人と話をしていて、議論が噛み合わないことは良くあります。
人によっては都合の悪いことを避けて、ワザとズラして話をする人もいるのが厄介なところです。最悪なのは本人が都合の悪いことを避けて話をしている自覚がない人です。論点がズラていることを指摘しても、論点のズレが認識できないので議論が噛み合いません。アナログ思考の人とデジタル思考の人との会話で、相手がアナログ思考タイプの人に良くこのような事態に陥ります。アナログ思考タイプの人は本人の頭の中で2つの事柄の境界がはっきりせず不明瞭なため、人に違いを指摘されても理解出来ないようです。
別の観点から議論が噛み合わない場合を考えてみます。
根拠の無いことを信じて議論しようとする人がいます。
真実を元に話をしている人にとっては言い掛かり以外の何者でもありませんが、世の中には自分の信じていることは全て正しいと疑わない人がいるようです。
お互い時間の無駄になるので、議論は終わりにしましょう。そもそも議論が成り立っていません。片方は真実で、片方は勝手に思い込んでいることなのですから。
例えば2型糖尿病において、炭水化物・糖質が原因であるという事実についてです。
論理的にも患者さんの協力により明らかになった事実(糖質回避でHbA1c12.5→6.1)としても糖質が原因であることは明らかです。
受け入れるか受け入れないか、信じるか信じないかは各個人の問題です。そして各個人がどのように思うかは関係ありません。思いを裏付けるものを提示して初めて議論が成立するのです。裏付けのない思い・感想を議論と勘違いするのは時間の無駄です。
知らないことを知りたいのであれば、自分で情報を集めるべきです。思い込みを正しい知識にするのは自分自身の責任です。それを人の責任のように錯覚するから噛み合わない擬似議論でお互い疲れてしまうのです。
信じられないからと言って新しい論理・理屈を攻撃するのは、かつてガリレオが裁判にかけられたのと変わりありません。野蛮な行いです。
真実を受け入れられない人を説得するような無駄なことを私はしません。だから糖質回避教、信じるものは救われる論理的宗教の考え方が適切だと思います。
議論が噛み合わない人とは議論しない
私の出した結論です。
議論が噛み合わない人とは持っている情報が違い過ぎるのです。相手にはわからないので、議論しなくて済む方法を考えること。私の行き着いた先は論理的宗教・糖質回避教でした。これなら論理を理解できた人とだけ会話すれば良いので議論にならずにすみますから。
もしかしたら自分の方が情報が少なすぎるかもしれないという客観的観点は必要だとは思います。
相手が自分で情報を集めて理解できるまで、待ちましょう。
天動説を信じて疑わない人に地動説を説明しても平行線です。真実は一つです。