お店がクレジットカードを導入する目的

お店によってはクレジットカードを使って支払いをすることが出来ます。お店は5%程度の手数料を支払って決済する仕組みです。クレジットカード会社との契約で現金とクレジットカードでの支払いに差をつけてはいけないことになっているので、単純に考えればお店は手数料の分損をしてしまいます。客の立場であれば同じ支払いですが、クレジットカード払いの方が0.5〜1%程度のポイントが付くのでお得です。

一見するとお店は手数料を払ってお客の利便性をはかり、その上ポイントまで付くので実質値引きしているようにみえます。実はお店は手数料を払っても得なのでクレジットカードを導入しているのです。クレジットカードは品物やサービスを手に入れて、支払いは1・2ヶ月後です。財布から直接お金が減らないので、使い過ぎてしまう傾向があるそうです。直接現金で支払いしないため「衝動買いの心理」を刺激しやすいのかもしれません。一説によるとクレジットカード払いの方が現金払いより20%多く使ってしまうそうです(かなり以前にどのかで読んだので出展は不明です)。最近ではクレジットカード払いは使い過ぎることに気付いた消費者も増えているでしょうから、クレジットカード払いの方が売り上げが上がるとしても5〜10%程度かもしれません。

一見するとお客さんのためのように見せかけて、実はお店が得する仕組みなのは良くできたビジネスモデルです。お客さんの利便性を高めるために手数料を負担するよりも、その分同じものを安く提供することを目指す企業はクレジットカードを扱いません。また「衝動買いの心理」での購入を良しとしない企業もクレジットカードは扱いません。

クレジットカード払いだとつい使いすぎてしまう仕組みを知った上で上手に使うようにしましょう。

タレと塩の違い 塩が通だと言われる理由

焼肉や焼き鳥ではタレと塩があります。通は塩焼きで食べると言われますが、その理由を考えてみます。

一言で言えばタレは砂糖が惑わすので、砂糖のない塩が素材の味を楽しめるということです。このことを詳しく書いていきます。

タレとは?

タレとはお店によってバリエーションは様々ですが、醤油と砂糖が基本です。組み合わせが自在でみりんや酢、胡椒、味噌などの調味料を加えることでお店の特徴を作り出すことが出来ます。

タレは醤油の塩気と砂糖で美味しく感じるのです。

塩とは?

塩は基本的には食塩で、ほぼ純粋な塩化ナトリウムです。味にバリエーションがないので、海水から作った塩や岩塩などを使用することもあります。塩味と言っても胡椒を一緒に使うこともよくあります。ちなみに香辛料である胡椒を美味しく感じるのは、恐らく唐辛子を美味しく感じる仕組みが働いているからです。

タレと塩の違い

タレも塩も塩分が美味しさを出すことに変わりはありません。違いは砂糖、甘みです。結局タレを美味しく感じるのは砂糖を美味しく感じているだけなのです。

特に砂糖・甘みに依存している糖分依存に陥っている人は、甘みを求めてタレを必要以上に美味しく感じてしまい食べ過ぎてしまうのです。経験的にタレの方が売れることを知っているお店は砂糖のしっかり入ったタレを使い続けるのです。

タレの美味しさは配合・組み合わせだと私は思っていましたが、砂糖が味覚を直接刺激するので美味しく錯覚させてしまうだけのことです。

この糖分依存の錯覚を取り除くことが出来るので、塩の方が本来の美味しさを楽しむことが出来るのです。

ちなみに塩も塩分依存という依存があるので、注意が必要です。身体に悪いとわかっていても塩分を控えることが難しいのは塩分依存が原因です。更に塩分依存と糖分依存の共依存の状態(お互いが影響しあって取りすぎること)だと、塩分と糖分が同時に楽しめるタレに依存してしまい、塩を選ぶことが難しいかもしれません。

