ペナルティー・罰則がないと人はズルをする

性善説と性悪説という考え方は無意味です。何故なら善悪は多数派が決めるだけのことだからです。人は善悪共に兼ね備えた存在です。善だけの人もいない代わりに悪だけの人もいないのです。

ペナルティーがないと多くの人はズルをしてしまいます。近道があるにも関わらずわざわざ遠回りするとすれば、何らかの制約があるからです。何の制約やペナルティーも無ければ人は誰でも近道をするでしょう。ペナルティーが無ければ遠回りをする理由を探す方が難しいかもしれません。

そもそも法治国家では法に従うのは律、罰則というペナルティーが嫌だからです。その仕組みに慣れてしまっているので、行動の判断が罰則・ペナルティーがあるかどうかによるのです。例えば駐車禁止の場所に一時的に車を停めると駐車違反で捕まります。捕まるから駐車違反をしてはいけないと考えてしまうのです。本来通行の邪魔にならない目的で駐車禁止とされているのですが、多くの人がその目的を理解していないか考えてもいないので捕まらないようにふるまうのです。このような観点では捕まらないと罰を受けないので、捕まらないように駐車してしまうのです。

法治国家では法を守ることを前提に仕組みが作られていますが、罰則を避けるために法を守るという意味合いのため人々は目的が罰を受けないことになってしまいます。ちょうど子供が怒られない目的で言いつけを守るようになることに似ています。どちらも本来の目的が抜け落ちて罰を受けないことが目的になってしまうのです。

躾においても法律においても、約束を守らないと罰を受ける仕組みのため罰を受けないために約束を守るようになります。逆に罰を受けなければ約束を守ったりしなくなるのです。中にはモラルが高い人もいるので全員がずるをするようになるわけではありませんが、ズルをした人がペナルティーを受けることなく得をし続けると誰もがズルをするようになってしまうのです。その意味ではズルをしたら後々損をする仕組みを作ることが必要だと思います。法律で縛ることには限界がきつつあるのかもしれません。

人は隙があればズルをする生き物だということを認識した上で、21世紀にふさわしい法律を作るべき時がきていると私は思います。

例えば雇用の際に募集をかけた労働条件と実際の労働が異なっていたとしても、実際には罰則はありません。罰則がないので良い人材を集めるために誤魔化した労働条件で募集する企業があるのです。ズルをした方が得をするという世の中なのです。例えば募集条件に嘘偽りがあれば、雇用した人が辞める可能性が高いため雇用保険料を3倍に引き上げるとか、3年間募集禁止とするなどトータルで損をする仕組みを作るべきです。
他にも様々な分野でズルをした方が得なことがまだまだあるようです。
他に思いついた例えでは、脱税があります。脱税を試みて失敗しても時効になれば儲けもので、捕まっても全額没収される訳ではないので一か八か試してみる人がいるのです。見つかれば全額没収の上、追徴課税で脱税した以上の損をする仕組みにしてしまえば犯罪者になるリスクを犯す人は激減すると私は思います。
ズルをすると損する仕組みを作ることが出来れば、多くの人の生活が変わるのではないかと私は思います。

目的が利益だと利益のあるうちは努力しない

ある企業の方と話をしていて驚いたことがあります。
改善する方が更に上を目指せるという話をしましたが、現時点で利益が出ているのでそこまではしませんという返答がかえってきて驚きました。
つまりその企業の行動の動機は利益なのです。答え・正解が利益なので、利益という答えが出ていればより良い正解があったとしても努力する必要はないと考えるようです。
日本の企業が伸び悩んでいる原因を見つけた心境でした。

以前二つの最善 ~自称最善と絶対最善~に書いたように最善には2種類あるようです。利益が正解だと考えている企業は、利益が出ていることが答えなので自称最善で満足します。利益が出ている時点でご満悦という状態です。それ以上の努力など考えもしません。利益確定の時点が到達点だからです。利益が出ている間は思考停止してしまうのです。目的が利益だと、利益が出た時点で目的を達成してしまっているのでそれ以上の努力をしないのです。そもそも利益以外が目に入らないのです。

