子供の考え方のトレーニング法

子供の考え方のトレーニング法はまだ確立されてはいません。今のところ学校で勉強という形で考え方のトレーニングらしきものはされてはいますが、科学技術の進歩により多少の違いはあっても、明治時代から本質は変わってはいないようです。

今回子供の考え方のトレーニング法の一例を提案してみたいと思います。

今の学校での勉強は暗記とその活用が主眼です。残念ながらこれから暗記力・検索能力には大した意味がなくなります。何故ならコンピュータやタブレット、スマートフォンが代わりに記憶してくれるからです。メモという意味もありますし、そもそも既にメディアに記憶され整理されているのです。わざわざ覚える必要などありません。

覚える『意味』があるとすれば、自分の頭で考える時だけです。思考する元は頭の中に入れる必要があります。思考し新しい考えを生み出さないのであれば記憶すれ必要などありません。記憶という作業は機械に任せれば良いのです。いつでも瞬時に頭の中から適切な情報を引き出す検索能力が『意味』を持っていたのは、人間の頭脳しか検索する手段がなかったからです。他に選択肢がなかったよで仕方なく人間の頭脳に頼っていただけのことです。

わざわざ人間の頭に記憶する『意味』があるのは、思考のためと書きました。思考するためには頭の中に入れ込み、考えるために瞬時に頭の中から検索しなければなりません。細かい数字などは機械に頼れば良いのですが、本質を理解するための記憶・知識を身につけ、活用出来るかが問われる時代になっています。現在進行形で物凄い勢いで変わりつつありますが、不思議とそのことに気付いている人は少ないようです。

子供の頭のトレーニング法

頭のトレーニングの目的は物事を瞬時に思い起こすことです。思い出す癖をつけるのです。それを何となくトレーニングしているのが学校の勉強で、テストという形式で思い起こすようにしています。しかし残念ながら一方向からの出題なので頭の検索能力が高まりません。テストに出ることだけ答えることが出来るようになるだけです。

私は記憶のインデックス化を提案します。人間の記憶はキーワードで思い起こすようにできています。キーワードが複数ある言葉や事柄は思い出しやすく、キーワードが設定されていなければ思い出すきっかけを失ってしまうのです。後で取り出せない記憶はないのと同じです。記憶のインデックス化とは、キーワードをインデックスとして記憶の頭出しを出来るように、記憶を整理することです。

記憶の整理をすることで、思考する際に必要な情報を自分の頭の中で探しやすくなります。頭の中が整理されていれば考える際に足らない情報も浮かび上がるため、足らない情報を外部から探すことも出来るようになります。

具体的な子供の頭のトレーニング法は、キーワードを使って記憶を思い起こさせることです。例えば旅行に行った際に帰った後で、「◯◯の旅行、一番楽しかったのは?」という二つのキーワードで子供の頭の中を検索してもらうのです。頭の中の整理・インデックス化されていればすぐに答えが返ってきます。まだインデックス化されていなければ何も答えられず固まってしまうでしょう。そこで次のキーワードを与えてあげるのです。最初に◯◯に着いたよね?という具合に思い出すきっかけを探っていくのです。

時間が経つにつれ忘れるので、時間が経つ前に聞いてあげましょう。「昨日学校で何があった?」でも構いません。「驚いたこと」というキーワードで聞いても構いません。何でもいいのです。

問い掛けることで子供は必死で頭の中の記憶を探し回ります。そして自分の頭の中の記憶の探索を繰り返していると、記憶が整理されインデックス化されるのです。この整理された記憶が思考の際に役立ちます。整理されていない記憶は、テストにしか役立ちません。

子供の頭のトレーニングには頭の整理に役立つキーワードを投げかけることだと私は思います。良かったらお試しください。偏差値を上げる努力をするより余程『意味』があると私は思います。

暗い所で本を読むと目が悪くなるのは間違い

暗い所で本をよむと目が悪くなると良く言われますが、間違いです。私は眼科の医者ではありませんが、論理立てて考えれば間違いであることは簡単にわかります。

一般的に目が悪いとは視力が悪くなることです。言い換えると近視になることを言います。本来目は水晶体というレンズによりカメラの役割をする網膜に像を調整します。その調整が上手くいかず近くしかピントが合わないのが近視です。

