「説明した」と「説明したつもり」の違い

説明したのに期待した結果にならず腹が立ったり、イラついたりすることはありませんか?
もしかしたら、「説明した」のではなく「説明したつもり」になっているのかもしれません。
その違いを考えてみます。簡単に分ければ確認して初めて双方向の「説明した」のであって、確認していなければ一方通行の「説明したつもり」です。

説明した

物事を正しく意図通りに伝えることが出来た時点で、説明したと言えます。よく誤解されているのが、一方的に話しをするだけでは説明したとは言えません。相手が情報を正しく受け取った時点でようやく説明したと言えるのです。つまり説明には相手が必要であり、相手が情報を正しく受け取ることでようやく「説明した」と言えるのです。「説明した」と断言出来るのは、相手に伝わったことを確認した後です。しかも「わかった?」という言葉では「確認した」にはなりません。「わかった?」だけでは「確認したつもり」に過ぎないのです。言葉を変えて「確認」して初めて「説明した」ことが完了するのです。例えば「何がわかった?」とハイ・イイエでは答えられない質問で確認するのです。返答が怪しければ追加で質問すると理解出来ているか確認することが出来ます。

あくまでも説明したといえるのは、相手が理解した結果です。何時間説明しようとも、どれだけ丁寧に説明しようとも相手が理解していなければ、説明したとは言えないのです。

説明したつもり

一方的に伝えるだけではなかなか伝わらないことも多々あります。何故なら人はそれぞれ持っている知識や経験が異なるため、同じ言葉であっても人によって受け取り方は様々です。危険なのは一方的な説明で相手が理解したつもりになることです。

説明したと説明したつもりの勘違い

良くあるのが怒る側は説明した、怒られる側は聞いていないというものです。説明した側は説明したつもりになっているのです。怒られる側は説明を聞いていない(少なくとも理解していない)ので、怒られる意味がわからないのです。説明したつもりになっているだけで、相手が理解したかどうか確認していないのです。

他にも良くあるのが説明したのに理解していないとして、理解していないことを怒るのです。誰に問題があるのでしょう?説明する側です。説明される側は全く聞いたことがないのだからどうしようもありません。説明する側が知恵を働かせて理解させるしかないのです。

説明したのに理解していないと怒る前に、理解できたかどうか確認してみるべきです。理解できたかどうか確認を怠ったのであれば、怒る側の怠慢でしかありません。説明したつもりになって、説明したと怒られても言いがかりにしか聞こえません。

一番困るのは

一番困るのは「説明した」と「説明したつもり」の区別が出来ない人です。「説明したつもり」でしかないのに、「説明した」と思い込んでいるので、理解していない相手が悪いと責め立てるのです。

説明する側に理解させる責任があります。確かに理解する側にも努力は必要ですが、説明する側が知恵を働かせて理解出来るように説明するべきです。何故なら説明する側は情報を持っており、説明される側は情報が不足しているのです。だから説明しお互いの知識が同じになるように情報のやり取りをするのです。説明する側が説明される側よりも多くの情報を持つため、説明する側が情報を噛み砕いて相手が理解出来るように処理して伝えるしかありません。説明される側は情報そのものが足らないので、そもそも何を聞いたら良いのか見当がつかないのです。このことを知らない人が一方的に話したことを説明したつもりになって、理解していないことを責め立てるのです。

理解させるのは説明する側の責任

説明するなら相手が理解できるように説明しましょう。決して説明したつもりになってはいけません。そして理解しているか確認しましょう。

相手が知らないだけで怒ってはいけません。ましてや自分自身が説明したのに理解していないことを責め立ててはいけません。何故なら理解出来るように説明できなかった自分の落ち度だからです。そんな視点で物事を考えてみて下さい。世の中の見え方・景色が変わると思いますよ。

話の面白い人と面白くない人の違い

世の中には話をしていて、話の面白い人と面白くない人がいます。今回はその違いを考えてみます。

話の面白い人

話が面白いと感じるのは興味の湧く話題をわかりやすく話してくれるからです。興味の湧く話題で知らないことを理解出来るように話してくれるのです。

話し方として相手の知らないことを一言で伝え、その理由や詳細を追加で伝えると話が面白く感じます。話に引き込まれる印象を与えることが出来ます。

特に話が上手で面白く話すことの出来る人は、相手の知らないだろうことをまず一言で伝えて反応を見ます。驚き具合や興味の有無など相手の反応によって一瞬で話す内容を変えることが出来るのです。相手の反応が良ければ話を広げ、相手の反応が乏しければ話の方向を切り替えることの出来る人もいます。

