保育園の事業停止に思う 勘違いぶり

小学校の新設騒動で国会でも話題になった学園が運営する保育園が事業停止になるようです。
聞き取り調査が公開されたので、勘違いぶり見て呆れた人が多いと思います。しかし本人達は真剣です。被害者だと本気で考えているのです。本人達の解釈の勘違いぶりを書いてみたいと思います。

小学校の新設騒動は真相解明はまだまだ先のようです。忖度という言葉が示すように、勝手に思い込んで便宜をはかってしまった側面もあるようです。証明は難しく、忖度した役人たちも責任問題になるため証言したくはないでしょう。

今回は保育園の事業停止に関してです。
聞き取り調査を公開にしたことから勘違いぶりがわかります。自分たちは保育園をきちんと運営しているにも関わらず不当な言いがかりを受けていると勘違いしているのです。不当な言いがかりだということを世間の方に理解してもらう目的で聞き取り調査を公開したのではないでしょうか?
本来聞き取り調査はきちんと運営しているか確認を行うもののはずです。いきなり事業停止とするのは厳しいため、行政側と運営側の認識をすり合わせるようなもののはずです。本来やるべきことを、思い込みや勘違いでやっていないことがないか確認することが調査の目的だと私は考えます。つまり行政側が本来やるべきことを改めて確認することで、運営側が修正するチャンスを与えてくれているはずです。

聞き取り調査の受け答えをすべてみた訳ではありませんが、保育士の6人の人数確保が必要だと指摘されても、3人で見ることができる。優秀な保育士ならそんなに人数はいらない。挙句保育士資格がなくても見ることができるという発言もあったようです。
ここでも大きな勘違いがあります。
運営者は事故がなければきちんと運営できている。
行政側はあらゆる事故を予防し、適切な保育ができる環境を整える。そのことを法律として制定している。
運営者は怪我や死人が出なければ問題がないと考えているのだと思います。事業としてではなく親戚の子供を無償で預かっているのであれば、一つの考え方だとは思います。事業として行っている運営者が、聞き取り調査において人数確保の必要がないと主張してしまう時点で経営者としての資質が疑問視されることでしょう。

行政は事業停止にしたい訳ではありません。何故なら事業停止にすれば問題が大きくなるからです。しかし明らかなルール違反を放置することはできません。そのため弁明のチャンスを与えたのが聞き取り調査だったはずです。運営の軌道修正する機会を与えてくれたのです。運営側が不当な圧力だと考えてしまった時点で事業停止はやむを得ない判断でしょう。

運営者たちは法律に基づいてきちんと運営する、決まりと実際の辻褄を合わせるという発想はなさそうです。恐らく悪気はないと思います。これまで大きな問題にならず、小学校すら開校してしまいそうだったのですから。怪我や死人が出なければ、保育園の運営は問題ないと考えるのと同じで、小学校も開校できれば問題ない。何故なら開校できたからという思考なのだと思います。

聞き取り調査で行政側と運営者の話し合いがうまくかみ合わなかったのは、完全に勘違いしているからです。自分たちは悪くない。悪いのは誰か別の人。行政であり、小学校の開校を邪魔した政治家達という理屈でしょう。被害者だと本気で考えているから、質問には答えず被害者ぶりをアピールし続けたのです。(参考:質問に的外れな回答をする人の心理
解決策は誰かが勘違いしていることを適切に教えてあげることでしょう。
普通の人たちは聞き取り調査の段階でこのままでは事業停止になるからマズイ!と理解しますが、勘違いが激しいあるいは理解力が乏しいとそのようには考えないのかもしれません。直接お話した訳ではありませんが、もしかしたら家族みんなが言い訳人間なのかもしれません。

保育園に通っている子供達とその親御さんは気の毒ですが、このままではやむを得ない対応なのかもしれません。第三者が経営するなど何か起死回生の策で、子供達が困ることのない解決策が見つかるとよいですね。

医学雑誌は科学ではなくなりつつある

医学雑誌は科学的であるべきです。最新の医学的な知見を載せるべきですし、科学とはそういうもののはずです。しかし最近聞いた話では医学雑誌は科学的に正しいかどうかではないところで、掲載・不掲載が判断されることがあるそうです。教えてくれた人に迷惑がかかってはいけないので詳しくは書けませんが、手軽に治せる治療法が最近投稿されるようになっても掲載しないそうです。不掲載の目的が手軽に治せる治療法が広まると開業医の経営が成り立たなくなるため掲載しないことが多いそうです。医学雑誌の掲載・不掲載を審査する医者がいるのですが、知人がその人から聞いたという話です。