利益を目的としない企業、つまり絶対最善を目指す企業は利益が出ていても更に最善を目指します。利益だけが目的ではないため、利益が出ているからといって満足しないのです。利益に満足せず更なる最善を尽くすのです。絶対最善を尽くす企業にとっては利益が出ていることは目的ではなく、スタートラインでしかないのです。利益は企業の為ならずという私の考えた諺のように利益を目的としない企業が強いのです。

ちなみに利益を目的としない企業は日本にもあります。改善を世界に広めた企業です。
利益が出ているからといって努力をやめることなく、改善を続けるのは正に絶対最善を突き詰めているのです。しかも社員総出で改善を続けるのですから、強いのです。

利益が出ているから思考停止している企業は、環境が変わると慌てて努力をはじめますが日頃自称最善として最善を尽くしているつもりなので、すぐには対応できません。結果として利益を目的だと考えている企業は、環境の変化に弱いのです。目的が利益ではない企業は、絶えず絶対最善を絶えず尽くしているので日頃から様々な可能性を考えているのです。

利益で思考停止している企業。
あちこちに見受けられるように思います。
利益が目的ではない企業には勝てないように私は思います。

どの企業が目的が利益で、どの企業が目的が利益ではないのか?そんな視点で企業を見てみると面白いですよ。

サービス残業が日本を弱くした?

サービス残業が日本を弱くしたのかもしれません。

サービス残業とは残業代の支払われない、資本主義社会から切り離されたボランティアのような労働のことです。良く言われるのが残業代を支払うと会社が潰れてしまうから、残業代は支払えないということです。であれば何らかの無駄があるはずです。非効率で無駄な会社の生き残りを支えるのがサービス残業をする社員です。最近では日本の生産性の低さが指摘されつつあるようです。効率化しなくても支払う賃金が同じにので、効率化する動機が生まれにくいようです。

本来なら資本主義社会では労働にはそれなりの対価が支払われます。だからこそ競って労働を提供するのです。一方社会主義・共産主義が行き詰まるのは、努力しても扱いが同じだからです。サービス残業は労働しても賃金が変わらないという社会主義・共産主義と似通ったところがあります。だから生産性が下がるのです。

サービス残業の問題点

企業は業務が増えるとそれに従い賃金・コストも増やさざるをえません。だからこそ無駄な業務を削減するのです。賃金・コストを減らす目的で業務を効率化するのです。サービス残業の問題点は、賃金・コストが増えないことです。必要な業務か不必要な業務か考えるのが面倒なので、どうせサービス残業でコスト無料だからやらせるのです。コストがかかっていないから、無駄を省く発想がないのです。賃金・対価を支払うのであれば、本当に必要かどうか吟味されることはあっても、無料なら対価を支払う必要がないので無駄を積み重ねるのです。新たな業務が発生すれば、不必要な業務を削減するべきです。サービス残業をしていると、支払う賃金が変わらないので不必要な業務を削減する気にならないのです。

サービス残業の中にも必要な業務もあるのかもしれません。しかし本当に必要な業務であれば対価を支払うべきです。この場合の残業代を支払う目的は、効率化です。必要な業務と不必要な業務の仕分けのために、残業代を支払うのです。無駄な業務を削減することこそ生産性を高めることにつながります。

サービス残業している側は、どうせ残業代がでないからとダラダラと仕事をしてしまいます。素早く仕事を終わらせようとしても、次々仕事を言い渡されます。それならゆっくりと仕事をしようと考えてしまいます。ちょうど社会主義・共産主義がうまくいかないのと同じような構図です。

サービス残業をさせているから業績が悪いのです。

サービス残業をさせている企業もそろそろこの仕組みに気付くべきだと思います。残業代が支払うことが出来ないなら、そもそも仕組みに問題があるのです。サービス残業に甘えて無駄が削減出来ないのです。この積み重ねが日本を弱くしていると私は思います。

ミスは個人の問題ではなく、システムの問題

人間はヒューマンエラーをすることがどうしても避けられません。ヒューマンエラーをしないように気をつけるという対策は、頑張った振りはするけど結局何もしないことと同じです。

