争いの避け方 同じ土俵に立たない

争いの避け方を提案したいと思います。

一言で表現すれば同じ土俵に立たないことです。何故なら同じ土俵にたっても争いの判定をしてくれる審判・行司がいてはくれないからです。第三者がいない状態で争っても「善悪の価値観について 」に書いたように、お互いが主観でしか判断出来ないため、何を言われたところで自分が正しいとしか思えないのです。自分の正当性をいくら主張しても、相手も自分が正しいと信じ込んでいるため、通常言葉での勝敗は決まりません。日常生活においては審判・行司がいないため、勝ち負けの判断を自分でするしかありません。しかし誰しも自分が正しいと信じているため、水掛論になるのです。

自信がなければ勝ち負けがはっきりしない同じ土俵で水掛け論をする方が良いかもしれません。自信があれば同じ土俵に立つのではなく、一段上の視点から議論の余地のない理屈を探すのです。

例えば糖質一度に食べ過ぎ症候群という疾患概念を知らない医者から、糖質による病気が信じられないとかありえないと議論を持ちかけられたら、糖質を食べるかどうかを聞くのです。そしてお腹が空くかどうかたずねてみます。お腹が空くと言われれば糖質依存禁断症状なのですから、依存患者さんと依存対象に対して客観的に話が出来ないので依存から抜け出してからお話ししましょうと投げかけるのです。ちょうどタバコを吸っている人がタバコは身体に害があるとは限らないないと言い張っている人と同じです。タバコという依存対象を客観視できないニコチン中毒の人と、タバコに害について話をしても議論がかみ合わないことと同じです。

他の場合を例えに出せば、街頭演説で野次を飛ばされた場合についてです。
某首相は『こんな人達に負けない』と発言していました。街頭演説に対する野次の是非はともかく、まともに相手にしてしまったなとで同じ土俵に立ったことを露呈しました。私なら『応援ありがとうございます。えっ!応援ではないんですか?応援でもないのにわざわざこの場に来ていただく程気にして頂いてありがとうございます。暑い中ご苦労さまです。』と受け流すのです。
逆に野次を飛ばす立場なら、同じ土俵に立たないために私なら野次を飛ばしたりはしません。演説の周囲を埋めつくす人を集めフラッシュモブを行い、応援している人はいないと無言でアピールします。その後フラッシュモブの動画と共に主義主張をネットに用意しておけば大声を張り上げるより賛同は得られると私は思います。

他の例えであれば議題の理由を話し合うことが多いのですが、私なら目的を話し合います。何故なら理由は自分に都合の良い言い訳をそれなりにすり替えて議論できるからです。目的であればこれからのことなので通常すり替えることが困難だからです。ついでに書けば、目的を口に出来ない人と話し合ってもどうせ議論はかみ合わないからです。

同じ土俵に立たない理屈を考える。
争いを避けるために同じ土俵に立たなくて済む理屈を考えるようにしましょう。
何故なら同じ土俵に立った時点で泥仕合に突入するからです。

常識にとらわれる人ととらわれない人の違い

常識に関しては常識革命の起こし方という記事をかなり前に書いていますが、今回は常識にとらわれる人と常識にとらわれない人の違いを考えてみたいと思います。
違いを一言で言えば、常識が絶対的な正解だと思っているか正解とは限らないと疑っているかです。

日常生活において常識を守ることは、みんなが快適に過ごすために大切ですが、常識にとらわれていると正解を見落としてしまうかもしれません。正解を不正解だと誤解してしまうかもしれないのです。

常識にとらわれる人

常識を絶対的な正解だと信じて疑わない人が、常識にとらわれる人です。長年の経験から得た常識、多くの人が信じている常識が間違っているはずがないと思い込んでいるのです。多くの人が常識は正解だと信じているのですが、実は最適解あるいは比較的ましな答えに過ぎません。言わば根拠もなく、多くの人が信じているから常識となっているだけであることも世の中にはたくさんあります。いつの間にか常識だからこそ誰も検証していないのです。

