子供の考え方のトレーニング法

子供の考え方のトレーニング法はまだ確立されてはいません。今のところ学校で勉強という形で考え方のトレーニングらしきものはされてはいますが、科学技術の進歩により多少の違いはあっても、明治時代から本質は変わってはいないようです。

今回子供の考え方のトレーニング法の一例を提案してみたいと思います。

今の学校での勉強は暗記とその活用が主眼です。残念ながらこれから暗記力・検索能力には大した意味がなくなります。何故ならコンピュータやタブレット、スマートフォンが代わりに記憶してくれるからです。メモという意味もありますし、そもそも既にメディアに記憶され整理されているのです。わざわざ覚える必要などありません。

覚える『意味』があるとすれば、自分の頭で考える時だけです。思考する元は頭の中に入れる必要があります。思考し新しい考えを生み出さないのであれば記憶すれ必要などありません。記憶という作業は機械に任せれば良いのです。いつでも瞬時に頭の中から適切な情報を引き出す検索能力が『意味』を持っていたのは、人間の頭脳しか検索する手段がなかったからです。他に選択肢がなかったよで仕方なく人間の頭脳に頼っていただけのことです。

わざわざ人間の頭に記憶する『意味』があるのは、思考のためと書きました。思考するためには頭の中に入れ込み、考えるために瞬時に頭の中から検索しなければなりません。細かい数字などは機械に頼れば良いのですが、本質を理解するための記憶・知識を身につけ、活用出来るかが問われる時代になっています。現在進行形で物凄い勢いで変わりつつありますが、不思議とそのことに気付いている人は少ないようです。

子供の頭のトレーニング法

頭のトレーニングの目的は物事を瞬時に思い起こすことです。思い出す癖をつけるのです。それを何となくトレーニングしているのが学校の勉強で、テストという形式で思い起こすようにしています。しかし残念ながら一方向からの出題なので頭の検索能力が高まりません。テストに出ることだけ答えることが出来るようになるだけです。

私は記憶のインデックス化を提案します。人間の記憶はキーワードで思い起こすようにできています。キーワードが複数ある言葉や事柄は思い出しやすく、キーワードが設定されていなければ思い出すきっかけを失ってしまうのです。後で取り出せない記憶はないのと同じです。記憶のインデックス化とは、キーワードをインデックスとして記憶の頭出しを出来るように、記憶を整理することです。

記憶の整理をすることで、思考する際に必要な情報を自分の頭の中で探しやすくなります。頭の中が整理されていれば考える際に足らない情報も浮かび上がるため、足らない情報を外部から探すことも出来るようになります。

具体的な子供の頭のトレーニング法は、キーワードを使って記憶を思い起こさせることです。例えば旅行に行った際に帰った後で、「◯◯の旅行、一番楽しかったのは?」という二つのキーワードで子供の頭の中を検索してもらうのです。頭の中の整理・インデックス化されていればすぐに答えが返ってきます。まだインデックス化されていなければ何も答えられず固まってしまうでしょう。そこで次のキーワードを与えてあげるのです。最初に◯◯に着いたよね?という具合に思い出すきっかけを探っていくのです。

時間が経つにつれ忘れるので、時間が経つ前に聞いてあげましょう。「昨日学校で何があった?」でも構いません。「驚いたこと」というキーワードで聞いても構いません。何でもいいのです。

問い掛けることで子供は必死で頭の中の記憶を探し回ります。そして自分の頭の中の記憶の探索を繰り返していると、記憶が整理されインデックス化されるのです。この整理された記憶が思考の際に役立ちます。整理されていない記憶は、テストにしか役立ちません。

子供の頭のトレーニングには頭の整理に役立つキーワードを投げかけることだと私は思います。良かったらお試しください。偏差値を上げる努力をするより余程『意味』があると私は思います。

暗い所で本を読むと目が悪くなるのは間違い

暗い所で本をよむと目が悪くなると良く言われますが、間違いです。私は眼科の医者ではありませんが、論理立てて考えれば間違いであることは簡単にわかります。

一般的に目が悪いとは視力が悪くなることです。言い換えると近視になることを言います。本来目は水晶体というレンズによりカメラの役割をする網膜に像を調整します。その調整が上手くいかず近くしかピントが合わないのが近視です。