ヒューマンエラーをしないように気をつけるのではなく、ヒューマンエラーを出来る隙を無くすのです。

例えば何かのスイッチを押す場合を考えてみてください。何も対策が無ければ、人が間違いがないことを確認する必要があります。見間違いや勘違いなどで判断を誤ると間違ってスイッチを押してしまう隙があるのです。ヒューマンエラーを無くすために、予めスイッチのボタンを取り外し、第三者が確認しスイッチのボタンを渡す仕組みにすると間違いでスイッチを押すことが出来ます。ちょうど鍵により確認するのと同じ仕組みです。絶対に間違いがあってはいけない核兵器では何重にも確認する仕組みがあるはずです。

ミスの捉え方

ミスをした人がいても怒ってはいけません。何故なら怒ったところで時間を巻き戻すことは出来ないからです。いい加減な対応をした結果、ミスをしたとしてもそもそもミスをする隙があったのです。システムの設計ミスです。ミスのプロセスを見極め、再発防止策を作るのです。ミスをしたくてもミス出来ない仕組みにするのです。先程の例えで言えば、うっかりスイッチを入れてしまうことを防止するならスイッチのボタンを外しておくなどです。航空機はヒューマンエラーが重なると墜落してしまいます。絶対にあってはならない燃料切れで墜落したことも何度かあるのです。ヒューマンエラーが重ならない仕組みを考え出して、飛行機は安全に飛んでいるのです。

仕事でうっかりミスがあったからといって、ミスした人を責め立てても何も解決しません。むしろミスを隠そうとしてしまいます。ミスをする隙を無くすのです。例えば会議に必要な資料の持参を忘れていたとします。万が一忘れていることが発覚してもまだ間に合う時間のうちに、持参しているか確認するのです。あるいは前もって会議室に届けておく仕組みを作るのです。ミスを責め立てるよりも、ミスを無くす仕組みを考える方がより効率的です。

ヒヤリハット

病院で取り入れられているヒヤリハットは、ミスの防止策を見つける手段として有効です。事故には至らないもののヒヤリとするとこやハットすることを元に、大事故にならないように未然に防ぐ対策を立てるのです。人の命が関わる病院ならではの考え方です。ミスをする隙を無くす目的で、危ないと気付いたことの要素を取り出し、ミスを起こせないように改善するのです。

個人を責め立てても、何も生み出さないのです。むしろ隠そうとする分、個人を責め立てることは失うものの方が多いので損です。

再発防止策はどうするのかを考えるのです。

発想の逆転 消費減税を考えてみる

発想の逆転を考えてみます。
国民から税金を取ろうとする国と、何とか税金を払いたくない国民とがせめぎ合いをしています。
ふと発想の逆転をして経済のことを考えてみたいと思いました。ただの空想の世界です。
何においても発想の逆転というのは、思考する上で役立つ情報をもたらします。空想してみる価値はあると私は勝手に考えてみました。

消費税とは?

そもそも消費税とは、お金を使うなら使った分だけ国に場所代を支払いなさいという仕組みです。国民はお金は税金を支払いたくはないが、消費の際には仕方なく支払うものです。お金を使わざるを得ないことを盾に考え出された税金です。

消費するかしないかを悩む際には、出来れば消費しないように仕向けてしまう負の側面があります。増税すると景気が悪くなるのは皆さんご存知の通りです。

将来の不安のためお金を使わず、貯めようとする心理が働きがちです。お金を使わないと得な仕組みになっているため、みんな将来に備えてお金を使わないようにしてしまいます。そのことに気付いた人から余計な物を買わなくなってきつつあるのです。消費税は景気の改善の邪魔をしてしまいます。

言い方を変えると、国民にお金を使わない方向に圧力をかけているようなものです。

消費減税とは?