間違った事実を常識として正解だと誤解して思い込んでいると、絶対に正しい答えには辿り着けません。しかし常識だと思い込んでいるので、疑うことすら馬鹿らしくて出来ません。

常識にとらわれる人は頭が固い人と表現されることもあります。何事も杓子定規な対応をしがちです。

常識にとらわれる人は非常識な行動を取らないため真面目な人と評価されますが、間違ってもイノベーションを起こすことはありません。

常識にとらわれない人

常識にとらわれない人の考え方は、常識が正しいとは限らないことを知っているのです。常識にとらわれない人は自分で検証しなければ気が済まないのです。

みんなが正しいと認識している常識をわざわざ正しいかどうか検証するため、常識を素直に受け入れる人から見ると理解に苦しみます。

常識にとらわれない人は、物事を考える際に常識の枠の外も答えがないか探すため、常識にとらわれる人には考えつかないことを思いつくことが出来ます。

常識とは異なる新しい考え方や発想であっても、自分の頭で検証することが出来ます。

常識が正しいとは限らない

常識が間違っていたことはいくらでもありますし、新しい技術が生まれれば過去の製品はガラクタになってしまいます。例えば機械で計算出来る電卓はかつては画期的な商品でしたが、今となっては間違っても検証出来ないため活躍の場は少なくなっています。検証出来るパソコンに電卓の地位は奪われたのです。電話も画期的な通信手段でしたが、携帯電話が普及した時点で固定電話は存在意義が薄れました。場合によっては詐欺の電話を受けるリスクでしかないかもしれません。技術に関しては新しい製品が出ることで、古い技術の常識は簡単に崩れてしまいます。

技術だけに限らず病気に関しても新しい発見により常識は常に変わっています。例えば原因不明だった脚気はビタミン不足が原因で、白米を玄米にするだけで治りました。

糖尿病はカロリーコントロールが大切とされていましたが、糖質を摂り過ぎているだけでした。

傷口の消毒はかつては常識でしたが、今では消毒しない方が早く治るのが新しい常識です。

つまり確かな知識だと思い込んでいる常識は、いつ変わってもおかしくないのです。どんなに間違いがないと考えていても、正しいとは限らないと考えるようにしましょう。

私は今のところ絶対に正しい常識は、人は必ず死ぬということくらいではないかと思います。人は必ず死ぬという常識ですら、医学が進めば不老不死を実現してしまうかもしれません(現実には太陽に寿命があるので、残念ながら永遠に生きることはあり得ませんが、太陽系から抜け出すことが出来ればあるいは…)

人の常識・考え方を書き換える話し方

言葉で人の常識を書き換える方法の提案です。
私が実践している一言で考え方を変えてもらう方法は、相手が想像すらしていない発想の質問をすることです。答えが相手の想像の外になる質問を投げかけるということです。2年程前に書いた常識革命の起こし方の進化版のようなものです。常識革命は自分で自分の常識を打ち破る方法を書いたつもりですが、今回は他人の常識を書き換える話し方を提案したいと思います。

例えば『血糖値を一般的に治らないことが常識ですが、簡単に治るのご存じですか?』や『花粉症は一般的に治らないことが常識ですが、簡単に治ることをご存知ですか?』と投げかけるのです。糖尿病や花粉症が治らないということは周知の事実と知って広まっていますから、物事を考えている人は治ると言われると頭が真っ白になってしまいます。理解できるように糖質の食べ方であることを説明すると考え方を変えるきっかけになるようです。

先に糖質の食べ方で糖尿病は治ります。あるいは糖質の食べ方次第で花粉症も治ります。という具合に先に糖質の食べ方ということを言ってしまうと、糖尿病や花粉症が治るという事実に対する驚きが薄まるためか理解してもらいにくくなります。