暗い所で本を読んでも目が悪くならない根拠は、明るい物を見る細胞と暗い所で物を見る細胞が異なることです。暗い所で物を見る細胞を使つたそして暗いからといってピントを合わせる位置が変わることはないからです。暗い所でも本が読めるのであれば光は目の網膜にピントが合った状態で届いています。

暗い所で本を読むと目が悪くなると誤解された理由は、暗いと光の量が少ないことに起因します。光の量が少ないとピントを合わせることに時間がかかりますし、光が少ないため情報を読み取ることにも時間がかかります。明るい所に比べて暗い所で本を読むと、文字を識別するのに頭を使うのです。暗い所で本を読むと疲れるので、目が悪くなると誤解されたのだと思います。未だに暗い所で本を読むと目が悪くなると言う人は、まだ知らないだけなのです。

暗い所で本を読むと情報が少なく文字を識別するために、読むこと自体に負担がかかります。暗いと能率が悪いので明るい所で本を読む方がお得というのが正確な情報です。

暗い所で本を読むからと言って近視になることはありませんのでご安心ください。

ただ褒めて育てるのは間違い

褒めて育てるというのは良く言われる考え方です。
しかし褒めるという行為の本質を踏まえた上で褒めるべきです。
子供を褒めて育てるという考え方が持て囃されていますが、おだてて育てるという意味であれば間違いです。

褒めるとは出来ないと思っていたことが出来たので称賛するのであって、出来ると思っていたことに対して行うのはおだてでしかありません。だから人を褒める際には注意が必要です。何故なら人を褒めるとは出来ないと思っていることが前提だからです。出来ると思っていることを褒めるのはおだてているに過ぎないからです。そのことを知っている人を褒めると、馬鹿にされたと受け取る人もいるくらいです。基本的に褒めるのは上から下に対してだからです。

褒めてはいけないと言いたい訳ではありません。ただ闇雲に褒めるのは良くないと言いたいのです。出来ないと思っていたことが初めて出来たのであれば褒めて当然です。満面の笑みで褒めてあげましょう。しかし出来ると思っていることであれば、褒めるのではなくて動機付けしてあげると次も頑張れると思います。動機付けとは頑張っている姿を見ることが嬉しいと伝えてあげることです。決して結果だけを見ているのではないことを伝えてあげるのです。

ただ褒めるだけでは褒めてもらうことが目的になってしまいます。褒めてもらえないと行動できなくなるのです。そして褒めてくれない相手を憎むようになってしまいます。ただ褒めて育てると、褒められるために行動する幼稚なお子様に育ってしまうのです。

赤ちゃんが手づかみで食べることについて

患者さんと話をしていて驚いたことがあります。
その患者さんの読まれた子育て書には赤ちゃんが手づかみで食べることについて推奨していると書いてあるそうです。そのため手づかみで赤ちゃんが食べるのは当たり前だと思われていました。

私は日本ではその子育て書が間違っていると思います。
理由は簡単です。日本では大人は手づかみで食べないからです。
わざわざ手づかみで食べることを教える、あるいは許しておいて途中でスプーンやフォーク、箸での食事を強要することになるからです。
赤ちゃんの立場でいえば、手づかみという罠を仕掛けておいて引っかかったところで、スプーンやフォーク、箸での食事を出来ないことを責めているようなものです。
赤ちゃんにとっては手づかみで食事をする体験は余計な体験だと私は思います。

フォークやスプーンを使って食事ができるようになるまでは口に食べ物を運んであげればよいと私は思います。最初はフォークに食べ物を突き刺して手渡してあげればよいだけのことだと私は思います。慣れるまでには時間がかかるかもしれませんが、一度手づかみで楽に食べることを覚えた赤ちゃんに、わざわざ面倒なフォークやスプーンの使い方を改めて教えることに比べればはるかに楽だと私は思います。

どうしても手で食べる体験をさせたいのであれば、大人も手で食べるパンなどを手づかみで食べさせる体験をさせてあげればよいだけのことです。わざわざ手づかみを体験させて成長の遠回りをさせるのは赤ちゃんにとって、勿体無いと私は思います。

ちなみにたまに聞く、『この子はフォークやスプーンが使えなくて』と言って手づかみを許す親御さんがおられますが、親が子供にスプーンを使わせていないだけのことです。手づかみを覚えさせたから、フォークやスプーンを使う意味が子供にとってわからないだけです。そして教えなくても出来るはずだと思っているから、フォークやスプーンを使うことを教えていないだけのことなのです。
親自身がフォークやスプーンは自然に使えるようになったと誤解していることが原因だと思います。誰かが根気よくフォークやスプーンの使い方を教えてくれたことを忘れているだけのことだと私は思います。

