性善説と性悪説という考え方がありますが、私は意味がないと思います。
理由は二つです。
人はいつも同じ行動をするとは限らない
一つ目の理由は人はその時その時で一般的に良いとされる行いも、一般的に悪い行いもする存在だからです。いつもは良い人がつい出来心ということもありますし、いつもは悪いことをしているのに仏心で良い行いをすることもあることは、出来心と仏心という言葉が存在することが証明しています。
善悪自体が曖昧
二つ目の理由は善悪自体が強者と弱者・多数派と少数派ということによって左右されるからです。人を殺すことは一般的には悪とされますが、戦時にはより多く殺すと英雄として扱われます。時代や状況、取り巻く環境により善悪は簡単に変わってしまうのです。
自分は善人と思い込んでいる人の理屈
元々性善説と性悪説は、自分は善だと思い込んでいる人の考え出した理屈だと思います。人を殺すこと一つとっても、状況によって善悪の判断が分かれるのです。つまり善だと思っていたことが悪に変わることだってありえるということです。その曖昧な善悪を生まれつきの性善説と性悪説と分けても意味がないと思います。
善悪の概念自体が絶対的なものではなく、相対的なものだということを意識すると、新しい感覚を身につけることが出来るかもしれませんね。