動物がイジメをする理由

動物はイジメをするのはご存知でしょうか?

例えば鳥は弱い鳥を選んで攻撃します。目的は二つです。同じ餌を食べるライバルを減らすため。他の動物に襲われた際に自分より逃げ遅れる動物がいれば自分の生き残る可能性が高まることです。

つまり動物は自分の生存確率を高めるために自分よりも弱い個体を攻撃するのです。しかし殺すことはありません。何故なら共に行動し、いざという時に生贄となってもらうために殺しはしないのです。殺しても得はしないので殺さないのです。動物は無駄な殺しはしません。

悲しいことではありますが、動物同士のイジメは自然界を生き抜く知恵なのかもしれません。一番弱いものが生贄になる方が、強いものが食べられる危険性を避けることが出来る合理的な考えなのかもしれません。

この理屈が正しければ、生存競争が激しければ激しい程、天敵が多ければ多い程成り立ちそうです。この理屈の検証はまだ探してはいません。

逆に考えれば天敵のいない人間には当てはまらないはざです。人間には知恵があるのですから生き残るために他人をイジメる必要は無いはずです。しかし人間にもイジメがあるのは事実です。他の動物とはイジメの仕組みが違うのでしょうか?そのことについては改めて書きたいと思います。

賢さとズル賢さの違い

賢さとズル賢さの違いを考えてみました。知恵を使う目的の違いです。人のためになるか人を傷付けるかの違いです。

賢さとは?

賢さとは人が幸せになる知恵を持っていることを示します。誰も傷付けることなく、みんなが得をする仕組みを考えることが出来るのが賢さです。

人類の歴史は賢さの積み重ねによって成り立っています。多くの先人の知恵のおかげで人類の今の生活が実現しています。

人間は食べるもの一つとっても生まれつき決められているものはありません。何も決められていないからこそ何でも食べることが出来るのです。例えばカブトムシなら樹液ですし、ミツバチなら花の蜜です。誰に教えられた訳でもなく、食べるものが決まっています。人間は地球上の生き物の中で生まれつき食べるものが決まっていない数少ない動物です。何でも食べることが出来ることを意味しますが、知恵が無ければ毒のある食べ物により命を落とします。人間は先人の知恵により食べ物を確保してきました。農耕・牧畜という食料を増やす賢さにより人類は繁栄しています。更なる賢さを発揮出来るように、仕組みを考える時期にきていると私は思います。

他の生物を人間が利用することで人間は快適な生活を得ています。他の生物からみれば人間ほどズル賢い生物はいないということになるのかもしれません。

ズル賢さとは?

ズル賢さとは自らの利益のために知恵を使うことです。自らの利益のために他人を傷付ける賢さのことがズル賢さだと思います。他人のことはお構いなしで相手を傷付けてでも自分が得をする知恵を使うことをズル賢さと言います。

ズル賢さは知恵を元に自らの利益のために行動することです。多くの企業は知恵を使って利益を得ているのでズル賢さを使っていると思われるようなところもあるのは事実です。ある程度のズル賢さは許容されるのですが、人に仕組みを知られたくないと思う程のズル賢さは使わない方が良いと思います。

例えばスーパーのチラシは安いものを広告に載せて来店を促し、利幅の大きい他の商品も買ってもらうことが目的です。視点によってはズル賢さと考える見方もありますが、世間一般で受け入れられる程度の許容範囲です。ズル賢さではなく賢さの範疇だと受け入れられると思います。

明らかなズル賢さとは詐欺師など犯罪を仕掛けることです。詐欺師は人を騙してお金を得ようとします。当然人は騙されないように気をつけますが、その仕組みをかいくぐるような知恵を使うのです。自らの利益のために相手の財産を奪うのですからこれ以上のズル賢さは無いと思います。

ズル賢さは賢さとは方向の異なる頭の使い方をするようです。仕組みの不備をつくことで楽に得をしようとします。ズル賢さを前に嫌な思いをしたくなければ、仕組みの隙を無くす努力をあらかじめしておくことだと思います。