本来医学は患者さんを治すために新しい知見を検証すべきです。医学雑誌は病気を治す手軽な手段が見つかれば積極的に掲載し、患者さんの利益になることを広く伝えるべきです。患者さんのためになると思って投稿した医者も、まさか他の儲かる治療法が廃れてしまうから掲載してもらえないなど夢にも思わず投稿していることでしょう。

スポンサーの利益のためになる情報を掲載する市販の情報誌のようにと同じように、医学雑誌が会費を払ってくれる医者の利益にならない情報を掲載しないのは悲しいことだと私は思います。

医学が科学であれば、病気を治す方法があれば掲載すべきです。誰かの不利益になるからという経済的観点から掲載を見送ることがあってはいけないはずです。しかし現実には手軽に治す方法の掲載は見送られてしまうという対応が現実にあるそうです。伝聞なので確かかどうかはわかりませんが、事実だとすれば志の低い医者が多いことを表していると私は思います。

医者の目的

医学雑誌が簡単に治る治療法の掲載を見送る目的は、これまでの治療法の儲けを損なわないことです。

新しい簡単な治療法を投稿する医者の目的は、患者さんの病気を治すことです。
掲載を見送るように働きかける医者の目的は治療そのものです。治療しなければお金にならないため、治療をしたいのです。簡単に治ってしまっては治療できないため、困ると考えるのです。
私は決してそのようなことはありませんが、多くの医者がこのように考えてしまうのかもしれません。
病気を治すことが目的という志のある医者だけが適切な治療を行い、治療そのものが目的の医者は延々と治療を続けるのかもしれません。

私がこのサイトの内容を論文投稿しない理由

何人かの患者さんから論文投稿を勧められましたが、私はこのサイトの内容を論文投稿する気がありません。論文の体裁を整えて投稿することが苦手だからなのですが、論文の体裁、つまり医学雑誌の作法に従って投稿する意味がないと考えています。私は正しいと信じていることなので、他人に審査してほしくはないのです。読んだ人が各自判断して受け入れてもらえれば良いのです。一種の宗教のようなもの(論理的宗教)です。信じるものが救われれば良いと思いますし、このサイトの理屈が真実なので、受け入れるか受け入れないかの問題ではなくいつ受け入れるのかという問題でしかないのです。

投稿しない最大の理由は、多くの医者が自分たちの利権を失うため受け入れないだろうと考えているからです。このサイトに掲載していることは、医者にかからなくても病気が治ってしまうからです。自分たちの存在意義を失ってしまう内容なので到底受け入れることはできないでしょう。ましてや治療もせずに食べ方で病気が治ってしまう理屈など、上記の内容をはるかに凌ぐ話です。投稿しても恐らく受け入れられることはないだろうと考えていたため、最初から投稿する気はありませんでしたが、私が予想したことを裏付けるエピソードを聞くことができました。

もう一つ論文投稿しない理由があります。それは医者に教えてあげる必要がないことです。患者さんに食べ方を直接伝えてしまえばよいからです。通常病気を治療するのは医者の仕事です。薬や手術により治すしか方法がありませんでした。だからその選択肢の一つとして医者に理解してもらう、あるいは医者を説得する必要があったのです。治療法という情報と治療法を医者が独占していたため、少し前までは医者に従うしかなかったのです。
しかしこれからは違います。インターネットの発達により治療法という情報が医者も患者さんもアクセスしやすくなりました。治療法といっても玉石混交で怪しい情報もあるため取捨選択が必要ではありますが、少し前よりは遥かに簡単に治療法という情報を手に入れることができるようになりました。わざわざ手間をかけて医者を説得しなくても、食べ方を患者さんに伝えるだけで、医者にかかることなく病気が治ってしまうのです。その一つが私が治した2型糖尿病です。私は糖質を控えると治るという情報を整理してわかりやすく伝えただけで、薬を一切使うことなく治してしまいました。血液検査をさせてもらいデータは取りはしましたが、完全に糖質をやめることができれば1か月ごとの検査すら必要がなくなります。半年後に念のため血液検査で確認する程度で済んでしまいます。糖質を控えるあるいは病気を避ける理想の食べ方によりアトピー性皮膚炎ニキビ、円形脱毛症などが治ってしまいます。

