デジタル思考とアナログ思考の違い

デジタル思考とアナログ思考という考え方を提唱しています(参考:アナログ思考とデジタル思考の見分け方)。デジタルが新しく、アナログが古いという分類ではありません。

デジタル思考

デジタル思考の考え方は0か1で、その間はありません。デジタル思考では曖昧さがないのです。0か1にはっきりと分けるのです。0.4は0ですし、0.5は1なのです。0.499でも0と見なすのです。0.5をこえるかどうかが明確な分岐点です。

そのため明確な分岐点、この場合は0.5をこえるかどうかを見極めます。一度確認して0.5をこえていれば1と見なします。念のため途中で確認することはあっても、0.5未満にならなければ判定が覆ることはありません。このことがデジタル思考の特徴です。判断が明確で素早いのです。デジタル思考の場合、判断基準を人に伝えるのも容易です。0.5をこえるかどうかだからです。数字で表すことの出来ないことでも、デジタル思考の場合明確な分岐点を決めることが出来るので、判断が素早く出来ます。判断や決断の早い人はデジタル思考をしている可能性が高いと思います。デジタル思考の場合、数字に限らず判断基準を明確に出来るので人に伝えるのも容易です。

デジタル思考が出来る人は、誰に責任があるのか明確に理解出来るので言い訳をすることはほとんど無いと思います。

物事を論理的に捉えることが出来るので、経営者や管理職、科学者に向いています。

アナログ思考

どちらかというとほぼ1だけど、でもまだ正確には1ではないので、まだ0になる可能性があると考えるのがアナログ思考です。アナログ思考では0.99は1に近くはあっても、まだ1ではないから0になる可能性が残っていると考えるのです。完全に1になるまでは1ではないと言い張るようなものです。いずれ1になるとしても、1になるまでは1では無いと主張するのがアナログ思考です。

結果は0.99でも1でも変わらないのですが、1になるまでは認めないので決断に時間がかかります。0.99は1では無いと言い張るので議論も進みません。

言い訳人間に多い思考方法かもしれません。

経営者や行政のトップにはむかない思考方法です。

副鼻腔の存在する理由

私が学生時代、副鼻腔は様々な憶測はあっても存在する理由が分からないと言われていました。自然淘汰の理屈から副鼻腔が存在しなければ子孫が残せない理屈を考えてみると、存在理由がわかりました。副鼻腔が無ければ命に関わるあるいは子孫が残せない状況を想像してみれば良いのです。副鼻腔が無くても命に関わらないあるいは子孫が残せるのであれば、副鼻腔の存在する合理的理由とはなりません。

これまで考えられていた副鼻腔の存在意義です。

  1. 頭蓋骨の軽量化
  2. 声を共鳴させて音量を増幅
  3. 加温・加湿に関して鼻腔の補助
  4. 顔面への衝撃から脳を守る緩衝エリア

生物の進化の歴史から考えて、生き残る際に無駄な物は無くなっていきます。逆に生き残る上で必要だったからこそ残ったはずです。現在必要かはともかく、人類の進化の歴史においては副鼻腔があることが生き残る上で重要な役割があったはずです。これらのことを踏まえ自然淘汰の理屈から、生存に有利なものを検証してみます。

1.頭蓋骨を軽くするためという理由が言われていましたが、決め手に欠ける理由でした。何故なら軽くするだけであれば無駄な副鼻腔を削り落とし、その分顔が凹むことで副鼻腔が無くなるはずだからです。副鼻腔がある方が生存に有利なことが考えられます。

