科学と宗教みたいな話

ふと思い立って科学と宗教みたいな話について書いてみたいと思います。何故科学と宗教みたいな話を書く気になったかと言えば、根拠に乏しい(少なくとも私にはあり得ないと思えるような…)『理屈』を言われる患者さんがおられますが、信じ切っておられるため『宗教』みたいだなと思ったからです。友人や知人から聞いて信じているならまだましで、酷い場合には他院で医者から私には根拠に乏しいと思われる『理屈』を言われた方までおられます。その根拠に乏しい『理屈』を信じている姿があたかも『宗教』のように私には思えるので書いてみようと思った次第です。根拠に乏しい(と私には思える)『理屈』と『科学』の違いを患者さんに伝える際に、それは言った人が信じている『宗教』のようなものですねとお伝えすると意味を一瞬で理解してもらえます。

『科学』と『宗教』の違い

私にとっては『科学』は現実で、『宗教』は空想の世界のような捉え方をしています。『科学』と『宗教』の違いは一言で言えば再現性だと思います。

『科学』は誰でも同じ結果になるという再現性があるため、多くの人に信じられています。その『科学』を使って様々な製品が生み出され、人々の生活を快適なものにしてくれています。結果を予測出来るのが特徴です。車のエンジンのスイッチを入れればエンジンがかかり、車を動かすことが出来るのは様々な『科学』の再現性の上に成り立っています。

『宗教』のはただ信じるだけで、結果を求めません。同じ状況であっても再現性がありません。

医学は『科学』?

医学は本来であれば再現性が担保される『科学』であるべきですが、まだまだ発展途上段階のため、物理科学のように数式で表すことの出来るような普遍の真理は見出されてはいません。しかしこれからの医学は再現性があるかないかで議論されるべきだと私は考えています。これまでは因果関係といえるまで突き詰めて原因を見出せないため、止むを得ず有意差で議論されていますが、有意差は答えに多少近づいているに過ぎないと思います。人間の身体は複雑な要素が絡まっているため治せないと思い込んでいるのかもしれません。1つ1つ再現性のある『理屈』を医学でも取り入れていけば、医学も『科学』に近づくと私は考えています。残念ながら今の医学は『宗教』に近いところが多々あるようです。

医学においては医学書や論文が正解とされていますが、現時点の最適解に過ぎません。その証拠に、物理科学のように証明された普遍の真理のようなものは全く見つかってはいません。手探りに近い状態で答えを探している状態です。

物理科学の公式のような普遍の真理が見つかっていないだけに、様々な理論や理屈が囁かれ、否定することも難しいため『宗教』のような話が広まってしまう余地があるのです。

医学における『宗教』の具体例

他院で言われたという驚くべき『宗教』のような教えはアトピー性皮膚炎などの皮膚病の場合、お風呂で石鹸を使ってはいけないという医者もいますし、お風呂そのものがいけないという医者までいます。その理由は石鹸は皮脂を過剰に取り除いてしまうから、お風呂そのものがいけないという医者は、アフリカではアトピー性皮膚炎がないが、その理由がお風呂に入っていないからという『理屈』らしいです。他に驚いたのは陥入爪という爪に感染を来す疾患で、体育の授業を休むように言われたそうです。

これら3人の医者は石鹸が悪い、お風呂が悪い、運動が悪いと信じているのです。あたかも『宗教』のように…。石鹸を使った場合、お風呂に入った場合、運動をした場合の違い、つまり結果には目を向けようとはしないのです。石鹸を使ったからといって悪化しなかったそうですし、お風呂に入ったからといって悪化したりましませんし、運動しても悪化したりはしませんでした。

まだ証明出来た訳ではありませんが、野菜から食べるという話も『宗教』のような話かもしれません。何故なら野菜から食べるよりも同時に食べる方が血糖値が上がりにくいかもしれないからです(参考:野菜サラダの食べ方による血糖値の違い)。少なくとも私の行った実験では、野菜サラダから食べるよりも同時に食べる方が血糖値は上がりにくかったですし、他の実験でも同時に食べる方が血糖値は上がりにくいようです。どうやら胃の中で混ざると思い込んでいた食べ物が実は混ざらないようです。

