気の回る人と気の回らない人の違い

世の中には気の回る人と気の回らない人がいます。一言で言えば考えているか考えていないかです。想像力を働かせることが出来るか出来ないかでもあります。

気の回る人

気の回る人とは、全ての説明を受ける前に相手の意図を読み取って行動を出来る人です。気の利く人と言われることもあります。一を聞いて十を知るという人のことです。

気の回る人はあらかじめ様々な事態を考えているのです。あらかじめ考えているので、すぐに行動することが出来るのです。

絶えずもしかしてと考える癖がついているのです。もしかしてと考えているので、相手の意図を素早く読み取ることが出来るのです。

気の回る人のもう一つの特徴は、相手のために何かをしてあげようと考えている人です。相手の意図に気がつき、そしてそのことに対して行動出来る人です。人に対して何かをしてあげようと考えていなければ、気の回る人とは言えないでしょう。

一般的に気の回る人は気を回そうと意識はしていません。何故なら意識するのもなく自然な振る舞いが周囲から気が回ると評価されるのです。気の回る人は絶えず様々なことを考えているので、気を回そうとわざわざ意識することがないのです。

気の回らない人

気の回らない人とは、相手の意図を読み解くことが出来ません。言外の意味に気付くことが出来ないのです。一から十まで説明しなければわかってもらえません。酷い場合には一、二、三ではわかってもらえず、1.1、1.2、1.3、1.4、1.5、1.6、1.7、1.8、1.9、2と詳しく説明しなければ理解出来ない人もいます。

気の回らない人は様々な事態を想定することがありません。想定外なので咄嗟に理解出来ないのです。

気の回らない人は物事の流れを理解することも苦手なので、次にするべきことを予測することも苦手です。普通の人がわかる物事の流れを理解しないので、気の回らない人だと認識されてしまいます。

人のために何か行動するという視点が欠落していることもあります。いつも誰かにお膳立てしてもらって行動することに慣れてしまったいると、自分で準備することが出来ません。ましてや他人の準備を手伝うことなど出来ないのです。

気の回らない人も悪気がある訳ではありません。わざとではないのです。気が回る、気が回らないという概念そのものが理解出来ないだけなのです。だから気の回らない人に気が回らないねと嫌味を言っても通じないのです。何故なら概念が無いからです。

気の回る人になるには?

人の行動を変えることは非常に困難ですが、もし変えることが出来るとすれば目的を伝えることだと私は思います。気が回ることの目的とは相手の行動を手助けすることです。

気の回る人は相手の行動を手助け出来る人のことで、相手の行動を予測して先回りして手伝うことです。そうすることで相手の負担を減らすことが出来ますし、時間も短縮することが出来るのです。

気が回る人になるためには、相手の求めているものをあらかじめ理解していなければいけません。相手の行動の予測が出来なければ、気が回る人にはなれないのです。

具体的には食事の際に人がキョロキョロしていれば、箸か調味料を探しているのでしょう。あるいは飲み物が無いか見回しているのかも知れません。食事の食べ始めであれば箸を探しているのでしょうし、食事を食べ始めた後であれば、調味料を探しているのでしょう。相手が何を求めているかを予測することが気が回るかどうかの分かれ目です。相手のために何が出来るかを絶えず考えるようにすると、気の回る人に近づくことが出来るかのではないかと思います。

血液製剤不正製造会社が事業譲渡を嫌がる理由

あくまでも私見です。私の頭で考えるとこのような見解に行き着いただけのことです。あくまでも一意見として読んでいただけると幸いです。

血液製剤不正製造会社とは40年も前から国の承認とは異なる方法で血液製剤を製造していた会社のことです。厚生労働相が組織の抜本的見直しを求めたため事業譲渡の方向で交渉していたそうです。しかしこの事業譲渡交渉が打ち切りになったそうです。血液製剤不正製造会社が事業譲渡に難色を示しているからだそうです。その理由を考えてみました。

不正を40年も続けた実績から組織内の自浄作用は全く期待出来ません。事業譲渡は当然の流れのように思います。燃費で不正を繰り返した企業は結局身売りしました。

血液製剤の製剤は国民にとってなくてはならない事業ですから、商売として考えた際に手放したくない魅力があるのでしょう。だから事業譲渡に難色を示すのは当然と言えば当然です。

しかし40年も前から不正を行っていた流れから考えると、組織の存続は常識的ではありません。にも関わらず難色を示すのは、事業譲渡により更なる不正が噴出することを避けたいのではないかと私は考えます。そのように考えると、此の期に及んで悪足掻きするのも頷けます。全てを明かす訳にはいかないので、隠せるだけ隠そうとしているのではないでしょうか?