暗い所で本を読んでも目が悪くならない根拠は、明るい物を見る細胞と暗い所で物を見る細胞が異なることです。暗い所で物を見る細胞を使つたそして暗いからといってピントを合わせる位置が変わることはないからです。暗い所でも本が読めるのであれば光は目の網膜にピントが合った状態で届いています。

暗い所で本を読むと目が悪くなると誤解された理由は、暗いと光の量が少ないことに起因します。光の量が少ないとピントを合わせることに時間がかかりますし、光が少ないため情報を読み取ることにも時間がかかります。明るい所に比べて暗い所で本を読むと、文字を識別するのに頭を使うのです。暗い所で本を読むと疲れるので、目が悪くなると誤解されたのだと思います。未だに暗い所で本を読むと目が悪くなると言う人は、まだ知らないだけなのです。

暗い所で本を読むと情報が少なく文字を識別するために、読むこと自体に負担がかかります。暗いと能率が悪いので明るい所で本を読む方がお得というのが正確な情報です。

暗い所で本を読むからと言って近視になることはありませんのでご安心ください。

ただ褒めて育てるのは間違い

褒めて育てるというのは良く言われる考え方です。
しかし褒めるという行為の本質を踏まえた上で褒めるべきです。
子供を褒めて育てるという考え方が持て囃されていますが、おだてて育てるという意味であれば間違いです。

褒めるとは出来ないと思っていたことが出来たので称賛するのであって、出来ると思っていたことに対して行うのはおだてでしかありません。だから人を褒める際には注意が必要です。何故なら人を褒めるとは出来ないと思っていることが前提だからです。出来ると思っていることを褒めるのはおだてているに過ぎないからです。そのことを知っている人を褒めると、馬鹿にされたと受け取る人もいるくらいです。基本的に褒めるのは上から下に対してだからです。

褒めてはいけないと言いたい訳ではありません。ただ闇雲に褒めるのは良くないと言いたいのです。出来ないと思っていたことが初めて出来たのであれば褒めて当然です。満面の笑みで褒めてあげましょう。しかし出来ると思っていることであれば、褒めるのではなくて動機付けしてあげると次も頑張れると思います。動機付けとは頑張っている姿を見ることが嬉しいと伝えてあげることです。決して結果だけを見ているのではないことを伝えてあげるのです。

ただ褒めるだけでは褒めてもらうことが目的になってしまいます。褒めてもらえないと行動できなくなるのです。そして褒めてくれない相手を憎むようになってしまいます。ただ褒めて育てると、褒められるために行動する幼稚なお子様に育ってしまうのです。

お子さんが学習障害と言われたら

お子さんが学習障害と言われて悩んでいる方のお話をお伺いしました。養護学級に入るためには親の承諾が必要です。なかなか親の承諾が得られないとも良く聞きます。実際には親としてどうすれば良いのかわからないというのが本音ではないかと思います。

よく聞くのが、お子さんが養護学級に入るのが可愛そうという親御さんの声です。実際には普通学級にいる方がお子さんにとっては可愛そうです。何故なら小学生がいきなり高校生の授業を受けるようなものだからです。更に普通学級は減点法での評価です。あれも出来ないこれも出来ないでは、自己肯定感を養うことが出来ません。自分は駄目な人間だと思い込ませてしまいます。そうならないために早い段階での養護学級での勉強を検討する方がお得です。

そんなことが無ければ良いのですが、お子さんが可愛そうなのではなく、自分が可愛そうで養護学級に入らせない親御さんもおられるのです。養護学級に通うお子さんを持つ親の私が可愛そうだから養護学級に入らせないという心理です。自分が可愛そうとは言えないので、お子さんを代理に仕立てているのです。

養護学級に通うお子さんが可愛そうというのは、親の視点でしかありません。学校の授業がわからないまま、お経を聞くようにただ座っている普通学級の授業より養護学級の授業の方が有意義だと思います。

