他人の物差し・尺度でしか判断出来ない人

他人の物差しや尺度でしか判断出来ない人がいます。誰かが正しいと言ったから信じる。誰かが美味しいお店だと言ったからお店に行ってみる。誰かが楽しい観光地だと言っていたから行ってみる。

他人の物差し・尺度を一つの知恵・情報源として活用するのは良いと思いますが、自分にも当てはまるかという視点が抜け落ちています。

他人の物差し・尺度に左右される一例としてミシュランの星があると思います。一定の基準をもとにして選ばれたお店で、ミシュランに選ばれたのだから美味しいと認識されます。昔で言えば宮内庁御用達といったところでしょうか?他人の選んだ価値観を有難がる風潮があるようです。

他人の物差し・尺度はあくまでもその人にとっての価値観です。自分に当てはまるかどうかはわかりません。自分と似たような好みの人であれば、その人の物差し・尺度は参考にはなるかもしれません。しかしミシュランに選ばれたから美味しいという価値観は、自分で考えることを放棄してしまっています。確かに他人の物差し・尺度に便乗する方が楽ですし、失敗してもその人のせいに出来るので便利です。楽で便利ですが、自分での思考が出来なくなってしまいます。

テレビや新聞も編集部の物差し・尺度を通して物事を伝えています。編集部は自分達の利益のために広告主の不利益は伝えません。その時点で物差し・尺度がお金で歪んでしまっているのです。その歪んだ物差し・尺度で人々が判断することになるのですが、他人の物差し・尺度に慣れてしまっているとそのことに気付くことは出来ません。

もしかしたら自分の物差し・尺度を身につけるために人々は勉強するのかもしれません。少なくとも他人の物差し・尺度で判断するのは極力避ける方が良いのかもしれません。

親戚付き合いをする意味

親戚付き合いをする意味を考えてみます。

昔はセイフティネットでした。盆や正月あるいは誰かの葬式や法事でしか会わない親戚ですが、付き合いをするのは何かあったときの保険のような意味合いがあったようです。国によるセイフティネットが整備される以前には、何かあれば親兄弟か親戚に助けてもらうしかありませんでした。そのため面倒でも親戚付き合いにいざという時に備えた保険に近い意味合いがありました。いざという時に遭遇しなければわからないながら、親戚付き合いにメリットがあったのです。だから面倒でも親戚付き合いをしていたのです。

最低限のセイフティネットを国が準備している現代においては親戚付き合いの意味合いが変わりつつあります。いざという時の保険という意味合いがなくなりつつあるのです。だからメリットがなくなり面倒だけが残っているのです。

親戚付き合いしなければいけない意味がわからないと思った人は正解です。以前のいざという時に備えるという意味合いがなくなったので、親戚付き合いをする理由がわからなくなってしまうのです。

人との繋がりを大切だと思う考え方を受け入れることが出来れば、親戚付き合いすることに意味があります。人との繋がりは関係ないと考えてしまうのであれば、親戚付き合いは負担に思ってしまうのかもしれません。

糖質依存を抜け出すことでわかること

糖質依存から抜け出すことでわかることがあります。逆に言えば糖質依存から抜け出さなければ、なかなかわからないことでもあります。何故なら糖質依存とは、脳が糖質によって騙されているからです。騙されたままだと冷静な判断が出来ないのです。

糖質依存から抜け出すとわかること

糖質依存から抜け出すことが出来れば、糖質の害を客観的に理解することが出来ます。糖質を食べていると当たり前だったことが、当たり前では無かったことに気付くことが出来ます。気付くことは人によって様々です。糖質依存によるものは多くの人が実感するでしょう。私は糖質を食べ過ぎると睡眠の質が悪くなることがわかりました。糖質依存が当たり前の状態では、糖質依存ではない状態は想像すら出来ないのです。睡眠に関しては私だけかもしれませんが、「いつものパンがあなたを殺す」の著者は小麦によってうつ病やADHD、認知症を発症するとしているので、糖質が睡眠に何らかの影響を与えるとしてもおかしな話ではないのかもしれません。これは糖質依存から抜け出すことで初めてわかったことです。
糖質依存から抜け出すと、お腹が余り空かなくなります。そもそも強い空腹感が糖質依存の禁断症状だからです。禁断症状が無くなるので余りお腹が空かなくなるのです。空腹感を我慢していると、空腹感がピークをこえる不思議な感覚がありますが、ピークをこえた後の空腹感しか感じなくなるのです。