『宗教』のような話を実践する意味

『宗教』のような話を実践する意味は、一言で言えば気が済むだけです。しなければただ気が済まないただ信じているだけで違い・結果を求めないのです。

私自身は『宗教』を信じてはいませんが、否定もしません。何故ならわからないからです。ただ『宗教』を信じる『意味』は、気がすむというだけだと私は思います。時間毎にお祈りする『宗教』もありますが、お祈りしないからといって何か違う訳ではありません。ただ本人の気が済まないだけです。

上記の『宗教』のような話も、実践しなくても違いがありません。事実お風呂に入っても、石鹸を使っても悪化したりはしません。運動したからといって悪化もしません。つまり因果関係はないと判断して良さそうです。

『宗教』のような話も違いが出るかもしれませんので、実践してみても良いとは思いますが、因果関係がなければ気が済むという『意味』しかないため、やめてみても良いのではないでしょうか?

『宗教』のような話をする医者に直接聞いたことはありませんが、ただ闇雲に思いついたことを信じているに過ぎないのかもしれません。本来なら科学者であるべき医者が因果関係を確かめることなく、『宗教』のような話をさも当たり前のように広めているとすれば悲しい話です。

『宗教』のような話が『科学』のように因果関係があるかどうかを確かめるようにしてみましょう。

良い失敗と悪い失敗

良い失敗と悪い失敗について考えてみます。
実は良い失敗などありません。失敗はすべて悪い失敗です。と書くと当たり前のことで目新しいことはないでしょう。

私の中で失敗とは思い通りうまくいかないことではなく、うまくいかないことで諦めることが失敗です。
思い通りうまくいかないことは失敗ではありません。そんなことはいくらでもあるでしょう。うまくいかないことは失敗でもなんでもなく、成功の途中経過に過ぎないのです。

改めて良い失敗と悪い失敗を定義すれば、良い失敗とはうまくいかなくてもうまくいかない理由を知り、次にどのようにすればうまくいくかがわかることです。うまくいかないだけで私は失敗とは思っていません。悪い失敗とはうまくいかないことで何も学ばないことです。これこそが失敗なのです。

思い通りうまくいかなくてもあきらめなければ失敗ではありません。諦めた時点で失敗なのです。

言い換えると良い失敗とは成功の途中経過、悪い失敗とは諦めることです。

そして最終的にうまくいかなくて諦めたとしても、うまくいかない理由を知り、次にどうすればうまくいくかを学ぶことが出来れば無駄ではありません。つまり悪い失敗にはならないのです。そのように考えると今はまだうまくいかないだけという状態、つまり成功の途中として置いておくことが出来るのです。

何も学ぶことなく諦めてしまうことが悪い失敗です。
諦めたとしても何か学ぶことが出来れば良い失敗です。

例えば多くの人が経験する受験一つとっても、志望校に入ることが目的であれば志望校に合格できなければ失敗です。しかし人生の目的は志望校に入ることではありません。思い通りうまくいかなかっただけです。勉強の仕方に問題があったのか、志望校に問題があったのかを学び、これからの人生に生かせば決して失敗ではありません。ただ単に志望校に縁がなかっただけです。
うまくいかなかった時点でやり直しのきくことであれば再チャレンジしてみることも良いでしょうし、やり直しがきかなければ別の目標に対して戦略を立てるとよいでしょう。

良い失敗の考え方には人によって異なるかもしれませんが、少なくとも悪い失敗とは何も学ばず諦めてしまうことです。
悪い失敗は出来るだけ避けるようにしたいですね。

騙される人と騙されない人の違い

世の中には騙される人と騙されない人がいます。当然誰もが自分は騙されないと思っているのですが、残念ながら騙される人がいるのが現実です。騙される人と騙されない人の違いを考えてみます。

騙されるとは?