そもそも医者が科学者ではないのかもしれない・・・

私は医者は科学者の端くれであるべきだと思いますが、残念ながら多くの医者は科学者ではないのかもしれません。何故なら病気を治すことが目的ではなく、治療(お金)が目的の医者が多くいるからです。経営があるから治さず治療を継続することを優先する医者もいるようです。
医者の利権を守るために科学的な情報を掲載しない医学雑誌が存在するのですから、その医学雑誌を読む医者も科学者とは言えない状態なのかもしれません。

病気の治療をすることが目的ではなく、病気を治すことが目的の医者を見極めて医者を選ぶべき時代がやってくるのかもしれません。

どうやったら治せるのか医者に聞いてみることです。実践できるかできないかは別にして治し方の道筋を提案してくれる医者は病気を治すことが目的の医者かもしれません。しかし最初から治す気のない医者がいることも確かです。現代の医学では治せない病気があることは仕方がありませんが、もしかしたら治療を継続したいがためにあえて治さないのかもしれません。長年治らない病気でお悩みでも、医者を変えるとあっさりと治る病気もいくつかあります。

医者を選ぶのも寿命のうち

誰かから聞いた話です。悲しいことですが、事実のようです。

 

GI値(グリセミック指数)の意味と問題点

低GIダイエットなる言葉まであるようなので、GI値(グリセミック指数)の意味と問題点をまとめてみたいと思います。

ウイキペディアによると

グリセミック指数 (glycemic index) とは、食品ごとの血糖値の上昇度合いを間接的に表現する数値である。食品の炭水化物50グラムを摂取した際の血糖値上昇の度合いを、ブドウ糖(グルコース)を100とした場合の相対値で表す。血糖値の時間変化をグラフに描き、その曲線が描く面積によってGI値を計算する。

だそうです。食品に含まれる糖質の量をブドウ糖と揃えて比較し、消化・吸収・インスリンの反応性を相対的に表すものです。

食品に含まれる炭水化物を50g摂取した際の血糖値の上昇具合を比較しています。つまり食品によって炭水化物を含む割合が異なるため、食品の摂取量が異なるものを比較した結果です。

問題点

学問的には比較するためには糖質の量を揃える必要があったのでしょう。しかし現実的には比較試料に含まれる炭水化物・糖質の量が同じになるためには、比較試料の重量が異なる状態での比較データということになります。

ウィキペディアによると

GI値は一食分あたりではなく「炭水化物50gあたり」の試料で比較するため、比較試料の重量にも気を付けるべきである。具体的には、ウドン約88g、ソバ約70g、砂糖50g、スイカ約660gを比較する事になる。炭水化物の非常に少ない肉類などは実質的に測定不可能である。例えば豚モモ肉は100gあたり炭水化物量が0.2gのため、およそ25kg摂取しなければ測定できない。絹ごし豆腐は100gあたり炭水化物が2gなので、おおそ2.5kg摂取しなければ測定できない。

一般的な認識からすると違う重さの食品を食べた状態での血糖値の上昇具合を比べても意味はないと思います。糖質が多く含まれていないものは、糖質が同じになるまで沢山食べて、比較することに意味を見出せません。

意味を持たせることが出来るとすれば、食品50gを食べた状態とブドウ糖50gを食べた状態とを比較して、血糖値の上昇具合を相対的に表すことだと思います。BS(血糖値)上昇指数とでもするべきです。

食べ物の量が異なるにも関わらず、食べ物の中に含まれている糖質の量だけをとらえて比較することが実生活に意味を見いだせるとは私は思いません。

GI値は糖質を多く含むお米やパンなどでは多少は参考になるかもしれませんが、元々糖質を含む量が少ない肉などでは全く意味のない数値となります。つまりGI値を見る際に元々の糖質の含有率を別に調べないと意味の判断がつかないのです。別の情報がなければ判断できない値に振り回される必要はないと思います。