どこにでもズル賢い人はいるものです。嫌な思いをしなくて済むようにあらかじめズル賢さを発揮する隙を無くす努力をしておきましょう。

ちなみに子供の場合、他人のズル賢さを見てその他人が得をしていると思うと自分もズル賢さを身につけようとしてしまいます。子供がズル賢さを発揮しようとしても損する仕組みを周りの大人が考えてあげるようにしましょう。

座る二宮金次郎氏の銅像に思う 追記

座る二宮金次郎氏の銅像に思うと題して以前記事を書きましたが、再びテレビでアンケートまでしていたので改めて書いてみます。

座る銅像が良いと考える人が多いのに驚きました。理由は歩きながら本を読んでいる銅像を見て育つとわスマホを歩きながらするようになるからというものでした。

座らせた方が良いと答える時点で、家の仕事である薪を運びながら本を読んでいる意味を理解していないことを示しています。そもそも何を意味する銅像か理解していないのであれば、歩いても立っても意味が無いと思います。

座って本を読む二宮金次郎氏の銅像が何を意味するのか私は教えて欲しいと思います。わざわざ銅像にして何を後世に伝えたいのか私は知りたいと思います。

銅像の目的と伝えたいことがズレていないか疑問です。

テレビで面白かったのは西郷隆盛氏の銅像は刀を持っているのに良いのか?という話でした。確かに刀を持って歩いても良いのかという議論にはなりません。

誰かが歩きながらスマホをすることを促すと考えついて、確かにと思った人が追随してしまったのでしょう。

しかし歩きながら本を読むということの意味を伝えることの出来ない人達の言い訳でしかありません。

逆に座る二宮金次郎氏の銅像にどんな意味が込められているのか説明して欲しいものです。

別人の万引きで自殺について思う

別人の万引きで入試で推薦してもらえず、中学3年生が自殺してしまった事実がありました。
亡くなられた方の御冥福を心よりお祈りいたします。

思ったことを書いてみます。
今回の一件は生徒さんが亡くなられたため隠し切れず大問題になりました。ということは似たような冤罪により人生が変わってしまった生徒さんが他にもいると考えるのが自然ではないでしょうか?
今回の問題は万引きした生徒の進路指導をした教師が苗字だけを記録係の教師に伝え、似た苗字の生徒さんの記録としたことが発端です。職員会議で間違いが確認されたため訂正する機会があったにもかかわらず訂正されることなく、1人の人生が終わりを迎えてしまいました。
進路という人生の一部に関わる重要な情報の管理が杜撰であったことは間違いなさそうです。
苗字だけで情報をやり取りし、確認しないというのは医療の分野ではあり得ない感覚です。医療の分野では患者さんの間違いを防止するために何度も確認するのが常識です。

この問題の根底にある闇を考えてみます。高校入試に絶大な影響を及ぼす内申を決める権利を握っている教師を見張る仕組みが無いことが根本原因では無いかと思います。もっと大きく論じると公務員を見張る仕組みが無いことが根元です。教育委員会が教師を見張ると言っても言わば仲間同士です。多くの場面でかばい合うのは仕方のないことです。全ての教師とはいいませんが、一部の教師は主観によって内申を決めているのではないかと思います。主観で決めてもお咎めは無いのです。このことが教師に感違いをさせているのでは無いかと思います。何をしてもお咎めが無ければ好き勝手してしまうのが人間ではないでしょうか?そういう意味で教師の勘違い(思い違い)から起こってしまったのではないかと思います。

少なくとも客観的に審査する仕組みが必要だと私は思います。生徒の名前を伏せて、審査することでプライバシーの問題は避けることが出来ます。公務員全てに客観的に審査する仕組みを導入するべきだとは思いますが、自殺者が出てしまった学校から取り組み始めても良いのではないかと思います。