2.声を共鳴させて声を遠くまで飛ばすことを考えてみます。遠くまで声を届けることが出来ても生存に有利になる理由はありません。敵がいることを伝えるとしても、大きな声で伝えることで生き残るのは他の人です。更に付け加えるなら聞く人の耳が良ければ大きな声で伝えるよりも有利です。生き残るためには聴力が優れている必要がありますが、声が大きくても自身の生存には有利にはなりません。よって副鼻腔の存在理由にはなり得ません。ただし声が大きいと配偶者を見つけやすいという理由は考えられます。これは声が大きいと、本来の副鼻腔の存在理由が優れていること(副鼻腔が発達していること)が他人にもわかるため配偶者が声が大きい人を選ぶのです。あくまでも副鼻腔の発達が生き残りに有利だから、副鼻腔が発達している人が選ばれるだけで、声が大きいことは副鼻腔の発達している人を選ぶ手段でしかありません。

3.加温・加湿において鼻腔の補助をする。補助が無ければ生き残ることが出来ない程過酷な環境であれば鼻腔その物が発達するはずです。わざわざ副鼻腔が存在する理由にはなりません。副鼻腔が別の理由で存在するので、加温・加湿に利用しているのと考えるのが妥当です。

副鼻腔の存在理由

今の私にははっきりと存在する理由が分かります。先入観にとらわれることなく物事を考える「0から思考」で考えると簡単でした。副鼻腔があるのが頭の前面というのも大きなヒントです。軽くするのが目的なら頭の周囲に満遍なく存在しなければ理屈が成り立ちません。何故前面だけに副鼻腔という空間があるか?それは4.脳を守るための衝撃を吸収するための衝撃吸収エリア、つまり頭部を衝撃から守るバンパーのようなものだったのです。今の平和な世の中では想像がつきませんが、他の動物や他の人間との争いにより怪我をするのが当たり前だった遥か昔、脳を守ることが最重要課題でした。怪我をすることが前提で脳にまでダメージを受けないことが重要です。木の棒や拳で殴られても副鼻腔があることで衝撃を吸収することが出来ます。副鼻腔が車のバンパーのように働くのです。ちょうどバンパーが物にぶつかることを想定して作られているように、人の頭も進化の歴史の中では、頭に衝撃を受けることを前提で脳を守るように進化した可能性が高いと思います。他の動物や他の種族との戦いにおいて顔面に強い衝撃を受けた場合、副鼻腔が無ければ脳に直接衝撃が加わります。脳が身体の動きの司令塔ですから副鼻腔の小さな者は直接衝撃を脳に受け、動けなくなって殺されてしまいます。衝撃の際事故時のバンパーのように副鼻腔が潰れることで脳に直接衝撃が加わることを抑えることが出来ます。結果として脳に損傷がないためすぐに動くことが出来、命を守ることが出来るのです。

車のバンパーは前後にありますが人間の頭部には副鼻腔は前面にしかありません。この理由を考えてみます。自然界では後ろから衝撃を受けることはほとんどありません。車は一方向に並んで進むという自然界では考えられないような特殊な状況で、後ろから追突されることに備えたものです。人間が頭の後ろから衝撃を受ける場合には、副鼻腔のようなものがあったとしても守りきれないので後頭部にはバンパーは存在しないようです。その代わり後頭部の頭蓋骨の厚みが厚く作られています。

これまでわからなかった理由

何故このような簡単なことがわからなかったかと考えてみました。副鼻腔の使い方を考えてしまったようです。研究者達が常識にとらわれてしまい「0から思考」が出来なかったことに起因します。何故なら木や拳での殴り合いの時代が何万年・何十万年も続いたことが抜け落ちているのです。剣や銃など武器が発達してしまった今となっては、研究者には副鼻腔があることで生存に有利だとは想像出来なかったのだと思います。剣や銃では副鼻腔を簡単に突き抜けてしまうからです。木の棒や拳であれば副鼻腔が衝撃吸収のバンパーの役割を果たしてくれるのです。

簡単な思考実験でも容易に理解出来ることですから、恐らく今ならコンピュータシミュレーションで上記のことを計算すれば簡単に証明できると思います。

「0から思考」は文字通り0から物事を考えます。0から考えてみると、如何に日常的に常識にとらわれて思考しているかが良くわかります。

人の感違いを受け流す余裕を持とう

人は誰でも勘違いするものです。感違いは自分ではなかなか気付くことが出来ません。感違いに悪気は無いのですから怒っても仕方がありません。人は誰でも何がしかの勘違いをしています。自分も他人も。

