歯科医師の将来性

医者が余るのは間違いありません。何故なら人工知能により全ての診断を生身の医者がする必要がなくなることと、糖質回避により糖質による病気そのものがなくなるからです。詳しくは近い将来医者が余る二つの理由近い将来医者が余る三つ目の理由をご覧ください。

虫歯予防のおかげで虫歯が激減するため歯科医師は余ると思います。というよりも既に歯科医師は過剰な状態です。開業できる甲斐性のある歯科医師は開業していますが、開業する甲斐性のない歯科医師は勤務歯科医として雇われるしかありません。そのため勤務歯科医は過剰なため、需要と供給のバランスで待遇が悪くなっているのが現状です。

人口も減少しますし、予防医学の発達により更に虫歯は減る見通しです。その意味では歯科医師の将来性は暗く思えますが、実は医者よりは明るいと思います。何故なら予防医学が発達したとしても、虫歯そのものが無くなることは無さそうだからです。更に歯科医師の手技を機械に代替することは、現在の技術の延長線上では非常に困難だからです。現時点で処置点数が低いため、機械化する費用は賄うことは出来そうもありません。経済的な観点から歯科医師の手技が機械化される可能性は極めて低いと思います。この意味で医者よりも歯科医師の方が将来性があると私は思います。実際には医者の将来性は診療科によって異なるので一概にはいえませんが、全体的に考えれば歯科医師の方が機械化の可能性が低い分将来性が明るいように私は思います。

医者と比較すると歯科医師の方が将来性が明るいようですが、今の歯科医師と比較すると将来性は明るくはなさそうです。工夫する知恵のある歯科医師だけが生き残ることが出来る時代がやってくるのでしょう。

ガラケー遣いとスマホ遣いの違い

ガラケー遣い

日本独特の進化を遂げた携帯電話のことを、ダーウィンの進化論の舞台になったガラパゴス諸島になぞらえてガラパゴス携帯、通称ガラケーと言われます。電話とメール機能、iモードなど限られたインターネット機能に特化した携帯電話です。ガラケーを使っている人のことをガラケー遣いと表現してみます。

スマホ遣い

スマホとはスマートフォンの略称です。スマートフォンは元々は賢い電話という意味で名付けられたものて、高性能な電話でいわば手の中のパソコンです。その賢い電話を使う人のことをスマホ遣いと表現してみます。

ガラケーとスマホの違い

ガラケーは限られた機能に特化した電話です。ソフトという概念がほとんどない携帯電話で、電卓やワープロ専用機のような一つのことだけ行う機械です。機能が特化されているのであれこれ悩む必要がありません。情報の取り扱いも電話での会話とメール程度に限られるので情報が多過ぎて混乱することがありません。利用料金が安いのも特徴です。

スマホはいわばパソコンのようなものです。インターネットに容易に接続出来るため、欲しい情報を手に入れることが出来ます。アプリがなければ何も出来ませんが、アプリさえあれば可能性は無限に広がります。使い方次第で何でもこなすことが出来るのが特徴です。

一言でまとめるとガラケーは悩ます扱うことが出来、スマホは使う人が何をするか考える必要があるようです。

ガラケー遣いとスマホ遣いの違い

ガラケー遣いは電話、メールしかしません。他のスマホの持つ機能を必要としないことが特徴です。このことからガラケー遣いとスマホ遣いの違いを考えてみます。一言で言えば情報の取り扱いの違いです。

ガラケー遣いの人は情報を持て余しているのです。もしくは情報を得ることを余り重要だとは考えていません。携帯電話から得られる情報を必要としないのでガラケーで十分なのです。

一方スマホ遣いの人は情報を使いこなしています。何をするにもまずスマホで情報を得ることが優先されます。何故ならスマホで得られる情報は手に入れておく方がお得だからです。例えば行きたい場所の検索をしてみると、割引券があったら、空いている時間を教えてくれたりします。スマホに打ち込んで検索をかけるというほんの少しの手間だけで、簡単に情報が手に入るのです。たまたま検索せずに後でお得な情報があったことを知ると非常に損した気分になります。その経験が次の検索につながるので、益々検索するようになるのです。

一度スマホの便利さを手に入れると、手放すことは困難になります。ガラケー遣いの人の考え方がスマホ遣いの人にとって理解出来ないのは、情報の価値を知らないことが想像出来ないからです。