糖質依存から抜け出すことが出来れば、自分がいかに糖質に振り回されていたかを実感することが出来ます。例えばお腹が空いて我慢出来ないからコンビニに駆け込んでいた自分に気付くことが出来ます。そしてコンビニで手に取るのは糖質です。正に糖質依存の禁断症状によって行動が左右されていたのです。食事をすることを一番に考えて行動してしまっているたことを実感することが出来ます。糖質依存から抜け出せば、大してお腹は空かなくので、食事のことは最優先することではなくなります。

糖質依存から抜け出すことで、肥満やアトピー性皮膚炎、ニキビなどの様々な糖質の害を受け入れることが出来るようになります。糖質依存に陥っているとなかなか糖質の害を受け入れることが出来ないのです。害があることがわかっていてもなかなかやめられないタバコやアルコールと同じです。タバコやアルコールという依存対象のことをやめたくないがために、冷静な判断が出来ないのです。ましてや薬物は犯罪だとわかってはいても、なかなかやめられないのは薬物に対して冷静な判断が出来ないからです。糖質依存に陥っていると同じようなことが起こっているのです。

糖質の害を指摘されても必死で否定する人達がいますが、そもそもその人達が糖質依存の状態なので糖質に対する冷静な判断が出来ず、議論が噛み合わないのは仕方のないことです。

お腹が空いて仕方なく人は糖質依存だと思います。糖質回避により糖質依存から抜け出すことをお勧めします。私とは違う何かを見つけることが出来るかもしれません。

偏差値が高くても仕事が出来ない人がいる理由

今の日本の世の中では、一般的に偏差値の高い人は優秀だと考えられています。確かに優秀な人が多いのは事実ですが、中には社会生活において役に立たないとみられる人がいるのも確かです。今回はその理由を考えてみます。

偏差値とは

偏差値とは様々なテストの結果の中での分布を数値化したものです。集団の分布の中で上位であれば高く、下位であれば低くなります。偏差値を算出した試験と似たような試験をすると、同じ母集団が同じような分布になることから、入試の合否に相関するので序列化に使われます。

偏差値が高いとは?

偏差値が高いことは試験においては優秀かもしれませんが、それは記憶力と試験問題という必ず一つの答えが用意されたパズルを解くことに優れているだけです。つまり答えの用意された問題を解くことに優れていることがわかります。

仕事が出来ないとは?

仕事が出来ないとは、求められる課題の解決が出来ないことです(参考:仕事が出来る人と仕事が出来ない人の違い)。例えば物を売ることや、新しい商品開発など様々な仕事があります。その仕事で求められる課題の解決が求められるレベルで出来ない場合、仕事が出来ないと周囲から判断されます。

求められる課題の理解が困難な場合もありますし、課題の解決策がそもそも存在しない場合もあります。課題の理解に関しては、偏差値と相関があるかもしれません。しかし課題の解決策は、そもそも解決可能かどうかから考えなければなりません。解決は出来ない問題であっても、最善を尽くす最適解を探す能力がもとめられるのです。私の知る限り学校では教えてくれないので、どうすれば良いのかわからなくなり多くの人が混乱してしまうのです。混乱しながら最適解を見つけることの出来る人もいれば、答えのない問題の解き方・考え方・取り掛かり方が全くわからず途方にくれる人もいるのです。

偏差値の高い人に限らず、途方にくれる人は一定割合でいるのですが、偏差値が高いと能力が高いと期待されているので失望されてしまうのです。

偏差値と仕事の出来が必ずしも相関しない理由

偏差値は元々用意された正解を答える能力の良し悪しをはかるものです。仕事とは正解があるとは限らない課題を解くことが求められます。仕事とは現状での最適解を見つけることが出来る人間が優れていると考えられるのです。

偏差値は正解を答える能力をはかり、仕事は最適解を答える能力が求められるので、偏差値の良し悪しと仕事の出来不出来はズレが生じるのです。

仕事の採用の際に偏差値がフィルター代わりに使われる理由

今のところ他に適切な指標がないため、仕方なく偏差値で代用しているのです。

Amazon欲しい物に高額商品で騒ぐのは不謹慎狩りでは?