GI値の目的はある食べ物がどれだけ血糖値を押し上げるかを知ることだと想像しますが、それならば食べ物の中で血糖値を直接押し上げるのは糖質だけなのですから糖質の量だけを参考にすればよいことです。GI値などという小難しい考え方など私は必要ないと考えます。糖質の含有量あるいは含有率を参考に血糖値の上昇しやすさを判断し、食べ方を検討することが合理的だと考えます。

GI値ではなく炭水化物・糖質の含有率を参考にするようにしましょう。糖質の含有量は多くの食品に記載されています。タンパク質・脂質との割合の高いものは血糖値を素早く押し上げます。逆に炭水化物・糖質の含まれる割合の低いものは血糖値を緩やかに上昇させます。それだけのことです。

大臣の失言・辞任に思う

ある大臣が失言により辞任することになりました。失言する人は悪意を持って言っている訳ではありません。知らないうちに人を傷つけているだけなのです。ただ相手の立場で物事を考える想像力が足らないだけなのです。相手の立場を考えずに話をする人が大臣に選ばれてしまっていることが問題なのです。

失言する人の心理はこれまでも2回ほど書いています。
人が失言する理由とその対策
失言から日頃考えていることがわかる
失言が話題になったため検索で閲覧してもらうことが増えています。

例え話に置き換えてみます。失言は知らない間に誰かの大切な花を踏みつけてしまったことに似ています。本人はただ歩いただけで大切な花を踏みつけてしまった自覚は全くありません。その大切さを前もって教えなかった人が悪いとでも思っています。後で踏むつもりはなかった、あるいはわざとではなかったと言い訳することに似ています。下を見ながら注意して歩けば済むだけだったのに、下を見て歩くという注意を怠ったのです。自分には大切な花には見えなくても、誰かにとっては大切な花かもしれないという視点にたって注意して歩く必要があったということです。

失言している人の謝罪

失言する人は失言だという自覚がないので、失言に対して後で確認しても意味がわかりません。失言した自覚がない中でもひどい場合になると、周囲の人達に諭されて謝罪会見は開いたものの、何が問題で失言とされているか理解しないまま謝罪会見をしています。恐らく周囲も失言の意味を理解させないまま、とりあえず誤るように促したのでしょう。本人も悪いことあるいは失敗したという自覚がないため不本意ながら誤るのですから、体裁を取り繕うための謝罪でしかありません。つまり自分たちの言い訳の為の謝罪でしかないのです。決して失言によって不快な思いをされた方に対して謝るという視点ではないのです。
失言する人の謝罪会見が2度目の失言と言ってもよい程見苦しいのは、とりあえず誤るので許してくださいという真意が透けて見えてしまうからです。

失言して謝罪する人の真意を浮き彫りにするのは簡単な質問がでわかります。
何が問題だったのですか?
という質問の答えでわかります。
理解していれば、相手の立場にたった視点が欠落していました。あるいは相手の立場にたつという想像力が足りませんでした。という発言の何が問題だったのかという内容の返答になります。
理解していなければ、ですから言ったことが不適切だったということです。と発言の何が問題だったのかをこたえられないでしょう。
取材する記者がこのような質問をするようにすると、何が問題か理解しないまま謝罪会見するという失礼なことがなくなると思います。

何が失言だったか理解していないことを必死で隠そうとする失言者に対して追い打ちをかける質問は、何が足らなくて失言したのですか?という質問です。
相手の視点、相手の立場に立って考えるということを理解できているかどうかの質問です。
きちんと答えてもらえなければ、相手の視点に立って考えるという人として当たり前のことが出来ないということで良いですね?という質問をすると理解してくれるでしょう。怒りだしてしまえば、謝罪会見の謝罪会見という前代未聞の出来事につながるでしょう。

失言しない対策

一度失言してしまえばなかったことにはできません。取り消すことはできたとしても残念ながら記憶には残ってしまいます。失言をする人なのだとして覚えられてしまうのです。議員や大臣のように失言で職を失う人は少ないとは思いますが、誰でも言葉によって相手に嫌な思いをさせてしまったり、嫌な思いをさせられてしまったりする可能性があるはずです。後でそんなつもりで言ったわけではないと取り繕っても、気まずい思いをすることは避けられません。一度口から出てしまった言葉が取り返しがつかない状況を引き起こすことは失言が話題になることからもわかります。
世の中には様々な人が人達が存在することに出来るだけ配慮しながら、様々な視点から言葉を選ぶように心がけることだと思います。

少なくとも失言を繰り返す人は配慮の足らない人だということは言えると思います。誰でも失言する可能性はありますが、お互いのためにも失言につながる発言を避けるように心がけましょう。

防衛大臣が自己防衛で苦戦中、国防は?

