が考えていることです。

残念ながら人間には他人の頭の中で考えていることはわかりません。どのように受け取られるのか予想することは出来ても、実際の相手の反応に前もって知ることは出来ません。何らかの勘違いを元にして、怒る反応をする人がいるのです。一番の問題は怒るあるいは怒られる原因が、勘違いだということが当事者にはわかっていないことです。

怒るあるいは怒られることが何らかの勘違いが原因だとわかれば、怒るあるいは怒られること自体が笑い話となることもあります。先ほどの怒る医師の話でみてみれば、怒ることが出来る程偉いと勘違いしていることがわかれば、笑うしかありません。(実際には確認することは出来ませんが、そう考えると辻褄が合う言動が他にもみることが出来ると思います。)

怒りの元の勘違いを見極める

怒るあるいは怒られる場面に遭遇したら、どんな勘違いを元に怒りを感じたのか、あるいは相手がどのような勘違いをしているのか考えてみてください。案外馬鹿らしい勘違いが元で怒りを感じていたり、相手が怒っていたりするものです。

自分は当然知っているべき常識だと思うことを相手が知らなければ、怒りを感じてしまうことがあります。その反対もあるかもしれません。相手が知らないことを怒っても意味がないことです。知らないのですから、そのことを怒っても理解する素養がないのです。知らないことは怒らず教えてあげれば良いのです。もし何かを知らないことが重大な結末に結びつく可能性があるのであれば、その重大な結末を教えてあげるのです。重大な結末をどのように責任を取るのか聞いてみることです。

諍いや争いの元も何らかの勘違いが原因です。相手が勘違いだと認める素養があれば、勘違いを教えてあげれば良いと思います。認める素養がなければ相手をしても無駄なので距離を置くことが最善の対策だと思います。この話はまた改めて。