人の動かし方 〜人の困る仕組みを作る〜

人の動かし方について考えてみます。

人を動すとは大袈裟な言い方かも知れませんが、人に頼みごとをしたり、お願いしたり人に思い通り動いてもらいたい場面は良くあると思います。

人の考えていることが手に取るようにわかる天才にとっては、人を動かすのは簡単なことかも知れません。しかし人の考えていることがわからない普通の人にとっては、人に思い通り動いてもらう人を動かすことはハードルの高い課題です。

人を動かすには適切に言葉を選ぶ必要があります。

人は面倒なことはやりたくないため、動かないのが基本です。動かないことを怒っても意味がありません。動かない方が当たり前なのです。その動かないのが基本の人に動いてもらうのは、良いこと・ご褒美か、悪いこと・何らかの罰しかありません。

良いこと・ご褒美はお金や物で動いてもらうことも出来るかもしれませんが、回数を重ねる毎に報酬を積み上げる必要があります。そのためお金や物で動いてもらうのは得策ではありません。

良いことやご褒美は有難うの声掛けや助かったよというお礼という言葉だけでも、十分な役割を果たすこともあります。この作戦は頼みごとや指示などで一度声掛けやお礼を言ってもらった経験が嬉しいと感じた相手だけに有効な方法です。

もっと有効なのは悪いこと・罰を与えることではなくて、相手が困る仕組みを考えることです。子供でも大人でも全ての人に言えることですが、やらないと相手が困る仕組み・条件設定を作るのです。

例えば部下に資料の作成を依頼したとします。出来なくて困るのが上司なら、部下は本気では作りません。部下が困る仕組みにするのです。部下が資料を他の上司にプレゼンし、出来具合を直接評価してもらい、ボーナスの査定の響くなどです。

相手が子供の場合も同じです。子供が困る仕組みを設定するのです。片付けをしなければ、探し物が見つからなくても手伝わないのです。

人を動かすには、動かないと相手の困る仕組みを考えることです。嫌でも動くしかなくなります。

依存症の患者さんは意思・自制心が強い?

依存症の患者さんは意思・自制心が強い?
不思議なタイトルです。
私も日経サイエンス 2015年 08 月号 [雑誌]の記事を見つけた時には意味不明でした。
依存症の患者さんは一般的に意思・自制心が弱いと考えられています。
その一般的な考えとは大きくことなり依存症の患者さんは意思・自制心が強くないとつづけられないという考え方です。

認識が違うのは視点が異なるから

意思・自制心が強い弱いのとらえ方が異なるのは、依存の方はやるかやらないかの2択ですが、依存ではない方はやめるのが当たり前という1択なのです。
依存の方はやるかやらないかの2択で、続けることを選択しています。
依存ではない方は続けるという選択肢は存在せず、やめるのが当たり前と考えているので認識がずれてしまうだけのことです。

多くの人がやめるのが当たり前で、やめる意思だけで意思・自制心を評価しているのです。
タバコを続ける人にとっては続ける意思・自制心が問題という考え方です。

依存にも意思・自制心が必要

依存を続けるにも意思・自制心が必要とされるというものです。
どういうことでしょうか?
ニコチン依存の患者さんで考えてみましょう。
タバコを吸うことで生じるニコチン依存症ですが、タバコはいたるところで禁止されています。
吸うためには時間・場所・タイミングを合わせる必要があります。
禁煙の場所でタバコを吸う人は意思・自制心が弱いと言えますが、禁煙の場所では我慢し、喫煙所を探してタバコを吸うのは意思・自制心が強くないとできないそうです。
続ける意思・自制心が強くないと、面倒くさくなって禁煙してしまうということです。

増税で禁煙できる人は意思・自制心が弱い?

増税という財布の痛みを伴う障害があっても吸い続ける人の方が意思・自制心が強いのです。吸い続けるという方向ですが。
増税されると嫌になってやめてしまうのは、増税分タバコ代がかかることを他で節約するのが面倒な人と考えることができます。そこまでタバコを続ける意思・自制心が強くはないのです。

依存の方はそもそも続けるかどうかを考える!