日本では養護学級の適応があっても、親御さんの承諾が得られないため、普通学級で学ぶ方もおられるようです。欧米では合理的な思考をする人が多いので、養護学級で特別な授業を受ける権利があると考えるそうです。だから適応があれば進んで養護学級の授業を受けようとするそうです。

話題を少し逸らしますが、私は逆立ちは出来ませんし、泳ぐことも出来ませんし、音楽の才能もありません。しかし毎日楽しく生きています。学校の勉強は多少出来ましたが、出来ないことも多々あります。ただそれだけのことです。勉強の出来る出来ないはその人その人の個性でしかないのです。学校の勉強が全てかのような価値観の人にとっては何よりも大切なのかもしれませんが、勉強が出来なくても社会で成功することも十分あり得ます。

学校の先生から養護学級を勧められたとしても、普通学級で本人が楽しいのであれば私は普通学級が正解だと私は思います。しかし本人が少しでも学校の授業が楽しくないと感じているのであれば、養護学級の授業を受ける方がお得だと私は思います。

本来であれば、本人のために養護学級の適応があれば自動的に養護学級にさせてあげるべきだと思います。何故ならお子さん本人にとって有意義だからです。親御さんの承諾がいる時点で、行政も言い訳というか暗に差別しているように感じます。もしくは承諾をしてもらえないから仕方ないとして、行政が逃げ出す隙を作っているように感じてしまいます。

養護学級にも様々な先生がおられるとは思いますので現場で実践されているかどうかは知りませんが、理にかなった養護学級の教育方針は加点法で評価してあげることです。出来たことを認めてあげることです。丸を書けること、バツを書けることなど1つ1つを認めてあげることです。そうすれば楽しくなって次々と新しいことを楽しむはずなのです。あれも駄目、これも駄目では摘み取ってしまうことになってしまいます。

もしお子さんに養護学級の適応があるのであれば、養護学級で学ぶ方がお子さんがお得かもしれないという視点で考えてあげてみてください。

赤ちゃんが手づかみで食べることについて

患者さんと話をしていて驚いたことがあります。
その患者さんの読まれた子育て書には赤ちゃんが手づかみで食べることについて推奨していると書いてあるそうです。そのため手づかみで赤ちゃんが食べるのは当たり前だと思われていました。

私は日本ではその子育て書が間違っていると思います。
理由は簡単です。日本では大人は手づかみで食べないからです。
わざわざ手づかみで食べることを教える、あるいは許しておいて途中でスプーンやフォーク、箸での食事を強要することになるからです。
赤ちゃんの立場でいえば、手づかみという罠を仕掛けておいて引っかかったところで、スプーンやフォーク、箸での食事を出来ないことを責めているようなものです。
赤ちゃんにとっては手づかみで食事をする体験は余計な体験だと私は思います。

フォークやスプーンを使って食事ができるようになるまでは口に食べ物を運んであげればよいと私は思います。最初はフォークに食べ物を突き刺して手渡してあげればよいだけのことだと私は思います。慣れるまでには時間がかかるかもしれませんが、一度手づかみで楽に食べることを覚えた赤ちゃんに、わざわざ面倒なフォークやスプーンの使い方を改めて教えることに比べればはるかに楽だと私は思います。

どうしても手で食べる体験をさせたいのであれば、大人も手で食べるパンなどを手づかみで食べさせる体験をさせてあげればよいだけのことです。わざわざ手づかみを体験させて成長の遠回りをさせるのは赤ちゃんにとって、勿体無いと私は思います。

ちなみにたまに聞く、『この子はフォークやスプーンが使えなくて』と言って手づかみを許す親御さんがおられますが、親が子供にスプーンを使わせていないだけのことです。手づかみを覚えさせたから、フォークやスプーンを使う意味が子供にとってわからないだけです。そして教えなくても出来るはずだと思っているから、フォークやスプーンを使うことを教えていないだけのことなのです。
親自身がフォークやスプーンは自然に使えるようになったと誤解していることが原因だと思います。誰かが根気よくフォークやスプーンの使い方を教えてくれたことを忘れているだけのことだと私は思います。