非常に残念なことですが、失われてしまった命は戻りません。であればこのようなことが今後起こり得ない仕組みを作り上げることだけが、本当の意味での葬いになるのではないかと思います。関係者の責任を追求したところで少しでも責任を逃れるための言い訳を考えて真実が隠されるだけです。であるなら責任を追求しない代わりに、真実を包み隠さず公表することで、償いとする考え方が良いのではないかと思います。目的は再発防止だからです。再発防止に協力しないのであれば関係した教師の名前を公表するというルールにすれば協力せざるを得ないのではないかと思います。

様々な仕組みを「0から思考」により、全てをリセットしてゼロから作り変えるべき時ではないかと思います。

偏差値の本当の姿 〜偏差値の大逆転の謎〜

偏差値の大逆転として予備校や進学塾などが偏差値の急上昇を宣伝したりします。偏差値急上昇が珍しいらしく、小説が映画化されたりもしています。受験における偏差値の本当の姿を知っている人から見ると滑稽な宣伝です。何故なら努力を怠っていた人が心を入れ替えて努力を始めただけのことです。確かに努力の仕方がわからなかった状態から努力の仕方を教えたのかもしれませんが、全員に当てはまる訳ではありません。元々能力があるのに努力を怠り低偏差値だった人が、努力しはじめただけのことです。そういう人がいるから貴方も出来るはずというのは、無理がありますし騙されてはいけません。

偏差値とは?

そもそも偏差値とはテストにおいて集団の中の自分の立ち位置を表すものです。集団の平均点を50としてその平均点からどのくらい離れているのかを表すものです。母集団が優秀な中であれば同じ学力でも偏差値は低くなりますし、それほどでもない母集団であれば偏差値は飛び抜けて高くなることもあります。受験とはその偏差値により志望校を序列化し受験校を決める際に活用されています。ある程度受験における能力を表しているからです。
誤解されているのは、偏差値は人の能力を指し示すと錯覚しています。この錯覚は誰もが目一杯勉強という努力をしてテストに臨んだ結果だと思い込んでいることです。適当にしか勉強してテストに臨んだ人の偏差値は低くなりますし、そもそもデータの信憑性が怪しくなります。

多くの人は目一杯努力していますし、他に最適な指標がないため止むを得ず偏差値を使っているのです。

偏差値の本質

目一杯努力した偏差値が本来の偏差値で、目一杯努力していない偏差値は努力の足らなさを測っているのです。低偏差値から大逆転ではなく、本来なら大逆転した後の偏差値が取れたのにサボってい低偏差値しかとらなかったことを喧伝していることになるのです。だから多くの人は恥ずかしくて偏差値の大逆転を自慢したりしないのです。

目一杯努力した人達だけで比べることで能力をはかることが出来るのであって、手を抜いている人の低い偏差値は参考にもなりません。

またレベルの低い人達だけを集めた母集団の中での偏差値を比べてみても、極端に高い偏差値が出て意味がありません。偏差値100以上という状態もあり得ます。

今の偏差値の問題点

偏差値の問題点は目一杯努力していない人の問題だけではありません。受験勉強の試験自体が暗記力と暗記を基にしたパズルを解く能力をはかっているだけです。暗記は正確性、検索性、汎用性において人間は機械には勝てません。パズルを解く能力は今の所人間の方が有利ですが、近い将来これも機械に負けると思います。機械に置き換えることの出来る能力をはかっても私は意味が無いと思います。増してや方程式で解けるようになる問題をわざわざ遠回りさせるつるかめ算なんて論外です。

かつては記憶し素早く検索することが出来るのは人間の脳だけでした。だから暗記力が必要とされたのです。これだけ機械が発達し、記録や検索が容易になった時点で人間の脳に求められるものは大きく変わってきました。受験業界がまだそのことに気付いていないようです。近い将来、このことに気付いている人達だけが得をして、気付いていない人達は取り残される時代がやってくると私は思います。