ガラケー遣いの人とスマホ遣いの人の違いは、情報の価値の感受性の違いです。

スマホ遣いの人からみると検索出来ないガラケーを持つことは不安に感じますが、ガラケー遣いの人は検索するつもりがないので不便でもなんでもないのです。

とはいえスマホ遣いと言ってもゲームしかしていない人も多いのかもしれません。高いスマホを使ってゲームをしているのであれば、安い料金でガラケーを使う方がお得かもしれません。少なくともガラケーはゲームによってガラケー遣いの時間を奪ったりしないからです。

人がミスを隠そうとする理由

人はミスを隠そうとしてしまいます。その理由はミスを人から怒られたり責められたりするからです。ミスを隠そうとする目的は、怒られることや責められることを避けることです。逆に責められることがなければ、隠そうとはしません。

ミスを隠すと更に深刻なミスを防ぐことが出来ません。だから深刻なミスを未然に防ぐためにミスを分析する必要があります。小さなミスから深刻なミスを防ぐ目的で行われるのが、医療業界におけるヒヤリハットという考え方です。ヒヤリとしたりハットするような経験から、ミスをする隙を無くすために自己申告する仕組みです。更に深刻なミスを防ぐ目的なので個人を怒ったり責めたりしないことが特徴です。怒ったり責めたりすると無意識のうちに隠そうとしてしまうからです。

ミスを隠そうとすることを責める人がいますが、二重の意味で勿体無いと私は思います。責めるから隠そうとするのです。責めたところで一度起こったミスは取り返しはつかないのです。つまり責めても無意味です。無意味な上に、わざわざ隠されるのを暴かなければいけませんから二重の意味で勿体無いのです。故意にしたことであれば、再度同じような行動をさせないために責める意味はあるかもしれません。しかしミスであれば責めても無意味です。

責めている限りミスを隠そうとするのは仕方ないことです。目的が懲罰を与えることであれば責めるのも仕方がありませんが、再発防止を目的としているのであれば責めないことです。責めないこと明確にすると隠そうとはしなくなります。ミスの根本原因を見つけ出し、ミスをする隙を無くす仕組みを考えましょう。

質問に答えられない人の対処法

人と話をしていて質問に答えられない人に出会うことがあります。
はぐらかしている訳ではなくて、質問に答えられないのです。

質問するとすぐに話し始めたとしても、的はずれのことを話します。質問の意味がわからないのであれば、どのように答えれば良いか確認すると良いのですが、質問の意味がわからないことを理解していない場合があります。つまり質問の意味がわからないことを理解出来ずに質問をやり過ごそうとするので、そのまま質問を続けても時間の無駄です。

意図・目的を明確にする

質問した相手が質問に答えられない人であれば、質問の仕方を変えるようにしましょう。特に有効なのが質問の意図・目的を伝えて、改めて質問することです。何を目的にして質問しているのかを明確にするのです。

物事を考えることが出来る人で答え方に困っていたのであれば、意図や目的を明確にすることで答えてくれれと思います。

意図・目的を明確にしても答えてもらえない場合

意図や目的を明確にしても答えられない場合、物事を考えるのが苦手な人なのかもしれません。物事を区別して考えるのが苦手なことが考えられます。この場合あらかじめ選択肢を用意して選んでもらうと良いと思います。

いくつかの選択肢を用意しても選んでもらえない場合には、yesかnoの二択にして選んでもらうしかないのかもしれません。二択でも選べないのは、政治家の答弁などでよくみられるように実は答えたくないのかもしれません。

二択で詰め寄っても答えてもらえなければ、二択を補強するように言葉を足して選びやすくしてあげるしかありません。二択を答えてもらえなければ、深くものを考えていない可能性もあるので、答えを期待しない方がよいのかもしれません。答えてもらえなくても何とかなる方法をこちらが考える方が現実的かもしれません。

様々な角度からの視点の勧め

様々な角度から物を見る必要があります。何故なら人は意識しない限り、自分の視点しか持てず、どうしても主観にとらわれているからです。他の人からの視点という立場に立たなければ、自分の考え方が絶対正しいとしか思えなくなってしまいます。他人からの視点を無視した、独りよがりの主張をしても誰も聞き入れてくれません。聞き入れてくれないだけならまだ良いのですが、他人の視点を意識していないと誤解されて自分自身が損してしまいます。失言して後で言い訳している人の多くは、他人の視点を意識していないことが原因です。

