頭の回転数は言葉の選び方でわかる

頭の回転数は言葉の選び方でわかります。
ここでの頭の回転数とは、学校の成績や偏差値などを表すものではありません。学校の成績や偏差値は暗記力と試験というクイズを解く能力がはかられているだけです。成績や偏差値はこれから大した意味を持たなくなります。何故なら記憶力はコンピュータに負けますし、クイズを解く能力は答えのある問題を解くことに優れているだけだからです。

これからの時代を生き抜くためには、用意された答えのない問題を見つけ出し、なおかつその時点での最適解を見つけることの出来る人が求められます。

頭の回転数とはどれだけ思いを巡らせることが出来るかを表します。日頃思いを巡らせるトレーニングをしているか、余り思いを巡らせることがないかというだけです。頭の回転数とは持って生まれた頭の能力というよりは頭の使い方という意味合いです。様々な可能性に思いを巡らせた上で最適な言葉を選ぶことが出来る人が頭の回転数が高いと思います。逆に失言してしまう人は、相手の受け取り方まで思いを巡らせることが出来ないため誤解を招く表現をしてしまいます。

周りにいる言葉の選び方の上手な人は頭の回転数が高いのかもしれません。そして頭の回転数を上げることは、自分でも簡単にトレーニングすることが出来ます。それは物事を一言・二言でまとめるという作業をしてみることです。例えば人との会話で、報告なのか相談なのか質問なのかなど一言に出来るかどうかです。更に何に対しての会話かを考えてみることです。「一言で言うと○○についての質問ですか?」などと一言・二言でまとめてみるのが頭の回転数を高めるトレーニングとなると同時に、説明も上手になると思います。良かったらお試しください。

デレビで見かけるお笑い芸人さんで、一発屋で終わるか司会を務めるようになるかは頭の回転数の違いのようです。即興で言葉を選ぶことが出来る人は司会をするようになります。考えに考えてネタを作ることは出来ても即座に言葉を選ぶことが出来ない人は残念ながら、売れ続けることは難しいようです。(お笑いに関してはお笑いの心理学をご参照ください)言葉の選び方という視点で、人の言動を観察してみると、自分の言葉の選び方も上達するかもしれません。良かったらお試しください。

上手な説明の仕方 曖昧な言葉を明確にする

言葉には曖昧な部分があります。その曖昧な部分を文脈や話の流れから的確に判断することで意味を理解します。

例えば私は週末は御飯を食べないんです。と言う言い方には2つの解釈が成り立ちます。週末は断食するという意味と、週末はお米を食べないという意味です。御飯には主食である「お米」という意味と、「食事」という意味です。2つの意味がありますが、話の流れから「お米」という意味なのか「食事」という意味なのか無意識に考えながら聞いています。

説明が上手な人は最初からこの2つを明確に区別して伝えます。どちらの意味か相手に考えさせながら会話することは無駄だと知っているからです。理解するのに一瞬とはいえ余分な労力を要する上に、誤解される余地のある表現だからです。文脈からは「お米」を食べないという意味で話をしていても、聞き手にその意味を読み取る能力が足らなければ、週末は「食事」を食べないと聞いてしまう可能性があるのです。

説明が上手な人は曖昧な言葉、つまり2つ以上の意味を持つ言葉を、明確に区別する言葉に置き換えて説明します。解釈を間違う余地を無くすのです。今回で例えでは「御飯」を「お米」と「食事」に区別して説明するのです。

明確に区別して説明するためには、2つ以上の意味を持つ言葉を明確に区別して説明する必要があります。聞き手にどのように伝わるのかを考える想像力が必要ですし、2つ以上の意味を持つ言葉を別の言葉に置き換える知恵が必要です。説明が上手な人はこのことを無意識のうちに行うことが出来るのです。説明が下手な人は、想像力に乏しく説明したつもりになっていますが、曖昧な言葉を明確にすることなく使うためわかりにくくなります。曖昧な言葉を区別するため、聞き手が頭を使いながら聞く必要があるため、負担が大きくわかりにくい説明となります。

話し手が言葉を明確にするという知恵を使うことで、聞き手の負担を減らすことが出来るのです。そのことを理解している人は説明が上手ですし、短時間で正確な情報を相手に伝えることが出来ます。

開業医、病気を治すが仕事?治さぬが仕事?