防衛大臣が集中攻撃を受けています。様々な攻撃に防戦一方ですが、守りに穴があるようで守りきれそうにありません。真相はわかりませんが今出てきている情報を客観的にみれば、辞任せず乗り切ることは難しそうです。
国防は国を守る大切なことです。
自分を守れない人が、国を守ることが出来るとは思えません。
答弁しても記憶違いで訂正を連発しています。国防において記憶違いで舵取りしては国の存亡に関わります。

自己防衛出来ない人が防衛大臣の状態は怖いと感じるのは私だけでしょうか?

もって今週末かもしれないですね。

虐待死させた親を責めても仕方ない

虐待死させた親を責めても仕方がありません。何故なら亡くなった子供が生き返る訳ではないからです。虐待死させた親を責める風潮をテレビで煽っても、再発防止には役立たないからです。

虐待死させた親を処罰しても再発防止には役立たないのが現状です。何故なら処罰されることはある程度わかっていても、虐待死させた訳だからです。処罰されることを知らなくて虐待死させたのであれば、虐待死で処罰されることを報道すれば再発防止に役立つでしょう。しかし処罰されるとわかっていても虐待死をさせてしまったのであれば、虐待死を避けるためにはもう一歩先に進んだ対策が必要です。

理由を聞いても意味がない

何故虐待をしたのか問い質しても意味がありません。何故なら人は目的に対して行動はしますが、理由によって論理的に行動するとは限らないからです。むしろ多くの人は論理的ではなく何となく行動してしまうのです。

つまり何故虐待したか理由を聞いても、自分のせいではないという言い訳を考えるに過ぎないからです。更に虐待だと自覚しないまま虐待がエスカレートして死に至ることがあるのです。当時してはいけないことだという自覚がなければ、後で責めても意味をなしません。

虐待死を防ぐために

虐待死を防ぐためには予防策が必要です。虐待死させた親を処罰するだけでは虐待そのものを減らすことはできません。

虐待死を防ぐためには虐待の啓蒙活動が必要です。自覚のないまま虐待してしまっていることが良くあります。家庭という密室で行われる子育ては、しつけと虐待の線引きが自分では出来ないのです。

私が考える一番の対策は虐待死させた親に聞くことです。亡くなった子供が生き返る訳ではありませんが、せめて次の虐待死を避けるために防止策を聞くのです。処罰も必要なのかもしれませんが、次の虐待死を避けるために協力することが罪を償うことになるのではないかと私は考えます。

虐待死を避ける手立ては幾つかあると思います。虐待死に至るどこかの時点で誰かが関わることで避けることが出来たのかも知れません。命を救う手立てを探るのです。

例えば突発的に子供に暴力をふるってしまうことがわかれば、自ら相談出来る窓口があれば良かったことがわかる。他の例えであれば、育児を投げ出したい衝動に駆られるがどうすれば良いかわからなかったということがわかれば、投げ出したいと思う場合に相談出来る窓口を設置するなどです。実際には保健師さんなどが窓口なのかも知れませんが、虐待死が今でもあるのですから、改善の余地があるのではないかと思います。保健師さんに関しては、虐待死させた親から保健師さんとの関わり方を聞き出し、どのように関われば虐待死を避けることが出来たか知恵を得るのが一番近道だと私は考えます。

虐待死を避ける一つの答えが通称「赤ちゃんポスト」といわれる「こうのとりのゆりかご」だと思います。赤ちゃんだけではなく、子供を預けることが出来る施設を設置することが虐待死を避ける一つの答えなのかも知れません。

