死を覚悟すると過去の記憶が走馬灯のように巡ると言われています。
その理由を考えてみます。
死を覚悟するほどの経験をして生き残った方が言われる話です。
亡くなった方は証言できませんので、生き残ることができた方が言われることです。
その理由を考えてみます。
このことは人の記憶のメカニズムに起因します。
通常の頭の使い方では、過去の記憶のアクセスを制限する仕組みが備わっています。何故なら全ての記憶・情報にアクセス出来てしまうと、情報量が多すぎて処理しきれないからです。つまりお目当ての記憶が探せないことを避けるため、記憶へのアクセスが制限されているのです。いわば脳のリミッターがあるような状態です。もしかしたら全ての情報にアクセスすることができると脳がオーバーワークになるため、それを避けるためのリミッターでもあるのかもしれません。記憶へのアクセスの制限がわかる一例が、テストの際に覚えているのに思い出せないというもどかしい経験です。ちなみにテストで思い出せないのは情報が整理されていないため一度にいくつもの記憶が一度に出てこようとして干渉してしまい、テストで出題されたキーワードでは記憶が取り出せないのです。対策は似たような記憶を整理して記憶することです。
話が少しそれましたが、要点は通常の頭の使い方では全ての記憶にはアクセスできないようになっています。
死に直面した瞬間、生き残る術を必死で探すようにできているようです。
少しでも生き残る可能性を探すのです。
脳のリミッターが解除されるので、すべての記憶に一気にアクセスすることができます。死んでしまっては元も子もありませんので、脳のオーバーワークを避けるために制限している余裕はないのです。
死に直面した状況で、生き残るために役立つ情報を探すため、脳内に残っているすべての記憶に一気にアクセスするのです。これまでの経験の中からこの状況で少しでも生き残る可能性の高まる方法を探すのです。
幸いにして生き残ることができた場合、これまでにない経験の記憶へのアクセスを思い出す際に、走馬灯のように様々な記憶が沸き起こったように感じるのではないかと思います。
実は一気に情報にアクセスしてしまうのですが、脳が処理しきれないので少しずつ思い出したと錯覚してしまうのだと思います。
死を覚悟した瞬間時間が伸びた感覚になるのも、これまでにない脳の処理が原因だと思います。大量の情報を一気に処理するから、ゆっくりに感じるのだと思います。
落下実験で処理能力は変わらないという実験をみたことがありますが、下にネットが張ってある安全な実験のため、死ぬ!と思わなかったことが実験結果に影響があったのだと私は思います。