花粉症が治ることは言葉でしか説明できませんが、2型糖尿病が治ることは具体的なグラフをお見せすることで理解してもらうことができます。

他に私が実践している話し方は

『原因は何だと思われますか?』
『原因は食べ物ですよ』
『原因は食べ物ですけど何だと思われますか?』
『糖質・炭水化物が原因です』

という具合に2段階で説明しています。
病気の原因が食べ物だと想像すらしなかった方は目を見開いて驚かれます。うすうす食べ物ではないかと疑っておられた方は、うなずきながら聞かれます。
しかしほとんどの方が当たり前に毎日食べている主食を含む糖質・炭水化物が原因だとは夢にも思わないため、一瞬動きが止まってしまわれます。正に息をするのを忘れてしまわれたかのように息を飲まれる方もおられます。
そのままでは驚かせて終わりになってしまうため、具体的な糖質・炭水化物を一度に糖質を摂り過ぎた写真をお見せし理解を深めてもらいます。
余りの衝撃に目に涙を浮かべられる方すらおられます。

その後病気を避ける理想の食べ方を提案するため、治る可能性を理解され安堵された表情になります。

頭の回転の速い方は私の説明直後に、そういえば糖質を多く食べ過ぎた際に症状が出たことを思い出され、私の説明が正しいことを実感され裏付けが取れた状態に至ります。

糖質のことをお伝えし始めたころにはこの話術を身につけていなかったため、患者さんに理解してもらうためにお一人10分から20分、場合によっては30分近くかかってしまいました。しかし今ではお一人5分もあれば理解してもらえることが多くなりました。私は言葉で人の常識・考え方を書き換え、行動を変えることが出来ることは魔法の一種言葉の魔法だと考えています。
人の常識・考え方を書き換える話し方、もしよかったらお試しください。

後で条件を出された場合 目的を訊ねる

議論や審議の途中、後で条件を出される場合があります。
世間一般では理由を聞きますが、無意味です。何故なら理由とは言い訳を考えているに過ぎないからです。百歩譲って理由があって後から条件を付け足したのかもしれませんが、他に理由があっても本当のことが言えないからそれらしい言い訳と区別がつかないのです。
理由を聞くことが時間の無駄なのは、本当の理由・判断の根拠なのか言い訳なのかを聞いた側が知恵を使って見極める必要があるからです。言い訳を論破するにはかなりの労力と知恵を要します。

後で条件を出された場合には、後で条件を付けくわえた目的を訊ねるのです。問い質すという方がもしかしたら正確かもしれません。
理由はいくつでも出てきます。言い訳なのですから、それらしく聞こえる理由を並べればよいからです。しかしかなりの知恵がなければ目的をすり替えることは困難です。少なくとも私の知恵では目的をすり替えて答えることはできません。目的がないということはあり得ません。人間の行動には目的を自覚しているか自覚していないかに関わらず、必ず目的があるからです(目的論)。

少し前に提案したのは獣医学部新設の問題点 後出しジャンケンに書いた、獣医学部新設の審議の際、後から同一地域に獣医学部がないことという決定的な条件を付けくわえたことです。本当に同一地域に獣医学部がないことが重要であれば、最初から設定されるべき条件です。最初からこの条件が設定されていれば、他大学も四国での開学を目指したはずです。他地域での開学に向けて無駄な労力を使う必要がなかったはずです。

例えば出された条件で案を作成し、提出した後で更に条件を突き付けられた場合に目的を訊ねることは重要です。何故なら思いつきで条件を突き付けたのであれば、再度提出しても更に条件を加えられる可能性があるからです。目的・方向性が前もってわかっていれば、対策もできる可能性があります。目的を教えてもらえないのであれば、付け加えた条件は獣医学部新設の時と同様断るための言い訳に過ぎません。目的を訊ねることは言い訳を見極めるために非常に有効です。

上手な話し方 様々な意味を確定させる

上手な話し方とは手短に物事を相手に伝えることです。

当サイトでは様々な伝え方を提案していますが、今回は様々な意味を確定させて話すということを提案したいと思います。
内容は『上手な説明の仕方 曖昧な言葉を明確にする』と同じことです。