依存の方はそもそもやめることは考えていません。
いかに続けるかどうかを考えているのです。
依存状態ではない方と会話が成り立たないはずです。
別に依存の方を責めるわけではありません。(私も様々な依存状態でした)

依存を抜け出したいと思うなら、やめたほうがお得な情報を自分で探し出して、より多く知ることだと思います。

糖質回避でニキビ改善

糖質回避をしてニキビが改善する患者さんがおられます。

本でも読みましたし、患者かんからも直接お伺いしたこともありました。

ふと気付くと私の胸に出来ていたニキビが出来なくなっています。写真を撮っておけば良かったのですが、気にしていなかったので写真は撮っていませんでした。

少なくともニキビは糖質回避で治りそうです。まさか自分で実感するとは思いませんでした。

ある皮膚科の先生とお話すると、尋常性乾癬の方が痩せたら治った方を経験されたそうです。本に書いてある通りです。

糖化産物原罪説は間違いないかも知れません。

少なくとも原因不明の病気は糖質回避を試してみても良いかもしれません。

いつも言い訳する人の心理 ~言い訳する理由~

いつも言い訳する人の心理を考えてみました。

言い訳する人と言い訳しない人ははっきり分かれます。
ある時は言い訳し、ある時は言い訳をしないということはあまりないようです。
言い訳する人はいつも言い訳をします。
言い訳をしない人はいつも言い訳しません。

自分の責任という概念が欠落している

いつも言い訳する人は自分の責任と認める概念自体が欠落しているのです。
自分の責任という概念自体がないのです。
ですから自分の責任だと認める選択肢はありません。
当然責任を取るという選択肢もあり得ません。

言い訳というのは人のせいにして言い逃れることが目的のため、何も生み出さない無駄な行為です。
いつも言い訳をする人と話をしても得るものはありません。
何か不都合があっても言い訳を考えるだけで、言い訳の辻褄を合わせるために事態は更に悪化していきます。
自分が困らないのであれば、不都合があっても放っておきましょう。
関わるだけ時間の無駄です。
改善策を考えるわけではなく、言い訳を必死で考えるだけだからです。

せめて自分の責任は認めないまでも、改善策を探してくれればよいのですが、探すのは言い訳ですから事態は良くなりません。

いつも言い訳する人の対策

できるなら相手にしないことです。
何か不都合があっても責任を取るという概念どころか、自分の責任と認める概念自体が欠落している可能性が高いため相手にしないのが一番の対策です。

頭にあるのは責任逃れです。常に考えているのは言い訳です。
残念なことに、言い訳でこれまで納得した人がいるのです。
その納得してしまった人たちの影響で、言い訳は正当な主張だと勘違いしているのです。

どうしても相手にする必要があれば、言い訳できない環境を作り出すしかありません。
『誰が悪いの?』
私ですけど、でも聞いてください
という言い訳を始める可能性があります。
でもの時点ですぐに言葉を遮り
『でも、誰が悪いの?』
と逃げ場をなくすしかないと思います。

人が人を騙す理由

人が人を騙す理由。
それは騙す隙があるからです。
騙してもばれないと思うから騙すのです。

そして騙した人が得をするのです。

隙がなければ騙そうとはしません。
得しなければ騙すなんて面倒なことはしません。
明らかに自分より賢い人を騙そうとはしないものです。
何故なら嘘がすぐにばれるから。
嘘がばれないと思える相手にだけ、嘘をつくのです。

実はある種のお猿さんは嘘をつくのです。詳しくはこちらを。
お猿さんですら嘘をつくのですから、人間も嘘をつくのが当たり前だと考えた方がよさそうです。
しかし通常人は嘘をつきません。何故なら人間は嘘を見破る知恵を持ち合わせているからです。
そして嘘は良くないという倫理観を通常人は持ち合わせており、人間社会では嘘つきは相手にされなくなるのです。
(ちなみにお猿さんは嘘をつかれても見破れません。お猿さんは嘘つきも相手にされるのです。)
そのため人は嘘がばれないと思った相手に嘘をつくのです。(希に嘘に罪悪感を抱かない人がいるので注意が必要です)

最初から狙って嘘をつく場合と、話をしているうちに相手の隙に気づいて出来心で嘘をつく場合とがあります。
出来心での嘘は悪気なくついついてしまうものです。
しかし一度ついてしまった嘘は取り返しがつかなくなり、嘘の連鎖に陥ります。
最初から狙った嘘は巧に練り上げられ辻褄が合わされています。
見破るにはそれなりの知恵が必要となります。

騙されない対策

騙されない対策は簡単です。本当かどうか確認することです。
かかってきた電話なら合言葉で家族確認をする
相手の言っていることを第三者に確認するということです。

糖質依存の概念の利点 ~対策がとれる~

糖質依存の概念には利点があります。

太った理由が理解できるようになる

これまでわからなかった太った理由の説明がつくことです。
何故体重のコントロールが困難だったか、客観的に理解できることです。
自分自身が錯覚に騙されていることを受け入れる必要はありますが、自分が悪いわけではないことが理解できます。
自分自身を責めなくて済む

対策がとれるようになる

糖質依存の概念を受け入れる最大のメリットが、対策がとれるということです。
依存は脳が騙されてしまって、量の加減ができなくなり過剰摂取してしまうのが特徴です。
一度依存に陥ってしまうと、自分で調節できなくなるということです。