依存の心理の問題点

依存の心理の問題点は、無意識のうちに人間の食行動を左右することです。一番の問題点は、健康を害するとわかってもやめられないことです。

塩で食べているとお腹いっぱいでも、タレだと食べることが出来るのは結局砂糖に騙されているのです。

つい食べ過ぎて困っている人は、焼肉や焼き鳥をタレで食べるのを控えることをお勧めします。タレに加えて糖質である御飯もある鰻丼などの食べ物は、非常に美味に感じますが、実は糖分依存、塩分依存そして糖質依存を利用したズルい食べ物なのかもしれません。

タレは砂糖の魔法で美味しく錯覚を引き起こしているようです。その仕組みを知った上で楽しみましょう。

 

成功する人と失敗する人の違い

どんな分野においても成功する人と失敗する人には明確な違いがあります。偶然成功する人もいますが、偶然は意図的に繰り返すことは出来ません。その後何らかの失敗をしてしまいます。

失敗する人は変化に対応出来ない

成功する人とは成功する仕組みを見つけるあるいは作り出すことが出来る人です。失敗する人とはその仕組みを探さないあるいは作り出すことをしようとしない人です。偶然成功する仕組みに辿り着いたとしても、偶然なので次の成功を引き寄せることが出来ません。一度成功したことを同じように繰り返すことは出来ても、どうして成功したのかわからないので環境の変化に対応出来ません。偶然一度は成功の仕組みを見つけたとしても、宝くじに当たるのと同じで、当たりを繰り返すことが出来ません。

一発屋と言われる人達は偶然売れただけなので、次の成功を探せないのです。

成功する人は絶えず考えている

成功する人はうまくいかなくなった時点で、状況に応じた軌道修正をすることが出来ます。絶えず状況毎の対策を考えているのです。失敗する人は上手くいかなくても、どうして良いかわからず軌道修正することが出来ません。成功する人は上手くいかなくても失敗だとは思いません。次の成功のための途中経過としか考えず、成功するまで考え続けるのです。

見分け方

成功するか失敗するかは質問してみるとすぐにわかります。質問は「予定通りにいかないとどうするんですか?」と聞くだけです。成功する人は予定通りにいかないことをあらかじめ想定しています。万が一想定していなくても、聞かれてからでもすぐに対策を考えつきます。質問する人は予定通りにいかないことを全く考えていないため、そのような質問をされると返事に困り固まってしまいます。

驚いてもすぐに対策を答え、その答えが合理的であれば成功します。驚いたまま固まってしまうと、恐らく失敗します。恐らくというのは偶然成功することが稀にありえるからです。ご参考まで。

ポケモンGOの可能性 政治に結び付ける

世間で話題になっているポケモンGOですが、政治に結び付ける面白い活用法を思いつきました。ポケモンGOの運営者がこの考え方を受け入れてくれる必要がありますが、行政や政治家が制御出来ないことが面白いところです。

ポケモンGOのジムなどを投票所に設置するのです。日頃は選挙に無関心な若者を投票日に全国の投票所に設定するだけで投票率に影響を与えるのではないかと思います。組織票のように票読が出来ない無党派層が投票所を訪れるきっかけとなるので、世の中が変わるかもしれません。

あくまでも架空の話ですが、もしゲーム内で特定の候補者に投票を促すと、投票に影響するかもしれません。絵空事ですが、もし万が一そうなるとゲームで政治が動くかもしれません。そのように考えると、現実の人の行動を変えてしまう可能性を秘めたゲームはこれまで無かったと思います。

特定の候補者への投票を促すことの実現は難しいとしても、投票所へ訪れることを促すのは比較的簡単だと思います。政治家は難色を示すとは思いますが、単純に組織票での当選が難しくなるからだと思います。