赤ちゃんや子供は何も知らずに生まれてきているのです。
大人にとっては当たり前のフォークやスプーンの使い方も誰かから教えてもらったのです。
特に箸の使い方は練習が必要です。誰かに教えてもらわないとわからないのです。
気づいたら出来るのが当たり前だったので、生まれたときは知らなかったことを忘れてしまっただけのことなのです。

何でも口にする赤ちゃんの心理

何でも口にする赤ちゃんに心理を聞いて確認した訳ではありませんので、一つの仮説だと思ってください。

赤ちゃんはみんな何でも口にすると思いがちですが、何でも口にする赤ちゃんとそれ程口にしない赤ちゃんがいるようです。その違いから赤ちゃんの心理を考えてみました。

何でも口にする赤ちゃんはお腹が空いているようです。お腹が空いていることをわかってもらえないため、食べられる物がないか口にするようです。食べ物を求めて何でも口にしているだけのことかもしれません。

こんなことを書くと否定したくなる人もいるかもしれません。食事をしたすぐ後でも何でも口にするからお腹が空いているとは考えられないと。

赤ちゃんの食べる量が親の常識の範囲をこえてしまっているのかもしれません。十分な量を食べさせたつもりでも、赤ちゃんにとっては足らないのかもしれません。そのことを伝えることが目的な訳では無いとは思いますが、まだお腹が空いているので何でも口にするのです。食べ物が手に届く範囲に無いので、口に運べるものを食べることが出来るかどうか口にしているだけのようです。食べて美味しいかどうか確認しているのです。

赤ちゃんが何でも口にする場合、食べ物を口に運んでみてあげてください。まだ食べると思います。食べさせ過ぎを心配する方もおられますが、赤ちゃんにも大人と同じように満腹センサーがあるので食べ過ぎることは少ないはずです。食べ過ぎて嘔吐するのであれば加減するようにしましょう。嘔吐しなければ食べ過ぎでは無いと私は思います。

何でも口にするのは赤ちゃんなりのボディランゲージなのではないかと思います。何でも口にする赤ちゃんはまだお腹が空いているという考え方をお試しください。

この仮説が証明されれば、何でも口にするというのは食べさせ方が少ない証で、恥ずかしくて人に言えないという時代がやってくるかもしれません。

貴方は赤ちゃんに怒りますか?

貴方は赤ちゃんに怒りますか?
恐らく怒らないでしょう。
では人に怒ったり腹を立てたりしますか?人に対して怒ったり腹を立てたりしなければ良いのですが、もしかしたら人に対して怒ったり腹を立てたりしても無駄かもしれないのです。

赤ちゃんには怒らない理由

赤ちゃんには怒らないのに、人には怒るのは何故でしょう。相手が何歳くらいになると怒るようになるのでしょうか?恐らく言葉を理解するようになる2歳か3歳になるも怒るようになるのではないでしょうか?大人でなくても小学生や中学生になればしっかりと怒りの対象となることでしょう。

でも不思議ですよね。同じ子供なのに赤ちゃんだと怒ることなく、赤ちゃんに従うのに、成長と共に突然怒る対象になるなんて。

人を怒る理由

成長と共に相手を怒るようになる理由は言葉の理解です。こちらの言葉が通じない赤ちゃんには怒っても無駄だから怒ることなく、赤ちゃんに従うのです。赤ちゃんが泣けば赤ちゃんが快適に過ごせるように赤ちゃんに従うのです。成長と共に言葉が通じるようになると、途端に子供に対等の立場を無意識のうちに要求してしまうので怒りを感じますし、腹が立つのです。2歳や3歳なんて赤ちゃんと大して変りなくても、言葉が多少理解出来るだけで全て理解しているはずだと大人が勝手に誤解して怒るだけのことです。言葉が通じると自分の頭の中で考えていることまで相手は知っていると誤解してしまうのです。