赤ちゃんや子供は何も知らずに生まれてきているのです。
大人にとっては当たり前のフォークやスプーンの使い方も誰かから教えてもらったのです。
特に箸の使い方は練習が必要です。誰かに教えてもらわないとわからないのです。
気づいたら出来るのが当たり前だったので、生まれたときは知らなかったことを忘れてしまっただけのことなのです。

計算問題は出来ても文章題が出来ない一つの理由

算数がわからなくなるのはある理由があります。計算問題は解くことが出来ても、文章題を解くのが苦手な人がいます。計算問題は解ける訳ですから計算が出来ない訳ではありません。つまり計算式が立てられないのです。その理由を考えてみました。

計算式の意味がわかっていない

大人は当たり前に計算式を立てることができるため、子供が計算式の意味を理解していないこと自体が理解できないのです。
当然学校では計算式を立てる意味を順序立てて説明しているのですが、意味を正確に理解できないまま何となくこんな感じという程度の理解で授業が進んでしまうのです。
先生も含めて大人は何気なく当たり前に文章題から計算式を立てるので、その仕組みを理解しなければ立てられないことが理解できないのです。
つまり先生も含めた大人は計算式は立てられて当たり前で、わざわざ計算式の意味を教える必要などないと思っています。子供は答えが出ればよいというクイズ問題を解いているのと同じような感覚で問題を解いています。物事の意味を計算式に変換するという意味をを知らないのです。この大人と子供の齟齬のせいで子供が問題が解けないことが大人には理解できないのです。子供は子供で式を立てる意味が理解できていないので、どうしてよいかわからず混乱してしまうのです。

言葉の計算式を立てる

まず言葉の計算式を立てることを提案します。

具体的に例題を元に説明してみます。
A君がみかんを5個食べました。B君はみかんを3個食べました。みかんは2個残っています。
最初にあったみかんは何個ですか?

ここで
5+3+2=10

答え10個と答えるのは簡単です。
しかしこの式を立てることが難しい子供もいるようです。
意味もわからず最初に出てきた数字をとにかく足すということだけ理解する子供もいます。
そうなると数字が変わっただけの問題は解けますが、ほかの文章題では全く解けなくなってしまいます。

ここで言葉の計算式を立てることを提案します。
大人は当たり前に理解していることをあえて式として見せて理解を促すのです。

食べたみかん+残ったみかん=最初のみかん

食べたみかんは?と食べたみかんを分解してみます。

A君の食べたみかん+B君の食べたみかん=食べたみかん
つまり

食べたみかん+残ったみかん=最初のみかん
(A君の食べたみかん+BB君の食べたみかん)+残ったみかん=最初のみかん

と書くことができます。
この言葉の計算式に数字を当てはめると数字の計算式になります。

5+3)+2=10
このように言葉の計算式をまず書いてから、数字の計算式を書くようにすると理解できるお子さんがいます。
もしよかったらお試しください。

何でも口にする赤ちゃんの心理

何でも口にする赤ちゃんに心理を聞いて確認した訳ではありませんので、一つの仮説だと思ってください。

赤ちゃんはみんな何でも口にすると思いがちですが、何でも口にする赤ちゃんとそれ程口にしない赤ちゃんがいるようです。その違いから赤ちゃんの心理を考えてみました。

何でも口にする赤ちゃんはお腹が空いているようです。お腹が空いていることをわかってもらえないため、食べられる物がないか口にするようです。食べ物を求めて何でも口にしているだけのことかもしれません。

こんなことを書くと否定したくなる人もいるかもしれません。食事をしたすぐ後でも何でも口にするからお腹が空いているとは考えられないと。

赤ちゃんの食べる量が親の常識の範囲をこえてしまっているのかもしれません。十分な量を食べさせたつもりでも、赤ちゃんにとっては足らないのかもしれません。そのことを伝えることが目的な訳では無いとは思いますが、まだお腹が空いているので何でも口にするのです。食べ物が手に届く範囲に無いので、口に運べるものを食べることが出来るかどうか口にしているだけのようです。食べて美味しいかどうか確認しているのです。

赤ちゃんが何でも口にする場合、食べ物を口に運んでみてあげてください。まだ食べると思います。食べさせ過ぎを心配する方もおられますが、赤ちゃんにも大人と同じように満腹センサーがあるので食べ過ぎることは少ないはずです。食べ過ぎて嘔吐するのであれば加減するようにしましょう。嘔吐しなければ食べ過ぎでは無いと私は思います。