勘違いとは事実と異なることを正しいと思い込んでいることです。

勘違いを指摘して無理矢理訂正したりやり込める必要はありません。何故なら勘違いは間違っているのですから、間違いに気付いた時点で恥ずかしい思いをするのは相手です。場合によっては教えてあげても良いかもしれませんが、相手の思い込みが激しいと聞く耳を持ってもらえません。お互い嫌な思いをしても損なのでそっと受け流すようにしましょう。

中には死ぬまで勘違いに気付かない人もいますが、それはそれでその人は幸せだと思いますのでそっとしておきましょう。

勘違いの具体例

例えば信号の見間違いで交差点に進入した車を思い浮かべてみて下さい。勘違いで青信号だと思い込んで進入していますので、歩行者が横断しているはずがないと思い込んでいます。歩行者は青信号を渡っていれば、車が来るはずがないと思い込んでいます。ここに齟齬を生じ事故に至ります。今回のケースでは歩行者が運転手の勘違いを受け流すために、横断歩道の信号が青信号でも左右の確認をすることです。特に効果を発揮するのが、車の右左折においてです。運転手は巻き込み確認を行いますが、歩行者や自転車が死角に入っていると誰もいるはずがないと思い込んで交差点に進入します。人がいるはずがないという心理的な死角にもなるので、人を巻き込んでも本当に気付かないこともあるようです。右左折をする車が自分がいないと勘違いしているかもしれないと予測しておくのです。あらかじめ予測していれば止まらず進んでくる車にいち早く気付くことが出来、車を避けることが出来ます。運転手さんの勘違いを受け流すことで、自分の命を守ることが出来るのです。

糖質の勘違い

何でも糖質の話に持ち込んでいる気もしますが、事実多くの方が勘違いしているので書いてみます。

糖質の害は明らかですが、まだ知らない人は勘違いしているのです。糖質回避・糖質制限が危険だと主張される方もおられます。これまで当たり前に食べている主食が悪い訳がないと。そのように主張される方の多くが糖質依存に陥っておられます。依存対象をやめたくない言い訳に糖質回避の危険性を主張されているだけです。糖質をやめることに害があると思われているのですが、実は糖質依存による勘違いの主張なのです。糖質の害を説明して説得しようとせず、まだ知らないんだとして受け流しましょう。糖質制限が危険だと言っている人も10年もすれば勘違いに気付く日がやってきます。勘違いに気付いて恥ずかしい思いをするのは相手なんですから、今は受け流しましょう。

少なくとも糖質の害に関しては明らかで、受け入れるか受け入れないかではありません。いつ勘違いを受け入れるかです。真実は一つなので生暖かい目で見守ってあげましょう。

糖質を食べると私の身体に起ること

あくまでも私の感じる主観なので証明のしようがありませんが、一つの事実とその解釈として読んでみてください。

糖質を食べると睡眠の質が悪化

糖質を食べると睡眠の質が悪化します。
寝付きが悪くなり、夜中に身体があつくなるためか目覚めることがあります。
最初は気のせいかとも思っていましたが何度か繰り返すため、最近では糖質を食べるのは休みの前日を中心にしています。

糖質を食べると考えがまとまらなくなる

1日に1つは風の記事を書くように心がけていますが、サラサラと2つ3つの記事が書ける日もあれば、1つを絞り出すのに苦労する日もあります。記事を書く際に苦労する日は頭にモヤがかかったような印象で、考えがまとまりません。
様々な物事を決める際にも、時間がかかってしまいます。
糖質を回避している日には、頭が冴え渡り記事も次々思い浮かびます。
何か物事を決める際にも簡単に判断がつきます。

糖質による二日酔いもどき

糖質を食べた翌日には頭の回転が鈍る感覚があります。
かつてお酒を飲んでいた際に経験した二日酔いのような感覚に似ていると考えました。
糖質を食べた結果上昇する血糖値そのものが問題なのであれば、血糖値が下がった翌日には改善するはずです。実際には翌日にも頭にモヤがかかった感覚で頭がうまく働いていないような印象です。