子供からみればそんなの怒られても知らない、聞いたことないからわからないと思っていることでしょう。「そんなことしちゃダメでしょ!」と言われても子供の頭の中では「そんなことってどんなこと???」とはてなマークがいっぱいです。しかし余りにも一方的に怒られるので、何を怒られているのか理解も出来ず、言い返すことも出来ず困ってしまうのです。何を怒られているのか説明してもらえないのですから、子供にわかるはすがありません。それにも関わらず怒られているのですから、子供にとってはたまったものではありません。その上何がいけないのかわからないまま、怒られて教えてもらえないのですから次にも同じようなことをしてしまうのです。実は子供は怒られたことをわからないなりに手探りで、怒られない方法を探しているのです。同じようなことをして怒られるのでも、子供なりに違う行動を試していることも多いのです。大人にとっては駄目な行動が含まれているので、違いを子供が考えていることに気付いてあげられないのです。

親も仕方ない

しかし親も、親にとっていくら当たり前のことでも、一度は説明しなければ子供にはわからないことを知らないのです。親は自分が当たり前に知っていることは、自然に知ることで親が教えるのが当たり前だと知らないのです。その齟齬で怒っているのです。よく「親の顔が見てみたい」と言う言い方をしますが、的外れな指摘ではありません。子供が常識を身につけるのは親の責任です。そして親が子供に腹を立てるのは筋違いです。何故なら自分が教えていないから、子供が当たり前のことを知らないのです。親を腹立たせるような行動を取らせてしまったのは親の教育不足です。自分の責任で子供の行動に問題があるのですから、怒られるべきは誰でしょうか?自分のはずです。怒るなら自分を怒るべきなのです。喜劇では無いので自分を怒っても仕方がありません。怒らず、まだこんな基本的なこど教えていなかったか?と子供に謝っても良いと私は思います。謝らないまでも、笑い話にしてしまえば良いのでは無いでしょうか?

私はこのように考えているので、赤ちゃんに対しては怒らないのに言葉が通じるようになった途端に怒るのは不思議です。視点を変えて、怒る前に相手に何が不足している結果怒らせるような行動をとったのか考えてみるべきです。

怒りたい相手が大人の場合

相手が知らないのは自分の責任では無いだけで、大人でも考え方は同じです。相手に対して腹を立てて怒っても無駄です。わかっていて行動していれば、言うだけ無駄ですし、わからずに行動していれば知らないだけですから知らないことを伝えれば良いだけです。嫌な思いをしただけでなく実害があるのであれば、どれだけの損害があるのか客観的に伝えれば良いだけです。相手の落ち度であれば、そのことを理解させ、損害に対してどのように償ってくれるのか問い質せば良いだけです。赤ちゃんと違って言葉が通じるのですから、怒りという感情を使う必要などありません。

相手が赤ちゃんと同じだと思えば腹も立たないでしょう。理解出来ないのか、知らないのかのどちらかなのですから。

勉強が楽しくない理由

勉強が楽しく感じることが出来る人は残念ながら稀でしょう。何故なら勉強する目的がわからないまま、押し付けられるから面白く感じることが出来ないのです。子供にとって勉強は、大人にとっての仕事みたいなものだから必ずしなければならないという、子供には全く理解出来ない大人の理屈で無理矢理押し付けられるので楽しくないのです。

勉強を楽しむことの出来る人は、知らないことを知る喜びを知っているのでしょう。知ることそのものが楽しく感じることが出来るのです。そしてテストで良い点を取ると褒められるので、勉強の動機付けとしては最高の状態です。知ることが楽しいので、より深く知ろうとします。知識が深まるので余計楽しくなるのです。このタイプの人は優等生タイプで、放っておいても勉強していきます。人から強いられることは嫌でも、知ることが楽しいので自分から進んで新しいことを知ろうとするのです。周囲から見るとあたかも勉強が好きなように見えますが、勉強が好きな自覚はなく、知ることが好きなのです。勉強の目的もわからないまま、偶然学校の勉強を知ることが楽しいと感じることが出来ただけのことです。

多くの人達はわざわざ勉強という時間をかけて知ることで、何が変わるのかわからないまま知ることを強いられます。話の面白い人と面白くない人の違いで書きましたが、人は興味のない話は面白く感じることが出来ないのです。面白くもないことを勉めて強いるので勉強とはよくいったものです。

今では費用対効果という考え方もあるため、わざわざ時間をかけても得るものが無ければ無駄という考え方をする人までいるかもしれません。子供よりもその親が、勉強など出来なくても良いと考えてしまうかもしれません。