何でも口にするのは赤ちゃんなりのボディランゲージなのではないかと思います。何でも口にする赤ちゃんはまだお腹が空いているという考え方をお試しください。

この仮説が証明されれば、何でも口にするというのは食べさせ方が少ない証で、恥ずかしくて人に言えないという時代がやってくるかもしれません。

しつけと虐待の違い

しつけと称して虐待しているように見える親をたまに見かけます。

現在のところしつけと虐待の境界は曖昧な部分もあり、明確に区別出来ないことが問題です。そのため他人が介入しにくい側面があります。

私はしつけと称して手を挙げる必要は無いと思います。怒る必要などありません。そもそも子供は知らないから、してはいけない行動がわからないだけなのです。

私はしつけと虐待の違いは本質的には無いと思います。子供に危害を加えるのは全て虐待だと思います。しつけと言い訳した虐待では無いでしょうか?。そもそもしつけとは、親の一方的な言い分です。子供の立場からすれば、知らないだけで怒られても困るというものです。

賛同はなかなか得られないと思いますが、子供に怒ることすら虐待だと私は思います。何故なら子供を怒る必要など無いからです。子供はまだ大人にとっての常識を知らないだけなのです。親が怒っていること、腹を立てていることをまだ知らないだけなのです。それを怒られても困るだけなのです。しかも怒られているから、どうして良いかわからないと聞くことが出来ないのです。

このように書くと、以前にも言ったことを出来なかったら子供に怒っても仕方が無いでしょうと言われる方もおられます。何度言っても言うことを聞かないから、しつけをしても仕方がないと考える人もいるのかもしれません。言ってもわからないと考えているのは親の勝手な理屈です。親は言ったつもりだけど理解しているのか確認はしたのでしょうか?その確認も「わかった?」だけでは茶番劇です。何故なら怒られて怖いので「わからない」とは言えないからです。「わかった」としか言えない聞き方は確認とは「何故いけないかわかる?」と聞けば確認出来るのかもしれません。確認の仕方も工夫次第です。

何度言ってもわからないのは、何度言っても伝えることが出来ていないのです。誰に問題があるのでしょうか?理解出来ない子供でしょうか?説明が不十分な親でしょうか?当然わからせるべき親の問題でしょう。親が自分の説明の仕方の問題で子供が理解出来ていないことにも関わらず、子供を責めるのはおかしな話です。子供にはどうすることもできません。だからしつけと称して虐待していると私は考えるのです。

しつけと称して虐待しないために

子供を怒らないことです。怒る必要のない子育ての提案です。日頃から怒る必要が無いことを理解していれば、間違っても虐待などすることは無いからです。

子供に腹が立っても、一呼吸おいて考えてみるのです。子供は何故腹が立つような行動をしてしまうのだろう。何をまだ知らないからそのような行動が取れるのだろう?と考えてみるのです。子供はまだ知らないだけなのです。そのことを教えるのは怒ろうとしている貴方のはずです。自分が教えていないことで相手を怒るなんて、罠を仕掛けて罠にはまった相手を罵るようなものです。子供にそんな嫌な思いをさせてはいけません。

例えば片付けをしなければどうなるのか教えてあげれば良いのです。探し物がなかなか見つからないことを実際にわからせてあげれば良いのです。

怒るから怒られないことが目的になり、嘘をつくようになるのです。目的を理解させていないから誤魔化すようになるのです。

そろそろ社会全体で怒る必要のない子育てを取り入れるべき時がきたのではないかと思います。

貴方は赤ちゃんに怒りますか?