厚生労働省も出来るだけ穏便にことを済ませようと考えて、現在のような対応をしているようです。常識が通じると期待しているのです。しかし40年も不正をしていた会社です。常識が通用しないと認識を改める必要があると私は思います。認可取消を宣言し、事業譲渡するなら存続を許すように設定しなおすのです。経営陣は今のまま存続出来ると考えているのです。事業譲渡が出来ない方が都合が良いので、難色を示しているのではないかと思います。騙して利益を得ていたことで詐欺罪の適応を検討すると、経営陣も考え方が一新されると思います。

利益を追い求める企業が問題を起こすのです。「利益は企業のためならず」のような考え方が広まることを心から祈っています。このように考えると不正を行う必要がありません。利益は追い求めるものではなく、企業が存続するための必要経費だからです。全ての企業がこのように考えると、理想の世の中が実現出来るのかもしれません。

怒る意味 怒る必要のない子育て

怒る必要のない子育てを提案しています。

今回は怒る意味を考えてみます。怒るのは感情なので仕方ないと考えている人も多いかもしれませんが、アドラーの心理学によると認知の仕方により同じ物事を喜びとして捉えることが出来るかもしれないのです。

例えばすれ違った女の人が自分の顔を見て笑ったように見えたとします。嘲笑われたと認知すれば、怒りを感じるでしょう。微笑んでくれたと認知すれば好意を持ってくれていると感じることが出来るでしょう。怒りの前に認知という作業があるので、アドラーは認知を修正することで怒る必要などないことを提唱しています。ちなみにアドラーはそのことに気付いたので、若い頃に怒るのをやめたそうです。

怒る意味。犬が吠えるのと変わらない

人は意識しているか無意識かは別にして、必ず目的を持って行動しています(目的論)。では人が怒る目的は何でしょうか?相手を支配することです。通常人が人を怒る場合、立場の強い者が立場の弱い者を怒ります。怒るのとでその立場の違いを明確にし、従わせることを目的に怒るに過ぎません。

相手の行動を変えるために怒ると誤解している人がいますが、怒れても人の行動は通常変わりません。何故なら怒られている人には、怒られている理由がよくわからないからです。

怒ることで伝わるのは不快な思いをしているということだけです。言い換えると犬が吠えているのと何ら変わりません。犬が吠えていれば怒っているのはわかります。しかし何を怒っているのか想像するしかありません。何故なら犬とは会話出来ないからです。怒っている人が犬が吠えるのと同じというのは、怒る理由を相手にわかるように説明しないからです。怒っていることしか伝わらず、何をどのように怒っているのかわからないのです。

 

怒るのは感情をぶつけているに過ぎないのです。感情をぶつけられても、他人には感情は理解出来ないのです。人が怒るのは、相手も共通の認識を持っているはずなのにその認識を持っていないからです。しかし多くの場合相手も共通の認識をしているはずだと誤解していることが原因です。相手も知っているはずだと思い込んでいるので、知らないことが想像出来ないのです。

認識の齟齬があるにも関わらず、共通の認識を前提に怒るのです。認識の齟齬をお互いで修正しなければ怒るのは犬が吠えているのと変わりません。認識の齟齬が修正されないのですから、同じことを繰り返すのは当然です。

怒らない対策

散々怒り散らされた後で、「わかった?」と聞かれて、「怒られている意味がわかりません」とは怖くて言えないでしょう。次は「わかったと言ったのにどうして出来ないの!」と責め立てる情景が目に浮かびます。片手に思い込んで何がわかったのか確認もせずに、「わかった?」と聞くのは客観的に見ればズレ漫才のように滑稽です。怒る目的が相手を支配することなので、「わかった」と言わせると満足出来るのです。相手の行動を変えることが目的であれば、何がわかったのか気になって仕方ないと私は思います。認識の齟齬が修正されたかどうか確認するために、「何がわかった?」と聞いてあげてください。