人の感違いを受け流す余裕を持とう

人は誰でも勘違いするものです。感違いは自分ではなかなか気付くことが出来ません。感違いに悪気は無いのですから怒っても仕方がありません。人は誰でも何がしかの勘違いをしています。自分も他人も。

勘違いとは事実と異なることを正しいと思い込んでいることです。

勘違いを指摘して無理矢理訂正したりやり込める必要はありません。何故なら勘違いは間違っているのですから、間違いに気付いた時点で恥ずかしい思いをするのは相手です。場合によっては教えてあげても良いかもしれませんが、相手の思い込みが激しいと聞く耳を持ってもらえません。お互い嫌な思いをしても損なのでそっと受け流すようにしましょう。

中には死ぬまで勘違いに気付かない人もいますが、それはそれでその人は幸せだと思いますのでそっとしておきましょう。

勘違いの具体例

例えば信号の見間違いで交差点に進入した車を思い浮かべてみて下さい。勘違いで青信号だと思い込んで進入していますので、歩行者が横断しているはずがないと思い込んでいます。歩行者は青信号を渡っていれば、車が来るはずがないと思い込んでいます。ここに齟齬を生じ事故に至ります。今回のケースでは歩行者が運転手の勘違いを受け流すために、横断歩道の信号が青信号でも左右の確認をすることです。特に効果を発揮するのが、車の右左折においてです。運転手は巻き込み確認を行いますが、歩行者や自転車が死角に入っていると誰もいるはずがないと思い込んで交差点に進入します。人がいるはずがないという心理的な死角にもなるので、人を巻き込んでも本当に気付かないこともあるようです。右左折をする車が自分がいないと勘違いしているかもしれないと予測しておくのです。あらかじめ予測していれば止まらず進んでくる車にいち早く気付くことが出来、車を避けることが出来ます。運転手さんの勘違いを受け流すことで、自分の命を守ることが出来るのです。

糖質の勘違い

何でも糖質の話に持ち込んでいる気もしますが、事実多くの方が勘違いしているので書いてみます。

糖質の害は明らかですが、まだ知らない人は勘違いしているのです。糖質回避・糖質制限が危険だと主張される方もおられます。これまで当たり前に食べている主食が悪い訳がないと。そのように主張される方の多くが糖質依存に陥っておられます。依存対象をやめたくない言い訳に糖質回避の危険性を主張されているだけです。糖質をやめることに害があると思われているのですが、実は糖質依存による勘違いの主張なのです。糖質の害を説明して説得しようとせず、まだ知らないんだとして受け流しましょう。糖質制限が危険だと言っている人も10年もすれば勘違いに気付く日がやってきます。勘違いに気付いて恥ずかしい思いをするのは相手なんですから、今は受け流しましょう。

少なくとも糖質の害に関しては明らかで、受け入れるか受け入れないかではありません。いつ勘違いを受け入れるかです。真実は一つなので生暖かい目で見守ってあげましょう。

病気が治らないのは治さないのかもしれません

病院に通っていてもなかなか病気が治らなくて困っている人も多いと思います。

もしかしたら病気が治らないのではなく、わざと治さないのかもしれません。もしくは治ったことにしないのかもしれないのです。治さない目的は何でしょうか?それはお金儲けが目的ではないかと疑いたくなる医者がいるのは事実です。治さない方が儲かる仕組みなので治さないようにしてずっと通い続けてもらうのかもしれないのです。勿論治そうとする医師もいますので、そういう医師を探すようにしましょう。開業医は治さない方が儲かるのを知っている患者さん達が、患者さんが増えても医者個人の収入が増えない総合病院での診察を求めるのは自然な流れです。むしろ勤務医は病気を治す方が仕事が減るので出来る限り治そうとすることから、多くの人達が診察を求めるのではないでしょうか?