発想の逆転をして、お金を使うと減税をするのです。今はお金を使うと税金を支払うことになりますが、お金を使うと景気の改善に貢献するので、お礼に減税するという考え方です。流石にお金を使うとお金をあげますというポイント制のようなものは無理だと思うので、減税という手段を考えてみました。目的はお金を使うと得な仕組みを考えるのです。

お金を使った分の全額あるいは何割かを課税額から控除するのです。もし実現すると課税方式が変わるので、課税する税率も大きく変えなければならなくなります。貯蓄額に対して課税するような印象です。そうなると消費する方が得だと考える人も増えると思います。もしかしたらバブルのような景気がくるかもしれません。貯蓄しようとすると課税されるので、使わない損だと考えるのです。

実際に実現すると課税税率は現時点の20〜30%は増税になるので、大混乱に陥るでしょう。

お金を使うと減税されるという少し嬉しい空想話でした。

日本の労働生産性が下がった理由

日本の労働生産性が他国と比較して下がりつつあります。かつては世界を牽引する勢いだった日本経済は日に日に衰退しているようにも思います。

その理由を考えてみます。
私はその一端はサービス残業を認めているからだと思います。何故なら賃金が変わらず、労働時間が伸びるので生産性が下がります。
お金を支払う必要が無いと仕事を減らそうとは思いません。逆に賃金が変わらなければ、更に仕事を増やそうとします。必要性の有無を考えるのが面倒なのでとりあえず同じ仕事をさせようとします。どんな意味があるのかわからないからやらせるのです。どうせ賃金が変わらないのでやらせれば良いと考えるのです。賃金を支払うのであれば、無駄なことはしません。コストに跳ね返るからです。無駄は省きます。働いても賃金が変わらないのは、多くの国で失敗している社会主義と何ら変わりません。だから労働生産性が落ちるのです。当たり前といえば当たり前のことです。日本は資本主義の枠組みの中に、こっそりと社会主義を導入してしまっているのかもしれません。その結果伸び悩んでいるのではないでしょうか?そう考えると、サービス残業は誰が得をするのでしょうか?誰も得することなく、経済が衰退しているのです。一見すると企業は残業代を支給しなくて済んでいるので、得をするように見えますが、結果として損です。何故なら賃金を支払うなら絶対しないような無駄な作業が増えたにもかかわらず、削減しないからです。賃金に見合わない仕事を続けるだけで労働者の貴重な時間を奪うのです。無駄な作業に時間を奪われ疲弊し、必要な仕事に時間を割くことが出来ないのです。企業も損をして、労働者も損をする。最終的には顧客も損をする。そんな三方皆損な仕組み、早くやめさせれば良いのに、国は逆に舵を切ろうとしています。物事の仕組みを理解せず、目先の利益(実は利益にならないのですが理解できません)を優先してしまいます。ホワイトカラーエグゼンプションなどという企業の目先の利益のための法案が審議されています。更に労働生産性を下げたいようです。

日本の労働生産性を上げるためには、サービス残業は一切禁止し、全ての残業代を支払うべきです。残業代を支払うことで企業は費用対効果を考え方、無駄な仕事は削減します。そして残業の多い人の仕事は、残業の少ない人に仕事を割り振るのです。わざと残業代を稼ごうとする人の逃げ道を塞いでおくのです。残業時間ぎ多い人は労働生産性が低いのかもしれません。労働生産性の高い人に仕事を割り振る方が企業全体での生産性が向上します。

残業代を支払わないから、良く考えもせずこれまで通りの無駄な仕事を押し付けていませんか?

営業マンがいなくなる日

営業マンは色々な意味で仕事が減っています。中でも営業マンがいなくなるという考え方を提案してみます。仕事そのものが減るだけでなく、説得マンに成り下がる場合と宣伝マンに昇格することで営業マンがいなくなることを考えてみます。

理想の営業マン

営業マンの仕事は会社の商品を売ることです。売るものは品物であったりサービスであったり様々です。仕事が減っているのは、インターネットが代わりに商品を売ってくれるからです。

理想の営業マンは相手が欲しいものを売ることです。相手が欲しいものが他社製品であれば仕方ありません。最初からお客さんではない人に声をかけてしまっただけです。ただ相手がまだ知らなかった他社製品が適切であるという情報を提供出来たことを喜ぶのです。

営業マンから説得マンに

営業マンは売り上げにより仕事が評価されるので、必死に売り込みます。営業マン本来の仕事は相手の欲しいものを売ることですが、目先の売り上げを求められるため説得マンに成り下がってしまうのです。本来であればお客さんが欲しいものを提供するべきですが、売り上げが欲しいため、興味のあるお客さんを説得してしまうのです。相手を欲しい気にさせることが仕事だと錯覚しているのです。相手の欲しいものと売っているものが重なれば買ってもらえますが、重ならないのに売り上げのために説得を始めるのが説得マンです。営業マンが説得マンになってしまうので、営業マンがいなくなってしまうのです。