言葉には様々な意味が含まれています。前後に話された内容から瞬時に類推して様々な意味を確定させながら聞いているのです。二つの意味があって即座に理解できないことでも、話を聞いているうちに後でどちらの意味だったかわかることがあります。
逆に意味が確定しない曖昧なまま聞いていると、話の内容を理解する余裕がなくなることもよくあります。

会話の中にどちらでも受け取ることの出来る言葉が潜んでいると、理解するまでに無駄な時間を要します。その時間を省くことで手短かに情報を伝えることができるのです。

例えば『御飯』という言葉一つをとっても、『食事』という意味もあれば『お米』という意味もあります。
『御飯が原因です』と伝えた場合、『食事が原因です』という意味と、『お米が原因です』という意味の二つが考えられます。その二つの意味を持つのが『御飯』という言葉です。しかも人によって『御飯』という言葉で、『食事』という意味しか思いつかない人もいますし、『お米』という意味しか思いつかない人もいるのです。『御飯』という言葉を話し手が『食事』の意味で使っているのに、聞き手が『お米』という意味で聞いているとズレ漫才のように認識がずれてしまいます。会話が成立しなくなってしまいます。ズレ漫才は視聴者として客観的に見ることが出来るため容易に理解できますが、通常の会話は当事者なので主観的になってしまうためにズレていることを客観視できないのです。

この場合『御飯』という言葉を使うことには認識の齟齬を起こしてしまう隙が生まれます。『食事』と受け取るか『お米』として理解するか、受け取る人に任せてしまうという意味でギャンブルになってしまいます。私は認識を修正する時間が勿体無いので、最初から『食事』・『お米』と言い分けます。相手の解釈に任せないので、言葉が明確に伝わります。認識のズレを修正する時間の無駄が省けるので、短時間で情報を伝えることができます。

別の例え話では『お酒』があります。『お酒』には『日本酒』という意味と『アルコール』という大きく2つの意味があります。かつては『アルコール』といえば『日本酒』に決まっていたので、『お酒』といえば『アルコール』のことであり『日本酒』のことでもあったのです。その名残で『アルコール』の意味で『お酒』という場合があります。「お酒を飲んではいけませんよ」という場合には、『アルコール』全てを飲んではいけないという意味と、『日本酒』を飲んではいけないけどビールは大丈夫という2つの意味を含み曖昧になるのです。人は曖昧な表現は自分に都合良く解釈する傾向があります。伝える側にとってはどちらで伝わるか不確かなため、確認する必要が出てきます。確認という無駄を省くために、2つの意味をもつ曖昧な言葉は2つの意味を明確に区別して伝える方がお得です。2つの意味をもつ『お酒』という曖昧な言葉ではなく『アルコール』・『日本酒』と使い分けると情報が素早く伝わり、確認する必要がなくなるためお得です。

会話の認識のズレを失くし、情報を速やかに伝えるために多義語の意味を確定させながら会話することをお勧めします。

テレビとインターネットの違い

テレビとインターネットの違いを考えてみました。
プッシュ型情報配信とプル型情報配信と言い換えることができると思います。テレビはプッシュ型情報配信装置で情報が一方的に押し付けられます。見る側が選択できる余地があるのはチャンネルを選ぶ程度です。情報の配信内容を決めるのは放送局です。放送局が選んだ内容を一方的に放送する事で情報配信を行います。一方インターネットはプル型情報配信装置でこちらが求めた内容を求めることができます。欲しい情報をこちらが求めることで、インターネットを介して情報が提供されます。何がほしいかわかっていなければ必要な情報を得ることができます。情報を選ぶのは自分たちです。