話の面白い人は何度も面白い話を提供してくれます。これは偶然ではなく、相手がどのような情報を求めているか絶えず考えているからです。この新しい情報だとこの人が喜ぶ。あの情報ならあの人が楽しめるのでは無いか?と絶えず情報の扱い方を考えているのです。そしてこの人と話す場合には、この内容だと興味を持ってもらえると思える内容を事前に準備してくれているのです。話の面白い人は偶然面白い話を思い付く訳では無く、話す内容を相手に合わせて絶えず探している場合が多いのです。

言い換えると話の面白い人は気配りの出来る人でもあります。気配りが出来なければ相手に合わせて面白い話を探せないからです。そんな視点で話の面白い人を観察してみてください。

話の面白くない人

話の面白い人とは

反対に興味の湧かない話題であったり、興味はあっても理解出来ない話し方だったり、既に知っている内容だと面白く感じることは出来ません。

また話の目的が話している人の自慢であることがわかっている場合も白けてしまって、面白く感じるのは難しいのかもしれません。

話の目的や意図が明確では無い場合、話の途中で内容がブレてしまうのでダラダラと時間だけが過ぎてしまいます。相手の知らないことを把握せずに話していると、相手の知っている話と知らない話がバラバラに出てくるのでわかりにくく、面白くない話になってしまいがちです。

話の面白く無い人は、事前に準備することなく話をしてしまうため話の途中で支離滅裂になることも多々あります。話の面白く無い人は、気配りする余裕の無い人なのかもしれません。そんな視点で話を聞いてみると人の振り見て我が振り直せで良い反面教師になってくれるのかもしれません。

考えてから話す人と考えずに話す人の違い

物事をよく考えてから話す人と大して考えずに話す人がいます。

考えてから話す人

物事をよく考えてから話す人は、話す内容を吟味し、最適な言葉を選んで話すようにします。口から出る言葉は多くの内容から選び出された言葉なのです。そのため誤解されることが少なく、多くの場合真意もキチンと伝わります。あらかじめよく考えてあるので、聞き返されても言葉を言い換えることで相手にわかりやすく伝わります。よく考えてから話すので失言することはほとんどありません。

いわば大人の話し方です。

考えずに話す人

一方大して考えずに話す人は思いついたことを吟味することなく口にします。相手に不快感を与えることもありますし、誤解を招くような言い方をすることがよくあります。何より深く考えていないので話した内容をよく覚えていないこともあるようです。聞き返されても、相手の聞きたいことを上手に説明出来ないことも多いようです。大して考えずに話すので、選ぶ程内容を理解しておらず言い換えることも苦手です。失言する人の多くが大して考えずに話す人のようです。

いわば子供の話し方です。相手の受け取り方をあらかじめ想像するという視点がないまま大人になってしまっただけなのかもしれません。

周りの人が、考えて話す人か考えずに話す人か観察してみるのも面白いかもしれません。

遊びに行くのと遊ばされに行くとの違い

以前遊ぶと遊ばされるの違いについて書きました。遊ぶとは自分で考えて遊ぶのですが、遊ばされるとは人の考えた遊び方で遊んでもらうのです。

遊ばされる仕組みは、あらかじめ楽しみが用意されています。楽しくなるように考えてありますが、そのままでは用意された楽しみに飽きてしまうと面白くなくなります。その対策として新しい楽しみを用意することで、飽きない仕組みにより何度でも遊ばされたくなります。こうして遊ばされる施設のリピーターになってしまうのです。

遊ばされる施設では、用意された楽しみしかないので、施設側の用意した楽しみ以上の刺激はありません。得られるものは楽しかったという満足感だけです。自分で遊び方を考える必要がないので、簡単に楽しむことが出来ます。いわば快楽をお金を使って得るだけです。楽しむことが出来ますが、遊ぶ本来の目的を失っていると思います。たまには遊ばされるのも良いとは思いますが、遊ばされてばかりいると考える能力が養われないので、もったいないと思います。

更に遊ばされる施設の目的はお金です。その場で楽しみたいという「衝動買いの心理」を巧みに利用して、楽しみと引き換えにお金を引き出す仕組みが考えられています。

遊ぶとは自分で楽しむツボを探すことです。遊ぶことの出来る施設は、人それぞれの楽しみ方があります。そして人それぞれの気づきがあるのです。少し視点を変えるだけで全く違う遊びになることもあります。違う視点を見つけるのも自分で楽しいことを探す遊びの醍醐味です。