貴方は赤ちゃんに怒りますか?
恐らく怒らないでしょう。
では人に怒ったり腹を立てたりしますか?人に対して怒ったり腹を立てたりしなければ良いのですが、もしかしたら人に対して怒ったり腹を立てたりしても無駄かもしれないのです。

赤ちゃんには怒らない理由

赤ちゃんには怒らないのに、人には怒るのは何故でしょう。相手が何歳くらいになると怒るようになるのでしょうか?恐らく言葉を理解するようになる2歳か3歳になるも怒るようになるのではないでしょうか?大人でなくても小学生や中学生になればしっかりと怒りの対象となることでしょう。

でも不思議ですよね。同じ子供なのに赤ちゃんだと怒ることなく、赤ちゃんに従うのに、成長と共に突然怒る対象になるなんて。

人を怒る理由

成長と共に相手を怒るようになる理由は言葉の理解です。こちらの言葉が通じない赤ちゃんには怒っても無駄だから怒ることなく、赤ちゃんに従うのです。赤ちゃんが泣けば赤ちゃんが快適に過ごせるように赤ちゃんに従うのです。成長と共に言葉が通じるようになると、途端に子供に対等の立場を無意識のうちに要求してしまうので怒りを感じますし、腹が立つのです。2歳や3歳なんて赤ちゃんと大して変りなくても、言葉が多少理解出来るだけで全て理解しているはずだと大人が勝手に誤解して怒るだけのことです。言葉が通じると自分の頭の中で考えていることまで相手は知っていると誤解してしまうのです。

子供からみればそんなの怒られても知らない、聞いたことないからわからないと思っていることでしょう。「そんなことしちゃダメでしょ!」と言われても子供の頭の中では「そんなことってどんなこと???」とはてなマークがいっぱいです。しかし余りにも一方的に怒られるので、何を怒られているのか理解も出来ず、言い返すことも出来ず困ってしまうのです。何を怒られているのか説明してもらえないのですから、子供にわかるはすがありません。それにも関わらず怒られているのですから、子供にとってはたまったものではありません。その上何がいけないのかわからないまま、怒られて教えてもらえないのですから次にも同じようなことをしてしまうのです。実は子供は怒られたことをわからないなりに手探りで、怒られない方法を探しているのです。同じようなことをして怒られるのでも、子供なりに違う行動を試していることも多いのです。大人にとっては駄目な行動が含まれているので、違いを子供が考えていることに気付いてあげられないのです。

親も仕方ない

しかし親も、親にとっていくら当たり前のことでも、一度は説明しなければ子供にはわからないことを知らないのです。親は自分が当たり前に知っていることは、自然に知ることで親が教えるのが当たり前だと知らないのです。その齟齬で怒っているのです。よく「親の顔が見てみたい」と言う言い方をしますが、的外れな指摘ではありません。子供が常識を身につけるのは親の責任です。そして親が子供に腹を立てるのは筋違いです。何故なら自分が教えていないから、子供が当たり前のことを知らないのです。親を腹立たせるような行動を取らせてしまったのは親の教育不足です。自分の責任で子供の行動に問題があるのですから、怒られるべきは誰でしょうか?自分のはずです。怒るなら自分を怒るべきなのです。喜劇では無いので自分を怒っても仕方がありません。怒らず、まだこんな基本的なこど教えていなかったか?と子供に謝っても良いと私は思います。謝らないまでも、笑い話にしてしまえば良いのでは無いでしょうか?

私はこのように考えているので、赤ちゃんに対しては怒らないのに言葉が通じるようになった途端に怒るのは不思議です。視点を変えて、怒る前に相手に何が不足している結果怒らせるような行動をとったのか考えてみるべきです。

怒りたい相手が大人の場合

相手が知らないのは自分の責任では無いだけで、大人でも考え方は同じです。相手に対して腹を立てて怒っても無駄です。わかっていて行動していれば、言うだけ無駄ですし、わからずに行動していれば知らないだけですから知らないことを伝えれば良いだけです。嫌な思いをしただけでなく実害があるのであれば、どれだけの損害があるのか客観的に伝えれば良いだけです。相手の落ち度であれば、そのことを理解させ、損害に対してどのように償ってくれるのか問い質せば良いだけです。赤ちゃんと違って言葉が通じるのですから、怒りという感情を使う必要などありません。

相手が赤ちゃんと同じだと思えば腹も立たないでしょう。理解出来ないのか、知らないのかのどちらかなのですから。

勉強が楽しくない理由

勉強が楽しく感じることが出来る人は残念ながら稀でしょう。何故なら勉強する目的がわからないまま、押し付けられるから面白く感じることが出来ないのです。子供にとって勉強は、大人にとっての仕事みたいなものだから必ずしなければならないという、子供には全く理解出来ない大人の理屈で無理矢理押し付けられるので楽しくないのです。