プッシュ型情報配信であるテレビは情報を垂れ流していると表現できると思います。流れる情報はテレビ局がある程度選別してくれているので受けとるだけですみます。テレビ局の都合で情報が捻じ曲げられていることを知っておかなければなりません。
プル型情報配信であるインターネットは情報を求めなければ何も吐き出してはくれません。インターネットで取り出すことの出来る情報は玉石混交です。情報の求め方に知恵が必要で、出てきた情報も正しいかどうか判断する知恵が求められます。何を求めているのか自分自身で理解していなければなりません。必要な情報を取り出す能力があれば、有益な情報を得ることができます。

情報を発信する側に知恵が求められた時代から、情報を受け取る側に知恵が求められる時代にいつの間にか移り変わっているのです。このことに気付かないまま情報に触れていると、不確かな情報に振り回されることになると私は思います。情報の質が変わりつつあることを知るようにしましょう。

信用と信頼の違い 人が騙される理由

信用と信頼の違いを考えてみたいと思います。
貴方は友達を信用しているのでしょうか?信頼しているのでしょうか?
あなたは子供を信用しているのでしょうか?信頼しているのでしょうか?
信用と信頼の違いを改めて考えてみましょう。

信用

信用は裏付けがあって相手を信じることです。
裏付けがあるとは、信じるに足りる根拠があるということです。
例えば日頃の行動という裏付けがあって、相手を信じることができるのです。
あるいは何らかの担保と引き換えに相手を信じるのです。
いわば対等な信じ方が信用です。
科学の信じ方が信用ではないかと思います。

信頼

信頼は裏付けなく盲目的に相手を信じることです。
裏付けがないとは、信じるに足りる根拠はないということです。
何も引き換えるものもなく闇雲に信じることと言い換えても良いでしょう。
いわば一方的な信じ方が信頼です。
宗教の信じ方が信頼だと思います。(宗教を否定したいわけではありません。宗教を信じ切っている人は、裏付けがある信用だと信じ切っている人はいると思いますが、私は裏付けがあるわけではないと思います。何故なら死後の世界は誰も見たことはないからです。ただ信じるしかありません。)

信用と信頼の区別

わかりやすいのは信用金庫はあっても信頼金庫はないということです。
何故なら信用金庫とは裏付け、多くは担保と引き換えにお金を貸すということです。信頼金庫では裏付けとしての担保はなく闇雲にお金を貸すことになるからです。

人が騙される理由

人を信用ではなく、信頼してしまうからです。
ただ単にこれまでの行動から信頼してしまうのです。何か引き換える裏付け、担保となるものなしに信頼してしまうので騙されるのです。意図的に人を騙そうとする人は信頼を信用だと錯覚させることに長けています。
特にお金が絡む判断をする際には、相手の行動の裏付け・担保があるかどうかを判断材料にしてみることをお勧めします。
例えば相手の言うことを鵜呑みにするのが信頼、相手の言うことの裏付けをとった結果信じるのが信用です。電話がかかってきて誰々がこうなったというのを信じてしまうのが信頼です。その誰々に何か本当に起こっているのかどうか確かめた結果信じるのが信用です。

家族でさえ人を信頼して行動することは危険です。ましてや他人を信頼して行動することは控えましょう。信用できる裏付け・担保を確認することをお勧めします。

気の回る人と気の回らない人の違い

世の中には気の回る人と気の回らない人がいます。一言で言えば考えているか考えていないかです。想像力を働かせることが出来るか出来ないかでもあります。

気の回る人

気の回る人とは、全ての説明を受ける前に相手の意図を読み取って行動を出来る人です。気の利く人と言われることもあります。一を聞いて十を知るという人のことです。

気の回る人はあらかじめ様々な事態を考えているのです。あらかじめ考えているので、すぐに行動することが出来るのです。

絶えずもしかしてと考える癖がついているのです。もしかしてと考えているので、相手の意図を素早く読み取ることが出来るのです。

気の回る人のもう一つの特徴は、相手のために何かをしてあげようと考えている人です。相手の意図に気がつき、そしてそのことに対して行動出来る人です。人に対して何かをしてあげようと考えていなければ、気の回る人とは言えないでしょう。