熊本の被災中学がAmazonの欲しい物リストに高額商品をのせて批判が出ているそうです。

私は形を変えた不謹慎狩りだと思います。

支援しようとしている人達からすれば、高額商品が必要なのかという疑問はあるとは思います。疑問があれば高額商品は支援しなければ良いはずです。ただそれだけのことです。わざわざテレビで報道するのは、テレビが不謹慎狩りをしているように私は思います。

確かに支援しようとする人の善意に便乗している側面もあるかもしれません。しかし高額商品であっても、支援する人が納得して支援するのであれば、第三者がとやかくいうことではありません。そして欲しい物に高額商品が掲載されていることに納得出来なければ、支援しなければ良いだけです。それだけのことです。不謹慎だとして槍玉にあげるのは、騒ぐことが目的の正に不謹慎狩りではないでしょうか?支援者が支援する物品を選ぶことが出来ることは報道していませんでした。このような物を欲しい物リストにのせてどう思うかと、暗に非難する作りでした。不謹慎狩りを非難した同じテレビ局が、欲しい物リストに高額商品を掲載していたことを報道するのは不思議だと思います。

恐らく欲しい物リストにのせた人は、次々支援が届くので軽い気持ちでのせたのだと思います。ビデオカメラや生徒数を超える文房具などをのせていたそうです。その目的が私的流用なのか、被災と関係があるのは私にはわかりません。ただ支援者が支援する物を選ぶ余地があるので、支援してもらえるとラッキーくらいの軽い気持ちでのせたのではないかと思います。もしかしたらあると便利くらいの軽い気持ちだったかもしれません。テレビで報道される程問題になるとは想像すらしなかったと思います。

欲しい物リストに疑問があっても、目的によって反応が異なります。支援が目的であれば本当に欲しい物がわかりにくくなるから緊急の必要物品以外は取り下げるように被災者に伝えるはずです。騒ぐ必要などありません。目的が非難することだと、被災者に伝えず騒ぎ立てます。見て見てこんな物が欲しいって書き込んでいる!と騒ぎ立てるのです。正に不謹慎狩りです。

高額商品を支援した人が、高額商品が正しく使われていないと非難するのであれば当然だと思います。しかし支援もしていない第三者が非難するのは不謹慎狩りとの区別が私にはつきません。

現実に600万円相当の支援が集まったようですが、支援した人が納得していれば他人がとやかく言う筋合いではないと私は思います。

自分が困らない問題に口出しするのは課題の分離が出来ていない証拠です。非難する気持ちのある人は課題の分離が出来ていない証拠なので、気をつける方が良いと私は思います。

テレビ報道も、不謹慎狩りがおかしいと報道することもあれば、自らが不謹慎狩りをするようなこともあるようです。目的が視聴率なので論理の一貫性が保てないようです。

Amazonも震災支援では欲しい物リストを2段階にすることを検討しても良いのかもしれません。できるだけ早く欲しい物には優先順位をつけることで、被災者が不謹慎と言われることを避けることが出来るかもしれません。もしくは支援してもらった場合には、実際に使っているレビューを義務付けるのも一つの選択肢かもしれません。

高額商品を欲しい物リストに掲載したことよりも、支援された高額商品が被災者に役立っているのか実際の活用法の方が興味あります。実際には被災者に活用されないのであれば、今ならAmazonに返品という選択肢もあるのではないかとも思います。