人を育てるのに怒る必要などありません。相手が知らなければ教えてあげれば良いだけです。いくら自分は常識だと思い込んでいても、相手が知らなければ仕方がありません。怒るのではなく、教えてあげれば良いだけです。もし相手が子供ならその常識を身につけさせてあげるべきなのは誰なのでしょうか?誰のせいで子供は常識を身につけていないのでしょうか?それなのに子供を怒るのは子供が二重の意味で可哀想だと私は思います。常識を身につけてくれない上に、更に怒られるのですから悲惨です。しかし子供が知らないことを親が認識出来ないのも仕方がありません。何故ならいつの間にか常識は身につけたので、自分は人に教えてもらったことを忘れたのです。常識は教えなくても自然に身につくと思い込んでいるのです。子供に常識などありません。親がその都度教えてあげなくては常識は生まれつき身についているなどあり得ないのです。何度言ってもなおらないと言う人もいますが、伝え方に問題があるに過ぎません。一方的に伝えたつもりになっているだけです。物事が伝わったかどうか確認しなければ伝わったかどうかわからないはずです。この文章を読まれた方の子育ての考え方が変わることを私は祈っています。

感情で人を動かそうとするのは幼稚です。何故なら言葉の通じない動物と変わらないからです。人は言葉という魔法を使うことが出来るのですから、言葉で認識の齟齬をなくしましょう。認識の齟齬が無くなれば怒る必要などありません。

あるカツラメーカー衰退に思う

インターネットを見ているとあるカツラメーカーの業績が悪化していることが掲載されていました。低価格のカツラが出現したことがその理由に挙げられていました。それもあるのかもしれませんが、主な原因は別のところにあると私は思います。

一言で言えば薬です。AGAに対してパラダイスシフトが起こっているのです。カツラで隠す時代から薬で治す時代になったのです。フィナステリドとデュタステリドの二つの薬によりカツラを使う人が減少しているだけだと私は思います。何故なら薬を使うとはいえ、自毛です。しかも病院によってかかる費用は異なりますが、カツラを使うことに比べると安価です。カツラと薬を比較すると一桁違うようです。薬の方が安くて自毛なので、わざわざカツラを試す人が減っているに過ぎません。

少し前までは恥ずかしくて人に相談できなかったかもしれませんが、今では手軽に情報が手に入ることもカツラより薬に流れる一因です。

私は従来のカツラ産業は早い段階で淘汰され、低価格のものだけがかろうじて生き残るだけだと思います。

何よりカツラは一度はじめるとやめることに勇気が必要です。一方薬はいつでもやめることが出来るのも始めやすさの違いとして、心理的なハードルを下げていると思います。

インターネットに掲載されたカツラメーカー衰退の解釈が間違っていると思ったので掲載してみました。もしこの事実にカツラメーカーの人達が気付いていなければ、淘汰は免れないでしょう。薬でカバーしきれない人を対象とするか、全く別の業種に進出するしかないのかもしれません。

患者さんが開業医より総合病院を選ぶ理由

患者さんの多くが総合病院の受診を好みます。何故なら開業医を受診しても、総合病院に紹介されることになると開業医の受診が無駄に思えるからです。また開業医はわざと治さず、治療を続けようとしているように思えるからです。

開業医と総合病院

開業医を受診しても総合病院に紹介されるのでは、最初から総合病院を受診する方が得だと考えるのは仕方なくことです。患者さんには開業医で済む病気か、総合病院で治療する病気か判断がつかないからです。だから患者さんが開業医から総合病院に紹介されるという無駄を省くために直接総合病院を受診するのは合理的な考え方でした。しかし患者さんが殺到した総合病院では診療がパンクしてしまいます。対策として開業医で済む病気は開業医で診療を行い、総合病院での治療の必要な患者さんだけを紹介する仕組みになりました。しかし直接総合病院を受診してもデメリットが大してないため、直接総合病院を受診することが続きました。そこで直接総合病院を受診する場合には診察料とは別に料金を徴収し、紹介してもらう方が金銭的にも得な仕組みを作ったのです。紹介してもらう方が患者さんが得する仕組みを作ることでようやく開業医と総合病院の役割分担が出来るようになりました。

