某大学アメフト部が大学ぐるみで隠蔽する目的

反則タックルが刑事事件になるかどうか取り沙汰されている某大学アメフト部ですが、どうやら大学ぐるみの隠蔽をするつもりのようです。

隠蔽の目的は年間95億円にものぼる補助金(参考:私大の補助金交付)を守るためのようです。最近ではいくつかの理由で減額され今年度は年間80億円程度との記載もありました。

補助金の取り扱いに関する決まり事が記載されている私立大学等経常費補助金取扱要領によると

(8) 学校経営に係る刑事事件により役員又は教職員が逮捕及び起訴されたもの
(9) 役員若しくは教職員の間又はこれらの者の間において訴訟その他の紛争があり、教
育研究その他の学校運営が著しく阻害され、又はその機能の全部若しくは一部を休止
しているもの

とあります。

ということは役員でもある元監督が指示を認めてしまうと、逮捕・起訴され何億円もの補助金が消えてしまう可能性があります。元監督がすぐに会見しなかったのは、しなかったのではなく出来なかったというのが正確な表現なのでしょう。何故なら自分が認めてしまうと最悪数十億円もの補助金がなくなってしまうため、大学関係者と話し合う必要があったことが類推できます。また訴訟になってしまうことでも補助金カットの可能性があるようです。万が一訴訟ともなれば連日の取材で学校運営が著しく阻害されると判断されても不思議ではありません。

学生の教育よりもお金の方が大切な人たちの集まりであることを露呈しているようなものです。そのことは加害学生の会見を全て否定して自己保身に走っている姿からも明らかです。

加害学生の会見の後、唯一挽回出来たとすれば監督・コーチが指示したことを認めて監督・コーチの職はもちろん、役員も辞任することでした。そのチャンスを逃してしまったので、後には引けない坂道を転げ落ちてしまっています。

自分達の都合の良い作文を読み上げる記者会見とはことなり、警察の取り調べが始まれば白状するかもしれません。少なくとも板挟みになっていたコーチは真実を話す可能性は十分あります。とはいっても現実には刑事事件での起訴は困難かもしれません。しかし民事で訴訟を関係者の誰かが起こせば上記の取り決めに触れる可能性が出てきます。そうなれば全額カットの可能性もある訳ですから、元監督を切り捨てて大学も指示を認めるようになるかもしれません。

しかし現時点で大学は加害学生を切り捨てて、補助金を守ることを選んでしまったようです。果たしてお金を払ってまで進学する価値があるかどうか疑問が沸き起こります。

いずれにしても某大学は勉学を学ぶ場としては不適切なように思います。さすがに定員割れになるとは思えないので入学する生徒数は減らないでしょうが、受験者数は減るでしょうね。ちなみに今年は商学部で定員を大きく上回る人数が入学してしまったため6億円もの補助金がカットされるようです。

某大学の今後の行方は正直なところ私には関係有りませんが、ワイドショーやテレビで報道されるので、生暖かい目で見守りたいと思います。

ただ立派な会見をした加害学生がこれ以上嫌な思いをしないことを祈るばかりです。

アイドルの強制わいせつ事件の本当の問題点

ある有名アイドルが強制わいせつ事件を起こしてしまいました。ワイドショーやニュースで報道されているのでご存知の方も多いことでしょう。私は個人攻撃をしたい訳ではありませんので名前は伏せておきます。ワイドショーやニュースで報道されない本当の問題点を書いてみたいと思います。一言で言えば飲酒が絡んでいることです。更にいえばアルコール依存が根本的な問題点です。

伝え聞いた話によるとアルコール依存の診断はされていないようですが、本当に診断されていないのであればそのことこそが一番の問題だと思います。

アルコール依存

直接診察した訳ではありませんし私は専門ではありませんから確定は出来ませんが、某アイドルはアルコール依存の可能性が高いと思います。何故なら依存の診断基準を満たしていることが報道だけみても疑われるからです。(参考:糖質依存という新しい概念、依存の診断基準を掲載しています)

依存対象に対してコントロールが出来ない
仕事に支障をきたしている
身体や心に悪いことがわかっていても続けてしまう。

依存の診断基準では、これらを1年以内に3つ以上を繰り返し経験したか、1か月以上にわたって3つ以上が同時に続いた場合に診断となるようです。

報道だけ伝え聞いても上記は明らかではないでしょうか?