数十年前には考えられないような技術(被災者からのAmazonの欲しい物リスト、情報を広めるSNSなど)が新しく出ているので、みんな手探りで使い方を探しているように思います。新しく問題が見つかっても、非難するのではなく、みんなが幸せになるより良い活用法を探すべきだと私は思います。まだ理想的な活用法を誰も知らないのですから、みんなの知恵を持ち寄って理想的な使い方に近づけていくしかないのです。そんな視点から物事を見ると、モラルなどの問題のある行動であったとしても怒るのではなく、よくそんな活用法に気付いたねと感心出来るようになるのではないでしょうか?そして次の仕組みを作る参考にすれば良いのです。

食べる順番ダイエットで痩せる理由

食べる順番ダイエットなるダイエット法があるそうです。食べる順番とは糖質以外のオカズを先に食べて、後から糖質を食べるダイエット法です。太る原因から考えると、痩せることの出来る人と痩せることの出来ない人がいるダイエット法だとは思いますが、痩せることが出来る場合の理由を考えてみます。

食べる順番ダイエットで痩せることが出来るのは、禁断症状まである糖質依存の激しい人です。食べる順番ダイエットで痩せることが出来ない人は糖質依存の軽い人です。そもそも人は糖質依存により糖質を食べ過ぎることで太るのですが、食べる順番を工夫することで糖質依存の程度が軽くなるか抜け出すことが出来るようです。食べる順番ダイエットは糖質を食べ続けることから、全ての人に効果が出るとは限りません。糖質依存の激しい人は、食べる順番を気をつけるだけで、オカズにより満腹感を早く感じることが出来るので食べ過ぎが抑えられるのです。

糖質依存の激しい人は、糖質を少し食べると余計お腹が空くという不思議な現象が起こります。これは糖質を少し食べることで血糖値が上昇し、条件反射によりインスリンが前もって過剰に分泌され、かえって血糖値が下がることが原因ではないかと思います。そのため先に糖質を食べると、余計お腹が空く分更に食べたくなるので食べ過ぎるのです。

糖質を先に食べると止まらなくなってしまうのかもしれません。

糖質依存の軽い人は、食べる順番だけではダイエットにはなりません。ダイエットをしたいのであれば、糖質を避ける糖質回避により意識的に糖質依存から抜け出す方が効率的です。糖質を食べながらダイエットをするのはアクセルを踏みながらブレーキを踏むようなものです。ダイエットというブレーキがきいたとしても、アクセルを踏み続ける限り、再び気をぬくと太ってしまうのです。まずアクセルを緩める糖質回避こそがダイエットの答えです。

ダイエットの良し悪しの議論は無意味

ある月刊誌を読んで驚きました。
未だにダイエットの良し悪しの議論をしています。
実践者がどれだけいて、どれだけ効果があるのかが書いてあります。何故痩せることが出来るのかという理屈ではないので驚きました。
あたかも様々なダイエット教があり、それぞれの教えと獲得信者数を比べているようです。何故痩せることが出来るのかはわからないけど、痩せた人がいるから信じようという宗教に似たところがあるようです。

そもそも太る原因糖質依存なのですから、痩せるなら糖質依存から抜け出すことです。ダイエットしながら糖質を食べるのは、アクセルを踏みながらブレーキを踏んでいるようなものです。ダイエットするなら何よりもまず太るである糖質依存から抜け出すことです。つまり糖質回避が一番のダイエット法であり、他のダイエット法は何らかの働きにより一時的に偶然痩せただけに過ぎません。その証拠に多くの場合、リバウンドしてしまいます。糖質回避により糖質依存から抜け出せば、再び糖質を食べ始めなければリバウンドすることはあり得ません。

ちなみに糖質回避により糖質依存から抜け出すことで、禁断症状である強い空腹感はなくなります。糖質回避により胃が小さく感じるのも糖質依存から抜け出すからです。

結論として糖質回避以外のダイエットは、効果があるとしても偶然あるいは一時的なことが多いようです。糖質依存から抜け出すことが出来れば痩せますし、抜け出すことが出来なければいずれ本能に負けてリバウンドしてしまいます。人間が太るのはそれ以上でもそれ以下でもありません。まだこれらの理屈が理解出来ていない人達がいることに驚きます。

糖質回避出来ないことこそが糖質依存による一症状である、糖質に対する執着です。執着している物に対して冷静な判断が出来ないようです。ダイエットの論争は無駄です。生暖かい目で見守ってあげましょう。

