糖質回避の危険性に対する不安

糖質回避をした場合の危険性の不安の指摘がありました。確かに実際に寿命がどうなるのかはわかりません。

私の考えでは、身体の細胞やたんぱく質に障害を与える糖質を控えるわけですから、寿命は伸びると考えています。

全く新しい理屈は前例がないから過去のデータとの比較は意味がありません。

例えば今となっては当たり前のiPhoneの発売の際に、どれだけ売れるのかデータを出せと議論したとしても無意味だったことでしょう。幸いその判断をする経営者が言い始めたiPhoneですから、そんな不毛な議論は無かったはずです。何が示したいかというと、革新的な話は前例との比較は無意味だということです。

不安の内容は糖質を控えることでたんぱく質の摂取量が増え、腎臓の負担が増えるのが心配というものでした。確かに理論上はあり得るかもしれません。私からすれば、受け入れないそれらしい理由を探してきただけのように感じます。腎臓のたんぱく質の処理量が、現在全員がギリギリの状態で透析一歩手前ということなら成り立つ話です。一つの腎臓でも大丈夫なように、通常腎臓は十分な余力を備えていますから心配のし過ぎのようです。

別の例え話を考えてみます。命に関わる程ではありませんが体調を崩す部屋にいることがわかりました。(糖質を食べることで2型糖尿病、肥満を起こしていることを表しています)部屋にいることが体調を崩すのですから、外に出ることを提案しています(糖質回避の提案だと思ってください)。不安がる人は外の安全性が確実ではない。歩道を歩いても車に後ろから跳ねられるかもしれないから、外に出るのは不安と主張しています。(たんぱく質の取りすぎで腎臓に障害が出るかもしれないから糖質回避はしない)

2型糖尿病、肥満という明らかな糖質の害を前にして、起こるかどうかもわからない腎臓の障害を不安がる。(私は腎臓には余力が十分あるなで起こらないと思います)

もっとシンプルに極論すれば火事の部屋から、外に出ると車に跳ねられると心配して、明らかに危険な火事の部屋にとどまっているように思います。

ちなみにアドラーの心理学によると不安というのは、やらない言い訳をするために利用するものだそうですよ。