とにかく売り上げを上げることを求める会社は、営業マンを会社から送り出しているのではありません。説得マンを送り出しているのです。

ものが売れるのは営業マン次第だと誤解しているのです。ものが売れるのはもの次第です。だから良いものを作ることよりも、売ることに重点を置いてしまうのかもしれません。

私は時間を無駄にしたく無いので、説得マンは相手にしないことにしています。そもそも会わないようにしています。どんな説得をされても、必要が無い限り買うことは無いからです。逆に必要があれば説得などなくても買うからです。

営業マンから宣伝マンに

理想の営業マンの行動を求める会社は売り上げを評価の対象から外しました。ある製薬会社では現実に成績での評価をやめ、行動評価をはじめたそうです。売り上げばかり求められていたため、行動での評価されることに戸惑いもあるようです。現場で戸惑うのは自分が営業マンではなくなった自覚がないからなのです。

行動が評価されるようになるのは、自社のものを売ることが目的ではないからです。相手が欲しいものを売ることが目的であるため、自社のものを説明することで相手が欲しいものか確認してもらうことが仕事なのです。

相手に自分の売るものを宣伝することが仕事です。売れるかどうかは相手が欲しいと思ってくれるかどうかにかかっているのです。宣伝の仕方である行動が評価されるのです。

あくまでもものが売れるかどうかはもの次第です。売れないのは営業マンの問題ではありません。売っているものの問題だと考えるのです。

相手の欲しいものを売るという営業マンの理想に近づけば近づくほど、宣伝マンになります。この意味でも営業マンはいなくなります。

会社に利益をもたらす宣伝マンになるために

会社は営利企業なので利益が無ければ成り立ちません。決して利益を目的にする訳ではありませんが、運転資金として利益を確保する必要があるのです。利益は企業の為ならずという諺を提唱しています。会社のためにならない宣伝をしても意味がありません。

宣伝する相手は選ぶ必要があります。幼稚園児に大学入試の参考書は売れませんし、運転免許のない人に車は売れません。車を買うつもりの人であっても、軽自動車を買うつもりの人に、超高級外車の宣伝をしてもお互い時間の無駄です。相手のニーズと売りたいものとを照らし合わせ、重なる部分が無ければお互いの時間の無駄です。重なる部分が無いのに売り込むと説得マンになってしまいます。

営業マンがいなくなる日

私はもしかしたら既に営業マンはいないのでは無いかと思います。売り上げでしか評価されない営業マンは既に説得マンで、行動だけで評価されるようになった営業マンは宣伝マンだからです。

既に営業マンとは言葉だけで、説得マンと宣伝マンに分かれているのかもしれません。営業が仕事だという人の多くは、今は売り上げを求められていると思います。しかし自分が説得マンか宣伝マンのどちらのタイプに近いか考えてみてください。

自然淘汰と資本主義

人類は数十億年の生物の進化の歴史の集大成のような存在だと思います。

自然淘汰

様々な生物が生まれ、子孫を残すうちに誰が意図した訳でもなく偶然の積み重ねで多様性が生じました。その多様性が自然淘汰という仕組みで選別され、何らかの優れた点のあるもののみが次の世代に子孫を残すことが出来ました。ある生物が出現することで一つの種が食べ尽くされてしまうこともありました。人間が食べ尽くして絶滅してしまった種も何種類かあります。ある島にたどり着いた動物が元々島にいた動物を食べ尽くしてしまうことは十分あり得ることです。動物は遠慮なく食べるので、自然の成り行きです。こうして様々な生物が現在生き残っています。数十億年もの長い長い年月を積み重ねた結果、生き残る上で何らかの優れた能力のおかげで生き残ることが出来ているのです。優れたものだけが子孫を残し、優れている度合いによりその数を増やすことが出来ました。優れたものだけが生き残る仕組みが自然淘汰と呼ばれるものです。これを進化として捉えていますが、生物が意図して進化した訳ではありません。偶然優れた生物だけが生き残ることが出来たのです。人間は知恵により他の動物とは比較にならない程繁栄しています。意図して自分達に住みよい環境を作り出すという点で、進化しているということが出来るのかもしれません。