アルコール依存が他の依存と異なるのは、依存物質であるアルコールそのものが精神に変調をきたしてしまうことです。依存物質であるアルコールが精神に働きかけ、正常な判断を妨げてしまうことです。精神に直接影響を与えるとされていない糖質でさえ、抜け出すことは困難です。ましてや精神に直接働きかけるアルコールは自分の意思で抜け出すことは非常に困難だと私は思います。

某アイドルの本当の問題点

某アイドルが起こしてしまった事件は強制わいせつ事件です。
これは紛れもない事実で弁解の余地はありません。
しかし根底にアルコール依存という病気が正常な判断力が働いていないことにあります。

つまりアルコールという薬物が問題なのであって、本人に悪気・自覚がないことです。本人は覚えていないので似たようなことを繰り返してしまいます。
他人から酔いが醒めた後で他人から酔った時の行動を責められたとしても、依存という病気なので依存対象に対する欲求を抑えられられないのです。
今回警察沙汰になったことで明るみにでましたが、恐らく似たようなことはあったでしょう。

もし本人が、アルコールを続けることでこのようになると事前にわかっていれば、アルコールを断つことが出来た可能性があります。犯罪に至ってしまうという想像はできなかったのでしょう。

いわばアルコールのせいで正常な判断力が働かないので、もしかしたら酔った勢いで車を運転して事故を起こしてしまったかもしれません。もしかしたら酔った勢いで喧嘩をしてしまって傷害事件を起こしてしまったかもしれません。酔った勢いで起こしてしまったことが未成年に対する強制わいせつ事件だっただけのことです。

酒癖が悪いのではなく、問題はアルコール依存という病気なのです。病気が彼に世間一般の常識から外れた行動をさせたのです。
アルコール依存は自分で最悪の事態を想像し、アルコールの問題を自覚しなければ抜け出すことは困難です。自分だけで抜け出すのは非常に困難だと思います。そもそも正常な判断力がアルコールによって奪われているからです。酔っているときは勿論正常な判断力を失くしていますが、酔っていないときも、アルコールを如何にして手に入れるかという欲求と闘っているため正常な判断が出来ないのです。通常備えている理性を依存対象であるアルコールへの欲求が勝ってしまうのです。アルコールのために平気で嘘をつくようにもなってしまうでしょう。

アルコールは言い換えると法律で認められた薬物です。合法的な薬物中毒の状態です。
厄介なことに合法的な薬物中毒の状態であることが広く理解されていないため、本人の自覚の問題とされているのです。勿論アルコールを楽しまれる方のうちでコントロールが効かなくなる人、アルコール依存に陥る人の割合はごくわずかです。しかし割合が極わずかであるからこそ、病気ではなくアルコールの飲み方・自覚の問題と認識されるのです。依存の罠に陥ったことを多くの人達が責めてしまうので、依存に陥った人はアルコール依存に向き合うことが出来ず、依存であることを認められないのです。

解決策

某アイドルの方がこの問題の根底から解決するためには、アルコール依存から抜け出すしかありません。幸いアルコールは麻薬や覚せい剤とは異なり、現代の日本では合法です。ちなみにかつてアメリカではアルコールを禁止した禁酒法という時代がありました。アルコールがあるから秩序が乱れるとされ、アルコールを国が禁止したのです。結果として密造酒が作られマフィアが暗躍しかえって治安が悪化したため、禁酒法はなくなりました。人類の歴史においてアルコールをある種麻薬のようにとらえた時代があったということです。

某アイドルの方が、人からアルコールを禁止されるのではなく、自分でアルコールの危険性や害を認めることが出来ればアルコール依存から抜け出すことが出来るでしょう。逆にアルコールに対する認識を変えることが出来なければ、残念ながら麻薬や覚せい剤を繰り返す人と同様にアルコールを繰り返してしまうでしょう。
彼にアルコールの認識を変えるきっかけを与えることの出来る人が周囲にいるこおと祈るばかりです。