開業医と勤務医

患者さんが総合病院を選ぶ傾向の理由の一つが商売の要素です。

開業医は基本的には医者が経営者なので患者さんに通院してもらえば通院してもらう程収入が増えます。つまり病気を治さない方が開業医自身が儲かるのです。そのため不届きな開業医は製薬会社と結託して患者さんに病気のままでいてもらうように仕向けます。このことを患者さんは無意識に感じ取り、総合病院の受診を求めるのかもしれません。患者さんの利害と儲けたい開業医の利害がズレているのです。

総合病院の勤務医は患者さんを多く診ても収入が増える訳ではありません。だから商売のためにわざわざ病気を治さないことがないだろうと類推出来るため、患者さんが総合病院を受診したがるのです。患者さんを治す方が勤務医にとって患者さんが減る分楽になるのです。患者さんの利害と勤務医の利害が一致するのです。

勤務医の中にも不勉強で病気を治そうとしない医者もいますが、一般的に開業医より少ないのは事実でしょう。

全ての開業医が儲けを追求している訳ではありませんが、一定割合でわざと治さない医者が潜んでいるようです。

医療制度の問題点

現在の医療制度の問題点を考えてみます。国民皆保険は国民全てが医療を受けることの出来る一面では素晴らしい制度です。しかし出来高制という点に大きな問題が潜んでいます。医者は通院回数が多ければ多い程儲かります。薬を処方して副作用が出れば、その対処薬も処方します。通院してもらえる限り、治さない方が儲かるのです。

国民皆保険では治療することに保険点数は支払われますが、治療しなくてよくなってしまえば保険点数は支払われません。つまり治してしまっては保険点数はつかないのです。本来なら治りにくい病気を治せば、ご褒美の保険点数があっても良いはずですが、そのような制度はありません(治った判定は難しく、治癒を保険点数化するのは現実には非常に困難です)。良心的な医者はそれでも病気を治しますが、儲けたい医者は治さず通院させ続けるのです。

例えば糖尿病や高脂血症の薬を処方すれば管理料という名の保険点数が支払われます。糖質回避により薬が要らなくなれば管理料がもらえなくなるのです。だから糖質をやめられては困ると考える医者がいるようです。

医療費の問題は出来高制で病気を治さない方が得な仕組みだからなのかもしれません。根本的な対策は今の私には思いつきませんが、一つの対策は患者さんが知恵をつけることです。糖質回避で治る病気は自分で治すこと、もしくは治してくれる医者を探すことの2つです。

人生は金じゃない

某有名人が書いた本のタイトルです。
有名人の本のタイトルには「!」がついています。

「人生は金じゃない!」

今回のタイトルに「!」を付けなかったのはタイトルに「?」を付けると全く反対の意味になるからです。

「人生は金じゃない?」

私は2つの意味の両方とも正しいと思うので、あえてタイトルに「!」も「?」も付けませんでした。

人生は金じゃない!

人生はお金を稼ぐためにあるのではありません。その一言に尽きます。

だから「人生は金じゃない!」のは当たり前のことです。しかし著者はわざわざその当たり前のことを本のタイトルにしてまで伝えたいようです。つまり人生はお金だと思っていたことがあったのでしょう。今は人生はお金を稼ぐことが目的ではない当たり前のことに気付くことが出来たのでしょう。

お金のためなら何でもする人がいますが、お金の魔法にかかっているに過ぎません。

人生は金じゃないと言えるのはお金に困っていない人だけかもしれません。

人生は金じゃない?

人生は金じゃない?とは逆説を使って人生の目的はお金だという考え方を強調する表現です。

賛否はあるとは思いますが、自給自足の生活をしていない限りお金が無ければ生活出来ないのはまぎれもない事実です。人生にお金が必要なのは誰にも否定は出来ないはずです。お金が無ければ今日食べるものを買うことすら出来ないからです。

人生にお金は必要なのです。贅沢をしなくても生きていくだけで生活のためのお金はなくてはならないのです。その意味では人生は金じゃない?とお金が必要なのは当たり前ではないか?と逆説で問いかけるのも正しいと思います。