騙されるとは、相手が自分が利する目的をもって錯誤により損をすることです。多くの場合お金を損しますが、場合によっては時間を失ったり立場を失ったりします。

騙される人と騙されない人の違い

欲の有無

騙される人と騙されない人の違いは一言で言えば欲があるかどうかです。欲の無い人は基本的に騙されたりはしません。欲といってもお金を求める金銭欲だけとは限りません。地位や名誉を求める名誉欲もありますし、食欲や性欲なども利用されることもあります。儲け話による詐欺が典型的な騙しです。名誉欲を刺激する話では、架空の引き抜きの話を用意し部長や役員に取り立てるなどの騙しの手口があるようです。

騙そうとする人達が厄介なのは、困っている人を助けようとする欲を利用する輩までいることです。善意の心を持っている人を騙すのですから、タチが悪いと私は思います。

概念の有無

別の要素は騙されるかもしれないと知っているか知っていないかです。騙す人がいるという概念を持っている人は騙される可能性が極めて低くなります。何故なら騙されるかもしれないから、騙されていないかチェックするからです。それでも巧妙な手口だと騙されてしまいますが、全く知らない人と比べると騙されにくくなります。

振り込め詐欺という概念のない人に対して啓発しているのは、振り込め詐欺という犯罪があると知ってもらうことで騙されにくくするのです。騙す人が電話を使って接触してくるということを知ってもらうことに意味があるのです。

知識不足

知らないことを鵜呑みにしてしまう人は騙されてしまいます。何故なら知識不足だと物事が正しいかどうか判断がつかないからです。知識不足だと物事の整合性が検証出来ないのです。

騙されないために

騙されないためには欲を失くすことが一番です。欲が無ければ基本的に騙されたりはしないでしょう。しかし実際には欲を捨てる悟りの境地に達することは困難です。そのためには欲を刺激するような不自然に得する話には警戒することです。現実的な対策は欲をかかないことです。儲け話には裏があると肝に銘じることです。私は不自然に得する話は、その仕組みを確認するようにしています。その仕組みが納得出来るものであれば騙しではないでしょうが、その仕組みが曖昧だとどこかに騙しの手口が仕込んであるとわかります。

騙す人がどこにでも潜んでいることを理解しておくことです。どれだけ信用している人でも、もしかしたら騙そうとしているかもしれないと気をつけることです。

他に出来る対策は出来るだけ知識を深めることです。とはいえ世の中の全てのことを知ることなど不可能です。現実的な対策は知らないことには手を出さないことです。

これらに気をつけるだけで、騙される人から騙されにくい人に変わることが出来ます。

常識にとらわれる人ととらわれない人の違い

常識に関しては常識革命の起こし方という記事をかなり前に書いていますが、今回は常識にとらわれる人と常識にとらわれない人の違いを考えてみたいと思います。
違いを一言で言えば、常識が絶対的な正解だと思っているか正解とは限らないと疑っているかです。

日常生活において常識を守ることは、みんなが快適に過ごすために大切ですが、常識にとらわれていると正解を見落としてしまうかもしれません。正解を不正解だと誤解してしまうかもしれないのです。

常識にとらわれる人

常識を絶対的な正解だと信じて疑わない人が、常識にとらわれる人です。長年の経験から得た常識、多くの人が信じている常識が間違っているはずがないと思い込んでいるのです。多くの人が常識は正解だと信じているのですが、実は最適解あるいは比較的ましな答えに過ぎません。言わば根拠もなく、多くの人が信じているから常識となっているだけであることも世の中にはたくさんあります。いつの間にか常識だからこそ誰も検証していないのです。

間違った事実を常識として正解だと誤解して思い込んでいると、絶対に正しい答えには辿り着けません。しかし常識だと思い込んでいるので、疑うことすら馬鹿らしくて出来ません。