壮大な解決策

実は私は一番の問題は依存に対する教育の欠落だと考えています。その解決策を壮大な解決策として書いてみたいと思います。

アルコールというある種危険な薬物を税金をとることで合法化している訳ですから、その危険な薬物に対する依存性という情報を国民に伝える義務があるのではないかと考えています。アルコールを摂り過ぎると病気になりますというアナウンスはタバコ同様に行われていますが、依存性の情報提供が乏しいように思います。その依存性の情報提供が乏しいことが悲劇を起こすのではないでしょうか?いわば税金を多く払ってくれるお得意さんですが、病気のせいで税金の払い過ぎを正してあげるべきではないかということです。

依存は様々なところに罠をしかけています。
最も身近な依存は糖質依存です(参考:糖質依存という新しい概念)。つまり糖質を食べるだけで依存に陥ってしまうことがあるのです。太るとわかっていても食べてしまう。一度食べだすと止まらない。ついつい食べ過ぎてしまうなど依存の一種です。
広く理解されているのはアルコールやタバコ、コーヒーなどのカフェインも依存性があります。パチンコや競馬などのギャンブルにも依存性があります。借金をしてまでギャンブルをするのは依存に間違いないでしょう。
お菓子や果物の甘味に依存してしまう糖分依存ということもあり得るようです。
少し稀な依存では買い物依存なども存在します。買った物が欲しいのではなく、買い物という行為に依存してしまうのです。本来物を買うのは物を使用するためですが、買い物依存に陥ると同じ物を買ってしまったり、箱や袋を開けずに放置されたりしてしまいます。
麻薬や覚せい剤などは依存性が高く禁止されています。麻薬や覚せい剤は絶対ダメという教育を義務教育の間にされているようです。私はもう一歩踏み込んで、依存に対する教育を義務教育の間にするべきだと考えています。

私が直接国政に関わることがある(私はそんな器ではないため絶対にありませんが・・・)なら、依存の仕組み、依存の対象、依存の抜け出し方を義務教育の間に全員に伝えることを目指すでしょう。何故なら依存の知識のないうちに依存対象に触れてしまうことで依存に陥ってしまうからです。その良い例がタバコです。中学生や高校生が興味本位で煙草を吸ううちにニコチン依存に陥り、長年抜け出せなくなってしまうのです。
パチンコやゲームなど娯楽産業や、タバコやアルコールなど依存のおかげで成り立っている業界は必死で抵抗するでしょうが、そもそも病気に陥らせることで消費が歪んでいるのです。その消費の歪みを正すのですからいくら依存産業が反対したところで、理にかなった仕組みを導入しない理由はありません。

今回の事件では嫌な思いをされた未成年の方はおられますが、幸い死者は出ていません。依存の種類によっては死者が出ることも稀ではないため、今回の事件をきっかけにして義務教育での依存の仕組みを伝えるきっかけになればよいと私は考えています。

土俵の女人禁制は女性差別では?

土俵は伝統的に女人禁制だそうです。

つい先日ある市の市長さんが土俵上で倒れ、女性が応急処置をした際、土俵からおりるように場内アナウンスがあり問題になっています。命よりも伝統的な決まりが大切だそうです。
(医師の情報交換サイトでは応急処置の手順に疑問の声が上がってはいますが、私はその動画を見ていませんし結果的に市長さんの命は助かったようなので今回は触れないこととします。)

そこで土俵を女人禁制にする『意味』を考えてみました。

一言で言えば土俵を取り囲む人達がそう信じているだけのことです。女性が土俵に上がったからといって土俵が爆発する訳ではありません。土俵に上がった女性が災難に見舞われる訳でもありません。実際に何人かの女性が土俵に上がりましたが、土俵を取り囲む人達が騒いだ以外何も起こってはいません。実際に女性が土俵に上がることで因果関係として何らかの不都合があるのであれば、女人禁制は合理的だと思います。しかし女性が土俵に上がっても何も起きてはいません(もちろん女性が土俵に上がったからといって何か起こるとも思っていません)。つまり女人禁制に合理的な理由はないということです。取り囲む人達がそう信じているだけという証拠です。俗に迷信と言われることと大差はありません。宗教における聖地の考え方に近いのではないかと思います。聖地といってもその宗教を信じていない人には何の意味もないことに似ています。