考え得る原因(仮説)

自分の頭の中で起っていることではありますが、必ず理由があるはずです。
もしかしたら気のせいかとも思っていましたが、これだけ何度も繰り返す再現性があれば少なくとも私の身体では糖質が頭の活動を妨げているのは間違いがありません。
その理由を「0から思考」で考えてみました。
糖質を食べるということは血糖値が上昇しているはずです。

睡眠の質に関しては、夕食やデザートを食べた後寝付けなかったり夜中に目覚めたりしていました。血糖値が上昇し体温が上昇したことによって寝付けない可能性を考え、昼間食べるようにするとある程度改善しました。どうやら糖質を食べることにより体温上昇が関連している可能性が考えられます。

判断力に血糖値が何らかの影響を及ぼすとすれば、血糖値の成分ブドウ糖が脳細胞のタンパク質に結合して糖化産物となり脳の活動を妨げている可能性が考えられます。
糖質を食べると全く考えられなくなるわけではありませんので、完全に活動を阻害するわけではなさそうです。どのように考えると良いかというと、血糖値が上がると頭にモヤがかかる感覚を経験することから、脳の神経活動のノイズになっているのではないかと思います。正常な神経活動をするためにノイズを取り除いてから、思考するので考えがまとまらなかったり判断力が鈍ったりする可能性が考えられます。このことは食べた翌日にも影響する糖質による二日酔いもどきの説明も可能です。血糖値そのものが何か引き起こしているのであれば、血糖値が下がった時点で頭の回転は戻るはずです。血糖値が下がっているであろう食べた翌日にも影響が残っていることは、何らかの反応が残存していることをうかがわせます。糖化産物による神経細胞活動のノイズ説は説得力があります。

糖質による脳への影響から考えられること

糖質を食べない生活をされたことがない人は、ベースラインが糖質を食べている状態のため糖質を食べない差がわからないと思います。私の仮説が正しければ、糖質によるノイズがありながら考え事をしているという状態です。せっかく頭をフルに使おうとしているのに、絶えずブレーキをかけているような状態かもしれないのです。

少なくとも受験などの脳のパフォーマンスが試される際には糖質回避することがお勧めです。更にお勧めなのは日頃の勉強にも糖質回避をしている方が勉強の効率は上がると思います。ちなみにお腹が空くと血糖値が下がって頭がぼうっとするから、糖質は食べないとというのは間違いです。糖質を食べるから血糖値が上昇してしまい、インスリンで血糖値を下げる際に下げすぎてしまうため低血糖になるだけです。そもそも糖質を食べなければ低血糖にはならないはずです。

頭を使う仕事をする人は糖質を食べないのが常識の時代がくるのかもしれません。

今後の対応

これまで私は体重を減らすことを目的に糖質回避をしていました。
標準体重となった今、無理に糖質回避をする必要はなくなりました。
体重の視点からは、再び糖質依存に陥りさえしなければ糖質を食べる量を自己抑制出来るので糖質を再び食べることに問題はありません。
しかし思考レベルに影響があるのであれば話は別です。
アルコールと同様に糖質も控えるべきなのかもしれません。
私がアルコールを飲まなくなったのは、時間を無断にしたくないからです。
そして糖質を控えているのは今のところ健康を考えてです。これまでは体重を減らすことを目的に糖質回避をしていましたが、これからは思考レベルに着目しながら糖質を食べる量を加減しようと思います。糖質を食べることで思考レベルが落ちるのであれば余分な思考時間が必要になるという意味で、糖質を食べることがアルコール同様私の時間を無駄にしている可能性があります。