逆に考えれば依存を脱出すれば、再度依存に陥らないように調節することもできるはずです。
薬物依存のように一度陥ってしまうと抜け出すことが難しい依存もありますが、糖質依存はそこまでの依存性はなさそうです。(もしかしたら個人差があり自己コントロールの難しい方もおられるかもしれません。)

いずれにしても依存の概念により、依存に気を付けながら糖質を楽しむことができるようになるはずです。

糖質は依存の概念を受け入れ、糖質回避するのが一番人生が楽しいと私は思います。

怒らない子育てと怒る必要のない子育て

怒らない子育てと怒る必要のない子育ての違い
言葉も似ていますし、怒らないことでは変わりありませんが、方針は180度違います。

子供に任せて怒らないというのが怒らない子育て、子供を怒らなくて良いように誘導するのが怒る必要のない子育てです。
怒らない子育ては子供が完璧な人格を自ら身につけることができると信じているのか、子供と関わるのが面倒くさいのいずれかです。
もしくは親が周りの人のおかげで身につけた常識も、自分で身につけたと勘違いしているのかもしれません。自然に子供も身につくと考えているのかもしれません。

怒る必要のない子育ては、子供が何を感じて何を考えているかを想像して対処しなければなりません。怒る何倍も愛情が必要です。

怒らないことは良いことですが、子供自身に判断を任せてしまうと子供はどのようにして常識をみにつけるのでしょうか?
子供自身がやって良いことと悪いことを自ら判断し、間違っても教えてもらえない(怒ってもらえない)とすればどのように育つのでしょうか?
少なくとも友達は離れていきます。何故ならその子供自身がルールで友達は従うものだと勘違いしてしまうからです。人に合わせるということを知らないまま成長することになります。友達が離れていっても自分では何故離れたか理解できません。

怒らない子育ては一種の育児放棄?

怒る必要がないように子供を導くのではなく、ただ怒らないだけというのは一種の育児放棄だと思います。
子供に任せるというそれらしい大義名分ですが、結局親が責任を放棄しているだけのことです。
常識を身につけさせてあげるべき親に、そもそもその常識がないのですから仕方がないと言ってしまえばそれまでです。ただ怒らない子育ては一種の育児放棄だと思います。

ただ怒らない一種の育児放棄ではなく、子供を怒らず誘導する怒る必要のない子育てが広まるといいですね。

非常識な人への対策 (誰の問題論の延長)

非常識な人というのはどこにでもいるものです。
常識を知らないのか、そもそも人に迷惑をかけない(それ自体が常識)という発想がないのかわかりませんが、非常識な人に嫌な思いをさせられるのはよくあることです。

何故わかっていてもわざと非常識なことをするか?
それは非常識な人が困らないからです。
むしろ非常識な人が得をする仕組みだから、人になんて思われようと関係ないと開き直った人が非常識なことをしてしまう隙があるのです。

非常識な人への対策

非常識なことをする人が困る対策をすることです。
他国から訪れた人は日本の常識を知らないのも無理はないことです。(郷に入っては郷に従えという諺があるので、常識を勉強してから来てほしいとも思いますが)
日本の常識に従わなければ、金銭的・時間的ペナルティーを被る仕組みを作るのです。

外国の人に限らず、非常識なことをしても他人が困るだけで、自分は困らない
突き詰めると他人の問題なのです。
非常識なことをする人の問題にしてしまえばよいのです。(誰の問題論
誰の問題かを考え、その人の問題・その人が困る問題になるように仕組みを作り替えるのです。

常識に従わなければ損をして、常識に従えば得をする

そんな発想で世の中のルールを作るようにすれば世の中が少しは変わるのではないかと私は思います。

そもそも常識は明文化されません。
何故ならみんなが当たり前に知っている常識だから。
その常識を知らない人たちがいれば、ルールとして明文化するしかなくなります。
そのルールを非常識な人が損する仕組みにしてしまうのです。

今のルールは非常識な人が見つかると罰を受けるという仕組みです。
それでは見つからないことを目指してしまうだけです。
見つからないことが目的だからです。

常識に従うことを目的にさせるため、常識に従わなければ損をする仕組みづくり。
こんな考え方はいかがでしょうか?

そもそも常識とは何かを考えているのはこちらです。

太る原因 糖質?カロリー?

太る原因を考えてみます。
糖質でしょうか?カロリーでしょうか?どちらも理屈の上では間違ってはいないはずなのに、糖質回避の方が痩せやすいのはなぜでしょうか?理由は簡単です

太る原因は糖質だからです。

糖質で太る原因は二つあります。
炭水化物は優先的に脂肪になることと、糖質依存です。

炭水化物は優先的に脂肪になる?