土俵に女性が上がってはいけないというのは、かつて女性は選挙にいってはいけないという発想と何ら変わりはありません。別の例えでは、黒人は白人用のトイレを使用してはいけないという発想とも変わりありません。

伝統を理由に女人禁制を正当化するのを認めれば、前例に習い体制を変えないということです。これを認めるのであれば今でも選挙は男性だけだったのではないでしょうか?
以前から女人禁制だからこれからも女人禁制という理屈は成り立たない話です。
人類は歴史的に考えてみても間違いをいくつもおかしています。
女性差別はありましたし、人種差別もありました。
それを以前から行っているからというだけで改めて考えることなく継続するのは、思考停止している状態ではないでしょうか?間違いを指摘されても以前からやっていたからと理由で片付けてしまえば、永久に間違いが正されることはないということになります。

土俵の女人禁制は女性差別では?

土俵の女人禁制は女性差別ではないでしょうか?
何故なら女性が土俵に上がってはいけない合理的な理由がないからです。
確かに男性と女性の身体の仕組みの違いから、男性トイレと女性トイレを分けることは区別だと思います。お風呂も男性用、女性用と分けることは差別ではなく区別だとすることに異論はないでしょう。

確かに女性が上半身裸でまわしを付けて土俵の上で相撲を取ろうとするのは、トイレやお風呂の場合と同様問題がありそうです。人前で胸を出してしまう点で公序良俗に反するという意味で法律に違反するため、法律違反を犯してまで女性が相撲を取ろうとすることは現実には問題となることはないでしょう。
服を着た状態で土俵に立つことは法律には触れません。

別の話をすれば、可愛がりと言い換えて虐待をしていたことも伝統としてつい最近まで続けていたのでしょう。弟子が言うことを聞かなければ可愛がりと言う名の虐待をしているのも、伝統だから仕方ないという話で片付けようとしていました。死者も出たことですし、さすがに法律違反ですから現在ではあからさまな虐待はないとは思いますが、法律に触れて問題になってようやく考え方を改めることしか出来ないようです。

今回の話も女性差別だとしてチケットの不買運動やテレビの不視聴運動が本格化し、運営に支障が出て初めて事の重大さに気づくのでしょう。

その前に誰も気にしなくなって廃れていく運命なのかもしれません。

女人禁制として女性を差別している人達のことを、わざわざ女性が気にする必要はないと私は思います。いわば土俵の女人禁制教の信者の集まりとして生暖かい目で見守るようにしましょう。その後ちびっこ相撲で女児は出場を辞退するように申し入れがあったことも判明しました。

実際に土俵の女人禁制教という宗教団体であれば、信じている人達だけの問題です。しかし観客のある興行という意味では、土俵の女人禁制が理解出来ない人達にも土俵上の興行を見てもらう必要があるはずです。そろそろ考え方を改める時期だと私は思います。

私は正直土俵が女人禁制であろうとなかろうとどちらでも構いません。何故なら私の生活に何の影響もないからです。土俵上のことに大して興味もないからです。ただテレビやネットで話題になっているため、女性差別だと断言し、これからも差別を続けるのですか?と質問するだけで議論が終わるのにと思い書き込んでみました。

日本に住んでいて心から良かったと思うこと

私は今日本に住んでいますが、残念に思うこともありますが、心から日本に住んでいて良かったと思うことがあります。今回はそのことについて書いてみたいと思います。

他にもあるかもしれませんが、今回日本に住んでいて良かったと思うのは銃に関してです。現在の日本には銃はほとんどありません。そのおかげで銃を使った犯罪はほとんどありません。合法的な銃は狩猟向けと競技用を除けば、警察官、海上保安官、自衛官が待つだけです。日本の治安を守る人達だけが銃を持つことで治安が維持されています。