発想一つでゲームが世の中を変えるきっかけになりえる可能性を考えてみました。面白いと思われたら誰か関係者に提案してみてください。

変化することが当たり前の理由

世の中は絶えず様々な環境の変化に曝されています。そしてその環境の変化に対応するために自分達が変化することが求められています。
変化を嘆く人がいますが、変化を嘆く時点で世の中の認識を誤っています。何故なら変化が当たり前で以前と同じことが続くこと自体が奇跡に近い偶然だからです。すなわち以前はこうだったからと以前と同じを期待するのは、無駄なことです。同じであることは偶然で幸運だと認識しておく方が無難です。
現在の世の中は偶然の変化の積み重ねの結果成り立っています。その偶然の変化が起こらなければ、全く違う世界が広がっていることでしょう。
つまり変化することが当たり前で、同じであることの方が異常だといえるかもしれないのです。
とはいえ日本がいきなり明日から社会主義の国になったりするような変化が当たり前と言っているわけではありません。そのような人と人とのつながりによって成り立っていることであればあるほど変化しにくいのも事実です。多くの人が形作る仕組みの変化は、多くの人が変化を受け入れなければ変化できないから、変化しにくいだけです。
ここで言う変化とは景気や人の流れなども含めた環境についてです。

栄枯盛衰という言葉が全てを物語っています。どれだけ栄えていても永遠に栄え続けることはありません。
人は調子が良いとずっと同じ状態が続くと錯覚してしまいます。そこに落とし穴があるのです。変化に対応することは大変なため、希望的観測で変化しなくて済む方法を探してしまうのです。出切れば変化をしたく

人類が地球に存在すること自体が奇跡的な変化の積み重ねの結果です。だからこそ変化することが当たり前なのです。
地球に起こった偶然の変化が積み重なって人類が誕生しました。地球の歴史を読み解く『知恵』により、地球には様々な変化が起こったことがわかっています。地球全体が凍りついたことも何度かあるようですし、酸素濃度が上がって巨大な昆虫の星になったこともあるのです。1億年をこえる恐竜の時代が巨大な隕石の衝突により終わりを迎えました。このように変化するのが当たり前で、その変化に対応できたものだけが生き残ることが出来たのです。いわば人間は変化に対応した生き物の集大成のような存在なのです。
環境の変化は自分達ではどうしようもないことです。その変化に応じて自分自身が変化するしかありません。もし人類が自分達の意思で変化をしようとしていなければ、今でも石器を使っているかもしれません。もしかしたら石器も使えないかもしれません。
変化の積み重ねのおかげで、今の人類の生活を手に入れているのです。そして更により良い生活を手に入れるためには変化し続けるしかないのです。だからこそ変化することが当たり前なのです。

変化は避けられないわけですから、変化を受け入れその変化に対応する自らの変化を素早く行いましょう。
変化を嫌がり拒んだところで恐竜のように淘汰されるだけです。
生き残るためには絶えず変化していくしか方法はありません。
まずそのことを受け入れるようにしてみましょう。

モスの菜摘 ロースカツ 糖質回避メニュー

外食での糖質回避メニューを探しています。モスバーガーはハンバーガーですのでハンバーグをパンで挟むのが基本です。ラーメンの麺抜きに匹敵する、パンで挟むという常識を覆す発想で、生野菜でハンバーグを挟むという食べ方を提案しています。一時販売されていませんでしたが、糖質回避ブームにより再開したようです。今調べたところ期間限定での発売のようです。

モスの菜摘 ロースカツ

モスの菜摘 ロースカツ 340円
モスの菜摘 ロースカツ 340円
モスの菜摘 ロースカツ 340円
モスの菜摘 ロースカツ 340円

写真ではロースカツが見えませんが奥にロースカツがあります。

糖質を扱うのが基本の業種ですが、糖質回避メニューを用意する発想の転換が出来る企業のようです。モスバーガーは生き残りそうですね。

ちなみに以前某ハンバーガーチェーンの再建案を書きましたが、モスバーガーは既に対応していました。モスバーガーは進化していますね。

外食での糖質回避は今から広まるでしょう。何故なら糖質依存という概念が今から広まるからです。糖質回避こそが人間本来の食のはずだからです。

野菜たっぷりちゃんぽん麺抜き 長崎ちゃんぽん

糖質回避メニューを考えています。外食する場合でもお店を選ぶことで糖質回避することが出来ます。簡単なのはファミリーレストランです。何故なら単品メニューがあるからです。セットを頼まなければ自然と糖質回避することが出来ます。糖質回避が難しいのはラーメン屋さんやカレー屋さんです。私は近い将来麺や御飯の代わりに豆腐を使ったラーメンやカレー屋さんが現れると思っています。以前載せたように長崎ちゃんぽんは麺抜きという選択肢を用意してくれました。これで糖質回避者も長崎ちゃんぽんには行くことが出来るようになりました。