常識にとらわれる人は頭が固い人と表現されることもあります。何事も杓子定規な対応をしがちです。

常識にとらわれる人は非常識な行動を取らないため真面目な人と評価されますが、間違ってもイノベーションを起こすことはありません。

常識にとらわれない人

常識にとらわれない人の考え方は、常識が正しいとは限らないことを知っているのです。常識にとらわれない人は自分で検証しなければ気が済まないのです。

みんなが正しいと認識している常識をわざわざ正しいかどうか検証するため、常識を素直に受け入れる人から見ると理解に苦しみます。

常識にとらわれない人は、物事を考える際に常識の枠の外も答えがないか探すため、常識にとらわれる人には考えつかないことを思いつくことが出来ます。

常識とは異なる新しい考え方や発想であっても、自分の頭で検証することが出来ます。

常識が正しいとは限らない

常識が間違っていたことはいくらでもありますし、新しい技術が生まれれば過去の製品はガラクタになってしまいます。例えば機械で計算出来る電卓はかつては画期的な商品でしたが、今となっては間違っても検証出来ないため活躍の場は少なくなっています。検証出来るパソコンに電卓の地位は奪われたのです。電話も画期的な通信手段でしたが、携帯電話が普及した時点で固定電話は存在意義が薄れました。場合によっては詐欺の電話を受けるリスクでしかないかもしれません。技術に関しては新しい製品が出ることで、古い技術の常識は簡単に崩れてしまいます。

技術だけに限らず病気に関しても新しい発見により常識は常に変わっています。例えば原因不明だった脚気はビタミン不足が原因で、白米を玄米にするだけで治りました。

糖尿病はカロリーコントロールが大切とされていましたが、糖質を摂り過ぎているだけでした。

傷口の消毒はかつては常識でしたが、今では消毒しない方が早く治るのが新しい常識です。

つまり確かな知識だと思い込んでいる常識は、いつ変わってもおかしくないのです。どんなに間違いがないと考えていても、正しいとは限らないと考えるようにしましょう。

私は今のところ絶対に正しい常識は、人は必ず死ぬということくらいではないかと思います。人は必ず死ぬという常識ですら、医学が進めば不老不死を実現してしまうかもしれません(現実には太陽に寿命があるので、残念ながら永遠に生きることはあり得ませんが、太陽系から抜け出すことが出来ればあるいは…)

テレビとインターネットの違い

テレビとインターネットの違いを考えてみました。
プッシュ型情報配信とプル型情報配信と言い換えることができると思います。テレビはプッシュ型情報配信装置で情報が一方的に押し付けられます。見る側が選択できる余地があるのはチャンネルを選ぶ程度です。情報の配信内容を決めるのは放送局です。放送局が選んだ内容を一方的に放送する事で情報配信を行います。一方インターネットはプル型情報配信装置でこちらが求めた内容を求めることができます。欲しい情報をこちらが求めることで、インターネットを介して情報が提供されます。何がほしいかわかっていなければ必要な情報を得ることができます。情報を選ぶのは自分たちです。

プッシュ型情報配信であるテレビは情報を垂れ流していると表現できると思います。流れる情報はテレビ局がある程度選別してくれているので受けとるだけですみます。テレビ局の都合で情報が捻じ曲げられていることを知っておかなければなりません。
プル型情報配信であるインターネットは情報を求めなければ何も吐き出してはくれません。インターネットで取り出すことの出来る情報は玉石混交です。情報の求め方に知恵が必要で、出てきた情報も正しいかどうか判断する知恵が求められます。何を求めているのか自分自身で理解していなければなりません。必要な情報を取り出す能力があれば、有益な情報を得ることができます。

情報を発信する側に知恵が求められた時代から、情報を受け取る側に知恵が求められる時代にいつの間にか移り変わっているのです。このことに気付かないまま情報に触れていると、不確かな情報に振り回されることになると私は思います。情報の質が変わりつつあることを知るようにしましょう。

信用と信頼の違い 人が騙される理由

信用と信頼の違いを考えてみたいと思います。
貴方は友達を信用しているのでしょうか?信頼しているのでしょうか?
あなたは子供を信用しているのでしょうか?信頼しているのでしょうか?
信用と信頼の違いを改めて考えてみましょう。