過去にどれだけ繁栄していたとしても、環境の変化に適応出来なければ淘汰されるのです。恐竜が滅んでしまったように、過去にどれだけ繁栄したかは現在関係ありません。一度滅んでしまうと、環境が元に戻っても恐竜が復活することは出来ないのです。環境の変化に文句を言っても仕方がありません。何故なら環境を自分達の都合良く変えることは出来ないからです。

資本主義

資本主義は今の所最も優れた考え方です。様々な商品が生み出され、市場に受け入れられなければ淘汰されていきます。他の商品より優れていれば広まり、他の商品より劣っていれば売れないので誰も作らなくなります。お金を指標にして優れているか劣っているかが比べられ、優れているものだけが生き残る市場という淘汰の仕組みによってふるいにかけられています。

一部の経営者が勘違いしているのはこの点です。生き残ることが大切なのであって、生み出すことが大切な訳ではありません。市場で生き残ることの出来る物でなければ自己満足でしかないのです。勘違いを表す言葉に「良い物を作れば売れる」という表現があります。良い物を作っても売れるとは限りません。何故なら誰にとって良い物をかという視点が抜け落ちていることが多いからです。作り手側にとっての良い物であっても使い手側にその価値が見出せなければ何の意味もありません。ましてやその見出せない価値の分値段が高ければ売れる訳が無いのです。市販する商品には「良い物を作れば売れる」という考え方は不向きです。

「良い物を作れば売れる」という考え方は美術品などの一品物の考え方には当てはまるのかもしれません。美術品は使い手の自己満足を追求したものを市場価格で買う物だからです。

「売れる物が良い物だ」という考え方が資本主義を正しく理解した考え方だと思います。何故なら資本主義では売れる物だけが生き残ることが出来るからです。資本主義では生き残ることが大切であり、自分達がいくら良い物を作ったとしても売れなければ売り続けることは出来ないのです。

資本主義と自然淘汰

人間には資本主義の考え方が理にかなっています。何故なら資本主義は自然淘汰の仕組みに似ているからです。数十億年の自然淘汰を生き残ることが出来たのは、優れたものだけが生き残る仕組みだったからです。頑張ったものだけが生き残る仕組みである資本主義が重なるのです。

資本主義では法に触れない限りどんな商品でも売り出すことが出来ます。一般的な常識からは売れるはずが無さそうな商品でも長く生き残ることがありますし、売れそうに見えてもいつの間にか消えてしまう商品があります。ちょうど様々な生物の多様性の中から自然淘汰されるように、商品が市場で淘汰されるのです。自然の生物とは異なるのは、最初から売れそうな物を作るという人間の知恵が淘汰を早めているという点です。自然界の自然淘汰では途方も無い時間を要して選別される優位性が、数年で市場で判別されるということです。その期間が非常に短くなっています。以前であれば数年の年月をかけて淘汰されていた事柄が一年から二年、早ければ数ヶ月で淘汰されてしまう程シビアな環境になってきつつあります。このことに気付いていない人達はこれから非常に苦労してしまうことでしょう。

特に危ない考え方は、利益が出ているから良いという考え方です。問題が指摘されても利益が出ているから、問題には取り組まないという考え方です。例えば自動車会社の燃費不正などもそうですし、伸び悩んでいる企業も突き詰めると利益が出ているから問題はあっても取り組まないようです。気付いた時には手遅れということが無いように、淘汰されない方法を利益が出ていても絶えず探すべきだと思います。目的は環境が変わっても生き残ることです。そのような視点で物事を考える経営者が増えるといいですね。