勉強を楽しむことの出来る人は、知らないことを知る喜びを知っているのでしょう。知ることそのものが楽しく感じることが出来るのです。そしてテストで良い点を取ると褒められるので、勉強の動機付けとしては最高の状態です。知ることが楽しいので、より深く知ろうとします。知識が深まるので余計楽しくなるのです。このタイプの人は優等生タイプで、放っておいても勉強していきます。人から強いられることは嫌でも、知ることが楽しいので自分から進んで新しいことを知ろうとするのです。周囲から見るとあたかも勉強が好きなように見えますが、勉強が好きな自覚はなく、知ることが好きなのです。勉強の目的もわからないまま、偶然学校の勉強を知ることが楽しいと感じることが出来ただけのことです。

多くの人達はわざわざ勉強という時間をかけて知ることで、何が変わるのかわからないまま知ることを強いられます。話の面白い人と面白くない人の違いで書きましたが、人は興味のない話は面白く感じることが出来ないのです。面白くもないことを勉めて強いるので勉強とはよくいったものです。

今では費用対効果という考え方もあるため、わざわざ時間をかけても得るものが無ければ無駄という考え方をする人までいるかもしれません。子供よりもその親が、勉強など出来なくても良いと考えてしまうかもしれません。

何の目的で勉強をするのか勉強の目的を教えてあげると良いと私は思います。例えば文字が読めなければ、目的地にたどり着くことが出来ないことや、食べ物を手に入れることも難しくなります。大人にとって余りにも当たり前過ぎることは、子供にとつても当たり前に知っているはずとして説明しないことがあるのです。他の例えとしては、計算が出来ないと買い物も不便です。所持金と欲しい物を交換するだけですから計算は出来なくても買い物は出来ますが、残りどれだけ買うことが出来るのかは計算が出来ないと不便です。お釣りの間違いに気付くことも出来ないかもしれません。地図の見方や太陽と星の動きなどから方角を知ることが出来ることなど、今では当たり前のことでもその知識のない昔の人達がどれほど苦労していたのかを対比して知ることで理解が深まると思います。人類は先人達のおかげでこれだけの文明を築くことが出来ています。先人達の見つけた知識を当たり前の勉強として覚えるのではなく、見つけるまでどんな苦労があったのか?見つけたことでどんな恩恵があったのかを合わせて知ることで、勉強が面白く感じることの出来る人達が増えると思います。勉強を教えるのが上手な先生は、これらの予備知識を付け加えることで知る楽しみを勉強の中で見つけてもらうことの出来るのです。全ての人達がこれらの予備知識に興味を持つわけではありませんが、少しでも多くの人達が知る楽しみを勉強の中で見つけることが出来ると良いですね。

子供が勉強が楽しくないのは、目的がわからないのか理解出来ないからなのかもしれません。勉強すると色々なことがわかるようになることを教えてあげましょう。理解出来ないのであれば、もしかしたらもっと以前に習ったはずの根本的なことが抜け落ちているのかもしれません。わからないところがどこかわからなくなっているため、自分ではどうしたら良いのかわからないのです。根本的なことから教えてあげると良いかもしれませんね。人は多少なりともわからないことがわかるようになると楽しいと感じるはずです。良かったらそのような視点で見守ってあげてみてください。

勉強が好きになるために

まずは何でも良いので知る喜びを理解することです。分野は何でも構いません。興味のあることを対して知る喜びを感じるのです。楽しいと感じると更に知りたいと思うようになります。その範囲を少しずつ広げるのです。わからないことがわかると楽しいと知ることが第一歩です。最初は勉強でも知ると楽しいことを寄り添って教えてあげる必要があるかもしれません。楽しいと感じるように手助けするだけで違うと思います。

ちなみに私は知らないことを知るのが大好きなので、面白そうでまだ知らないことを絶えず探しています。最近では人類の進化の歴史や様々な科学の歴史と宇宙について情報収集しています。