アルコール同様時間がもったいなので糖質は控えようと思います。

信じるか信じないかはあなた次第


以前は文字を書いて印刷して広めるしか情報伝達手段がありませんでした。印刷することに多大な費用がかかるため、印刷する時点で印刷する価値がある内容かどうか吟味されていたのです。そのため印刷された物には一定の信頼ができました。しかし現代ではインターネットを活用することで情報発信にお金がかからなくなったため、誰でも情報発信できるため色々な情報が錯綜しています。

例えば儲け話や耳寄りな情報などといった怪しい情報から、小学校や中学校で習う基本的なことまで様々です。
さすがに小学校・中学校で習う教科書に明らかな間違いはないとは思います。社会の教科書も時代の変化とともに様々な情報が加わるという意味で変わりはしても明らかな間違いとはいえないと思います。ただし歴史の教科書などは時代とともに新しい解釈によって変わることはありますが、そのときにわかっていることで間違いないと広く信じられていることが教科書に載っています。少なくとも社会の教科書以外は大きく変わることはないと思います。

小学校・中学教科書の内容は多くの人たちが吟味に吟味を重ねた内容なので正しい可能性が高く信じるに値すると思います。
恐らく正しいことでしょう。少なくとも私は小学校・中学校の教科書の内容の間違いに気づいたことはありません。

世間には教科書のように吟味に吟味を重ねた内容ではなく不確かな情報が数多く存在します。
誰かがただ思いつきで言い始めたことから、確信に迫る内容まで様々です。
そして多くの人が信じているから正しいはずという錯覚が起こるのです。

例えば主食として炭水化物を食べることが正しいと多くの人は信じています。しかし様々な意味で間違っているのはこのサイトに書いてある通りです。

人が詐欺などに騙されてしまうのは、信じてしまうからです。
電話でオレオレと言われ、自分の子供だと信じてしまうことで詐欺に発展します。

信じるか信じないかはあなた次第です。

多くの人が信じているからと言って正しいとは限りません。そして信じている人が少ないからと言って間違っているとは限りません。

自分の知識と経験と照らし合わせて矛盾がないか確認しながら信じるかかどうか見極めるのです。本当に頼りになるのは自分だけです。これまで培った経験と知識だけが信じるかどうか判断に役立つのです。経験や知識と照らし合わせて矛盾があれば、信じてはいけませんが、理解出来ないだけであれば保留しておくのです。何故なら画期的な考え方はそれまでの常識では理解できないからです。

つまり信じることが出来るか信じることが出来ないか判断するためには、経験や知識が必要です。信じるか信じないかは自分次第です。信じるために経験や知識を身につける必要があるのです。

どうしても経験や知識が不足しているのであれば、既に経験や知識のある人の知恵を借りると良いと思います。そんな知恵のある人が近くにいるといいですね。

一から十まで聞く人と一を聞いて十を知る人の違い

一から十まで全て聞かないとわからない人もいますが、一を聞いて十を知る人と言われるように物分かりの良い人もいれば、。
その違いは何なのでしょうか?その違いについて考えてみます。

一から十まで全て聞かないとわからない人は、一の大きさそのものがわからない上に、その方向性が理解わからないためのです。そのため全容の把握ができず、全てを聞かないとわからないのです。一を聞いて十を知る人は、一がわかればその大きさと方向がわかっているので全容を把握することが出来るのです。
一言で言えば、違いは一の大きさと方向性を把握出来ているかどうかです。

同じ1でも大きな違いがある
同じ1でも大きな違いがあります。
片方は1の大きさが曖昧で、並び方がわかりません。
片方は1の大きさがはっきりしており、並ぶ方向も明らかです。

一の大きさが曖昧で、方向がわからないので一つ一つ並べ方を聞かなければわからないのです。
一の大きさと方向が分かっていれば、一さえわかれば十までの並べ方がわかるのです。

一から十まで聞く人と一を聞くだけで十がわかる人のイメージの違い
一から十まで聞く人は一貫性がイメージできないため全て聞くことになります。
一を聞いて十を知る人は方向がはっきりしているので一を聞けば十まで並べることができます。