確かに治らない病気もありますが、病気が治っていても通い続けさせる医者がいるのも事実です。実際症状が出ないのに一年間薬を飲み続けさせられたという話も聞きます。酷い医者になると通院を中断すると怒られるから仕方なく通い続けているとも聞きます。

その医者達はその方が患者さんにとって良いと思い込んでいます。だから必要ないのでは?と質問しても聞く耳を持ちません。場合によっては怒り出します。思い込んでいるのですから悪気はないのです。思い込んでいる根拠としているのは論文ではありますが、そこには裏があります。確かに論文として存在はするのですが、製薬会社がスポンサーとなって行った研究の可能性が高いのです。となれば飲み続けた方が良いか、飲まなくても良いかといえば飲み続けた方が良いという結果を求めています。その意にそわないデータを出したら、次からスポンサーにはなってくれないでしょう。持ちつ持たれつの仕組みで出来上がる論文があるのです。その論文に飲み続ける方が良いとあれば、その論文を根拠に医者も患者さんに強要するのです。飲み続けてもらう方が医者の儲けにもなるからです。

多くの医者は患者さんを治そうとしていると思います。目的が病気の治療です。しかし一部の医者の治さないようにしているのです。何故なら病気を治すことが目的ではなく、お金儲けが目的だからです。当然医者本人はお金儲けが目的とは認めないでしょう。

お金儲けが目的の医者の見分け方

怒る医者はお金儲けが目的の可能性があります。お金儲けの邪魔になることに対して怒るのです。質問されるとうまく答えられないし答える時間が惜しいから怒る。指示した通り通院しなくて怒るのもお金儲け出来ないからではないでしょうか?

症状が良くなっても薬を延々と続けるように伝える医者もお金儲けが目的の医者かもしれません。確かに症状がなくなっても薬を継続する方が良い病気もありますが、その場合には詳細なわかりやすい説明が必要です。普通の医師は当然患者さんにわかるように薬が継続して必要な理由を説明しますが、お金儲けが目的の医者は詳しい説明をしない傾向にあります。

そして患者さんの状況に関わらず同じような治療を続けようとします。通常なら症状が良くならなければ薬を変更するか生活の指導をするなど出来る限り治るように努力するはずです。症状が変わらなくても同じ治療法を継続しようとするのは、治すことが目的では無い可能性を示唆します。

自分が正しいと思い込んでいる医者は、余程のことがない限り自分が無意識のうちに治そうしていないことに気付くことはありません。自分に都合の良い論文を根拠にして行動しているだけです。かと言って常識的な考えである、症状も無いのに飲み続ける必要が無いことをわざわざ論文にする人もいません。結果として飲み続けるかどうかの論文は飲み続ける方が良いという製薬会社がスポンサーの論文だけがあることになるのです。

病名と治療法を聞いて、自分で薬の継続が必要か自分で考える方が良いと私は思います。もし医者の言動に不信な点があれば、一度違う病院を受診してみられることをお勧めします。

全ての医者が患者さんの病気を治すことが目的になる時代が来るといいですね。

判断に迷う理由 判断の仕方がわからない

判断とは選択肢の中から何かを選ぶことです。判断に迷うことはよくあることです。その理由はそもそも判断の基準が曖昧でどのように選ぶと良いかわからないことです。つまり判断の仕方がわからないのです。

逆に言えば判断の仕方がわかっていれば判断に迷うことはありません。判断の仕方がわかっているのに判断出来ない状況であれば、判断に必要な情報が不足しているのです。判断の仕方に合わせて、判断出来るようになるまで情報を集めれば良いのです。

世間一般では情報を集めてから判断することが多いようです。そして結局は情報が多過ぎて判断出来なくなるようです。

まず判断に必要な判断の仕方を決めてから情報を集めることです。判断の仕方がわからないのであれば、まず判断の仕方を考えることです。判断の仕方・基準さえ決めてしまえば、ただの仕分け作業です。今のコンピュータの得意な作業となります。