本来の医者の仕事は病気や怪我を治すことのはずです。しかし一部の開業医は、病気を治さず、出来るだけ長く通院してもらうことが仕事と勘違いしている話です。患者さんとしてはどの開業医が治すつもりで、どの開業医が治すつもりがないのかわからないため、治すのが仕事の勤務医にみてもらいたくて大きな病院に殺到するのです。
一部の医者が治さぬが仕事だと勘違いしてしまう理由を見ていきます。
一言で言えば治さない方が儲かる仕組みなのです。
以前書いた病気が治らないのは、治さないのかもしれませんを違う角度から書いてみます。

皆保険制度の落とし穴

今の日本の医療制度は国民皆保険によって成り立っています。国民皆保険のおかげで国民誰もが医療制度を簡単に利用することが出来るので、素晴らしい制度だと思います。

しかし残念ながらこの医療制度にも重大な欠陥があります。

何故なら成果報酬ではなく、出来高制だからです。治すことでお金をもらえる訳ではなく、結果の如何に関わらず処方や検査や処置をすればお金になります。そして病気を治してしまえばその成果は評価されず、通院の必要が無くなるので将来に渡ってお金にはならなくなります。逆に治らなくても薬を処方することでお金になりますし、副作用が出れば更に検査や処置で余分にお金になるのです。

今の医療制度は病気を治さない方が医者が儲かり、病気を治す誠実な医師は経営に苦労するのが現状です。糖質の害をキチンと伝え、病気を治す医者にこそ報酬が与えられるべきですが、現実にはそのような仕組みにはなっていません。病気を治してしまう方が医療費も削減出来るので国民の利益になりますが、そのような仕組みを作るのは非常に困難な状況です。自分の収入が減ってでも患者さんの病気を治す気概のある医師だけが、糖質の害を伝える状況がしばらく続くと思います。

病気を治す医師と治さぬ医者の見分け方

一つの簡単な見分け方は患者さんを怒るかどうかです。怒る医者は治すことが目的ではない可能性があります。病気を治すことが目的であれば、怒る必要などないからです。一緒に病気が治る解決法を探せば良いだけで、怒るのは何かしらの医者の思い上がり・勘違いが原因です。

病気を治さぬ医者は、口にこそ出しませんがお金が目的です。意図的に治さないのか無意識のうちに治らないように治療法を選択しているのかはわかりません。本人に聞いても治す気がないと正直には答えないでしょう。他に怒る目的があるとすれば威張りたいのでしょう。だからこそ病気を治さない医者は患者さんを(自分のお金か自分のプライドのために)怒ります。何故なら目的が病気を治すことではないから、病気で困って来院されたことを怒るという暴挙に出ることが出来るのです。医者の稼ぎのために怒られる上に、治す気が無いのですから困った話です。

参考

もし良かったら

をご参照ください。

儲け主義の医者の見分け方 待ち時間

先日は儲け主義の医者の見分け方で医者が怒るかどうかで見分ける方法を伝えました。今回は待ち時間から考えてみます。待ち時間が長いのは一般的には腕が良く、人気が高いと考えられます。しかし手際が悪くても待ち時間は長くなりますし、説明が長ければ待ち時間も当然長くなります。また病気を治さなければ患者さんが自然と増えるので、待ち時間が長くなります。わざと何度も受診するように促すと患者さんが多くなるので待ち時間は長くなります。そのため待ち時間の長短だけでは、腕が良くて人気が高く待ち時間が長いのか、わざと待ち時間を長くなるようにしているのかわかりません。

そこで儲け主義かどうかの見分け方を考えてみました。実際には儲け主義かどうかわかる訳ではありませんが、患者さんに対して思いやりがあるかどうかの判断が出来る方法です。

待ち時間を減らす工夫の有無

待ち時間を少しでも短くする工夫があるかどうかです。例えば待ち時間が長くなれば一時外出し、順番が近づけば電話で呼び出しをするとか、そもそも電話で受け付けを出来るかなどです。少しでも患者さんの負担が減る工夫があるかどうかです。知恵を働かせれば何らかの対応が出来るはずです。その工夫が無ければ儲け主義の可能性があると思います。少なくとも待ち時間が長いのは仕方が無いと考えています。場合によっては自分は人気が高いから仕方が無いと勘違いしているかもしれません。

そのような病院は診療時間前に行列が出来るのですが、人気が高いからと錯覚してしまいます。

もし待ち時間を減らす工夫がない上に、患者さんを怒る医者であればかなりの高確率で儲け主義の医者ではないかと考えます。少なくとも自己中心的な考え方の医者であることは間違いないでしょう。