わざわざお金をかけて遊ばされに行くのと、近場でも自分で考えて遊ぶ施設で遊ぶのでは、遊ぶ施設で遊ぶ方がお金の節約・経験と二重の意味でお得だと思います。

判断を促す説明と判断を混乱させる説明の違い

判断を促す説明の仕方と混乱させてしまう説明の仕方があります。説明の上手な人は判断を促す説明をすることができます。説明の下手な人は、混乱させる話し方をしてしまいます。

医師不足の原因の一つは一部の医師の説明の仕方が下手なことです。多くの場合患者さんに治療法を選択してもらう必要がありますが、説明の仕方により患者さんが判断に要する時間が異なります。このことは販売の場でも同じです。受ける説明の仕方により、判断に要する時間が異なります。

判断を促す説明をする人

判断を促す説明をする人は、違いをわかりやすく区別します。判断するための材料をあらかじめ説明し、判断の根拠となる違いを明確にします。例えば安全性を求めるのか利便性を求めるのか等です。効果は今一でも副作用がない薬が良いのか、効果は抜群でも副作用があるかもしれない薬が良いのかを比較出来るように並べるのです。比べ方を変えると副作用がない薬にするか、副作用は若干起こりえるが、1日1回の薬にするか?などです。商品を選ぶ場合には、機能の充実なのか価格が安いことなのかなど何を求めるのか、具体的に判断する根拠になりえる部分だけを取り出して比べてもらうのです。説明の上手な人は判断に役立つ違いだけを取り出して例示します。判断に必要な情報を整理して違いを明確に伝えることが出来るのです。

判断を促すために、頭の中を整理出来る説明をするのです。

混乱させる話し方

混乱させる話し方をする人は、物事を整理せずとにかく次々と説明していきます。説明に間違いがある訳ではありませんが、情報が羅列されるのでどのように選べば良いかわからず混乱してしまいます。しかもその情報によくわからない専門用語が使われていると訳がわかりません。益々混乱してしまうのです。混乱させる話し方をしてしまう人は、自分がわかっているから相手にも説明すれば簡単にわかると誤解しているのです。人は情報を整理しなければ判断がつかないことを知らないのです。そして判断出来るだけの必要な情報を与えなければ、判断出来る訳がないのですがそのことも知らないのです。判断に必要な情報が不足しているのに判断を迫られ、余計混乱してしまうのです。

そもそも説明する人の頭の中が整理されていないので、説明を聞いても混乱してしまうのです。

混乱させる話し方をする人の対策

わざと混乱させるつもりはありませんが、人がどのような情報を元に判断するのか、物事がよく理解出来ていないのです。

対策は「その違いは一言で言うと何ですか?」と質問することです。一言での違いを聞いた上で、判断するのが一番です。まだ判断するための情報が不足していれば、更に質問することがお勧めです。一言で違いを説明出来ないのであれば、そもそも違いを説明する仕事(営業や医師など)は向いていないと私は思います。

混乱させる話し方をする人は、頭の中で整理が出来ていないので、質問することで頭の中を整理して情報を引き出すのです。整理されていない情報に振り回される必要はありません。

遊ぶと遊ばされるの違い

遊ぶと遊ばされるには違いがあります。
人は遊んでいるつもりで遊ばされれています。

遊ぶ

遊ぶとは自分の意思で行動を考えて楽しむことです。遊び本来の目的である頭の使い方、考え方を学び、他人と意思の疎通をはかり関係を築くことが出来ます。工夫次第で無限の遊び方を作り出せますが、遊びを自分で考える必要があります。慣れると簡単なのですが、遊びを自分で考えたことが無いと困ります。実際には0歳の赤ちゃんでも遊びを考えるので、正確な表現ではありません。遊びを考えることは誰でも小さい頃にらやっていたのですが、遊ばされていると遊びを考えることが出来なくなるようです。

人間には物事に飽きる仕組みが備わっているので、自分で考えて遊んでいると飽きてしまいます。飽きてくると自分で楽しめるように、遊び方を工夫して飽きることを避けることが出来ます。工夫しつくすと全く別の遊びを考えるようになります。

遊ぶことで様々なことを学ぶことが出来ます。何を使って遊ぶのか、ルールを考え、何に喜びを見いだすことが出来るか無から考えるのです。正に「0から思考」のトレーニングになるのです。しかも楽しめるように考えるので、遊びを考えるところから楽しむことが出来、大きな満足感が得られます。

遊ばされる

遊ばされるとは人に遊び方を決めてもらい、その遊び方に従って遊ぶことです。他人に遊び方を決めてもらうことを遊ばされると表現しています。他人に遊び方を決めてもらうので自分で考える必要がないので楽です。そしてお金を出してでも遊んでもらえるように、楽しんでもらえる仕組みを作り上げています。決められた遊び方しか許されないので自分で工夫することが出来ず、遊び方に変化がありません。そのため飽きないように(お金を出し続けてもあえるように)前もって飽きない仕組みを考えてあるのです。