人は無限の可能性を秘めている

人は無限の可能性を秘めています。
大統領になれる可能性は0でも、日本国民であれば誰でも総理大臣になる可能性があります(実際には日本にも大統領制を導入する可能性を考えれば、大統領になる可能性ですら完全に0ではありません)。自己啓発書にあるような内容です。
しかし「人は無限の可能性を秘めている」とは、そんな通常は実現する可能性が限りなく0に近い夢物語ではなく現実に無限の可能性があります。

人は自分の持っている、無限の可能性に気付いていないだけです。例えば今日の夕食に何を食べるのかを考えても無限の可能性があります。食べる物一つとっても無限の可能性があるのです。家で食べる、外で食べるという選択肢から、外で食べるとしても近所で食べるのか遠くで食べるのかを考えても無限の可能性があります。食べないという選択肢すらあるのです。

人は無意識のうちに無限の可能性の中から様々なことを選択しています。いつも無限の可能性の中から選ぶのは大変なので、多くの場合は常識の範囲内から選択します。

例えば先程の夕食の話を考えてみれば、通常は家で食べるか外食するとしても近くで食べることが多いと思います。もしかしたらコンビニ弁当を買って食べるかもしれません。無限の可能性はありますが、無限の可能性の中からお金と時間という制約があるため、なかなか無限の可能性を感じることが出来ません。制約がある時点で無限の可能性ではないと錯覚してしまうのです。時間やお金の制約を受けたとしても、依然自分で選ぶことが出来るのねすから、無限の可能性は無限の可能性のままなのです。ただし無限の可能性と言っても何でも出来るという万能の力を持つ訳ではありません。選択肢の中から選ぶという限られた可能性ではなく、自分で選択肢を見つけるという意味で人は誰でも無限の可能性を秘めているのです。

例えば次の休みは家にいるのか、旅行に行くのかなど何をして過ごすのかを考えても可能性は無限にあります。家でもテレビを見るのかレンタルビデオを借りて見るのか、録画したビデオを見るのか、ゲームをして過ごすのか無限の可能性があります。旅行など行き先だけを考えてみても無限の可能性があります。行く先々で異なる展開や経験が待ち構えているのですから、無限の可能性が秘められています。無限の可能性の中から、自分で選んで行動することで可能性を絞り込んでいるのです。無限の可能性の中から、人に言われて行動したとしても、最後に可能性を絞り込むのは自分です。

視点を変えるだけで、人は誰でも無限の可能性を秘めています。それぞれの人の行動が他人に与える影響を考えると、更に無限の可能性が考えられます。もしかしたらちょっとした一言が人生を変えるような可能性を切り開くことになるのかもしれません。

人は誰でも無限の可能性を秘めている。そんな視点で物事を考えてみて下さい

突然関係のない話をする人の心理

話をしている最中に、突然関係のない話をする人がいます。

話している内容との関連性を考えながら聞くのですが、何の関係もない場合があります。本人は関係があると思って話しているか、話しているうちに聞いている側が何か気付いてくれるのを期待して話しているのです。本人が関連していると思って話しはじめても、どのように関連するのか明らかにせずに話しはじめるため、関連性を忘れてしまうのです。関連がわからずに聞いている側は混乱してしまいます。結局何を話しているのかよくわからなくなる人もいるようです。

元々全く関係のない話を突然はじめてしまう人もいますが、話している途中で関連を忘れてしまう人もいるようです。

最後まで聞いても結局関係はわからないかもしれないので、話す目的がわからない時点で話の関係性を聞いてみると良いかもしれません。もしくは話す目的を直接聞いてみるのです。関係ないと言われれば話題を引き戻すことが出来ますし、関係性を教えてもらえれば目的が明確になるからです。

突然話題が関係のない話になる場合には、話の関係性や目的を早い段階で聞くことをお勧めします。

テレビ・新聞とインターネットの違い

テレビ・新聞とインターネットの違いについて考えてみます。テレビ・新聞は過去のものでインターネットはこれからのものと考えることができますが、テレビ・新聞が生き残ることが出来るのかどうかという視点から考えてみます。