判断で迷っているのではありません。判断の仕方がわからなくて迷っているのです。判断の基準を絞り込みましょう。

育児放棄による乳幼児の放置死の報道に思う

育児放棄により乳幼児の放置死の報道が散見されます。亡くなられたお子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
これらの報道を見て思うことがあります。
論調が、育児という当たり前のことをしないとして、親ひいては行政を責めているように思います。
親を庇う訳ではありませんが、親もどうしていいのかわからなかったのだと思います。親の心理としては、暗に死んでも仕方ないとは思ったとは思いますが、育児から逃げ出したい心理に陥っていた可能性が考えられます。

私は責め立てるような報道をしても意味をなさないと思います。何故なら亡くなった命はかえってこないからです。それならば再発を防止出来る知恵を報道する方がはるかに建設的だと思います。例えば検診に来ていなかったのであれば、その時点で強制的に面会する法律が必要かもしれませんねなどです。法的な問題で実現するかどうかは政治家や行政の方に考えてもらうとして、その解決策の一つを提案するような報道であるべきではないでしょうか?
他にも周囲の人達に取材し、よく泣いていたや様子がおかしかったという声を報道することもあります。解決策としては、不自然なことがあった時点で虐待の疑いで通報することを促すような報道が再発防止に役立つのではないかと思います。その際通報先の電話番号を表示するとより効果的だと思います。あるいは再発防止策を視聴者から募るという、集合知から解決策を探すのも一つの選択肢だと思います。

そして今の報道でも虐待をしてはいけませんというメッセージは伝わると思いますが、現時点で虐待してしまっている人に向けてもメッセージを発信出来ると良いと思います。多くの場合虐待している人達に虐待しているという自覚が無いからです。虐待してしまいそうという場合の親からの相談先も報道すると、再発防止に役立つと私は思います。もしそういう相談先が無ければ、相談先を作ってもらえるように行政に働きかけると良いのではないかと思います。

報道の目的が見てもらうこと、つまり視聴率なので仕方がないのかもしれませんが、そろそろ再発防止を目的とした報道があらわれても良いと思います。

座る二宮金次郎氏の銅像に思う

薪集めの間に歩きながら本を読んでいた二宮金次郎氏の銅像が、今は座って本を読んでいる銅像に変わりつつあるそうです。

薪集めの時間も惜しんで本を読んだことが逸話として残っています。座って読むなら逸話とは話がずれてしまいます。歩きながら本を読んではいけないという考え方のため、二宮金次郎氏の銅像が座ったのでしょう。私は教務力の低下が放棄を心配してしまいます。

二宮金次郎氏の銅像の背景を説明することを放棄しているのではないかと思います。もしくは理解してもらえないから銅像を座らせたのではないでしょうか?

二宮金次郎氏が子供の頃は、子供が働くことが当たり前でした。勉強よりも家の手伝いが優先されて当たり前の時代でした。そして昼間にしか本が読めなかったはずです。明かりを灯してまで本を読むことは許されない時代でした。仕事としての薪集めの合間に時間を惜しんで本を読むことに意味がありました。当時は山道ですからすれ違う人などほとんどいません。転んでも自己責任です。自分が痛いだけです。このような背景を伝えることで、二宮金次郎氏の考え方の素晴らしさがわかるのです。

銅像を座らせたのは、恐らく先生方もこの背景が理解仕切れていないのではないでしょうか?

確かに現代では歩きながら本を読むことは危険です。自分自身が車に撥ねられるかもしれませんし、誰かにぶつかるかもしれません。二宮金次郎氏が歩いていた頃とは大きく環境が異なるのです。

二宮金次郎氏は、歩きながら本を読んだから凄いのではありません。時間を惜しんで勉学に励んだから凄いのです。時間を節約する手段として歩きながら本を読んだだけのことです。いわば家の手伝いもして、勉強もする知恵を考えたから凄いのです。

このことを伝えることの出来ない日本の未来が心配です。