信用

信用は裏付けがあって相手を信じることです。
裏付けがあるとは、信じるに足りる根拠があるということです。
例えば日頃の行動という裏付けがあって、相手を信じることができるのです。
あるいは何らかの担保と引き換えに相手を信じるのです。
いわば対等な信じ方が信用です。
科学の信じ方が信用ではないかと思います。

信頼

信頼は裏付けなく盲目的に相手を信じることです。
裏付けがないとは、信じるに足りる根拠はないということです。
何も引き換えるものもなく闇雲に信じることと言い換えても良いでしょう。
いわば一方的な信じ方が信頼です。
宗教の信じ方が信頼だと思います。(宗教を否定したいわけではありません。宗教を信じ切っている人は、裏付けがある信用だと信じ切っている人はいると思いますが、私は裏付けがあるわけではないと思います。何故なら死後の世界は誰も見たことはないからです。ただ信じるしかありません。)

信用と信頼の区別

わかりやすいのは信用金庫はあっても信頼金庫はないということです。
何故なら信用金庫とは裏付け、多くは担保と引き換えにお金を貸すということです。信頼金庫では裏付けとしての担保はなく闇雲にお金を貸すことになるからです。

人が騙される理由

人を信用ではなく、信頼してしまうからです。
ただ単にこれまでの行動から信頼してしまうのです。何か引き換える裏付け、担保となるものなしに信頼してしまうので騙されるのです。意図的に人を騙そうとする人は信頼を信用だと錯覚させることに長けています。
特にお金が絡む判断をする際には、相手の行動の裏付け・担保があるかどうかを判断材料にしてみることをお勧めします。
例えば相手の言うことを鵜呑みにするのが信頼、相手の言うことの裏付けをとった結果信じるのが信用です。電話がかかってきて誰々がこうなったというのを信じてしまうのが信頼です。その誰々に何か本当に起こっているのかどうか確かめた結果信じるのが信用です。

家族でさえ人を信頼して行動することは危険です。ましてや他人を信頼して行動することは控えましょう。信用できる裏付け・担保を確認することをお勧めします。

気の回る人と気の回らない人の違い

世の中には気の回る人と気の回らない人がいます。一言で言えば考えているか考えていないかです。想像力を働かせることが出来るか出来ないかでもあります。

気の回る人

気の回る人とは、全ての説明を受ける前に相手の意図を読み取って行動を出来る人です。気の利く人と言われることもあります。一を聞いて十を知るという人のことです。

気の回る人はあらかじめ様々な事態を考えているのです。あらかじめ考えているので、すぐに行動することが出来るのです。

絶えずもしかしてと考える癖がついているのです。もしかしてと考えているので、相手の意図を素早く読み取ることが出来るのです。

気の回る人のもう一つの特徴は、相手のために何かをしてあげようと考えている人です。相手の意図に気がつき、そしてそのことに対して行動出来る人です。人に対して何かをしてあげようと考えていなければ、気の回る人とは言えないでしょう。

一般的に気の回る人は気を回そうと意識はしていません。何故なら意識するのもなく自然な振る舞いが周囲から気が回ると評価されるのです。気の回る人は絶えず様々なことを考えているので、気を回そうとわざわざ意識することがないのです。

気の回らない人

気の回らない人とは、相手の意図を読み解くことが出来ません。言外の意味に気付くことが出来ないのです。一から十まで説明しなければわかってもらえません。酷い場合には一、二、三ではわかってもらえず、1.1、1.2、1.3、1.4、1.5、1.6、1.7、1.8、1.9、2と詳しく説明しなければ理解出来ない人もいます。

気の回らない人は様々な事態を想定することがありません。想定外なので咄嗟に理解出来ないのです。

気の回らない人は物事の流れを理解することも苦手なので、次にするべきことを予測することも苦手です。普通の人がわかる物事の流れを理解しないので、気の回らない人だと認識されてしまいます。

人のために何か行動するという視点が欠落していることもあります。いつも誰かにお膳立てしてもらって行動することに慣れてしまったいると、自分で準備することが出来ません。ましてや他人の準備を手伝うことなど出来ないのです。

気の回らない人も悪気がある訳ではありません。わざとではないのです。気が回る、気が回らないという概念そのものが理解出来ないだけなのです。だから気の回らない人に気が回らないねと嫌味を言っても通じないのです。何故なら概念が無いからです。

気の回る人になるには?