一般的に気の回る人は気を回そうと意識はしていません。何故なら意識するのもなく自然な振る舞いが周囲から気が回ると評価されるのです。気の回る人は絶えず様々なことを考えているので、気を回そうとわざわざ意識することがないのです。

気の回らない人

気の回らない人とは、相手の意図を読み解くことが出来ません。言外の意味に気付くことが出来ないのです。一から十まで説明しなければわかってもらえません。酷い場合には一、二、三ではわかってもらえず、1.1、1.2、1.3、1.4、1.5、1.6、1.7、1.8、1.9、2と詳しく説明しなければ理解出来ない人もいます。

気の回らない人は様々な事態を想定することがありません。想定外なので咄嗟に理解出来ないのです。

気の回らない人は物事の流れを理解することも苦手なので、次にするべきことを予測することも苦手です。普通の人がわかる物事の流れを理解しないので、気の回らない人だと認識されてしまいます。

人のために何か行動するという視点が欠落していることもあります。いつも誰かにお膳立てしてもらって行動することに慣れてしまったいると、自分で準備することが出来ません。ましてや他人の準備を手伝うことなど出来ないのです。

気の回らない人も悪気がある訳ではありません。わざとではないのです。気が回る、気が回らないという概念そのものが理解出来ないだけなのです。だから気の回らない人に気が回らないねと嫌味を言っても通じないのです。何故なら概念が無いからです。

気の回る人になるには?

人の行動を変えることは非常に困難ですが、もし変えることが出来るとすれば目的を伝えることだと私は思います。気が回ることの目的とは相手の行動を手助けすることです。

気の回る人は相手の行動を手助け出来る人のことで、相手の行動を予測して先回りして手伝うことです。そうすることで相手の負担を減らすことが出来ますし、時間も短縮することが出来るのです。

気が回る人になるためには、相手の求めているものをあらかじめ理解していなければいけません。相手の行動の予測が出来なければ、気が回る人にはなれないのです。

具体的には食事の際に人がキョロキョロしていれば、箸か調味料を探しているのでしょう。あるいは飲み物が無いか見回しているのかも知れません。食事の食べ始めであれば箸を探しているのでしょうし、食事を食べ始めた後であれば、調味料を探しているのでしょう。相手が何を求めているかを予測することが気が回るかどうかの分かれ目です。相手のために何が出来るかを絶えず考えるようにすると、気の回る人に近づくことが出来るかのではないかと思います。

議論の仕方 理由ではなく目的を議論する

今回は議論の仕方を考えてみます。多くの議論はその理由を話し合います。理由は言い訳や建て前が紛れ込むため、一つの理由を論破しても次の理由が出てくるだけです。議論が論理的に行われるのであれば理由を話し合うことに意味があります。しかし多くの議論が、論理的に行われるのではありません。先に賛成や反対の結論を決め、その結論に至る言い訳を探すのです。判断の根拠としての理由であれば議論の意味がありますが、賛成や反対を引き寄せるための言い訳を聞いても時間の無駄です。何故なら本音を隠すための言い訳に過ぎないからです。理由は判断の根拠なのか、言い訳なのかを吟味する必要があります。巧妙に言い訳されると判断の根拠と錯覚させられてしまうこともあります。吟味そのものが時間の無駄です。

理由は後ろ向きなので、幾らでも出すことができます。言い訳の中から賛同の得られそうなものから理由としているに過ぎません。言い訳を議論する程無駄なことはありません。何故なら判断の根拠ではないからです。

理由が言い訳なのか判断の根拠なのか見分けるのは実は簡単です。その理由がクリアされれば判断が変わるかどうかです。クリアされることで判断が変わるのであれば判断の根拠です。クリアされても次の理由を出してくるならただの言い訳に過ぎません。

