虐待死させた親を責めても仕方ない

虐待死させた親を責めても仕方がありません。何故なら亡くなった子供が生き返る訳ではないからです。虐待死させた親を責める風潮をテレビで煽っても、再発防止には役立たないからです。

虐待死させた親を処罰しても再発防止には役立たないのが現状です。何故なら処罰されることはある程度わかっていても、虐待死させた訳だからです。処罰されることを知らなくて虐待死させたのであれば、虐待死で処罰されることを報道すれば再発防止に役立つでしょう。しかし処罰されるとわかっていても虐待死をさせてしまったのであれば、虐待死を避けるためにはもう一歩先に進んだ対策が必要です。

理由を聞いても意味がない

何故虐待をしたのか問い質しても意味がありません。何故なら人は目的に対して行動はしますが、理由によって論理的に行動するとは限らないからです。むしろ多くの人は論理的ではなく何となく行動してしまうのです。

つまり何故虐待したか理由を聞いても、自分のせいではないという言い訳を考えるに過ぎないからです。更に虐待だと自覚しないまま虐待がエスカレートして死に至ることがあるのです。当時してはいけないことだという自覚がなければ、後で責めても意味をなしません。

虐待死を防ぐために

虐待死を防ぐためには予防策が必要です。虐待死させた親を処罰するだけでは虐待そのものを減らすことはできません。

虐待死を防ぐためには虐待の啓蒙活動が必要です。自覚のないまま虐待してしまっていることが良くあります。家庭という密室で行われる子育ては、しつけと虐待の線引きが自分では出来ないのです。

私が考える一番の対策は虐待死させた親に聞くことです。亡くなった子供が生き返る訳ではありませんが、せめて次の虐待死を避けるために防止策を聞くのです。処罰も必要なのかもしれませんが、次の虐待死を避けるために協力することが罪を償うことになるのではないかと私は考えます。

虐待死を避ける手立ては幾つかあると思います。虐待死に至るどこかの時点で誰かが関わることで避けることが出来たのかも知れません。命を救う手立てを探るのです。

例えば突発的に子供に暴力をふるってしまうことがわかれば、自ら相談出来る窓口があれば良かったことがわかる。他の例えであれば、育児を投げ出したい衝動に駆られるがどうすれば良いかわからなかったということがわかれば、投げ出したいと思う場合に相談出来る窓口を設置するなどです。実際には保健師さんなどが窓口なのかも知れませんが、虐待死が今でもあるのですから、改善の余地があるのではないかと思います。保健師さんに関しては、虐待死させた親から保健師さんとの関わり方を聞き出し、どのように関われば虐待死を避けることが出来たか知恵を得るのが一番近道だと私は考えます。

虐待死を避ける一つの答えが通称「赤ちゃんポスト」といわれる「こうのとりのゆりかご」だと思います。赤ちゃんだけではなく、子供を預けることが出来る施設を設置することが虐待死を避ける一つの答えなのかも知れません。

これらの知恵をこえる虐待死を避ける知恵が出てくることを祈っています。

危険性を予見する知恵

危険性は知恵が無ければ予見することは出来ません。あらかじめあらゆる物事を想定することで危険性を予見することが出来ます。

あらゆる物事を想定出来るかどうかは日頃考えているかどうかによります。人は考えていることの延長線上しか理解出来ないのです。

先日大学生の展示物が燃え、幼稚園児が亡くなる痛ましい事故がありました。心よりご冥福をお祈りいたります。展示物は木で出来ており木を削ったオガクズが飾られていました。照明に白色電球が使われてしまったようです。白熱電球が高温になるという知識のある人からすれば、怖いなと思う状況です。更に予想外の行動をする子供達だと、白熱電球にオガクズを振りかけて遊ぶ可能性も想定しなければなりまけん。

1人でも危険だと考えて、白熱電球の使用を中止していれば結果は全く異なっていたことでしょう。結果として1人の尊い命と引き換えに、危険性を世に知らしめることになりました。

当事者は白熱電球の危険性を知らないので燃えやすい木の展示物の中に持ち込んでしまったのでしょう。そして周囲の人達は、白熱電球は高温になり危険だからオガクズのある燃えやすい木の展示物の中で使うはずがないと思い込んでいたのではないでしょうか?。その常識のズレによりお互い確認をすることなく、片や危険性を知らず、片や危険性は当たり前だからするはずがないと思い込んだ結果今回の事態に至ったようです。

自分にとっての常識はみんなの共通認識とは限りません。危険性を予見することが出来ない人もいることを知った上で、行動するようにしましょう。少なくとも自分だけでも危険性を出来る限り予見するように心がけましょう。そして危険性が予見出来ない人は、危険性の予見出来る人に助けを求めましょう。

有意差とは効くかもしれない宗教みたいなもの

薬において有意差で効果を考えるのは、核心には触れていない証拠です。つまり核心には触れてはいないものの、核心にかすっているのが有意差です。

有意差に意味があるのは、原因の検索であって薬の効果ではありません。

原因の検索において有意差があれば原因に近付いているので『意味』があります。しかし薬の効果において有意差とは、偶然よりは効くという程度です。

原因の一部に関わるので偶然ではなくて一定の効果はあるものの、確実に効く訳ではないのです。

本来の有意差の使い方は原因検索において行われるべきです。有意差が見つかれば、偶然ではない何かがあるはずです。有意差の中に答えがあるので、有意差のある中から答えを探すのです。

薬において効果に有意差があるのは、効かないときの言い訳をしているように思います。

他の分野で確実性のないことを偶然ではないと言って売り出しても相手にされることはありません。このテレビはハイビジョンが映るかもしれません。なんてあり得ません。各種産業において偶然ではない多少効くだけで物を売ることはないと私は思います。

いつの日か病気が全て解明されると、有意差という言い訳は必要無くなる日が来ることでしょう。私が行きている間に、そんな日がくることを祈っています。