プッシュ型の情報伝達

プッシュ型の情報伝達手段とは、こちらが何も考えなくても相手から情報が伝えられる伝達手段ということです。

スイッチを入れてさえいれば情報が勝手に目に飛び込むプッシュ型のメディアの代表がテレビです。次に開きさえすれば目に飛び込むので半プッシュ型のメディアだと言えるのかもしれません。テレビ・新聞は情報を一定の基準で判断し、凝縮した状態で伝えます。何故ならテレビは時間という制約があり、新聞では紙面という制約があるため凝縮せざるを得ないのです。このことは必要な情報を効率良く手に入れたい視聴者や読者との利害と一致していました。本来なら情報を凝縮すべきテレビなど、伝える情報が少ないことを補うためにゲストのコメントを入れたり、情報を薄め時間を引き延ばして伝えたりします。テレビをリアルタイムで見てもらえなくなった原因の一つが、引き延ばして作られているからでしょう。

プル型の情報伝達

インターネットはプル型の情報伝達手段です。プル型とは引き出したい情報を選んで引き出したい情報を手に入れる伝達手段です。

手に入れたい元となる情報がなければ、情報がありすぎて選ぶことができません。テレビ・新聞の時間や紙面のような情報の制限が無いので、全てを掲載することが出来ます。全てを掲載出来るがために、必要な情報を得ることが出来るかもしれません。しかし情報が多過ぎて処理しきれない自体が起こり得ます。

情報が溢れかえっているため、間違った情報に惑わされてしまう人がいるのです。

テレビ・新聞とインターネットの違い

テレビ・新聞とインターネットの違いは、知恵を使うのが誰かということです。テレビ・新聞は知恵を使った結果を伝えます。インターネットは全てを伝えるので、見る側が知恵を使う必要があります。そのことを書いていきます。

テレビ・新聞は編集という作業により、テレビ局や新聞社の伝えたい情報が選び出され凝縮された状態で届きます。全てではありませんが、ある程度真偽が確かな情報が伝えられます。

NHKに支払うお金は、情報の選択と凝縮料だと理解すると良いのかもしれません(情報の選択と凝縮に不備があっても支払わない選択肢が準備されていないことは残念ですが)。新聞を読むために支払うお金も、情報の選択と凝縮料だと考えてみるとわかりやすいと思います。この情報の選択と凝縮料が安いと思う人は新聞を買う方がお得ですが、高いと思う人は新聞は買わない方がお得になります。

インターネットは様々な情報を得ることが出来ますが、無料で得ることの出来る情報には限りがあります。莫大な情報の中から、価値のある情報の選択と凝縮には知恵が必要です。インターネットから必要な情報を取り出すことの出来る人は、テレビを見なくなりますし、新聞をわざわざお金を出して読まなくなります。逆にインターネットの情報の中から、必要な情報が取捨選択が出来ない人はテレビ・新聞から情報を得る方が良いのかもしれません(テレビ・新聞に都合の良いことしか伝えてはくれませんが…)。

テレビ・新聞の将来

テレビを見る人は益々減るでしょう。何故なら情報を薄めて伝えているからです。他に娯楽の無かった時代にはそれでも、見る人が多いので仕方ないのかもしれません。しかしこれからは見てくれる人は減ります。であれば必要な情報を凝縮して伝えるような番組だけが生き残ることになると思います。少なくとも録画して見る時代、コマーシャルを見てもらう代わりにスポンサー料を支払うビジネスモデルは破綻しつつあります。

もっと情報を凝縮する知恵を全面に打ち出し、必要な情報を詰め込んだ内容のテレビ番組を作るしかないのではないかと思います。

新聞も宅配モデルが破綻しつつあります。こちらも情報の選択と凝縮代という意味を伝えて、新聞の記事が情報を詰め込む知恵の結晶だということがアピール出来なければ淘汰されてしまうでしょう。

私はテレビ局や新聞社が全て潰れるとは思ってはいません。しかし上記のことが出来なければ淘汰されるテレビ局や新聞社が、近いうちに出てくると思います。