何の目的で勉強をするのか勉強の目的を教えてあげると良いと私は思います。例えば文字が読めなければ、目的地にたどり着くことが出来ないことや、食べ物を手に入れることも難しくなります。大人にとって余りにも当たり前過ぎることは、子供にとつても当たり前に知っているはずとして説明しないことがあるのです。他の例えとしては、計算が出来ないと買い物も不便です。所持金と欲しい物を交換するだけですから計算は出来なくても買い物は出来ますが、残りどれだけ買うことが出来るのかは計算が出来ないと不便です。お釣りの間違いに気付くことも出来ないかもしれません。地図の見方や太陽と星の動きなどから方角を知ることが出来ることなど、今では当たり前のことでもその知識のない昔の人達がどれほど苦労していたのかを対比して知ることで理解が深まると思います。人類は先人達のおかげでこれだけの文明を築くことが出来ています。先人達の見つけた知識を当たり前の勉強として覚えるのではなく、見つけるまでどんな苦労があったのか?見つけたことでどんな恩恵があったのかを合わせて知ることで、勉強が面白く感じることの出来る人達が増えると思います。勉強を教えるのが上手な先生は、これらの予備知識を付け加えることで知る楽しみを勉強の中で見つけてもらうことの出来るのです。全ての人達がこれらの予備知識に興味を持つわけではありませんが、少しでも多くの人達が知る楽しみを勉強の中で見つけることが出来ると良いですね。

子供が勉強が楽しくないのは、目的がわからないのか理解出来ないからなのかもしれません。勉強すると色々なことがわかるようになることを教えてあげましょう。理解出来ないのであれば、もしかしたらもっと以前に習ったはずの根本的なことが抜け落ちているのかもしれません。わからないところがどこかわからなくなっているため、自分ではどうしたら良いのかわからないのです。根本的なことから教えてあげると良いかもしれませんね。人は多少なりともわからないことがわかるようになると楽しいと感じるはずです。良かったらそのような視点で見守ってあげてみてください。

勉強が好きになるために

まずは何でも良いので知る喜びを理解することです。分野は何でも構いません。興味のあることを対して知る喜びを感じるのです。楽しいと感じると更に知りたいと思うようになります。その範囲を少しずつ広げるのです。わからないことがわかると楽しいと知ることが第一歩です。最初は勉強でも知ると楽しいことを寄り添って教えてあげる必要があるかもしれません。楽しいと感じるように手助けするだけで違うと思います。

ちなみに私は知らないことを知るのが大好きなので、面白そうでまだ知らないことを絶えず探しています。最近では人類の進化の歴史や様々な科学の歴史と宇宙について情報収集しています。

初めて話す、初めて聞き取るの違い

赤ちゃんが初めて言葉を話すと親としては大喜びします。

しかし赤ちゃんは親が聞き取るもっと前に、話をしているようです。だから初めて言葉を話したというのは大人の理屈です。正確には赤ちゃんが話している言葉を初めて理解出来たようです。いずれも嬉しいことに変わりはありませんが、赤ちゃんが大人が考えているよりもはるかに能力が高いようです。ただ大人は赤ちゃんの頃のことを忘れてしまっているので、理解出来ないのです。

赤ちゃんの発する意味をなさないと考えられている喃語は、赤ちゃんなりに大人の言葉を真似しようとしているのかもしれません。ただ声の発し方がわからないため大人が聞き取ることの出来る声が出せないだけのようです。赤ちゃんに話しかけると言葉として聞き取ることは出来ませんが、音程の変化は真似しようとしていることから考えつきました。

赤ちゃんは言葉と話すことの出来るようになるずっと前から、言葉を理解し、真似しようとしているようです。赤ちゃんは言葉を話すようになるまで言葉はわからないと考えられがちですが、大人が考えている以上に能力を秘めているようです。赤ちゃんのそんな無限の可能性を見出してみてあげて下さい。

子供が物を買ってと言うようになったら

怒る必要のない子育てを提唱しています。怒らない子育てでは子供の自主性に任せる子育てと、放置プレイのような放任主義の子育てとの区別がつかないため、怒る必要のない子育てを提唱しています。

子供が成長するにつれて物を買って欲しいと言うようになります。小さい子でもお店でお菓子を買って欲しいと言うようになりますし、もう少し大きくなるとゲームなどを買って欲しいと言うようにならます。