待ち時間を短くする工夫があっても、待ち時間が長い程人気があるのか工夫がないから待ち時間が長いのか確認してみて下さい。

ちなみに待ち時間が短い病院は、人気がないだけかもしれませんが、もしかしたら患者さんのために手際よく治すから患者さんが少ないのかもしれません。一度患者さんの少ない病院にかわってみるのも一つの選択肢かもしれません。

判断を促す説明と判断を混乱させる説明の違い

判断を促す説明の仕方と混乱させてしまう説明の仕方があります。説明の上手な人は判断を促す説明をすることができます。説明の下手な人は、混乱させる話し方をしてしまいます。

医師不足の原因の一つは一部の医師の説明の仕方が下手なことです。多くの場合患者さんに治療法を選択してもらう必要がありますが、説明の仕方により患者さんが判断に要する時間が異なります。このことは販売の場でも同じです。受ける説明の仕方により、判断に要する時間が異なります。

判断を促す説明をする人

判断を促す説明をする人は、違いをわかりやすく区別します。判断するための材料をあらかじめ説明し、判断の根拠となる違いを明確にします。例えば安全性を求めるのか利便性を求めるのか等です。効果は今一でも副作用がない薬が良いのか、効果は抜群でも副作用があるかもしれない薬が良いのかを比較出来るように並べるのです。比べ方を変えると副作用がない薬にするか、副作用は若干起こりえるが、1日1回の薬にするか?などです。商品を選ぶ場合には、機能の充実なのか価格が安いことなのかなど何を求めるのか、具体的に判断する根拠になりえる部分だけを取り出して比べてもらうのです。説明の上手な人は判断に役立つ違いだけを取り出して例示します。判断に必要な情報を整理して違いを明確に伝えることが出来るのです。

判断を促すために、頭の中を整理出来る説明をするのです。

混乱させる話し方

混乱させる話し方をする人は、物事を整理せずとにかく次々と説明していきます。説明に間違いがある訳ではありませんが、情報が羅列されるのでどのように選べば良いかわからず混乱してしまいます。しかもその情報によくわからない専門用語が使われていると訳がわかりません。益々混乱してしまうのです。混乱させる話し方をしてしまう人は、自分がわかっているから相手にも説明すれば簡単にわかると誤解しているのです。人は情報を整理しなければ判断がつかないことを知らないのです。そして判断出来るだけの必要な情報を与えなければ、判断出来る訳がないのですがそのことも知らないのです。判断に必要な情報が不足しているのに判断を迫られ、余計混乱してしまうのです。

そもそも説明する人の頭の中が整理されていないので、説明を聞いても混乱してしまうのです。

混乱させる話し方をする人の対策

わざと混乱させるつもりはありませんが、人がどのような情報を元に判断するのか、物事がよく理解出来ていないのです。

対策は「その違いは一言で言うと何ですか?」と質問することです。一言での違いを聞いた上で、判断するのが一番です。まだ判断するための情報が不足していれば、更に質問することがお勧めです。一言で違いを説明出来ないのであれば、そもそも違いを説明する仕事(営業や医師など)は向いていないと私は思います。

混乱させる話し方をする人は、頭の中で整理が出来ていないので、質問することで頭の中を整理して情報を引き出すのです。整理されていない情報に振り回される必要はありません。

儲け主義の医者の見分け方 怒るかどうか

困ったことに儲け主義の医者がいるのは事実です。儲け主義とは自分の利益を優先する考え方です。そして儲け主義の医者はそれが当たり前だと思い込んでいるので自分が儲け主義だという自覚はありません。だから本人に確認しても否定するだけです。

本人に確認出来ないので客観的に見分ける方法を考えてみます。私の提案する簡単な儲け主義の見分け方は患者さんを怒るかどうかです。勤務医が患者さんを怒るのは別の心理(参考:患者さんを怒る医者の心理を考える)かもしれませんが、開業医で怒る目的の一つは儲け主義の可能性が高いと思います。人の行動には必ず目的があります(目的論)。元々怒る目的が儲けなのです。

例えばやたらと再診を促したり、無駄な検査をしたりします。患者さんのためを装いながら儲けのために再診や検査を促すのです。そして再診しなかったり検査の質問をすると怒り出すのです。何故なら儲けにならないからです。

儲け主義の医者は患者さんを怒ります。何故なら儲けの邪魔になるからです。儲けにならないことを患者さんが言うから怒るのです。例えば質問されると答えなければいけなくなるので時間がかかるため怒るのです。説明をしてもしなくても儲けが変わらないため怒るのではないかと思います。もしかしたら説明が下手なのでうまく説明出来ないから怒るのかもしれません。