理由を話し合うことの無意味な点は、状況が変われば理由そのものが無くなる可能性があることです。理由を話し合うと、状況が変わる度に話し合う必要があります。

目的を議論する

人の言動には必ず目的があります(目的論)。その目的を話し合うのです。

目的を議論するようにすると、理由のように言い訳が出来なくなります。何故なら目的はこれからのことを指し示すからです。到達点である目的を先に決めてしまうのです。目的を議論し目的を定め、その目的に基づいて結論を出すのです。

目的を定めてしまえば、私利私欲の影響する余地が無くなります。後は目的に沿っているかどうか合理的な判断をするだけですみます。

まず目的を議論しましょう。更に目的に沿っているかどうかを議論していきましょう。理由をいくら話し合っても時間だけが過ぎ、議論は前には進みません。

ガラケー遣いとスマホ遣いの違い

ガラケー遣い

日本独特の進化を遂げた携帯電話のことを、ダーウィンの進化論の舞台になったガラパゴス諸島になぞらえてガラパゴス携帯、通称ガラケーと言われます。電話とメール機能、iモードなど限られたインターネット機能に特化した携帯電話です。ガラケーを使っている人のことをガラケー遣いと表現してみます。

スマホ遣い

スマホとはスマートフォンの略称です。スマートフォンは元々は賢い電話という意味で名付けられたものて、高性能な電話でいわば手の中のパソコンです。その賢い電話を使う人のことをスマホ遣いと表現してみます。

ガラケーとスマホの違い

ガラケーは限られた機能に特化した電話です。ソフトという概念がほとんどない携帯電話で、電卓やワープロ専用機のような一つのことだけ行う機械です。機能が特化されているのであれこれ悩む必要がありません。情報の取り扱いも電話での会話とメール程度に限られるので情報が多過ぎて混乱することがありません。利用料金が安いのも特徴です。

スマホはいわばパソコンのようなものです。インターネットに容易に接続出来るため、欲しい情報を手に入れることが出来ます。アプリがなければ何も出来ませんが、アプリさえあれば可能性は無限に広がります。使い方次第で何でもこなすことが出来るのが特徴です。

一言でまとめるとガラケーは悩ます扱うことが出来、スマホは使う人が何をするか考える必要があるようです。

ガラケー遣いとスマホ遣いの違い

ガラケー遣いは電話、メールしかしません。他のスマホの持つ機能を必要としないことが特徴です。このことからガラケー遣いとスマホ遣いの違いを考えてみます。一言で言えば情報の取り扱いの違いです。

ガラケー遣いの人は情報を持て余しているのです。もしくは情報を得ることを余り重要だとは考えていません。携帯電話から得られる情報を必要としないのでガラケーで十分なのです。

一方スマホ遣いの人は情報を使いこなしています。何をするにもまずスマホで情報を得ることが優先されます。何故ならスマホで得られる情報は手に入れておく方がお得だからです。例えば行きたい場所の検索をしてみると、割引券があったら、空いている時間を教えてくれたりします。スマホに打ち込んで検索をかけるというほんの少しの手間だけで、簡単に情報が手に入るのです。たまたま検索せずに後でお得な情報があったことを知ると非常に損した気分になります。その経験が次の検索につながるので、益々検索するようになるのです。

一度スマホの便利さを手に入れると、手放すことは困難になります。ガラケー遣いの人の考え方がスマホ遣いの人にとって理解出来ないのは、情報の価値を知らないことが想像出来ないからです。

ガラケー遣いの人とスマホ遣いの人の違いは、情報の価値の感受性の違いです。

スマホ遣いの人からみると検索出来ないガラケーを持つことは不安に感じますが、ガラケー遣いの人は検索するつもりがないので不便でもなんでもないのです。

とはいえスマホ遣いと言ってもゲームしかしていない人も多いのかもしれません。高いスマホを使ってゲームをしているのであれば、安い料金でガラケーを使う方がお得かもしれません。少なくともガラケーはゲームによってガラケー遣いの時間を奪ったりしないからです。