そもそも宗教とは?

そもそも宗教とは人々が仲良く快適に暮らすために始まったものです。
そしてどの宗教も信じるものが救われるように考えられて作られています。

どの宗教を信じることも、信じないことも自由のはずです。
何故なら人間以外の動物には宗教はないからです。
人間だけが何らかの宗教を信じなければならないと考えるのは、既に信じている人の勘違いです。

もし動物に宗教があるとすれば、我が身を守り子孫を残すという宗教です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
わざわざ自分の考え方を押し付ける動物などいません。食べるか食べられるか無関係かのいずれかです(ごくまれに共生関係という協力関係になります)。

動物に宗教はなくても生きていくことができるわけですし、宗教を信じていない人もいるわけですから必ずしも宗教はなくてもよさそうです。ただ信じているだけで人に強要さえしなければ、宗教はあってもよさそうです。
では何故宗教が存在するかというと、先述のように仲良く快適に暮らすために始まったようです。宗教が生まれるまではお猿さんの世界を想像してもらうとわかりますが、盗みや騙しや殺しなどは日常茶飯事だったはずです。動物は食べるために殺すことはあっても、それ以上にむやみに殺すことはありません。何故なら目的が自らが生きるためだからです。
人間は農耕がはじまってから、富という概念が生まれてしまいました。その富を得るために盗んだり奪ったり騙したりするようになりました。富という概念のせいで欲が生まれたのです。お猿さんに富という概念が備われば激しい奪い合いが行われたであろうことは容易に想像がつきます。
そもそもお猿さんから人間になりたての頃には善悪という概念がなかったはずです。その殺伐とした騙しあい、奪い合い、殺しあうような世界に救いを生み出したのが宗教です。宗教によって善悪の価値観を作り出し、同じ価値観の人たちだけで付き合うようになりました。同じ宗教を信じている人とだけ付き合いや商売をするようになったのです。
力で争いを押さえ付けるのが国であれば、考え方で人々の争いを避けるように導いたのが宗教です。考え方の違う人は相手にしないことで争いを避ける知恵としたのが宗教です。

元々が秩序を生み出すために生まれたのが宗教なのですから、みんなが仲良くすることが目的です。歴史上も宗教に伴い様々な争いが生じていますが、本来なら仲良くすることが目的のはずの宗教が原因で何故争いが起こるかと言えば、人に強要しようとするからです。宗教の本来の目的から外れ、権力という欲を求めて人に宗教を強要するようになるのです。
本来は信じた人同士だけでのやりとりですから争いなど生じるわけがないのですが、少しでも信者を増やそうとする輩が宗教を広めようとして争いを起こすのです。そこにあるのは信者を増やそうとする輩の私欲でしかありません。ただ信者が増えることを喜びたいのか、信者が増えたことで手に入る権力がほしいのかはわかりませんが、私欲によって信者を増やしているのは確かだと思います。表向きは素晴らしい宗教の教えだから、まだ知らない人に教えてあげているだけだというかもしれませんが、そもそもどの宗教も人に教えを強要するという教えはないはずです。何故なら争いをなくす目的で宗教が作られたわけですから、争いの種になる宗教の強要を認めるわけがないのです。

残念ながら様々な宗教の開祖は、宗教家の私欲により争いが起こることは想定できなかったようです。偶像崇拝や他の神を認めないある宗教は、私欲による争いを想定していた可能性があります。だから神以外のものを信じてはいけないと教えているのです。しかしそこに私欲をもった指導者が誤った道に導いて争いを引き起こしています。

宗教を広める過程で、死んだあとにどうなるかがわからない不安を利用するために、宗教ごとに死後の世界を考え出し、信者を獲得していきました。
いわば死後の世界の待遇と引き換えに、現世で何らかの行動をとるように導かれるのです。
一般的には宗教的に悪いことをしないように諭すのが通常ですが、一部の宗教では死後の世界の待遇と引き換えに指導者の欲を満たすことに利用されているのが残念です。

宗教は本来信じたものが仲良くするためにある。
考え方を人に強要しなければ争いは怒らない。

この考え方が広まれば、宗教を信じている人も信じていない人も争いが減るはずです。

投稿者:

呉からの風

呉の医師です。 糖質回避教の推奨者です。 様々な分野で気づいたことを掲載していきます。 怒る必要のない子育てを掲載予定です。