つい先日某国で元高校生が銃の乱射により10人以上の人が亡くなりましたし、少し前には同じ国でコンサートの会場に向けて自動小銃が乱射され50人以上の人が亡くなりました。

合法的に銃の所持が認められている某国では、誰が銃を持っているかわからないため自衛のために自分も持つという悪循環が起こっています。みんなの心の平静が保たれていれば良いのですが、多くの人が銃を持てば持つほど、心の平静を保てない人が銃を手にしてしまう確率が高まります。その点で私は非常に怖く思うのです。

物事を合理的に考えれば、規制に動くのが当然でしょう。現在の仕組みでは心の平静が保てる人だけが銃を手にできる訳ではないため、少なくとも許可制などの仕組みが必要なはずです。

某国が歪んでいると思うのは、銃の普及を推進する団体が政治に対して影響力が大きく、政治家が規制に動けないことです。政治家が政治家でいるために、選挙に勝てる政策を推し進めるという、民主主義の限界を表すものだと思います。そして本気で銃の規制を口にする政治家が出てくれば、欲に目のくらんだ人達に抹殺されてしまうかもしれません。政治家としての抹殺か命の抹殺かはわかりませんが、いずれにしても政治家としての人生に危険が及ぶため、政治家達も口にすら出来ないようです。

ましてや大統領が教師の銃の武装化を推奨するのは、銃の普及を推進する団体へのリップサービスのように思えてしまいます。

合理的に考えれば、通常の銃ではなくテーザー銃(離れた人に発射出来るスタンガン)を推奨するはずです。学校内で犯人を射殺する必要はなく、行動を止めることが出来れば良いからです。わざわざ通常の銃を推奨するのは、喜ぶ人達がいるからでしょう。合理性が歪んだ国に住んでいなくて良かったと思うのです。

日本でも非合法に銃を持っている人もいるとは思いますが、国内にある銃の数は某国にある銃の数に比べると圧倒的に少ないと思います。日本に住む誰もが、交通事故の心配はしていても銃に撃たれて死ぬことは微塵も考えてはいないでしょう。そのことを日本に住んでいて心から良かったと思うのです。

某国は圧倒的な武力により他国に対しては強くても、国内に火種を抱えてしまっているように思います。

あらゆる武器の必要ない世の中が早くやってくるといいですね。

主観的競技に思う

冬季オリンピックが開催され話題となっています。スピードを競う競技は議論の余地はなく、ハイスピードカメラで多方面から確認すれば勝敗がはっきりします。いわば客観的競技です。審査員の得点で競う競技は審査員の主観に頼ることになると思います。審査員の主観に頼る競技を主観的競技とし、その主観的競技について考えてみたいと思います。

主観的競技について

審査員による得点評価はどうしても審査員個人の主観によって変わってしまいます。審査員個人の主観なので得点の理由や根拠を明確にすることが出来ません。場合によっては審査員の好みによって決まってしまいます。

勿論審査員の方は公平にみることが出来る方が選ばれているはずですが、審査員も良くも悪くも生身の人間です。自分の好みや同じ属性の方を良い点にしてしまう可能性があることは避けきれません。

私は特定の人の好みで勝敗が決まる競技に魅力を感じません。何故なら審査員の好みが正しいとは限らないからです。その点客観的競技では歴然とした誰にでも検証出来る差が生まれます。

これまでは他に選択肢がなかったため、審査員の主観に頼るしか仕方がありませんでした。そこで審査員の好みの問題を出来るだけ排除するために、審査員の出身国や人種を分散させ、数人で審査を行うようにしています。出来るだけ公平な視点で審査されるように配慮されたとしても、残念ながら生身の人間が審査を行う限り主観を完全に切り離すことはできません。

主観的競技の将来

将来を予測してみると、今現在は主観的競技とされる競技が30年後にも生身の人間が審査員として審査しているとは思えません。何故ならAIに審査を任せてしまえば、減点、加点を後で検証することが出来るからです。

現在の技術でさえ、既にAIでの審査をすることが出来るのではないかと思います。次のオリンピックは無理だとしても、少なくとも次の次のオリンピックでは人工知能による審査をするべきだと思います。何故なら好き嫌いという人間の好みとは切り離した審査をすることが出来るからです。主観的競技を客観的競技に至らしめる機械での客観的評価が出来るにも関わらず、あえてIOCが機械を導入しないのであれば、ただの怠慢か何らかの利権を守るためでしょう。