これらの知恵をこえる虐待死を避ける知恵が出てくることを祈っています。

危険性を予見する知恵

危険性は知恵が無ければ予見することは出来ません。あらかじめあらゆる物事を想定することで危険性を予見することが出来ます。

あらゆる物事を想定出来るかどうかは日頃考えているかどうかによります。人は考えていることの延長線上しか理解出来ないのです。

先日大学生の展示物が燃え、幼稚園児が亡くなる痛ましい事故がありました。心よりご冥福をお祈りいたります。展示物は木で出来ており木を削ったオガクズが飾られていました。照明に白色電球が使われてしまったようです。白熱電球が高温になるという知識のある人からすれば、怖いなと思う状況です。更に予想外の行動をする子供達だと、白熱電球にオガクズを振りかけて遊ぶ可能性も想定しなければなりまけん。

1人でも危険だと考えて、白熱電球の使用を中止していれば結果は全く異なっていたことでしょう。結果として1人の尊い命と引き換えに、危険性を世に知らしめることになりました。

当事者は白熱電球の危険性を知らないので燃えやすい木の展示物の中に持ち込んでしまったのでしょう。そして周囲の人達は、白熱電球は高温になり危険だからオガクズのある燃えやすい木の展示物の中で使うはずがないと思い込んでいたのではないでしょうか?。その常識のズレによりお互い確認をすることなく、片や危険性を知らず、片や危険性は当たり前だからするはずがないと思い込んだ結果今回の事態に至ったようです。

自分にとっての常識はみんなの共通認識とは限りません。危険性を予見することが出来ない人もいることを知った上で、行動するようにしましょう。少なくとも自分だけでも危険性を出来る限り予見するように心がけましょう。そして危険性が予見出来ない人は、危険性の予見出来る人に助けを求めましょう。

有意差とは効くかもしれない宗教みたいなもの

薬において有意差で効果を考えるのは、核心には触れていない証拠です。つまり核心には触れてはいないものの、核心にかすっているのが有意差です。

有意差に意味があるのは、原因の検索であって薬の効果ではありません。

原因の検索において有意差があれば原因に近付いているので『意味』があります。しかし薬の効果において有意差とは、偶然よりは効くという程度です。

原因の一部に関わるので偶然ではなくて一定の効果はあるものの、確実に効く訳ではないのです。

本来の有意差の使い方は原因検索において行われるべきです。有意差が見つかれば、偶然ではない何かがあるはずです。有意差の中に答えがあるので、有意差のある中から答えを探すのです。

薬において効果に有意差があるのは、効かないときの言い訳をしているように思います。

他の分野で確実性のないことを偶然ではないと言って売り出しても相手にされることはありません。このテレビはハイビジョンが映るかもしれません。なんてあり得ません。各種産業において偶然ではない多少効くだけで物を売ることはないと私は思います。

いつの日か病気が全て解明されると、有意差という言い訳は必要無くなる日が来ることでしょう。私が行きている間に、そんな日がくることを祈っています。

文章と漫画とアニメの違い

文章と漫画の違いを考えてみます。最近では少し変わりつつありますが、一般的に文章を読むことは推奨され、漫画を読むことは余り勧められません。その理由を含めて考えてみます。

文章とは?

文章とは文字だけで物事を表現するものです。言葉を書き留めた文字を使って理解してもらうのです。文字から頭の中で映像を組み立てる必要があります。同じ文章を読んでも頭の中に描いている映像は人によって異なります。更に書いた人が思い描いていることを文章に変換する時点で様々な解釈が出来る可能性が生まれます。小説で名作といわれるものは、読み方により解釈の仕方が幾通りもあるものでした。解釈の幅があるため、読み返すと何度も気づきがあるため読むほど楽しむことが出来るのです。

小説であれば解釈の仕方が異なっていても全く問題はありません。理解して頭の中で楽しむものだからです。しかし物事を伝えようとする論文では相手に正確に情報を伝えることが目的なので、解釈の幅があると困るのです。そのため誤解を生じにくい書き方が求められます。

話が少し逸れましたが、文章には解釈の幅があるのは仕方ないことでした。何故なら文章に変換する時点で作者の思い描いている情報が削ぎ落とされ、文字として圧縮されてしまうからです。その圧縮された状態を頭の中で復元する作業に手間取るのです。情報のやり取りは必要最低限のことしか行うことはできません。

漫画とは?

