二人で議論しても永遠に決着がつかない

実は二人で議論しても永遠に決着はつきません。水掛け論に陥るという言葉もありますが言った言わないで揉めるだけでなく、二人で議論すること自体にあまり意味がないのです。
何故ならお互いの主張がそれぞれあるから議論になるのです。お互い認め合う余地があれば、議論ではなく意見の擦り合わせ・確認・認め合いになるので、議論にはなりません。

人々はそれぞれが信じていること、正しいと思うこと、経験など全てが異なります。誰一人として全く同じ考えを持つ人はいません。善悪の価値観も相対的なものです。

まずお互いの立場や信じていることからして違うので、価値観や尺度が異なるのです。
尺度だけ見ても片方は1・2・3で話をしていても、片方はA・B・Cの話をしていて議論がかみ合ないこともよくあります。同じ尺度に揃えないとお互いの意志の疎通すらはかれないのです。

第三者に当たる議論の根拠になるものが、宗教や倫理観であり規則であり法律です。

共通認識のルールがなければ議論は無意味

誰が正しいかなんてわかりません。
無人島で二人で口喧嘩したとしたら、永久に決着はつかないでしょう。
殴り合いをすれば、どちらか腕力の強いほうが勝つでしょう。
暴力で解決するというのは一つのルールではありますが、人間がサルと変わらない価値観、それで良いのでしょうか?

多数決の決定に従う理由

話し合いで解決するというルールの中で決めるのであれば、どちらかが我慢しない限り永遠に解決しません。3人目がいて初めてどちらが正しいかもしれないということがわかるのです(正確にはまだわからない・・・。というよりも正しいかどうかなんて誰が判断するか?ということです)
正解がわからないから少しでも大勢が納得できる多数決という考え方が生まれました。
何が正しいのかわからないから、わからない中で知恵を集合すれば最も正解に近いはずだという考え方です。
ちなみに科学の分野では多数決は無意味です。何故なら正しいことは1人しか言っていなくても、正しいからです。
正しいことがわからないので仕方なく、多数決をするだけのことです。

宗教の生まれた理由

大勢が集まって生活するようになって、いちいち多数決をすると不便です。
生き方の基準がないと、様々なことの判断がつかないから皆が生活しやすいように一種のルールである宗教が生まれたのだと思います。
同じ価値観で、同じ生活様式で生活し、同じタブーをもって生活する。
価値観が同じなので非常に生活しやすいのです。いわば生活の知恵として宗教が生まれたのだと私は考えています。
『神』や『アラー』や『仏陀』、『八百万の神(万物全てに神が宿るという考え)』、『ブラフマー』(ヒンズー教)に従うことをよしとするのだと思います。

宗教の話の詳しくはこちらをご覧ください。

国としてルールを作る

話し合いや明文化しない一般常識で解決しないことは国が法律として定めます。
いわば外枠を作って、その枠から外れると犯罪として取り締まるという考え方です。
みんなが従うルールを作るのが目的です。

当事者同士での話し合いが成り立たないのは上記の通りですが、その話し合いの指針を作り出すいわば3人目の役割をするのが法律です。
どんな議論も共通の指針となるものが存在しなければ、無意味です。
他国の人と議論がかみ合わないのは、そもそも法律・文化・風習が異なるため、共通の指針がないことが原因です。
無人島でルールなしでいきなり話し合うのとよく似ています。

議論する前に共通の指針をお互いで確認することをしないと、議論は全くかみ合いません。

同じ日本語を話をしていても、共通認識のないまま議論をしていることはよくあることです。
議論する前に前提条件をお互いで確認することが、争いを早くおさめるコツかもしれませんね。

投稿者:

呉からの風

呉の医師です。 糖質回避教の推奨者です。 様々な分野で気づいたことを掲載していきます。 怒る必要のない子育てを掲載予定です。