失言する人は誤解する人が悪いとさえ考えています。だから失言の謝罪会見が私は誤解させた人の伝え方の問題だと思います。

言葉は様々な意味を持ち合わせています。その意味の中から文脈、話の流れの中から無意識のうちに適切な意味を選んで解釈しているのです。例えば「御飯」という言葉一つでも、「お米を炊いたもの」という「御飯」と、「食事」という意味の「御飯」とがあるのです。「御飯」という場合、相手が「お米」という意味で受け取ったか「食事」という意味で受け取ったかを確認する必要があるのです。確認をしないまま話を進めてしまうと、誤解を生んでしまいます。

言葉のもつ様々な意味を考えて使わなければ、誤解されてしまいます。普通の人は誤解されては損なので、誤解されにくい言葉を選んで使います。普通の人とは他人の視点を意識している人という意味です。選んだ言葉がどのように解釈されるか様々な角度から考えて使います。

様々な角度から考える勧め

様々な角度から物事を考えることで、考え方の幅が広がります。例えば医者の視点しかなければ、仕方ないで片付けてしまうことでも、患者さんの視点から考えると解決策を見出すことが出来るかもしれません。医者は待ち時間が長くても仕方ないと考えてしまいがちです。しかし患者さんの視点から考えれば、病院内で待たなくてもよければ待ち時間の間に買い物などの用事を済ますことが出来ます。同じ待ち時間でも医者と患者さんの視点では違いがあるのです。患者さんの視点から考える医者は少しでも病院内での待ち時間を減らすために予約制を導入します。病院内でひたすら待たせるのは流行っている病院だと印象付ける行列効果を期待して、病院の宣伝のために待たされているのかもしれません。

自分だけの視点では物事の本質には辿り着けません。他人の視点を意識することが視野を広げる一つのきっかけになります。卑屈になる必要はありませんが、他人の目を意識するだけでも考え方に幅が広がると私は思います。

ちなみに特定の人の視点から物事を考えることが出来るようになると、自然と仕事の出来る人になることが出来ます。何故なら上司の視点で物事を考えることで、一歩二歩先を読んで行動出来るからです。あるいはお客さんの視点で物事を考えることで、お客さんの望むものが前もって理解出来るからです。良かったら様々な角度からの視点で物事を考えてみてください。

母乳のために炭水化物を多く食べるのは間違い

出産後母乳を多く出すためにお米や炭水化物を多く食べるように勧められることが多いようです。その是非を客観的に考えてみます。

母乳の成分は赤ちゃんの身体を育てるために、脂肪分やタンパク質・アミノ酸を含んでいます。母乳や牛乳が白いのは脂肪分が分散しているからです。客観的に考えれば、脂肪やタンパク質を多く食べるべきです。

ではお米・炭水化物を食べるとどうなるかを考えてみます。お米や炭水化物は消化されブドウ糖となって吸収され、血糖値を押し上げます。血糖値は上がり過ぎると毒性を発揮するため、上がり過ぎないようにインスリンで必死に押し下げます。赤ちゃんを育てるためのタンパク質や脂肪をわざわざブドウ糖から作ってまで母乳を作り出すとは思えません。

確かにお米や炭水化物にもタンパク質や脂質は含まれてはいますが、わざわざ食べ過ぎると毒性を発揮する炭水化物として、タンパク質や脂質を摂取する意味はなさそうです。何故なら直接タンパク質を多く含むお肉や魚、豆腐などから摂れば良いからです。

お米や炭水化物を多く食べるように言われる理由

母乳の成分とは異なる成分であるお米や炭水化物を、わざわざ多く食べるように勧める理由を考えてみます。

かつて食べる物が乏しかった時代、お米はご馳走でした。授乳婦さんにはそのご馳走を食べてもらうということから始まった話ではないかと思います。もしくはお米神話とでも言うべきお米への幻想からきた迷信ではないかと私は思います。

この迷信が糖質依存に埋もれて検証されることなく代々続いているだけではないかと思います。

授乳中お米・糖質を食べ過ぎる弊害

乳児湿疹の原因はお母さんの食べる糖質の量のようです。糖質が多過ぎると乳児湿疹を引き起こすようです。

もしかしたら乳腺炎も糖質の食べ過ぎかもしれません。お一人乳児湿疹を避けるために糖質を控えていた際には母乳の出方が良かったそうですが、糖質を我慢しきれなくなって沢山食べたときに母乳が詰まった感じがして母乳が出にくくなったそうです。つまり乳腺炎も糖質が原因の可能性が考えられます。

