性善説と性悪説という考え方は無意味です。何故なら善悪は多数派が決めるだけのことだからです。人は善悪共に兼ね備えた存在です。善だけの人もいない代わりに悪だけの人もいないのです。
ペナルティーがないと多くの人はズルをしてしまいます。近道があるにも関わらずわざわざ遠回りするとすれば、何らかの制約があるからです。何の制約やペナルティーも無ければ人は誰でも近道をするでしょう。ペナルティーが無ければ遠回りをする理由を探す方が難しいかもしれません。
そもそも法治国家では法に従うのは律、罰則というペナルティーが嫌だからです。その仕組みに慣れてしまっているので、行動の判断が罰則・ペナルティーがあるかどうかによるのです。例えば駐車禁止の場所に一時的に車を停めると駐車違反で捕まります。捕まるから駐車違反をしてはいけないと考えてしまうのです。本来通行の邪魔にならない目的で駐車禁止とされているのですが、多くの人がその目的を理解していないか考えてもいないので捕まらないようにふるまうのです。このような観点では捕まらないと罰を受けないので、捕まらないように駐車してしまうのです。
法治国家では法を守ることを前提に仕組みが作られていますが、罰則を避けるために法を守るという意味合いのため人々は目的が罰を受けないことになってしまいます。ちょうど子供が怒られない目的で言いつけを守るようになることに似ています。どちらも本来の目的が抜け落ちて罰を受けないことが目的になってしまうのです。
躾においても法律においても、約束を守らないと罰を受ける仕組みのため罰を受けないために約束を守るようになります。逆に罰を受けなければ約束を守ったりしなくなるのです。中にはモラルが高い人もいるので全員がずるをするようになるわけではありませんが、ズルをした人がペナルティーを受けることなく得をし続けると誰もがズルをするようになってしまうのです。その意味ではズルをしたら後々損をする仕組みを作ることが必要だと思います。法律で縛ることには限界がきつつあるのかもしれません。
人は隙があればズルをする生き物だということを認識した上で、21世紀にふさわしい法律を作るべき時がきていると私は思います。
例えば雇用の際に募集をかけた労働条件と実際の労働が異なっていたとしても、実際には罰則はありません。罰則がないので良い人材を集めるために誤魔化した労働条件で募集する企業があるのです。ズルをした方が得をするという世の中なのです。例えば募集条件に嘘偽りがあれば、雇用した人が辞める可能性が高いため雇用保険料を3倍に引き上げるとか、3年間募集禁止とするなどトータルで損をする仕組みを作るべきです。
他にも様々な分野でズルをした方が得なことがまだまだあるようです。
他に思いついた例えでは、脱税があります。脱税を試みて失敗しても時効になれば儲けもので、捕まっても全額没収される訳ではないので一か八か試してみる人がいるのです。見つかれば全額没収の上、追徴課税で脱税した以上の損をする仕組みにしてしまえば犯罪者になるリスクを犯す人は激減すると私は思います。
ズルをすると損する仕組みを作ることが出来れば、多くの人の生活が変わるのではないかと私は思います。