つまり一が正確に把握できるかどうかの違いです。

これまでの経験や知識と照らし合わせて一の大きさや方向が把握ができなければ一から十まで大きさと方向を教えてもらわないとわかりませんが、一だけ聞けば大きさや方向がわかるので十まで並べることができるのです。

考え方を強要すると争いになる

考え方を強要するから争いになります。

例えば親子で親の経験から子供に対してこうしなさい、ああしなさいと一方的に強要することは良くあることです。子供が納得出来る説明した上での強要なら、大きな問題になりませんが納得出来ないまま強要しようとすると争いに発展します。

一方的な考え方の強要や押し付けは時として争いに発展するのは仕方ありません。強要された方が理解出来ないからです。何故やらなければならないか納得出来ないまま強要されるので、納得出来ないことに加えて、考え方を変えるように強要されることで争いになります。二重の意味で不快に感じてしまうからです。

強要してもねじ伏せる圧倒的な力があれば争いにはならないかもしれませんが、対等に近い関係であれば争いに発展します。健全かどうかは別問題として、かつての欧米諸国の植民地支配が争いにならない程の圧倒的な武力の違いによるものです。

子供が小さい頃には子供自身が判断できませんので、強要するのも仕方がありません。しかし子供が生意気なことを言ったり反発したりする自我が目覚めてくれば、強要するから争いになるのです。子供の成長に伴い、圧倒的な差が無くなった証拠なのかもしれません。まだ子供だから自分の思い通りにしたいという欲求は抑えて、子供の考え方を尊重するようにすれば争いは避けることが出来ます。その代わり子供が責任を取るのです。

一方的な論理で考え方を強要した結果争いが起こるのは何も親子だけではありません。かつての宗教戦争も一言で言ってしまえば考え方である宗教の強要をしようとして戦争にまで発展しました。信じるものは救われる、信じない人は関係無いという本来の宗教の考え方で言え考え方の強要などあり得ないことです。そのあり得ないことをしたため戦争にまで発展したのです。

逆に考えれば考え方の強要などしなければ、争いの多くは避けることが出来るのかもしれません。例えば先ほどの親子の場合、親の知っている情報を子供に伝える。親からすればこうする方が得だと思うという提案をするのです。その結果子供が自分で判断するように促すのです。強要しなければ争いにはなりません。強要するから反発するのです。子供自身の判断であれば反発のしようが無くなると思います。当然その責任は自分で取らせると子供自身も自らが選んだ行動には責任が伴うことを実感すると思います。

最終的に子供が困ることなら、子供の問題だと子供に気付かせてあげると良いと思います(問題論)。子供が困る問題に親が口出しをすること自体が越権行為ですが、さらに強要すると争いになるのは当たり前と言えば当たり前のことなのです。

考え方の強要はしない

いくら自分の考え方に自信があっても、人に考え方の強要をしないことです。

考え方を強要すると思わぬ争いを生じるかもしれません。

大人に対して考え方を強要しないのは当然ですが、子供が反発するようになってきたら、子供に対しても強要するのは終わる時期なのかもしれません。

結果論と経過論

結果論という結果が全てという考え方に対して、途中経過に重点を置いて考える経過論という考え方が、あります。

結果論

結果論は結果が良ければ正解で途中経過は関係ないという考え方です。結果だけが求められ、途中経過はいくら努力をしても考慮されないため、対応がいい加減になりがちです。

本来の目的に反してスポーツに結果論を持ち込むと、悲惨な現実が待っています。スポーツ本来の目的は競い合うことで全力を出し切ることですから、試合に備えて準備をし、試合で全てを尽くすことができればよいのです。スポーツにおいて結果論を持ち込むと、負けはそれまでの努力を否定してしまうことに繋がります。

本来スポーツは全力を出し切るために競い合うだけで、勝つために競う訳ではありません。勝ち負けは全力を出し切るための手段です。結果論ではその手段のはずの勝ち負けにこだわるようになってしまうため、考え方が本来の目的から歪んでしまいます。