野菜たっぷり食べるスープ、野菜たっぷりちゃんぽんの麺抜き

野菜たっぷりちゃんぽん麺抜き
野菜たっぷりちゃんぽん麺抜き

確かに麺はありませんでした。野菜たっぷりなので食べ応え十分です。

注意点

長崎ちゃんぽんは野菜たっぷりちゃんぽんの麺抜きをしてはくれますが、私の訪れたお店ではメニューにありませんでした。ホームページでは野菜たっぷり食べるスープとしてメニューにのっていますが、取り扱いのない店舗がありますと但し書きがあります。つまり選択肢として積極的にアピールしていない店舗もあるようです。

麺を抜くだけですから何処でも理屈の上では出来るはずですが、もしかしたらフランチャイズなどの兼ね合いで麺抜きを提供するかどうかは店舗に任されているのかもしれません。ただホームページには記載があるので、申し出ればほとんどの店舗で対応してもらえると思います。何故なら長崎ちゃんぽん側も麺を残されてしまうと廃棄する必要があるので、麺を食べる気の無い人には麺を入れない方が合理的です。

しかし実際に麺抜きのスープを提供しているかどうかは確認してみると良いと思います。

今からの時代には糖質回避メニューは元々訪れることのない糖質回避者を呼び寄せることが出来るのですから、次第に麺抜きが出来ることを売りにするようになるとは思います。今のところ過渡期なので積極的にはアピールしてはいないようです。

上手な説明の仕方 言葉の曖昧さを使い分ける

日頃私が気をつけている、説明の仕方を書いてみます。
言葉は様々な意味合い・幅を持つため、使い方によって曖昧になります。
私は言葉が揺らぐと表現しています。人々はどの『意味』で話しているのか言葉のもつ『意味』の曖昧さ・揺らぎの中からを頭の中で無意識のうちに、特定の『意味』を確定させながら話しています。話し方により『意味』の特定が難しいとよくわからない説明になります。あまりに無意識にその作業を行っているため、話し手も聞き手も言葉の曖昧さを意識していない場合すらあります。言葉の持つ曖昧さ・揺らぎを意識していないと、知っている言葉を聞いているだけなのに『意味』がわからないということがありえるのです。

例えば言葉の曖昧さ・揺らぎの一例を説明してみます。
『お酒を飲んではいけません』と言ったとします。『わかりました』と答えたとします。『お酒』には言葉の曖昧さがあります。アルコールという『意味』と日本酒という『意味』です。
話し手も聞き手もどちらの『意味』で『お酒』と言っているか確認していないので、本当の『意味』の組み合わせは4通りあるのです。話し手が『アルコール』と『日本酒』、聞き手が『アルコール』と『日本酒』の組み合わせが4通りです。話し手と聞き手の『意味』が『アルコール』同士や『日本酒』同士揃っていれば、どちらの『意味』でも問題ありません。片や『アルコール』の『意味』で使っているのに『日本酒』の『意味』で聞いていると、話している内容がズレてしまうのです。

『お酒を飲んではいけません』には、日本酒は飲んではいけませんかもしれませんし、アルコール全て飲んではいけませんかもしれないのです。人々は前後の文脈からどちらの『意味』か聞き分けているのです。聴きわける知恵のある人にしか『意味』がキチンと伝わらない可能性があるのです。この話し方では聞き手の『意味』を聴きわける能力によって『意味』が伝わるか伝わらないかが決まるのです。