お金の別の一面を知っている人もいます。命すらお金に換算されてしまうのです。命をお金で買うことが出来る訳ではありませんが、失われた命を償うのはお金が使われているのです。例えば事故で失われた命に支払われるお金は計算式まであるのが現実です。失われた命は取り戻すことが出来ないので、仕方なくお金で償う仕組みが用意されたのです。

この意味で人生はお金だと考えてしまう人もいるのかもしれません。

目的と手段を明確にする

一部の大人はお金のことを言うのは卑しいと考えています。しかしお金は生きる上で必ず必要なものでもあるので、お金のことは誰もが考えるべきことです。そこで人生とお金について考えてみます。目的と手段という言葉で分けて考えることで、誤解なく理解出来ると私は思います。

私は「人生は金じゃない」とは最低限のお金は必要だと考えるきっかけを与えてくれる言葉だと思います。そしてお金を目的だと捉える考え方ではなく、生きていく上で必要な手段としてお金を捉えるのです。

お金を目的だと考えると、稼ぐことに際限が無くなります。嘘偽り、人を騙してでもお金を稼ごうとしてしまいます。お金のために生きていると誤解してしまうのです。ちょうど多くの企業が利益を目的に追い求めることに似ています。無理をしてでもお金を稼ごうとしてしまうのです。

お金を生きるための手段だと考えると、最低限生きるために必要な分を稼ぐように考えます。決して無理をしてまで稼ごうとは考えません。ちょうど「利益は企業のためならず」を実践している企業のように利益を追い求めて無理をしたりはしません。

人がお金を必要とするのは、生きるための手段としてです。生きるための目的では決してありません。このことを誤解しなければ、多くの人が幸せになれると思います。お金を目的と考えるから、借金したり無理をしてしまうのです。お金は生きるための手段に過ぎません。その手段に振り回されて人生を棒に振ってしまうのは勿体無い話ではないでしょうか?

人生は金じゃない!?

この2つの意味を併せ持つ言葉の意味を理解し、お金に振り回されてしまわないようにしましょう。

食の常識革命! 糖質の食べ方の提案

食の常識革命を提案します。
日頃は糖質回避という考え方を提案しています。糖質を控えることで様々な病気が治ります。例えば糖質を食べないだけで2型糖尿病は治ります花粉症やアトピー性皮膚炎などの各種アレルギーやニキビやイボなどの慢性感染症も治ります。糖質を食べなければ治るのですが、糖質を食べていても治る簡単な方法を見つけました。そこで新しい食べ方の提案です。

糖質が病気を引き起こす

糖質を一定量食べると様々な症状を引き起こします。しかも食事の際に糖質を食べる順番により症状の出方が異なります。先に糖質以外のタンパク質や脂質、食物繊維を摂ることで症状が出にくくなります。そこで糖化産物が病気を引き起こす仮説を提唱しています。糖化産物の関与は今のところ定かではありませんが、状況証拠から瞬間的な血糖値の上昇が様々な症状を引き起こしていることは間違いなさそうです。

糖質の食べ方

糖質を食べることで様々な症状を引き起こしますが、血糖値の上昇が問題のようです。血糖値を引き上げるのは糖質だけです。糖質の食べ方で症状の出方が変わります。

そもそも糖質を食べないことで糖質依存から抜け出すのも一つの選択肢です。多くの人が糖質依存により糖質を食べ過ぎているからです。

今回の提案は糖質を食べながら血糖値の上昇を抑える食べ方です。一回の食事量を減らして、食事の回数を増やす方法です。まずは食事の回数を増やすことです。大してお腹が空いていなくても少量食べるようにするのです。少量食べることで血糖値の急上昇を避けることが出来るからです。小まめに食べることでドカ食いを避けることが出来るからです。糖質の食べ過ぎによる多くの症状は一回の糖質の量が多いと引き起こされます。一回の食事量を抑えるために食事回数を増やすのです。

血糖値の急上昇を抑えることが出来るので、糖尿病の治療にも使えるはずです。食事の際にご飯からではなく、野菜や肉魚などオカズから食べるのも一つの有効な対策です。

食事回数を増やし、オカズから食べるようにするだけで糖質を食べても症状が治まるかもしれません。

具体的な食事の提案の一つは、食後果物を食べている人はオヤツの時間(間食の時間)に食事とは分けて食べることです。果物の食べ方を分けるだけで食事回数を増やすのと同じ効果が期待出来ます。更に間食の時間に食べる場合にも、オカズ代わりの卵やチーズ、ソーセージや枝豆を食べてから果物を食べるようにすると効果的です。