漫画は文章から頭の中で組み立てる作業を作者が絵で置き換えてくれているのです。作者が絵に変換する手間をかけてくれるおかげで情報を絵に盛り込むことが出来るのです。

百聞は一見にしかず

という諺通り、言葉での情報は100集まっても1枚の絵の情報には負けてしまうのです。

漫画は読み手が一瞬で様々な情報を受け取ることが出来るのです。その絵の積み重ねにより物事を伝えるので、同じ内容であれば文章よりも漫画の方が圧倒的に情報伝達の点で有利です。更に作者の発想力により漫画には無限の可能性があります。紙とペンにより過去から現在・未来はもちろん、何処にもあり得ない世界を描き出すことが出来ます。更に誰も見たことも聞いたこともない世界を描き出すことすら出来てしまうのです。誰も見たことがない世界を表現するのですから、文章だけで頭の中に正確に描くことが出来ないのです。

だから私は漫画で情報を得ることもよくあります。何故なら文章を読むよりも早く内容を把握することが出来るからです。当然フィクションもあるものの、身の回りにいる人からは聞けないような全く知らない情報も漫画の中にはわかりやすく解説されているので楽しみながら知識を身につけることが出来るのです。そんな視点で漫画を読んでみると面白いと思います。

アニメは?

更に情報伝達が有利になるのがアニメです。目で漫画の中の文字を読む、絵と絵の間の映像を想像するという作業すらアニメの中に組み込むことが出来るので、アニメの方が情報伝達しやすくなります。アニメは漫画のようにセリフを読む必要もないため受け身でいることが出来ます。そのため漫画のセリフを読めない小さなお子さんでも楽しむことが出来ます。

ただし漫画をアニメ化するには大変な費用と労力がかかるため、人気漫画しかアニメ化されることはありません。

文章と漫画とアニメの違い

文章に情報を足して絵にしたのが漫画です。漫画の絵に動きとセリフや音をつけたのがアニメです。様々な情報を付け足すので、読み手や見る人が解釈しやすくなります。作り手が知恵や労力を費やすことで、情報を受け取りやすく加工してくれているのです。わざわざ解釈しやすく加工してもらってある情報があるのに、文章で読むことに拘るのは勿体無いと私は思います。

情報取得ではなくて、文章を頭の中で組み立てる読むという作業そのものを楽しむのであれば文章をあえて読むことに意味はあります。しかし情報取得が目的であれば、漫画やアニメがあるのに文章をわざわざ読むのは時間が勿体無いと私は思います。

漫画に対して否定的な方は一度考えてみられると良いと私は思います。

病気を治すつもりのない医者

医者の中には病気を治すつもりのない医者がいます。
厄介なのは病気を治すつもりのない医者同士が集まって、病気を治さなくてすむ方法を模索していることです。更に問題なのは製薬会社と結託して病気を治さないように仕向けることです。医者と患者さんの間には情報の格差があるため、患者さんにはこれらのことがわかりにくいのが現実です。

病気を治すつもりのない医者は、出来高制の診療報酬を稼ぐ目的に治さないのです。治してしまうと診療報酬はもらえなくなるのです。治さず延々通い続けてもらえば収入が増えるのです。患者さんに逃げられない程度に加減して治療を引きずるのです。そのさじ加減を医者同士で情報共有するのです。

特にそのような医者達が気にしているのは、病気が治るかどうかよりも保険で切られるかどうかです。悲しいことですが、むしろ治さないように気をつけるのです。それらの情報交換が行われるのが一部の学会や製薬会社主催の勉強会です。

患者さんは薬がなくても済む健康な状態を望みます。一部の医者は薬で症状を抑え続けることを望みます。何故なら薬が必要ない状態に治してしまうと診療報酬がもらえなくなるからです。

患者さんのおくすり手帳を見てみると、必要の無い薬を延々と処方し続ける医者が確かにいることがわかります。明らかに必要なさそうな薬を処方しているのであれば医者を変わることをお勧めしています。

確かに全ての病気が治る訳ではありませんが、しばらくしても症状が変わらなければ他の医者を受診してみても良いのかもしれません。何故ならその医者が病気を治す気のある医者なのか、病気を治す気のない医者なのか判断がつきにくいからです。改善しなければ試しに変わってみるのが一番です。

患者さんの立場からすると信じがたいでしょうが、病気を治す気のない医者が確かにいるのです。しかも病気を治す気のない医者の方が稼いでいるのです。病気を治さない方が医者が儲かる出来高制である国民皆保険の限界なのかもしれません。