ここで厄介なのは『お酒』という言葉は日本酒に決まっていると思い込んでいる人もいれば、『お酒』という言葉はアルコールを指すに決まっていると思い込んでいる人が混在していることです。どちらも常識として『お酒』を『日本酒』あるいは『アルコール』と考えています。つまり共通認識である常識だと思い込んでいるので、わざわざ『お酒』という言葉の『意味』を確認したり使い分けたりしません。『お酒』という言葉が持つ言葉の曖昧さを知らない人は、相手が話を理解出来なく混乱していても、相手が理解出来ない『意味』自体がわからないのです。何故なら自分の言葉が曖昧だとは思いもせず、言葉を使い分けていると思い込んでいるからです。2つの違いを知らないので、知らないことを明確に使い分けることが出来ません。だから聞き手は話の『意味』が曖昧でモヤっとした印象を持ちます。
『お酒』というありふれた言葉でさえ、これだけ曖昧さを持っています。ましてや言葉は数多あり、その『意味』の組み合わせは無数にあると言っても過言ではありません。逆に無数の『意味』から文脈に沿って無意識のうちに『意味』を拾うことが出来るので、人々は自然に会話が出来るのです。今回はお酒という言葉を例にしましたが、同音異義語などは前後の文脈から1つの『意味』に特定されていきます。多少ズレて聞こえたり、聴き漏らしたりしても前後の文脈から類推しているのです。この前後の文脈からの判断が出来ないので、機械による音声認識が苦労するのです(最近では前後の文脈も把握しているみたいですが)。外国語がなかなか理解出来ないのは、日本語のように日頃使い慣れた文脈だけでなく対応する外国語の音が頭にないので補うことが出来ないからです。言葉を聞いてその音から頭の中で文字に起こす作業に手間取るのです。

いくつもの『意味』を持つ言葉は、明確に使い分けることが相手の頭を使わせない上手な説明だと思います。『お酒』という言葉を話の中で使って、相手が怪訝そうな顔をしていれば『日本酒』という『意味』か、『アルコール』という『意味』か混乱しているのです。相手の顔を見て、混乱をかき消してあげるように、『日本酒』とか『アルコール』と言い換えてあげることで、言葉の曖昧さをかき消し言葉の揺らぎを止めることが出来ます。次からは最初から『お酒』という言葉を使わず、『日本酒』、『アルコール』と使い分けることが相手の負担を軽減する上手な説明の仕方だと私は思います。

実際には曖昧さを避ける話し方は、上手な話し方の訳ではなく、思いやりのある説明だと思います。何故ならこちらが誤解を招きにくい話し方をすることで、相手が素早く理解する手助けを出来るからです。実際には私は思いやりでも何でもなく、自分のために言葉の曖昧さ・揺らぎは極力避けて話すようにしています。最初から言葉の曖昧さ・揺らぎを排除して話している方が、相手の理解を得やすいので時間を短縮出来る分自分も得なのです。

言い換えると言葉の曖昧さを避ける話し方は、相手の理解する能力に頼らない説明の仕方だと言えるかもしれません。相手によって受け取る『意味』が異なる説明は、説明になっていないとすら私は思います。言葉の曖昧さを理解して、誤解を招きにくい話し方を心がけましょう。

チャンポンの麺抜き 新たな糖質回避メニュー

私は糖質回避をしています。最初はダイエットを目的に糖質回避をしていたので目的を達成した今となっては糖質を食べても良いのですが、糖質を食べるとパフォーマンスが下がります。頭の回転が悪くなるのです。思考レベル・思考能力が明らかに低下するのです。だから糖質を食べると時間が勿体無いので日頃糖質を食べないようにしています。お酒は明らかにパフォーマンスが低下しますが、糖質はお酒程ではないものの思考の邪魔をするノイズのような印象です。