特にお金が絡むと勝ち負けが目的の結果論に陥りがちです。

経過論

経過論とは途中経過こそが大切で、結果は様々な要因が重ね合わさった偶然の産物でしかないという考え方です。

途中経過でどれだけ用意周到な準備をしているかを課題とします。結果論では成功すれば、用意周到な準備は無駄なこととして切り捨ててしまいますが、経過論では結果的に無駄になるかもしれない、この用意周到な準備にこそ価値を見出し出します。

経過論では、途中で問題になりそうなことは極力避けるか、問題に備えて準備しておきます。経過論では結果が最善になるように、不測の事態にも備え、できる準備は全てすることです。何故なら経過論では結果が最善になるように、途中経過で最善を考えておく考え方です。結果が問題でさなく、経過こそが問題だと捉えるのです。二つの最善の考え方で結果論は結果さえ良ければ途中経過は問わない自称最善で、経過論は絶えず最善の絶対最善のように思います。

例え失敗したとしても、経過論で物事は考えたいと私は思います。

日本製品が高い理由を以前書きましたが、結果論の他国の製品とは異なり、安全な経過にも拘る経過論で日本製品は作られているからだと思います。

起こらない事故に備えるのは無駄と考える結果論か、事故が起こらないように備える経過論か、どちらが優れているか考えてみて下さい。

物事は最悪から考える

物事を考える場合、都合のよいことを考えがちですが、まず最悪を考える考え方を身につけましょう。
そうすることにより、最悪に対して備えることができます。
常に想定しうる最悪を考えておくと、実際に遭遇した場合にも慌てることが少なくなります。ましてや最悪よりもましな状況ならその対処も、最悪よりは容易です。
ほぼ確実に起こらないだろう!という阿蘇山の破滅的噴火が起こるとどうする!くらいを想定する。(ちなみに阿蘇山が何十万年に起こすという破滅的噴火を最悪に想定しています。九州北部は壊滅で呉でも助からないそうですので、可能性も非常に低いので想定をやめました。)
そこから、それよりはましだけど○○だとどうする?
などを想定していくように考えます。

この場合確率が低ければ、じっくり考える必要はありません。心構え程度で構いません。
しかしこの心構えをするかしないかで、実際に起こった場合には生死を分けることがあり得ます。
ただ非常に確率の低いことをウジウジ考えてもあまり意味がありません。ざっくり思い浮かべる程度に想定するだけでよいと思います。
ここから最悪の枠を起こりそうな確率のものへ絞っていく作業が大切です。阿蘇山の壊滅的な噴火は起こってしまえば対策のとりようがないので、そんなことを想定しても残念ながら無意味です。対策が出来る範囲で想定しうる最悪を考えるということです。
その場合には、実際最悪の場面に遭遇したら、どうするかを想定しながら考えていくようにします。

うまくいけばこうなるという楽観的に考えることは、余程暇ならば考えても構いませんが後回しで十分です。

最悪を想定して行動する癖があるのとないのでは、トラブルの生じた際の対応が全く異なります。
全く想定していないと頭が真っ白になってしまい、その時点から考え始めるので速やかな対応が出来ないのです。
原発しかり、船の沈没しかり・・・。

デッドラインを想定しておく

最悪この線を越えると不可逆的(元に戻せない)だから、こうしないと仕方がないということだけは想定しておくと良いと思います。
こういう物事の考え方は物事の境界を明確に区別するデジタル思考が有効です。
原発なら冷却できなければ海水注入(実は素人が考えても、仕組みを知っていれば選択しが無かったことはすぐにわかります)
船なら、傾いたまま復元しなければ沈没?(少なくとも航行不能。船は乗り換える必要があります。デッキにでましょう)

本来なら責任者がこの最悪のデッドラインは想定するべきなんですけど・・。
残念ながら今は最悪を想定できない人が世の中を動かしているようです。
今のところ他人は信じられそうにないので、様々な立場・状況がありますが、常に最悪を自分で想定しておくようにしましょう。