義の心

義の心とは私利私欲にとらわれないことです。
少なくとも政治家には義の心が備わっているべきでしょう。
出来れば公務員の方にも義の心が備わっていて欲しいものです。

医者にも義の心が備わっているべきだと私は思います。

政治家や公務員における義の心

まずは政治家に求められる義の心とは私利私欲にとらわれることなく、国民の生活を一番に考えて行動することです。贅沢な暮らしをすることが目的で、手段として政治家をしているひとが見受けられます。そのような人には義の心が無いのでしょう。もしかしたらそのような政治家には、義という概念そのものが欠落しているのかもしれません。義の心を持ち合わせていない人を見分ける手段が今の所ないため、見極めるのが難しいのが現状です。
多くの公務員の方は義の心で働いておられると思いますが、一部の公務員の方が利権の確保や天下り先の確保が目的となってしまっているようです。これも義の心が無い人を見極めるのが難しいことが問題です。何故なら義の心の無い一部の公務員が集まってしまうと、義の心が無いことが常識となってしまうからです。そもそもそのような集団の中では義という概念が存在しないのかもしれません。利権や天下り先は私利私欲ではなくみんなのために確保すると信じているのだと思います。ただしみんなが国民ではなく、一部の公務員という限られた集団だということです。税金から給料の支払われる公務員誰は、誰からみても義の心を持ち合わせた人達であって欲しいですね。

医者における義の心

医者にも義の心が無い人がいます。何故なら自分の利益のために歪んだ診療をしている医者がいるようです。症状も無いのに不必要な薬を出し続ける医者がいるのです。特徴は患者さんのためを装って、患者さんを怒りながら薬を続けるようです。自分の利益が減るから怒っているに過ぎません。義の心を持ち合わせている医者であれば、自分の利益ではなく患者さんの利益につながることを自然とするはずです。病気を治してしまうと通ってもらえないから、治さないなどということは無くなると思います。

企業における義の心

本来利益を追求するために存在する企業は義の心は無縁のようです。企業が利益を目的にすると判断を誤ります。何故なら企業と顧客の利益が相反するからです。しかし企業においても義の心を発揮することは出来ます。利益の考え方を変えるのです。利益を目的とせず、手段とした時に義の心が発揮できます。

利益は企業の為ならず

利益は企業のためではなく、顧客のためにあるという考え方です。顧客により良いものものを提供するために、運転資金としての利益を得ることを考えるのです。良いものを提供するために存在するのですから、利益を取りすぎることもないはずです。企業の経営者に義の心があれば、利益は企業の為ならずの考え方を理解し実践出来ると思います。事実既に利益を目的にせずに顧客により良いものを提供することを目的に経営している企業がいくつかあります。当然のごとく大躍進しています。どの企業がこのような考え方で経営されているか考えてみて下さい。

三菱自動車、日産傘下入りに思う

三菱自動車の不正発覚でどうなることかと思っていましたが、それなりの着地点を迎えたようです。

最初に傘下入りを聞いた際、このタイミングで出資を決める日産て凄いなと私は思いました。しかしじっくりと考えてみると別の視点が見えてきました。あくまでも私見を書いてみます。

発端は日産から三菱自動車の不正の告発でした。日産の告発の目的は、会社としてクリーンなイメージをアピールすることだと考えていました。他社の不正を告発するくらいだから日産は不正を行うことはないとアピールする目的だと考えたのです。しかし全容が明らかになる前に、傘下入りのために出資すると聞いて別の視点・疑惑を思いつきました。

傘下入りさせる目的で三菱自動車の不正を告発したという考え方です。三菱グループを離れるためにはそれなりの対価が必要ですが、不正が発覚すれば三菱グループも手放したくなるからです。告発すれば三菱自動車が経営危機に陥ることは、日産としても容易に想像できたと思います。その後の落とし所まで考えた上で告発したのではないかという仮説です。頭の良い人間がこのようなシナリオを書いた上で告発したのではないかと考えてしまいました。

もしこの仮説が真実であっても、不正をしていたのですから三菱自動車や三菱グループは争うことは出来なかったと思います。この仮説の真偽を確認することは難しいとは思いますが、ある種の頭の体操として考えてみて下さい。

ちなみに私がこの仮説を思いついたのは、傘下入りにタイミングが早すぎるからです。全容解明される前であればこれからどのような不正が出てくるかわからないはずです。そのような不透明な企業との資本提携はもう少し難航してもおかしくはないからです。

不正告発というマッチで火をつけ、燃え上がった時点で出資というポンプで火を消すという、正にマッチポンプのように感じるのは私だけでしょうか?