座る二宮金次郎氏の銅像に思う

薪集めの間に歩きながら本を読んでいた二宮金次郎氏の銅像が、今は座って本を読んでいる銅像に変わりつつあるそうです。

薪集めの時間も惜しんで本を読んだことが逸話として残っています。座って読むなら逸話とは話がずれてしまいます。歩きながら本を読んではいけないという考え方のため、二宮金次郎氏の銅像が座ったのでしょう。私は教務力の低下が放棄を心配してしまいます。

二宮金次郎氏の銅像の背景を説明することを放棄しているのではないかと思います。もしくは理解してもらえないから銅像を座らせたのではないでしょうか?

二宮金次郎氏が子供の頃は、子供が働くことが当たり前でした。勉強よりも家の手伝いが優先されて当たり前の時代でした。そして昼間にしか本が読めなかったはずです。明かりを灯してまで本を読むことは許されない時代でした。仕事としての薪集めの合間に時間を惜しんで本を読むことに意味がありました。当時は山道ですからすれ違う人などほとんどいません。転んでも自己責任です。自分が痛いだけです。このような背景を伝えることで、二宮金次郎氏の考え方の素晴らしさがわかるのです。

銅像を座らせたのは、恐らく先生方もこの背景が理解仕切れていないのではないでしょうか?

確かに現代では歩きながら本を読むことは危険です。自分自身が車に撥ねられるかもしれませんし、誰かにぶつかるかもしれません。二宮金次郎氏が歩いていた頃とは大きく環境が異なるのです。

二宮金次郎氏は、歩きながら本を読んだから凄いのではありません。時間を惜しんで勉学に励んだから凄いのです。時間を節約する手段として歩きながら本を読んだだけのことです。いわば家の手伝いもして、勉強もする知恵を考えたから凄いのです。

このことを伝えることの出来ない日本の未来が心配です。

投稿者:

呉からの風

呉の医師です。 糖質回避教の推奨者です。 様々な分野で気づいたことを掲載していきます。 怒る必要のない子育てを掲載予定です。