儲け以外に怒る目的があるとすれば、他に考えられるのは患者さんを怒る医者の心理をご参照下さい。

もしかしたら私の考え方が間違っているかもしれません。しかしもし本当だとしたらと考えてみて下さい。医者の儲けのために怒られているのかもしれないのです。ぞっとするような話だと思いませんか?いずれにしても怒るような医者は何らかの勘違いをしているのは間違いないはずです。

そして儲け主義の医者は儲けのために病気をわざと治さないのかもしれません。何故なら病気を治してしまうと通ってもらえないからです。必要のない薬を延々と飲み続けるように説明し、中断すると(儲けが減るから)怒るのです。治さないというか、治っていないことにするかもしれないのです。その証拠に病気を次々治していることを話すと、儲けにならないから治さない方が良いのでは?と言う医者がいました。冗談か本気かはわかりませんが、私には本気にとれました。そんな医者がいるのは事実のようですし、その会話からこの話を書くことを思いつきました。

いくら怒っても儲け主義以外は良い先生なのかもしれません。医者の儲けに貢献するのでも良ければ、怒る医者に通い続けると良いと思います。儲け主義の医者が嫌だと思えば、自分が怒られた場合はもちろん、怒る噂のある医者は避ける方が無難だと私は思います。私の考えが一理あるか、間違っているのか考えてみて下さい。

遊ぶと遊ばされるの違い

遊ぶと遊ばされるには違いがあります。
人は遊んでいるつもりで遊ばされれています。

遊ぶ

遊ぶとは自分の意思で行動を考えて楽しむことです。遊び本来の目的である頭の使い方、考え方を学び、他人と意思の疎通をはかり関係を築くことが出来ます。工夫次第で無限の遊び方を作り出せますが、遊びを自分で考える必要があります。慣れると簡単なのですが、遊びを自分で考えたことが無いと困ります。実際には0歳の赤ちゃんでも遊びを考えるので、正確な表現ではありません。遊びを考えることは誰でも小さい頃にらやっていたのですが、遊ばされていると遊びを考えることが出来なくなるようです。

人間には物事に飽きる仕組みが備わっているので、自分で考えて遊んでいると飽きてしまいます。飽きてくると自分で楽しめるように、遊び方を工夫して飽きることを避けることが出来ます。工夫しつくすと全く別の遊びを考えるようになります。

遊ぶことで様々なことを学ぶことが出来ます。何を使って遊ぶのか、ルールを考え、何に喜びを見いだすことが出来るか無から考えるのです。正に「0から思考」のトレーニングになるのです。しかも楽しめるように考えるので、遊びを考えるところから楽しむことが出来、大きな満足感が得られます。

遊ばされる

遊ばされるとは人に遊び方を決めてもらい、その遊び方に従って遊ぶことです。他人に遊び方を決めてもらうことを遊ばされると表現しています。他人に遊び方を決めてもらうので自分で考える必要がないので楽です。そしてお金を出してでも遊んでもらえるように、楽しんでもらえる仕組みを作り上げています。決められた遊び方しか許されないので自分で工夫することが出来ず、遊び方に変化がありません。そのため飽きないように(お金を出し続けてもあえるように)前もって飽きない仕組みを考えてあるのです。

遊ばされる具体例は、ゲームであったり、テーマパークであったりします。確かに楽しい仕組みが散りばめられているので、楽しませてもらうことが出来ます。これらの楽しませる目的がお金なので、遊ぶことで得られるものはありません。楽しかったという思い出だけです。お金を払うことで楽しい時間を買う感覚です。もしくは暇な時間をお金を払うことで楽しく埋めてもらう感覚かもしれません。

確かに遊ばされるのも楽しくはありますが、一度立ち止まってその意味を考えてみると良いかもしれません。

遊ぶと遊ばされるの違い

遊ぶとは自分で考えて行動することで、遊ばされるとは人が考えて行動させてもらうことです。つまり考えている人が違います。どちらが楽しいかは人それぞれです。

丁度「制限」と「回避」という言葉の違いに似ています。人に決めてもらう「制限」と自分で決める「回避」です。糖質は制限されらものではなく、自分の意思で回避する糖質回避という考え方が適していると思います。これもどちらを選ぶのか人それぞれです。

私は自分で考えて行動する方が楽しく感じますが、いかがでしょうか?