機械での採点は味気ないという人達もいるでしょうが、私は味気ないと感じても誰もが同じ基準で採点される意味は大きいと思います。味気ないと感じるのは導入してしばらくのことで、機械での採点に慣れてしまうと、生身の人間が採点していたことを思い返せば不条理に感じることでしょう。

少なくとも機械での採点が30年以内にはじまることは間違いないでしょう。30年では機械採点にならないと思っている人達も、例えば100年オリンピックが続いたとして、100年間人間が採点し続けていると考えるでしょうか。

機械採点になるかならないかではなく、いつかは機械採点になるはずです。であれば機械採点がいつかという問題だけです。私はあと3回、つまり12年以内には機械採点になって欲しいと考えています。

もし万が一、人工知能が人間の知恵をこえるシンギュラリティ(特異点)をこえても生身の人間がオリンピックの審査員をしているとすれば、残念ながら欲が捨てきれない人達が多いことがわかります。誰の欲が多いのか考えてみてください。

オリンピック、パラリンピックに思う

冬季オリンピックが開催されています。
私自身は競うこと自体がベストを尽くすための手段に過ぎないと考えていますので、ショービジネス化しているオリンピックは否定的にみています。気になるのはメダルの数くらいです。

私からみるとショービジネスとしての側面の大きいオリンピックですが、次に東京で開かれるため思ったことを書いてみたいと思います。

私はオリンピックとパラリンピックがオリンピックから開催されることに疑問があります。これまでのオリンピック、パラリンピックではテレビでの扱いは、オリンピックが終わりパラリンピックはおまけのような扱いでした。

既に日程が決まっているので今更変更は困難だとは思いますが、東京オリンピックではパラリンピックから開催すれば良いと考えていました。何故なら先に開かれるパラリンピックを報道することでオリンピックを盛り上げ、パラリンピックがメインイベントの第一弾となることです。

パラリンピックがおまけではなければ、オリンピックよりも先にパラリンピックを開いても良いのではないかと思います。

歴史を振り返ると日本の差別を失くす行動のおかげで、反感は買いましたが世界から表立った人種差別がなくなりました。確かに日本は間違いも犯しましたが、実は凄いことも行なっています。その日本で開催されるオリンピック、パラリンピックですから、パラリンピックから開催してはどうかと思うのです。

そして今後のオリンピック、パラリンピックは先に開催されるものを交互に開催するようにするのです。今回はパラリンピックから開催したから次はオリンピックからという具合です。

理想的にはオリンピックもパラリンピックも同じ期間中に同時に開催することです。

オリンピック関係者からパラリンピックを先に開催するという発想が生まれることを祈っています。

血糖値が気になる方へのバレンタインプレゼント

今日はバレンタインデーです。私自身は宗教に興味が有りませんが、世間ではチョコレート屋さんのアイデアでチョコレートをプレゼントする習慣が根付いています。しかしチョコレートは約半分が糖質である砂糖なので、血糖値が気になる人にとっては食べるかどうか悩ましい問題です。

糖尿病など血糖値を気にされている相手にプレゼントする場合、砂糖の入っていないチョコレートゼロがお勧めです。特にロッテ チョコレートゼロ は血糖値が上がりにくいことは私が食べてみて確かめました(参考:砂糖の有無によるチョコレートの食後血糖値の違い)。

 

ロッテのチョコレートゼロを溶かしてハートなど形の作れば、オリジナルの砂糖ゼロチョコレートを作ることが出来ます。

大切な方が血糖値が気にされていれば、砂糖ゼロのチョコレートでのプレゼントはいかがですか

いじめで自殺に思う

残念なことに昨年夏に死んでしまったお子さんが自殺であると認められたようです。

いじめで中3女子自殺に思うに書きましたが人が何人か集まれば、いじめは起こってしまいます。勿論いじめを肯定する訳ではありませんし、いじめは起こらないに越したことはありません。しかし動物でもいじめは起こるのですから幼稚な人間がいじめをしても仕方がありません。問題はいじめを放置してエスカレートすることです。いじめをしている本人達はいじめという自覚が無いことが多いため、第三者がいじめだからやめようと制止するべきなのです。残念ながら自分達でいじめだと気付くことはほとんど出来ないと私は思います。