人の行動を変えることは非常に困難ですが、もし変えることが出来るとすれば目的を伝えることだと私は思います。気が回ることの目的とは相手の行動を手助けすることです。

気の回る人は相手の行動を手助け出来る人のことで、相手の行動を予測して先回りして手伝うことです。そうすることで相手の負担を減らすことが出来ますし、時間も短縮することが出来るのです。

気が回る人になるためには、相手の求めているものをあらかじめ理解していなければいけません。相手の行動の予測が出来なければ、気が回る人にはなれないのです。

具体的には食事の際に人がキョロキョロしていれば、箸か調味料を探しているのでしょう。あるいは飲み物が無いか見回しているのかも知れません。食事の食べ始めであれば箸を探しているのでしょうし、食事を食べ始めた後であれば、調味料を探しているのでしょう。相手が何を求めているかを予測することが気が回るかどうかの分かれ目です。相手のために何が出来るかを絶えず考えるようにすると、気の回る人に近づくことが出来るかのではないかと思います。

ガラケー遣いとスマホ遣いの違い

ガラケー遣い

日本独特の進化を遂げた携帯電話のことを、ダーウィンの進化論の舞台になったガラパゴス諸島になぞらえてガラパゴス携帯、通称ガラケーと言われます。電話とメール機能、iモードなど限られたインターネット機能に特化した携帯電話です。ガラケーを使っている人のことをガラケー遣いと表現してみます。

スマホ遣い

スマホとはスマートフォンの略称です。スマートフォンは元々は賢い電話という意味で名付けられたものて、高性能な電話でいわば手の中のパソコンです。その賢い電話を使う人のことをスマホ遣いと表現してみます。

ガラケーとスマホの違い

ガラケーは限られた機能に特化した電話です。ソフトという概念がほとんどない携帯電話で、電卓やワープロ専用機のような一つのことだけ行う機械です。機能が特化されているのであれこれ悩む必要がありません。情報の取り扱いも電話での会話とメール程度に限られるので情報が多過ぎて混乱することがありません。利用料金が安いのも特徴です。

スマホはいわばパソコンのようなものです。インターネットに容易に接続出来るため、欲しい情報を手に入れることが出来ます。アプリがなければ何も出来ませんが、アプリさえあれば可能性は無限に広がります。使い方次第で何でもこなすことが出来るのが特徴です。

一言でまとめるとガラケーは悩ます扱うことが出来、スマホは使う人が何をするか考える必要があるようです。

ガラケー遣いとスマホ遣いの違い

ガラケー遣いは電話、メールしかしません。他のスマホの持つ機能を必要としないことが特徴です。このことからガラケー遣いとスマホ遣いの違いを考えてみます。一言で言えば情報の取り扱いの違いです。

ガラケー遣いの人は情報を持て余しているのです。もしくは情報を得ることを余り重要だとは考えていません。携帯電話から得られる情報を必要としないのでガラケーで十分なのです。

一方スマホ遣いの人は情報を使いこなしています。何をするにもまずスマホで情報を得ることが優先されます。何故ならスマホで得られる情報は手に入れておく方がお得だからです。例えば行きたい場所の検索をしてみると、割引券があったら、空いている時間を教えてくれたりします。スマホに打ち込んで検索をかけるというほんの少しの手間だけで、簡単に情報が手に入るのです。たまたま検索せずに後でお得な情報があったことを知ると非常に損した気分になります。その経験が次の検索につながるので、益々検索するようになるのです。

一度スマホの便利さを手に入れると、手放すことは困難になります。ガラケー遣いの人の考え方がスマホ遣いの人にとって理解出来ないのは、情報の価値を知らないことが想像出来ないからです。