反省する人と反省しない人の違い

反省とは過去を振り返り未来にいかすことです。

反省する人

反省する人は過去にうまくいかなかったことを受け止め、次にうまくいくように自分に何が出来る(出来た)か考えます。

反省する人は改善策を考えるため、次に同じことがあればうまくいく可能性が高まります。こうして反省する人は成功を勝ち取ります。

反省する人は自分の非を認める強さを持ち、成功する可能性が高く、信頼に値します。

反省しない人

反省しない人は自分に非があるということに気づくことが出来ません。反省しないのではなく、自分は悪くない(と思い込んでいる)から反省出来ないのです。自分に落ち度があってもそのことを受け入れることが出来ないので、誰か他の人のせいにします。反省しない人は言い訳人間であることが大半です。反省しない人の中には過ぎてしまった過去に興味がないため、反省出来ない人もいますが、稀です。

反省しない人は自分の非を認めることが出来ませんのね、改善が期待出来ません。反省しない人は言い訳人間同様距離を置くのが一番です。どうしても距離が置けないのであれば、改善を期待しないのことです。そういう人だと受け入れるしかないと私は思います。

咄嗟に判断出来る人と出来ない人の違い

咄嗟に判断出来る人と判断出来ない人がいます。その違いを考えてみました。

咄嗟に判断出来る人

咄嗟に判断出来る人はあらかじめその状況を考えています。時間のあるうちにあらかじめ考えてあるので咄嗟に判断することが出来るのです。咄嗟に判断出来る人の中でも様々な状況に臨機応変に対応出来る人は、あらかじめ考えてある上に、様々な状況に応じてどの様に対応するべきかまで細かく想定しています。全く考えていないことに遭遇しても、あらかじめ考えてあることの中から一番近いものから一瞬で類推します。あらかじめ考えてあるので様々なパラメータ、考慮、確認すべきことについて予想しているのです。

どれだけのことを想定してあらかじめ考えているかによって、咄嗟に判断出来る範囲に違いが出てきます。ありとあらゆることを想定していれば、いかなることも判断出来るかもしれません。途中で状況が変わったとしても、臨機応変に対応することが出来ます。

咄嗟に判断出来ない人

咄嗟に判断出来ない人はあらかじめ考えていないようです。少なくともあらかじめ考えていないことに遭遇したため、咄嗟の判断が求められるような状況でもどうして良いかわからなくなるのです。

詐欺師がつけ込んでくるのは、意図的にこのような判断出来ない状況です。知らないことや考えたこともないことを矢継ぎ早に言われると混乱してしまうのです。あらかじめ考えてあることであれば、矛盾点も冷静に見極めることが出来るのですが、考えていないとどうすれば良いかわからなくなります。そして決断を迫るのです。

咄嗟に判断するために

何事においても考えることの出来る限り、様々な角度から考えておくことをお勧めします。

例えば災害対策などは考えておくと咄嗟の判断に役立ちます。いずれ起こるといわれている東海東南海地震とそれに伴う津波や、富士山の噴火は考えておいてもよい起こり得る自然災害だと思います。家族とどのように連絡を取り合うのか、食料の確保はどうするのかなどあらかじめ考えておいて損は無いと思います。ある程度行政が被害予想もしてくれているので、思考実験には最適です。被害予想に照らし合わせながら、咄嗟の際にどのように行動するか想定しておくのです。

 

副鼻腔の存在する理由

私が学生時代、副鼻腔は様々な憶測はあっても存在する理由が分からないと言われていました。自然淘汰の理屈から副鼻腔が存在しなければ子孫が残せない理屈を考えてみると、存在理由がわかりました。副鼻腔が無ければ命に関わるあるいは子孫が残せない状況を想像してみれば良いのです。副鼻腔が無くても命に関わらないあるいは子孫が残せるのであれば、副鼻腔の存在する合理的理由とはなりません。

これまで考えられていた副鼻腔の存在意義です。

  1. 頭蓋骨の軽量化
  2. 声を共鳴させて音量を増幅
  3. 加温・加湿に関して鼻腔の補助
  4. 顔面への衝撃から脳を守る緩衝エリア

生物の進化の歴史から考えて、生き残る際に無駄な物は無くなっていきます。逆に生き残る上で必要だったからこそ残ったはずです。現在必要かはともかく、人類の進化の歴史においては副鼻腔があることが生き残る上で重要な役割があったはずです。これらのことを踏まえ自然淘汰の理屈から、生存に有利なものを検証してみます。