元々動物によるいじめは、自分よりも弱い仲間をいじめることで自分の生存確率をあげるために行われます(参考:動物がイジメをする理由)。現代社会における人間は他人をいじめても自分の生存確率をあげることは出来ないことを教えてあげましょう。他人をいじめることで、他人より優れていると錯覚するだけです。他人を思いやる心を育むことなくある程度成長してしまったため、他人をいじめてしまうのです。

動物でのいじめは死んでしまうまで行われるそうです。救済策はその群れから引き離すことしかないそうです。動物のいじめは他人を思いやる心が無いのですから仕方がありません。仲間というエサを奪い合う「敵」なのでいじめることで追い落とすのです。人間の仲間はエサを奪い合う「敵」ではないので、仲良くしようと伝えることです。

学校でのいじめの対策

私がいじめ対策を作るなら、いじめが起こるのは仕方がないので、小さないじめのうちに解決するようにします。いじめがあってはならないと理想論を主張することに意味はありません。

具体的には段階を追って対策を取っていきます。

①個人名を出さずにいじめになる具体例をあげてみんなに説明して注意を促すのです。いわばまず名指しではない警告をするのです。本人が自覚すればやめる可能性があります。この時点でやめることが出来れば誰も傷つかずに事をおさめることが出来ます。

②いじめをしている本人が鈍感で自分のことだと気付かない可能性もあります。その場合にはいじめをしている本人に名指しで警告をするのです。「貴方のしていることはいじめですよ」と伝えることです。

③名指しの警告でもいじめをやめない場合、いじめた本人にペナルティーを課すのです。

現在のところいじめが解決しない場合、止むを得ずいじめられた子が転校しています。しかしそれでは転校した先でもいじめられる可能性が高くなります。対策としてペナルティーも含めて、いじめた人間を転校させるのです。二回名指しの警告で改善しなければ、転校することにしてしまうのです。

いじめている人間が突然誰も友達のいない学校に転校することになれば、かなりの抑止力となるはずです。複数人でいじめを行なっている場合、分散して転校させることにするのです。

このような仕組みを作り上げて、いじめる人間に警告をはじめればかなりの抑止力が働くと私は思います。ただ証拠を残さないようにいじめが陰湿化する可能性があるため、注意が必要だと思います。

大切なこと

もう一つ大切なことはいじめがあることやあったことで先生を責めてはいけないということです。いじめの放置を責めるべきであり、いじめがあることを責めるべきではありません。ちょっとしたいじめはどこにでも起こりうるからです。いじめがあると責められるのは嫌だからいじめをなかったことにする心理が働き、見て見ぬ振りをしてしまうのです。いじめが起こるのは仕方がありません。大事に至る前に対処するべきなのです。

今後はいじめを見つけた先生を褒めるべきだと思いますし、解決した先生は表彰しても良いのではないかとすら思います。

生徒がいじめを受けていることを訴えても放置した場合、担任を外す、転勤させるなど教師に対する警告やペナルティーの仕組みを作るべきなのかもしれません。いじめを知った上で放置するのはいじめに加担しているのと同じです。そもそも放置してしまう教師は、教師という職に向いていないのだと思います。

今いじめられている人へ

そして今いじめられている人は誰でもいいので、誰かに助けを求めましょう。助けを求められた人は自分でいじめをやめさせることが出来なければ、更に誰かに助けを求めましょう。助けを求める声が大きくなれば、誰かが助けてくれるはずです。もし万が一助けを求めても、誰も助けてくれなければ、学校から逃げ出せばいいんですよ。そんな学校なんて行かないのが正解、逃げるが勝ちです。大切な自分の命をなくしてしまう程、真面目に相手にすることなんかありません。誰も助けてくれないなら学校なんて行かなくていいんです。