食の常識革命

食の常識革命とは3食で食べる常識を、6食に増やすことの提案です。現実に6食に増やすことが出来るかどうかは別にして、考え方の方針を指し示すものです。手軽なのは上記の果物の食べ方です。

糖質の一回量が問題です。日頃気をつけていても、一回でもドカ食いしてしまうと症状が出るアトピー性皮膚炎やニキビのような病気もあります。少なくとも症状が出てしまえば、食べ方を改める方がお得です。その際に一回の食事量を減らして、回数を分けて食べるようにするだけで病気を避けることが出来るかもしれないのです。

糖質回避とは違う、病気を避ける知恵として理解してもらえればと思います。

私は食事の回数を増やすだけで、病気を治すことが出来れば魔法のような話ではないかと私は思います。

仕事や学校に通っていると現実に6食食べることは難しいかもしれませんが、出来る範囲で一回の食事量を減らす食べ方を探すのです。

一回の食事量を減らして、小まめに食べることで糖質依存からも抜け出すことが出来るかもしれません。不思議な考え方ですが、賛同していただければお試し下さい。

爆発する洗濯機に思う

ある国の洗濯機が爆発するそうです。世界中で100件もの事故が起きているそうです。日本の企業であればPL法の兼ね合いもあるため、即座に対応するでしょう。その企業の驚くべき対策は「デリケートモード」の使用を推奨したそうです。携帯電話の発火事故も起こっています。

企業の目的が利益を追い求めているからでしょう。日本の企業もほんの数十年前までは利益ばかり追い求めていたため、公害問題を引き起こしました。最近では安全性を確保することが前提で、利益を求めています。

日本より数十年遅れで目先の利益に振り回されているのでしょう。安全性が第一だと気付いてもらうことを待つしかないのかもしれません。船の沈没事故でも利益優先でした。

企業が利益を追い求めるのは仕方ないことかもしれませんが、21世紀になっても安全性よりも利益を求めるのは残念なことです。「利益は企業のためならず」という理想の追求は無理でも、少なくとも安全性は確保する考え方になって欲しいと思います。安全性を犠牲にして利益だけを追い求めること自体が結局自分達を追い詰めることを知ることになるのでしょう。

安全性を確保することが企業にとって一番お得だということを多くの日本の企業は理解しています。日本の企業の製品は万が一に備えた安全性まで考えているから高くなってしまうのです。性能だけ真似してもハリボテのようなもので、安全性の担保が無ければこれからは誰にも相手にされなくなるでしょう。

日本の企業と某国の企業とでは、前提が全くことなるようです。多くの日本の企業は安全で当たり前、某国の企業は利益最優先が当たり前。世界中で安全が当たり前の世の中になることを願っています。

議論の仕方 理由ではなく目的を議論する

今回は議論の仕方を考えてみます。多くの議論はその理由を話し合います。理由は言い訳や建て前が紛れ込むため、一つの理由を論破しても次の理由が出てくるだけです。議論が論理的に行われるのであれば理由を話し合うことに意味があります。しかし多くの議論が、論理的に行われるのではありません。先に賛成や反対の結論を決め、その結論に至る言い訳を探すのです。判断の根拠としての理由であれば議論の意味がありますが、賛成や反対を引き寄せるための言い訳を聞いても時間の無駄です。何故なら本音を隠すための言い訳に過ぎないからです。理由は判断の根拠なのか、言い訳なのかを吟味する必要があります。巧妙に言い訳されると判断の根拠と錯覚させられてしまうこともあります。吟味そのものが時間の無駄です。

理由は後ろ向きなので、幾らでも出すことができます。言い訳の中から賛同の得られそうなものから理由としているに過ぎません。言い訳を議論する程無駄なことはありません。何故なら判断の根拠ではないからです。