1.頭蓋骨を軽くするためという理由が言われていましたが、決め手に欠ける理由でした。何故なら軽くするだけであれば無駄な副鼻腔を削り落とし、その分顔が凹むことで副鼻腔が無くなるはずだからです。副鼻腔がある方が生存に有利なことが考えられます。

2.声を共鳴させて声を遠くまで飛ばすことを考えてみます。遠くまで声を届けることが出来ても生存に有利になる理由はありません。敵がいることを伝えるとしても、大きな声で伝えることで生き残るのは他の人です。更に付け加えるなら聞く人の耳が良ければ大きな声で伝えるよりも有利です。生き残るためには聴力が優れている必要がありますが、声が大きくても自身の生存には有利にはなりません。よって副鼻腔の存在理由にはなり得ません。ただし声が大きいと配偶者を見つけやすいという理由は考えられます。これは声が大きいと、本来の副鼻腔の存在理由が優れていること(副鼻腔が発達していること)が他人にもわかるため配偶者が声が大きい人を選ぶのです。あくまでも副鼻腔の発達が生き残りに有利だから、副鼻腔が発達している人が選ばれるだけで、声が大きいことは副鼻腔の発達している人を選ぶ手段でしかありません。

3.加温・加湿において鼻腔の補助をする。補助が無ければ生き残ることが出来ない程過酷な環境であれば鼻腔その物が発達するはずです。わざわざ副鼻腔が存在する理由にはなりません。副鼻腔が別の理由で存在するので、加温・加湿に利用しているのと考えるのが妥当です。

副鼻腔の存在理由

今の私にははっきりと存在する理由が分かります。先入観にとらわれることなく物事を考える「0から思考」で考えると簡単でした。副鼻腔があるのが頭の前面というのも大きなヒントです。軽くするのが目的なら頭の周囲に満遍なく存在しなければ理屈が成り立ちません。何故前面だけに副鼻腔という空間があるか?それは4.脳を守るための衝撃を吸収するための衝撃吸収エリア、つまり頭部を衝撃から守るバンパーのようなものだったのです。今の平和な世の中では想像がつきませんが、他の動物や他の人間との争いにより怪我をするのが当たり前だった遥か昔、脳を守ることが最重要課題でした。怪我をすることが前提で脳にまでダメージを受けないことが重要です。木の棒や拳で殴られても副鼻腔があることで衝撃を吸収することが出来ます。副鼻腔が車のバンパーのように働くのです。ちょうどバンパーが物にぶつかることを想定して作られているように、人の頭も進化の歴史の中では、頭に衝撃を受けることを前提で脳を守るように進化した可能性が高いと思います。他の動物や他の種族との戦いにおいて顔面に強い衝撃を受けた場合、副鼻腔が無ければ脳に直接衝撃が加わります。脳が身体の動きの司令塔ですから副鼻腔の小さな者は直接衝撃を脳に受け、動けなくなって殺されてしまいます。衝撃の際事故時のバンパーのように副鼻腔が潰れることで脳に直接衝撃が加わることを抑えることが出来ます。結果として脳に損傷がないためすぐに動くことが出来、命を守ることが出来るのです。

車のバンパーは前後にありますが人間の頭部には副鼻腔は前面にしかありません。この理由を考えてみます。自然界では後ろから衝撃を受けることはほとんどありません。車は一方向に並んで進むという自然界では考えられないような特殊な状況で、後ろから追突されることに備えたものです。人間が頭の後ろから衝撃を受ける場合には、副鼻腔のようなものがあったとしても守りきれないので後頭部にはバンパーは存在しないようです。その代わり後頭部の頭蓋骨の厚みが厚く作られています。

これまでわからなかった理由

何故このような簡単なことがわからなかったかと考えてみました。副鼻腔の使い方を考えてしまったようです。研究者達が常識にとらわれてしまい「0から思考」が出来なかったことに起因します。何故なら木や拳での殴り合いの時代が何万年・何十万年も続いたことが抜け落ちているのです。剣や銃など武器が発達してしまった今となっては、研究者には副鼻腔があることで生存に有利だとは想像出来なかったのだと思います。剣や銃では副鼻腔を簡単に突き抜けてしまうからです。木の棒や拳であれば副鼻腔が衝撃吸収のバンパーの役割を果たしてくれるのです。

簡単な思考実験でも容易に理解出来ることですから、恐らく今ならコンピュータシミュレーションで上記のことを計算すれば簡単に証明できると思います。

「0から思考」は文字通り0から物事を考えます。0から考えてみると、如何に日常的に常識にとらわれて思考しているかが良くわかります。