学校に行くことより、あなたの命の方が大切だから

早くいじめがない世の中が来るといいですね。

大相撲理事選に同門から2人立候補に思う

何かと話題の大相撲ですが、同門から2人出ることで選挙になるそうです。通常は同門であれば1人を代表に絞って立候補するようです。1人であれば無投票で理事になれるところをあえて同門から2人立候補することで選挙に持ち込むようです。ワイドショーを見ていると求心力が無くなったとのコメントがありました。私は別の目的があると思います。そのことを書いてみたいと思います。

人の行動には必ず目的があります。今回同門から2人立候補することにも目的があるはずです。2人目が自分の意思だけで立候補するのであれば求心力が落ちたのは確かでしょう。

わざと同門から2人立候補したとしたらどうでしょうか?選挙がないままであれば無投票ですが、評議員会で否決される可能性があります。だからわざわざ選挙に持ち込んで評議員会で否決しにくい仕組みに持ち込もうとしているのではないでしょうか?

この私の予想が正しいかどうかは選挙の結果である程度わかります。某親方が負ければ私の思い過ごしでしょう。しかし某親方が同門の票をほとんど集めれば、私の予想通りの出来レースだと思います。評議員会から否定されないために、選挙を利用するのだと思います。

つまり2人が理事になることは想定しておらず、選挙をしてもしなくても同門から理事が1人選出されることに変わりありません。2人立候補するのは選挙をすることが目的だからです。

結果が割れていれば出来レースではないのかもしれません。今回の一件に策士がいて出来レースではないと見せかけるために、分散させていればかなりの策士です。逆に2人の親方が0票、つまり立候補した親方自分自身にすら投票しなかったとすれば、意図的な反抗の証しだと思います。

追記)某親方は落選してしまいました。口では1票で良いと言いながら裏工作をしていると思っていたので意外でした。

わざわざ落選するために立候補したようです。どんな深謀遠慮があるのか…。少なくとも私の想像の枠の外です。

駐車料金のトラブル多発に思う

コインパーキングで駐車料金のトラブルが多発しているようです。原因は24時間以内1500円などの定額表示の曖昧さです。

24時間以内1500円

という表示があれば、定額料金は一度だけ適応させるのか繰り返し対応されるのかわかりません。

一度だけしか適応されないかもしれないことを知らなければ、何度でも適応されると思い込んでしまいます。そこに齟齬、駐車料金に対する認識のズレが起こる余地があるのです。

納得していなくても駐車料金を稼ごうとしている儲け主義の業者か、納得した上で駐車してもらおうという良心的な業者かによって表示は異なります。私は駐車料金の表示を、悪徳とは言わないまでもわざと曖昧にして駐車料金を稼ごうとする儲け主義の業者か、良心的な業者かを見分ける手段にしています。

24時間以内1500円(定額料金の適応は1回のみ)

と表示があれば24時間以後は通常料金が適応されるであろうことが推測出来ます。間違えて駐車してトラブルを避けたい良心的な業者さんだとわかります。儲け主義の業者は定額料金の適応は1回のみと書いていなかったり、非常に小さい文字で書いていたりします。つまり勘違いしてでも料金を稼ぎたい表れのように見えてしまいます。

何度でも適応されるのであれば

24時間毎1500円

24時間以内1500円(何度でも適応)

と表示するだけで済むはずです。このように書いてあれば安心してとめることが出来ます。

私自身旅行するため新幹線に乗る際、駐車料金で混乱したことがあるためこの表示の違いに気付きました。定額料金が何度も適応されるのか一度きりなのか判断できなかったのです。当時多くの業者は細かな記載はありませんでした。旅行なので数日駐車するのですが、一回だけ定額なのか繰り返し定額が適応されるのか曖昧なのです。中でも「定額料金何度でも適応」と書いてある駐車場を見つけてとめた覚えがあります。

トラブルになるのは表示の曖昧さが原因です。騙してでも料金を稼ぎたいのであれば別ですが、納得して料金を支払って欲しいと考えているのであれば料金表示を改めるべきだと思います。

世の中から読み手が混乱する曖昧な表示が無くなるといいですね。