ちなみに私は、日本の災害で起こる可能性の高い最悪の事態は
・東海東南海連動地震とそれに伴う大津波、その後の富士山の爆発です。

時期はともかく私が生きている間に必ず起こると思っています。
富士山が噴火し風下にあたる東京に首都機能が集中しているのは危険極まりないと思います。
津波が大阪などの低地を広範囲に襲ってしまうことも含めて考えれば、大阪への分散は同時に水没する可能性があるためバックアップになりません。
合理的に考えれば岡山の山の中あるいは岐阜県あたりに首都機能を移転できるようにバックアップしておくべきだと思います。
飛行場と新幹線がすぐ近くに交わる広島空港近辺に首都機能移転も一つの選択枝だと思います。

首都機能のバックアップしないのは・・・。お気楽主義か利権が絡むからか・・・。
関東は地理的に平地が多いという利点はあるものの、想定される自然災害に弱い東京に首都をおいておく意味はあまりないと思います。
ちなみに富士山が爆発すると首都機能は少なくとも数週間に渡ってマヒします。火山灰が降り積もり、雨によりショートしてあちこちで停電してしまいます。
(東海・東南海地震が起こるとマグマの圧力の兼ね合いから、地震に引き続いて富士山は多分爆発します。)

最悪を考えても実際にどこまで備えるかは、起こる確率と想定される被害などから考えると良いと思います。

最悪から考える思考法。良かったらそんな観点から物事を考えてみて下さい。

今回は極端な最悪を書きましたが、日頃の考え方も伝えてみたいと思います。

天動説型思考と地動説型思考

以前はアナログ思考とデジタル思考という思考の仕方の分類をしてみました。今回は自分の立ち位置、立場を認識の仕方から2種類に分類してみました。

天動説型思考

天動説型思考とは主観的に物事を捉えることしか出来ず、客観的に物事を考える能力が欠落している。全ての物事が自分中心で回っていなければ気がすまないわけでなく、自分中心で回っていると信じて疑わない考え方のことです。一言で言うと自己中心的な考え方の持ち主です。

本人に悪気があるわけではなく、他の物事のとらえ方があることを知らないのです。かつての人類が天動説以外を知らなかったようなものです。

自分中心と完全に思い込んでしまうと、自分が望むことは全て他の人が叶えてくれると信じて疑いません。小さな子供の多くは天動説型思考をしていますが、周りが思い通り動かないことを少しずつ受け入れ、地動説型思考に意向していくことが多いと思います。

地動説型思考

地動説型思考とは天動説型思考とは対照的に、物事を客観的に捉えることができ、バランス感覚に優れます。物事を俯瞰(鳥の目から見るように全体を眺めること)して捉えることができるため、誤解が少なく正確にとらえることができます。人の立場に立って物事を考えることが出来るため、折り合いのつく方法を探し出すことが出来ます。

多くの子供は天動説型思考をしていますが、成長と共に周りが思い通り動くわけではないことを受け入れて地動説型思考に意向します。他人の立場に立って考える、他人がどのように感じるかを考えることで地動説型思考を出来るように進化していくようです。

天動説型思考と地動説型思考の関係

天動説型思考をする人は地動説型思考をする人のことが全く理解できません。そもそも概念がないため、理解しようがないのです。地動説型思考の人は天動説型思考の考え方も理解できる場合がありますが、天動説型思考の考え方の度がこえていれば相容れない関係となってしまいます。

天動説型思考と地動説型思考の見分け方

何か望みがある場合、自分が動くことを考えるか、誰かがしてくれることを考えるかのどちらかです。自分が動くことを考えるのであれば地動説型思考、誰かがしてくれるのを待つのは天動説型思考だと思います。

対策

天動説と地動説では地動説が正しいようです。思考法でも人が動くのを期待するよりも自分が動くことを考える方が健全です。天動説型思考をしている人は、少しでも早く地動説型思考に意向するように頭を切り替える方がお得だと思います。

頭の切り替えにはアドラーの心理学がオススメです。