赤ちゃんのヨダレはお腹が空いている証拠

ヨダレの多い赤ちゃんと少ない赤ちゃんがいます。体質だと誤解されているかもしれませんが、ただ単にお腹が空いているだけかもしれません。1日3食という親の常識にとらわれていると、ヨダレとお腹が空いていることが結びつかないようです。赤ちゃんは胃が小さいのでこまめに食べる必要があるようです。ヨダレを垂らしているのであれば、胃が空になってお腹が空いていることをアピールするボディランゲージなのかもしれません。泣くほどお腹が空いてはいないけど、胃は空っぽなのかもしれません。

赤ちゃんも3食で十分だと思い込んでいると、食べてすぐにお腹が空く訳がないと思いがちです。お腹が空いていると疑う発想がなければ、ヨダレを垂らしていても、お腹が空いているとは想像すら出来ないのです。

ヨダレを垂らしているのであれば、食べさせようとしてみましょう。お腹が空いていなければ口を開けないはずです。お腹が空いていれば口を開けるでしょう。

「この子ヨダレが多いの」とは間違っても人に言わないことです。何故なら食べさせ方が足らないことを人に言うと恥ずかしいからです。

ヨダレを垂らしている赤ちゃんを見かけたら、お腹空いているんだなと思ってあげましょう。泣く前に食べさせてあげましょう。

猛獣が必要以上に他の動物を襲わない理由

ライオンやトラなどの猛獣は自分達が食べる分以上に、他の動物を襲うことはありません。誰かから無駄なことをしてはいけませんと教えられるのでしょうか?

猛獣が必要以上に他の動物を襲わない理由

猛獣が必要以上に他の動物を襲わない理由は、実は簡単です。猛獣といえども狩りをする際に怪我をする可能性があるからです。例えば草食動物を襲う場合、必死で逃げ惑う際に足で蹴られてしまうかもしれません。足の当たりどころによっては命を落としてしまうかもしれません。直接命を落とさないまでも、骨折でもすれば長い時間動くことが出来なくなるので餓死する可能性があります。

猛獣がむやみやたらと他の動物を襲わない理由は、可能性は低いながら反撃される可能性があるからです。食べる訳でもない他の動物を襲うことで反撃されて命を落としては割にあいません。だから必要以上に他の動物を襲ったりしないのです。

人間が必要以上に殺す理由

人間は自分達が食べる訳でもない動物を殺すことがあります。時として相手が人間であっても殺すことがあります。

人間も猛獣のようにわずかでも反撃される可能性があれば、無駄な争いは出来るだけ避けるでしょう。幸か不幸か人間は反撃されない離れた相手を攻撃出来る、一方的な武器を手に入れてしまいました。かつては槍や弓矢、今では銃やミサイルです。生物界の仕組みからすれば、いわば反則のような状態です。一方的な殺戮です。しかも離れた相手を攻撃出来るので、殺した相手を見ることすらないかもしれません。だから残酷という感覚すら芽生えないのです。これが人間が必要以上に他の動物を殺すことが出来る理由です。

反撃されることを考えず一方的に攻撃出来るため、他の動物にはない倫理観という概念が必要になってきます。反撃されないために攻撃しないのではなく、反撃されなくても攻撃しない強さが求められているのです。

現に持っている人達がいる限り、今更兵器を手放すことは出来ないでしょう。だからこそ兵器を使わなくて済む知恵という武器を身につけるべきだと思います。必要以上に他の動物を殺すことがない動物本来の姿に、早く人間も到達して欲しいものです。

食の足し算と引き算

食には足し算の方向に進化しているものと、引き算の方向に進化しているものとに分けることが出来ます。

食の足し算

食の足し算とは食材に手を加え、手間暇をかけて美味しい食べ物にすることです。食の足し算の行き着く先は様々な高級料理です。

考え付く限りの手間暇をかけて美味しい料理を提供するのが食の足し算です。お客さんのニーズにあった足し算をすることで、値段が高くなっても買ってもらえるのです。

食の足し算の一つは回転しない普通のお寿司屋さんのお寿司です。手間暇を足して生魚と米をお寿司という高級な料理に仕上げるのです。高級レストランも食の足し算の一つでしょう。

食の足し算はお金の足し算と考えても良いのかもしれません。

資本主義経済においてはどれだけ足し算しどれだけ高い食べ物を提供しても自由です。しかし売れなければ淘汰されてしまいます。料理人はどこまで足し算が許されるのか見極める必要があります。

食の引き算

食の中で無駄だと考え付くものを出来るだけそぎ落とすのが引き算です。出来るだけそぎ落とすので、足し算のように理論上は無限に行うことは出来ません。引き算には技術的な限界が訪れます。

