子供と接する際にどうしても大人の価値観やフィルターで判断してしまいがちです。
例えば、ブランコと簡単な滑り台しかない公園に行っても子供は楽しくないだろうという大人の価値観・フィルターで判断してしまうことはよくあることです。
大人にとってはもっと楽しい遊び道具のあるところに連れていかないと子供にとって楽しくないと考えてしまうのです。ブランコと簡単な滑り台では子供が楽しめないと勝手に考えてしまうのです。
今回はブランコと簡単な滑り台をたとえに出しましたが、大人にとっては使い方や体の感覚は当たり前で刺激がないと考えてしまいます。しかし子供にとってはブランコ一つとっても体が揺れること、重力の働く向きが変わること、スピードが出て止まってまた動き出すことなどが新鮮です。簡単な滑り台一つとっても、風を感じるほどのスピードを体験することが少ないので楽しいのです。景色が流れるように動くのも新鮮な体験なのだと思います。
遊び一つとっても大人の価値観、フィルターでは意味のないものと判断しても、子供は大喜びで遊ぶということはよくあることです。ちなみに子供の遊ぶ意味は身体の動かし方、感じ方を学ぶことです。身体の動かし方・感じ方をマスターすると刺激に慣れてしまって、飽きてしまうのです。人が物事に飽きてしまうメカニズムと飽きる理由はこちら。
飽きるまでは刺激が楽しいようです。逆に考えると飽きなければ何らかの学びがあるようです。
子供の成長のためには、どうせ大したことはないだろうという大人の価値観・フィルターで可能性を排除しないことだと思います。大人にとっては意味がなさそうでも子供に体験させてあげるのです。そして子供が楽しめれば続けて、子供が楽しくなさそうなら本当に大したことはないのだと思います。すぐに飽きてしまうのも、恐らくそれまでの体験に似たことがあったのだろうと思います。
大人の価値観は長年の経験の蓄積の結果です。その経験がない子供たちにとっては、シーソー一つとっても驚くべき経験だと思います。大人にとっては仕組み・理屈を知っているので、不思議でもなんでもありませんが、子供にとっては体が持ち上がるのは不思議な体験なのだと思います。ちょうど科学が発達していない大昔に、大人でも不思議がっていたのと同じような感覚を子供の間にいろいろ経験しているのです。
子供にとっては何も遊び道具のない公園でさえも、落ち葉を見つけて遊び始めたり、石ころを見つけて遊び始めたり。大人にとっては何が楽しいのか全く理解できませんが、子供にとってはかけがえのない体験となるきっかけになるのかもしれないのです。
ついつい大人の価値観で、子供が楽しいだろうと思って連れていくところは実は子供にとっては大した何もない公園で一つ一つ発見していくことに比べたら、はるかに刺激が少ないかもしれないのです。
テーマパークに連れていくと子供たちは確かに喜びます。
しかし用意された娯楽を楽しむことに慣れて、遊ばされてしまうことしかできなくなってしまいます。用意された娯楽といえば、ゲームで遊ぶことを覚えてしまうと、ほかのことが目に入らなくなってしまいます(そのようにゲームは設計されているので当然といえば当然です)。
公園で落ち葉や石ころに自分だけの意味を見出して、自分で考えて遊ぶ癖をつけることが遊び本来の目的にあっていると私は思います。
落ち葉遊びや石ころ遊びを親が意味がないとして否定してしまうと、子供たちの考える目を摘み取ってしまいます。親にとっては意味がないというよりは、親には意味が理解できないだけなのです。理解できないだけでその大きな意味を摘み取ってしまうのは非常にもったいないと思います。
遊び一つとっても大人の価値観・フィルターで判断しないことが大切ですが、勉強や進路、就職などに関しても大人の価値観・フィルターで判断しないことです。何故ならそれらは本来子供の問題だからです(問題論)。人に迷惑をかけることや犯罪であれば当然止める必要はありますが、自分で責任が取れる範囲内で子供自身が自分で行動すると争いが減ると思います。大人の価値観・フィルターを強要すると争いに発展してしまい、お互い嫌な思いをすることになると思います。
子供自身が考えることが何より大切だと私は思います。