物を買う際の落とし穴

買って欲しくて泣き叫ぶようになることがあります。何かを買って欲しくてせがんでも買ってもらえないと悲しくて泣いてしまうことはあるでしょう。初めて泣いたのは偶然だと思います。しかし泣いたことで結局買ってもらえると、成功体験として学習してしまいます。2回目からは泣くと買ってもらえた成功体験から、少し大袈裟に泣くようになってしまいます。回数を重ねるごとに更に大袈裟に泣くようにならます。

親が意識しないうちに何度も成功体験として、子供は泣き叫ぶと買ってもらえると学習してしまいます。子供は難しく考えている訳ではありません。欲しい物が買ってもらえないとわかると悲しくて泣いて、泣いていると買ってもらえると理解しているのです。だから泣き叫ぶ子供を泣かないように怒っても意味がありません。泣くのは買ってもらうための手段でしかないのですから。

子供は何かを差し出すことで物を買う訳ではありません。強いていえば泣いて怒られることを我慢したご褒美に買ってもらえると理解しているかもしれません。

物を買う場合に考えること

通常大人は物を買う際に、対価であるお金を支払います。物の価値とお金の価値が釣り合うか支払うお金よりも物の価値の方が高い、つまりお買い得な場合に購入します。物を買う際に必要なお金、そのお金を稼ぐための労働と釣り合うかどうかを考えて購入するのです(衝動買いは別の思考回路です)。大人は対価という考え方をするので歯止めがかかります。持っているお金に限りがあるので自然と物を買う際に買う物を選ばざるを得ないのです。

しかし子供には物を手に入れるための対価という概念がありません。言わば無限にお金があると錯覚して物を欲しがるのです。だから直感的に欲しいと思えば、欲しくて仕方がなくなるのです。そこに今手に入れたいという衝動買いの心理が子供にも働くので厄介です。

子供が物を買ってと言いだしたら

子供が物を買って欲しいと言いだせば、怒ったところで意味がありません。怒られるという嫌な思いを我慢したご褒美に買ってもらえると誤解してしまうからです。

そこで大人には当たり前の物に対する対価という概念を教えるのです。小さな子供ならその代わりに何を我慢するのか?例えば物を買う代わりにお菓子を我慢する?と聞くのです。ある程度大きくなればお手伝いや宿題以外の勉強を一定量するなら買ってあげるけどどうする?と聞くのです。例えば100マス計算を5枚するなら買ってあげるなどです。5枚は多いから3枚にしてと子供がいえば、そこであらたに相談するのです。

物を買う際に支払うお金の代わりになるものを我慢したり、行動をしたりする仕組みを考えるのです。

最初のうちは口だけで行動しないかもしれません。その場合、次は買わないのです。前回口だけだったからと取り合わないのです。そこで泣き叫ぶようになっても困ってはいけません。子供は親が困るのを見逃しません。もう少し泣けば目的達成と気付くからです。泣いても買わない。と宣言して立ち去るのです。それでも欲しいなら代わりにどうする?と笑顔で話しかけるのです。

買うか買わないかを親が決めると泣いたり頼み込んだりしてきます。子供に選ばせるのです。子供に考えさせるのです。物を買う代わりに何を差し出すのかを。

嫌々通う習い事が二重にもったいない理由


嫌々通う習い事は二重の意味でもったいないと思います。

1つは時間です。嫌々通っても身につくことが無いからです。習い事を楽しいと感じることが出来なければ、時間だけが過ぎていきます。嫌々習い事に通うくらいなら楽しく遊ぶ方が良いと私は思います。少なくとも時間を無駄にしているとは思わないでしょう。

2つ目はお金です。何も身につかないのにお金だけ減るのです。お金をかけて嫌なことをするのは非常にもったいないと思います。

将来役に立つ何か明確な目的があれば、その目的を伝えることで本人が納得することが大切です。目的もわからないまま嫌々習い事に通うのであればお金の無駄です。本人に目的がわかれば早く習い事をやめるために、早く習得するかもしれません。

子供が習い事に行くと言ったから行かせているとしても、それは親の行って欲しいという願望を感じ取って行くと言っているだけなのかもしれません。楽しいかどうか聞いてみてあげると良いのかもしれません。楽しいと答えても、何が楽しいか答えられなければ親の願望を感じ取って行きたいと言っているのかもしれません。親からの無言のプレッシャーを子供なりに感じ取って、親の望む答えを選んでいるのかもしれません。

嫌々通う習い事で得るものはありません。時間とお金を失うだけもったいないと思います。