食の引き算の一つは回転寿司です。無駄をそぎ落とすことで実現する低価格を武器にお客さんを回転させることで収益を上げます。セントラルキッチンにより仕込みの手間をそぎ落とします。他にも回らないお寿司屋さんのように本物のネタだと高くなるので、似たような食材でそれなりのお寿司に仕上げます。元々回らないお寿司屋さんが高いのは、売れ残る分も見込んだ値段設定だからです。売れ残ることがなければその分価格をそぎ落とすことが出来ます。

ファミリーレストランも食の引き算を極めつつあります。ファミリーレストランによってはセントラルキッチンで下ごしらえをするので、包丁を置いていないところすらあります。作業の無駄を省くことで提供時間の引き算も行われています。その分人件費が引き算されていきます。味を保ったまま、安く提供出来るように様々な無駄をそぎ落としています。

10年・20年前までは安ければ品質もそれなりでした。食の引き算の基準がコンビニのお弁当との比較になるため、美味しくなければ淘汰されていきます。その意味では、一番食の引き算で成功しているのはコンビニなのかもしれません。コンビニが日々進化させながら一定レベルのお弁当を提供していることで、食の引き算の味のレベルが維持されているのかもしれません。

このように考えると様々な業種が絡み合って切磋琢磨しているようです。10年もするとどのようになっているのか楽しみですね。

スポーツのために炭水化物を食べる勿体無さ

患者さんと炭水化物の話をしていると、スポーツをしているから炭水化物を食べるのは仕方ないと言われる方がおられます。私は勿体無いと思います。何故なら炭水化物は重りにしかならないからです。そのことを解説していきます。

身体を作るとは?

スポーツをするためにわざわざ炭水化物を食べるのは、身体を作るためだそうです。身体を作るとはトレーニングにより身体を動かすために必要な筋肉を作ることです。筋肉はタンパク質でできており、その材料はアミノ酸です。アミノ酸は食べ物として食べたタンパク質が消化され吸収されることで供給されます。

肉や魚などのタンパク質を大量に食べることで、身体に蓄えますが、脂肪のように必要以上に蓄えることはしないようです。もしかしたらタンパク質の貯蔵は脂肪の貯蔵より効率が悪いのかもしれません。蓄える必要がなければ無理に蓄えずエネルギーとして使ってしまいます。そのため筋肉を蓄えるために筋肉を鍛える必要があるのです。

筋肉は許容範囲をこえた負荷がかかると切れてしまいます。切れた筋肉を治す際に、次の負荷でも切れないように備えるために筋肉が切れる前の状態よりも太くなります。切れた筋肉を修復する過程で痛みを伴うのが筋肉痛です。

これらのことから身体を作るためには、タンパク質を摂ることと筋肉を鍛えることが必要であることがわかります。

炭水化物を食べる意味

炭水化物は糖質と食物繊維を合わせたもののことで、食物繊維は人間の身体では消化できないので実質炭水化物イコール糖質です。糖質は消化されブドウ糖として吸収されることで血糖値を押し上げます。血糖値は下がると脳の活動を妨げますが、上がることで良いことはなさそうです。人によってはアレルギーを発症しますし、場合によっては2型糖尿病を発症します。

血糖値が上がることで良いことはなさそうですが、ブドウ糖が余るのであれば脂肪として蓄えます。つまり炭水化物を食べることで脂肪がつくのです。身体を動かす際に脂肪は重りとして働きます。牛肉の霜降り肉のように筋肉の間に脂肪がたまることがあれば、重りとしてだけではなく、筋肉の動きを直接邪魔してしまいます。

炭水化物を多量に食べることで脂肪がつく訳です。スポーツをするのにわざわざ重りをつけてするのと同じだと私は思います。トレーニング目的に重りをつけて行動するのは理にかなっていますが、試合にも重りをつけて臨むのは私には理解出来ません。

炭水化物を食べる『意味』があるスポーツは、体重そのものが必要な相撲やラグビーなど限られていると私は思います。

相手に脂肪という重りのハンデをあげるつもりで炭水化物を食べるのであれば問題ありません。しかし身体を作るために炭水化物を食べるのは勿体無い勘違いだと私は思います。

あくまでも筋肉をつけるのであればタンパク質、脂肪をつけるのであれば炭水化物を食べることだと思います。

一度食べた物が身体の中でどのように変化するのか冷静に考えてみても良いのではないかと思います。