遊ばされる具体例は、ゲームであったり、テーマパークであったりします。確かに楽しい仕組みが散りばめられているので、楽しませてもらうことが出来ます。これらの楽しませる目的がお金なので、遊ぶことで得られるものはありません。楽しかったという思い出だけです。お金を払うことで楽しい時間を買う感覚です。もしくは暇な時間をお金を払うことで楽しく埋めてもらう感覚かもしれません。

確かに遊ばされるのも楽しくはありますが、一度立ち止まってその意味を考えてみると良いかもしれません。

遊ぶと遊ばされるの違い

遊ぶとは自分で考えて行動することで、遊ばされるとは人が考えて行動させてもらうことです。つまり考えている人が違います。どちらが楽しいかは人それぞれです。

丁度「制限」と「回避」という言葉の違いに似ています。人に決めてもらう「制限」と自分で決める「回避」です。糖質は制限されらものではなく、自分の意思で回避する糖質回避という考え方が適していると思います。これもどちらを選ぶのか人それぞれです。

私は自分で考えて行動する方が楽しく感じますが、いかがでしょうか?

反省する人と反省しない人の違い

反省とは過去を振り返り未来にいかすことです。

反省する人

反省する人は過去にうまくいかなかったことを受け止め、次にうまくいくように自分に何が出来る(出来た)か考えます。

反省する人は改善策を考えるため、次に同じことがあればうまくいく可能性が高まります。こうして反省する人は成功を勝ち取ります。

反省する人は自分の非を認める強さを持ち、成功する可能性が高く、信頼に値します。

反省しない人

反省しない人は自分に非があるということに気づくことが出来ません。反省しないのではなく、自分は悪くない(と思い込んでいる)から反省出来ないのです。自分に落ち度があってもそのことを受け入れることが出来ないので、誰か他の人のせいにします。反省しない人は言い訳人間であることが大半です。反省しない人の中には過ぎてしまった過去に興味がないため、反省出来ない人もいますが、稀です。

反省しない人は自分の非を認めることが出来ませんのね、改善が期待出来ません。反省しない人は言い訳人間同様距離を置くのが一番です。どうしても距離が置けないのであれば、改善を期待しないのことです。そういう人だと受け入れるしかないと私は思います。

咄嗟に判断出来る人と出来ない人の違い

咄嗟に判断出来る人と判断出来ない人がいます。その違いを考えてみました。

咄嗟に判断出来る人

咄嗟に判断出来る人はあらかじめその状況を考えています。時間のあるうちにあらかじめ考えてあるので咄嗟に判断することが出来るのです。咄嗟に判断出来る人の中でも様々な状況に臨機応変に対応出来る人は、あらかじめ考えてある上に、様々な状況に応じてどの様に対応するべきかまで細かく想定しています。全く考えていないことに遭遇しても、あらかじめ考えてあることの中から一番近いものから一瞬で類推します。あらかじめ考えてあるので様々なパラメータ、考慮、確認すべきことについて予想しているのです。

どれだけのことを想定してあらかじめ考えているかによって、咄嗟に判断出来る範囲に違いが出てきます。ありとあらゆることを想定していれば、いかなることも判断出来るかもしれません。途中で状況が変わったとしても、臨機応変に対応することが出来ます。

咄嗟に判断出来ない人

咄嗟に判断出来ない人はあらかじめ考えていないようです。少なくともあらかじめ考えていないことに遭遇したため、咄嗟の判断が求められるような状況でもどうして良いかわからなくなるのです。

詐欺師がつけ込んでくるのは、意図的にこのような判断出来ない状況です。知らないことや考えたこともないことを矢継ぎ早に言われると混乱してしまうのです。あらかじめ考えてあることであれば、矛盾点も冷静に見極めることが出来るのですが、考えていないとどうすれば良いかわからなくなります。そして決断を迫るのです。

咄嗟に判断するために

何事においても考えることの出来る限り、様々な角度から考えておくことをお勧めします。

例えば災害対策などは考えておくと咄嗟の判断に役立ちます。いずれ起こるといわれている東海東南海地震とそれに伴う津波や、富士山の噴火は考えておいてもよい起こり得る自然災害だと思います。家族とどのように連絡を取り合うのか、食料の確保はどうするのかなどあらかじめ考えておいて損は無いと思います。ある程度行政が被害予想もしてくれているので、思考実験には最適です。被害予想に照らし合わせながら、咄嗟の際にどのように行動するか想定しておくのです。

 