ガラケー遣いの人とスマホ遣いの人の違いは、情報の価値の感受性の違いです。

スマホ遣いの人からみると検索出来ないガラケーを持つことは不安に感じますが、ガラケー遣いの人は検索するつもりがないので不便でもなんでもないのです。

とはいえスマホ遣いと言ってもゲームしかしていない人も多いのかもしれません。高いスマホを使ってゲームをしているのであれば、安い料金でガラケーを使う方がお得かもしれません。少なくともガラケーはゲームによってガラケー遣いの時間を奪ったりしないからです。

成功する人と失敗する人の違い

どんな分野においても成功する人と失敗する人には明確な違いがあります。偶然成功する人もいますが、偶然は意図的に繰り返すことは出来ません。その後何らかの失敗をしてしまいます。

失敗する人は変化に対応出来ない

成功する人とは成功する仕組みを見つけるあるいは作り出すことが出来る人です。失敗する人とはその仕組みを探さないあるいは作り出すことをしようとしない人です。偶然成功する仕組みに辿り着いたとしても、偶然なので次の成功を引き寄せることが出来ません。一度成功したことを同じように繰り返すことは出来ても、どうして成功したのかわからないので環境の変化に対応出来ません。偶然一度は成功の仕組みを見つけたとしても、宝くじに当たるのと同じで、当たりを繰り返すことが出来ません。

一発屋と言われる人達は偶然売れただけなので、次の成功を探せないのです。

成功する人は絶えず考えている

成功する人はうまくいかなくなった時点で、状況に応じた軌道修正をすることが出来ます。絶えず状況毎の対策を考えているのです。失敗する人は上手くいかなくても、どうして良いかわからず軌道修正することが出来ません。成功する人は上手くいかなくても失敗だとは思いません。次の成功のための途中経過としか考えず、成功するまで考え続けるのです。

見分け方

成功するか失敗するかは質問してみるとすぐにわかります。質問は「予定通りにいかないとどうするんですか?」と聞くだけです。成功する人は予定通りにいかないことをあらかじめ想定しています。万が一想定していなくても、聞かれてからでもすぐに対策を考えつきます。質問する人は予定通りにいかないことを全く考えていないため、そのような質問をされると返事に困り固まってしまいます。

驚いてもすぐに対策を答え、その答えが合理的であれば成功します。驚いたまま固まってしまうと、恐らく失敗します。恐らくというのは偶然成功することが稀にありえるからです。ご参考まで。

わかりやすい解説書とわかりにくい解説書の違い

解説書にはわかりやすいものとわかりにくいものがあります。その違いは視点です。視点が専門家か素人かです。内容を元々わかっている人が書いているか、元々は知らない人が書いているかで大きな違いが出ます。

元々わかっている専門家が解説する解説書はわかりにくく、元々わからない素人がわかるようになった過程を解説している解説書はわかりやすいものになります。何故なら専門家は全て知っているのでわからない、あるいはわかりにくい場所自体がわからないのです。言い換えると専門家は知らないふりをして解説書を書くことができないからです。その点何も知らない素人は違います。全く何も知らない状態から物事を知っていくので、その過程でわかりにくいこと、紛らわしいことが容易に理解できるのです。そのわかりにくいところを明確に区別して解説を書くので、わかりやすい解説書になります。

解説書は説明の上手下手と同じです。言葉で伝えるのか文章で伝えるのかの違いです。
解説書では言葉での説明と異なり、図解することもできますが、そもそも相手の知りたいことを理解していなければ図解することもできません。
わかりやすい解説書とわかりにくい解説書の違いは、解説する人が何も知らない状態を想定できるかどうかです。何も知らない状態を想定できれば、理解しにくいところもわかるはずです。

解説書を見ていて明らかに言葉足らずでわかりにくいものだったので、何故こんなわかりにくい解説書があるのかを考えてみました。解説書を作った人が専門家で、知らないことを想定せずに作った結果だと思い至りました。解説書は素人が作るべきだと私は思います。少なくとも素人が理解できるように素人への説明し、その際に出た疑問を解説書に落とし込むとわかりやすい解説書になります。恐らくそういう視点が欠落した解説書を目にしてしまったのでしょう。