かつて親戚付き合いは大事にされていました。実は明確な目的があったのです。
困っても誰も助けてくれることなない時代では、一種のセーフティネットだったのです。
だから日頃は面倒でしかない親戚付き合いを、いざという時に備えて渋々行っていたのです。説教ばかりするオジさんも、いざとなれば助けてくれるから、黙って聞いていたのです。
日頃のを顔合わせのために、盆正月の集まりや、法事などが行われるのです。ちなみにお釈迦様の説いた仏教の教えには先祖を敬う考え方はありませんでしたが、お坊さんの集金システムと親戚付き合いの顔合わせのきっかけとして法事という行事が生み出され定着しました。
国がセーフティネットを整備する以前は、困ったことがあれば親戚同士でお互い助け合うしかなかったのです。赤の他人は助けてはくれないので、いざというときに備えて親戚付き合いをしていたのです。昔は基本的に親戚は近くに住んでいたため、親戚同士の集まりも大した負担にもなりませんでした。
近代化に伴い生活が多様化した結果、都会で生計を立てる人が多くなり、親戚同士が離れてくらすようになりました。移動も大変になるため親戚付き合いも疎遠になりつつあります。実はセーフティネットとしての親戚付き合いの意味合いが薄れてきたことも、疎遠になりつつある一因です。親戚付き合いしなければいけない意味がわからないという考え方です。何故ならその親戚付き合いを促す親戚も、お互い助け合うという意味を理解していないのです。更に親戚が困っていても助けることの出来る余力のある親戚がいなくなっていることも、親戚付き合いが面倒でしか感じられない理由の一つです。
今後の親戚付き合いはもしかしたら薄れゆく運命なのかもしれません。