理由が言い訳なのか判断の根拠なのか見分けるのは実は簡単です。その理由がクリアされれば判断が変わるかどうかです。クリアされることで判断が変わるのであれば判断の根拠です。クリアされても次の理由を出してくるならただの言い訳に過ぎません。

理由を話し合うことの無意味な点は、状況が変われば理由そのものが無くなる可能性があることです。理由を話し合うと、状況が変わる度に話し合う必要があります。

目的を議論する

人の言動には必ず目的があります(目的論)。その目的を話し合うのです。

目的を議論するようにすると、理由のように言い訳が出来なくなります。何故なら目的はこれからのことを指し示すからです。到達点である目的を先に決めてしまうのです。目的を議論し目的を定め、その目的に基づいて結論を出すのです。

目的を定めてしまえば、私利私欲の影響する余地が無くなります。後は目的に沿っているかどうか合理的な判断をするだけですみます。

まず目的を議論しましょう。更に目的に沿っているかどうかを議論していきましょう。理由をいくら話し合っても時間だけが過ぎ、議論は前には進みません。

営業職と人工知能

あるサイトを見ていると人工知能に置き替わりにくい仕事という内容がありました。
経営者や企画が人工知能に置き替わりにくいとあったことには納得出来る内容でした。
しかし営業職と弁護士が置き替わりにくいとあったことには疑問があります。
先に弁護士のことを書くと、確かに裁判所の法廷に立つのは生身の人間が残ると思います。しかし下調べの過去の判例の検索は既に人工知能が活用されています。法廷に立つことを除くと生身の人間である必然性は乏しくなりそうです。少なくとも今の弁護士の人数は必要無くなるでしょう。

営業職が人工知能に置き替わる可能性が低いとありましたが、営業職の内容で分けてありました。技術系、金融系の営業職は残り、単純な営業は人工知能に置き換わるという内容でした。

私は営業職はほとんど無くなると思います。何故なら情報社会であり、人は欲しい物があれば自分で検索するからです。自分でも気付いていない欲しいものを提案してくれる営業職には価値があります(理想の営業マン)が、偽りの営業マンである説得マンはいらないからです。そして多くの営業マンは実は説得マンに過ぎません。お客さんの要望に合わせるのではなく、説得によりお客さんに合わせてもらうのです。

将来営業マンがいなくなる合理的な理由に書きましたが、営業マンの多くが説得マンなので人々が営業マンと話すこと自体を警戒してしまうのです。営業マンと話すと「衝動買いの心理」を刺激して買うように仕向けるのです。お客さんの必要な物を売るべきですが、売り上げを上げるために欲しいと錯覚させて買わせようとするのです。営業マンが「衝動買いの心理」を刺激して買わせようとすることを知っている人は、営業マンと話すことはしません。時間の無駄だからです。このことを知る人が次第に増えるので、営業マンの仕事は減ってしまうでしょう。

現時点で製薬会社の営業マンであるMRさんは減りつつあります。リストラを勧めています。これまで人海戦術で医者に処方をお願いしていましたが、営業により処方内容が変わることが患者さんの不利益につながるので営業を控える製薬会社が出てきました。患者さんの利益になる情報以外は案内出来なくなるかもしれません。

そもそも薬剤の必要な情報はインターネットで収集することが出来ます。わざわざ処方して欲しい気満々の営業マンからもたらされる情報は、処方して欲しいバイアス(情報の偏り)がかかっています。そのバイアスを取り除いて判断する必要があるので、営業マンと話す際には注意が必要になります。自分の好きな時間に情報収集出来るインターネットにとってかわられてしまうでしょう。

営業マンの顔を立てて買って下さいという説得マンが成り立つのは、長くて5年程度だと思います。その先も営業マンが生き残るためには、相手の欲しい情報を提供出来るようにすることです。特にお客さんがわざわざ検索する程ではなくても興味があることを、検索無しで即座に提供出来る営業マンは生き残ることが出来ると私は思います。話の内容から検索したいことを類推する能力を手に入れることが営業マンとして生き残る手段だと私は思います。そのためには専門分野にとらわれない幅広い知識を身につけるしか無いのかもしれません。

医者も余るし歯科医も余る時代、営業マンも仕事は減らそうです。今の子供達はどんな時代を生きることになるのでしょう。不安では有りますが、楽しみでもある未来がすぐそこまできています。