嘘の是非 嘘の善し悪し

当サイトに辿り着かれた履歴を見ていると「嘘の是非」の検索で辿り着かれた方がおられました。

嘘の是非とは嘘の善し悪しのことだと思います、「嘘つきは泥棒のはじまり」という諺もあるくらいですから、一般的に嘘はよくないことというのは常識だと思います。私は嘘で得をすることがあれば全て詐欺罪を適応しても良いのではないかとさえ考えています。しかし「嘘も方便」という諺もあります。方便とは元々仏教用語で仏が悟りへと導くための便宜的方法のようです。転じて相手を納得させるための手法というような意味合いがあるようです。「嘘」が時と場合により否定されたり肯定されたりしています。その違いを区別してみます。

日本人は嘘が好き?

嘘とは真実と異なること全てのことです。日本人特有の「本音と建て前」において本音の真実と異なる建て前は嘘です。実際には嘘が好きな訳ではありません。みんなが出来るだけ仲良くするために編み出した苦肉の策だったのです。日本は隣人同士の入れ替わりの少なかった狭い国土の中で、解決の難しい問題に折り合いをつけるために「本音と建て前」という考え方を使い始めたようです。だから真実ではないことがわかっていながら、波風を立てずやり過ごしてきたのです。

これまでは仕方がない一面もありましたが、21世紀になったのですからそろそろ「本音と建て前」という考え方は終わりにしても良い頃合いかもしれません。

嘘が許される場合

嘘は真実とは異なることが問題です。その嘘により誰かが困ることは良くありません。では嘘が許される場合はどのような場合でしょうか?それは相手のためになる嘘です。相手の利益であったり相手の悩みを解決したり解消するための嘘は、方便だと思います。

かつては癌だと告知しなかったのは方便だったのでは無いかと思います。真実を知りたい人にとっては嘘でしかなかったかもしれませんが。

嘘が許されない場合

相手のためではなく自分の利益・自分のためにつく嘘はどんな場合でも許されることはありません。お猿さん赤ちゃんでも嘘をつくのですから人が嘘をつくのも仕方がないのかもしれませんが、嘘が発覚するとこれまでに積み上げた信用をなくします。

本音と建て前も自分達のためにつく嘘と、解決策のない仕方がないことを説明するための方便とがあるようです。少なくとも自分達のための建て前の無い世の中に早くなって欲しいものですね。

嫉妬する人と嫉妬しない人の違い

嫉妬する人と嫉妬しない人がいます。
一般的に嫉妬は醜い感情とされるため、表立ってする人は少ないかもしれません。
隠してはいても嫉妬する人はいるものです。(参考:嫉妬する人の心理

嫉妬する人と嫉妬しない人の違いはわきまえているかどうかです。わきまえるとは自分自身のことを知り、出過ぎず身の程を知っているということです。
自分のことをわきまえている人は自分のことを客観的に考えることができるため、人との違いを受け入れることができるので嫉妬したりはしません。
自分のことをわきまえていない人は自分のことが理解できないため、相手と同じはずだと考えてしまいます。同じはずなのに扱われ方が違うことを受け入れることが出来ないため、嫉妬という感情が芽生えるのです。

自分と他人との違いを理解していれば嫉妬という感情は生じません。
例えば努力が異なれば結果が異なるのは当たり前のことだからです。
極端な話、鳥が空を飛べることを嫉妬したり、イルカが海を泳げることを嫉妬したりはしません(もし本気で嫉妬する人がいるとすれば、それは心の病かもしれません)。何故なら自分と同じではないことが容易に理解できるため、嫉妬の対象にはなりえないのです。

では人に対して嫉妬することがあるのは何故でしょうか?
それは嫉妬する人は勘違いしているのです。
嫉妬の対象も自分と同じ人間だから同じように扱われるべきだと錯覚しているのです。
例えばこれまでの努力や条件が異なっていても、扱いが違うことが受け入れられないのです。同じ扱いをしてもらえないことに不満があるので嫉妬するのです。扱いが違う理由があっても不当な扱いを受けているように歪んだ解釈をすることで、自分を正当化し同じ扱いをされるべきだと言い訳するのです。そういう意味では言い訳人間が嫉妬するのかもしれません。

嫉妬を口にする人は歪んだ心理状態の可能性があるため、少し距離を置く方が良いのかもしれません。
もし自分の大切な人が嫉妬する人であれば、客観的にわかる明らかな違いを教えてあげてください。嫉妬の対象を自分も同じ扱いを受ける権利があると錯覚していることと、嫉妬の対象は自分とは異なる存在であって嫉妬の対象ではないことを理解させてあげるとよいのかもしれません。