そのため外食する際には、糖質回避が出来るお店を選ぶようにしています。以前からラーメンの麺抜きが欲しいし、ラーメンの麺の代わりに豆腐にすれば商売になると考えていました。正解にはラーメンの麺抜きではありませんが、リンガーハットが経営する長崎ちゃんぽんがチャンポンの麺抜き、野菜たっぷりちゃんぽんを発売しています。外食の選択肢が広がりました。お店としては麺に対するプライドもあったでしょうから、勇気が必要だったと思います。しかし糖質は依存性があるから問題になることを知っている私からみれば、正しい選択をしたことがわかります。人々が糖質依存から抜け出すことが、本来の姿です。どのように考えても依存状態が正常とは思えません。つまり糖質回避の流れこそが自然なのです。

糖質回避を否定するのは、糖質依存の強い人達です。糖質中毒患者さんが糖質をやめたくないから抵抗しているに過ぎません。もしくは商売として糖質を食べてもらわないといけない業種の人達が必死で糖質回避を否定しているだけのことでしょう。

長崎ちゃんぽんはテレビで糖質を食べない選択肢を用意したことを宣伝すれば良いと思いますが、大人の事情で実現しないのかもしれません。

私の予想する糖質回避の未来が近づきつつあると思います。糖質依存を受け入れさえすれば、答えは糖質回避に向かいます。糖質回避を受け入れるか受け入れないかではありません。いつ糖質回避に切り替えるか、時間の問題でしかないのです。

近いうちにラーメンの麺抜きも現れることでしょう。ちなみに肉うどんのうどん抜きは肉すいとして大阪のあるお店で以前から存在します。

長崎ちゃんぽんが動き始めたことから、流れが早まると私は思います。事実糖質0麺がスーパーやコンビニで売り出されているので、もしかしたら糖質0麺のラーメンの方が先に実現するかもしれません。

いずれにしても糖質回避教の信者の人達の外食の選択肢ざ増えることは良いことです。一刻も早く糖質回避社会が実現することを願っています。

無料ゲームが流行る理由

無料ゲームの意味は以前書きました。ポケモンGOは旅行の意味を変えてしまうかもしれません。今回は無料ゲームが流行る理由を考えてみます。

無料ゲームはゲームの利用料金が無料のため心理的なハードルが低く手軽に始めることが出来ます。このことが流行る理由の一つです。通常はお金という制約の中でゲームをして遊んでもらいますが、無料な分時間をポイントに変えて遊んでもらいます。待っていればポイントが復活して再び遊ぶことが出来ます。時間を待てないとお金を支払うことでポイントをすぐに復活させることが出来ます。お金で時間(ポイント)を買うような印象です。

あと少しでゲーム内の何かを得られる場合、お金を払ってでも手に入れたい欲求に駆り立てられます。その欲求こそ「衝動買いの心理」なのです。その考え抜かれた策略にはまってしまい、つい課金してしまうのです。

一度始めるとなかなか止められない仕組みが組み込まれています。通常なら同じことの繰り返しは人間の飽きる仕組みにより、簡単に飽きられてしまいます。しかし飽きられてしまうとゲームをしてもらえなくなるため、飽きられないように常に新しいことを作っています。例えばイベントであったり、新キャラクターであったり、レアアイテムであったりなどです。

無料ゲームが流行る理由は、人間の飽きる仕組みを回避するからです。延々と繰り返して遊んでしまうのです。「衝動買いの心理」からのめり込んでしまって、無料ゲームに依存してしまう人も出てくると思います。無料ゲームをすることを中心に生活を考えて行動してしまうようになります。課金する人に多くみられると思いますが、ギャンブル依存に近い心理状態なのかもしれません。無料ゲームに依存している人もいることが流行る理由の一つです。

無料ゲームを運営するのは利益を上げることが目的です。時間をお金代わりに差し出して遊ばせてもらっているようなものです。余程暇を持て余している人には良い暇潰しにはなるとは思います。もしくは気分転換に活用する意味はあるとは思いますが、無料ゲームにのめり込んでしまうのはじがもったいないと思います。無料ゲームで得られるのは、暇潰しと気分転換だけだと私は思います。

無料ゲームは娯楽の一つだとは思いますが、楽しみ以外何も生み出すことのない虚像だと思います。次の新しい娯楽が生まれるまでの、一時のブームで終わるように思います。