炭水化物が消化されブドウ糖として吸収されます。
このブドウ糖が実はエネルギー効率が悪いそうです。
しかも高濃度になる高血糖の状態になると身体にトラブルを起こす毒になるのです。
エネルギー効率が悪くて、毒にもなるブドウ糖。
大量にあればできるだけ速やかに使うのが合理的なはずです。
余るようなら脂肪として蓄えるのです。

身体にとって炭水化物・タンパク質・脂質は同等ではなく、炭水化物は効率が悪い上に害があるので、優先的に使うのが合理的です。余ればそのままでは高血糖で害になるので、飢餓に備えて脂肪として蓄えるのです。
たんぱく質を取りすぎても、脂肪に変換して蓄えるのは効率が悪すぎるので簡単には太れません。すべての動物は食べ物を探すことに困っていたので、効率の悪いエネルギーの保存方法だと淘汰され子孫が残せません。
現時点で種として存続できるのは効率を最善にしたからこそ生き残れたと思います。
調べたわけではありませんが、進化の歴史を考えれば、たんぱく質を食べて脂肪として蓄えることはしないと思います。

糖質依存の考え方。

もう一つの問題は糖質依存の考え方です。
詳しくは糖質依存という新しい概念をご覧ください。

糖質に騙されてしまって食べ過ぎてしまうことで、太ってしまうということです。
食べ物全体を多く食べてしまった結果が肥満だと考えがちですが、糖質を食べ過ぎてしまった結果が肥満です。
糖質がどのように人を騙すかは自分が自分を騙す、依存のメカニズムをご覧ください。

糖質に騙されている証拠は禁断症状があることです。
禁断症状とは強い空腹感です。強い空腹感を我慢しているとピークを越えた状態になることを経験されたことがあると思いますが、ピークを越えたのが禁断症状を脱出した状態です。

少し食べると余計食べたくなるのも依存の証拠です。
依存でなければ、少し食べれば少し満腹感が得られるはずです。
現実には少し食べれば余計おなかがすきます。

糖質依存の影響で本来は10で満腹になるはずが、12・13と余分に食べることができるのです。2・3割分脳が騙されるのです。
糖質をやめて食べる量が減ることが多いのですが、胃が小さくなったと表現されます。
糖質の騙しがなくなって本来の大きさに戻っただけのことです。

優先的に糖質が使われ余ると脂肪になる。
糖質依存で糖質を食べ過ぎてしまう
この2点が糖質が太る原因です。

カロリー制限説

カロリー制限とは摂取カロリーを計算し、食べる総量を抑えることで痩せようというものです。
身体に入ってくるエネルギーと出ていくエネルギーで、出ていく方が多ければ痩せる。入ってくる方が多ければ太るという考え方です。
一見理屈は間違っていないように思います。
食べる量が多ければ太るし食べる量が少なければ痩せる。
当たり前といえば当たり前の理屈です。

しかし問題点があります。
本当にタンパク質・脂質・炭水化物がいわれている通りのカロリーとして体内で使われているかどうかです。
どうも怪しそうです。(参考文献:夏井睦氏炭水化物が人類を滅ぼす
カロリー説では炭水化物もタンパク質も脂質も同等に扱われ、特に脂質はカロリーが高いので避けるように推奨されています。

実はカロリー計算が正しいかどうかわからない

実はカロリー計算通りに食べ物が体の中でエネルギーとして使われているかどうかわかりません。本当に燃やした時に出るエネルギーから想像しているだけだそうです。(参考文献:夏井睦氏炭水化物が人類を滅ぼす

元々理屈が正しいかどうかはわからないのです。食べる総量が多ければ太る、少なければ痩せるのは間違いありませんが、脂肪が太りやすく炭水化物とタンパク質が同等というのはわからないのです。

間違っているかどうかもわかりませんが、私は脂肪分を好んで食べていますが痩せていきます。それが答えではないかと思います。

人間が糖質依存を起こさず、機械のように決めたことをきちんと守ることができればカロリー制限説でも痩せることができるのかもしれません。
しかし人間が自分で考えて、自分の好みで食べるものを選ぶことができる現状では糖質回避でのダイエットが合理的だと思います。

怒る親と怒らない親の心理

怒る親と怒らない親。
怒る親は自分が子供のことを思っているから怒っていると勘違いしています。
自分が正しいと思いこんで子供を怒っています。
子供をこんなに怒ることが出来る立派な親だと勘違いし、更に周囲にアピールする目的で怒っているかなり勘違いされた親までいます。
怒らない親は子供の自主性に任せるという大義名分で、子育てを半分放棄している場合もあります。
親が怒るのは、自分の優位性を子供達に見せ付けたいがためです。
きちんと大人の世界の『常識』を身につけさせてあげていないのに、その『常識』を知らない・わかっていないといって怒るです。
大人は子供に対して、子供の知らない『知恵』を持っていることで優位性を示せば良いのですが、怒るという間違った優位性を示しているようです。
しかも大人が子供を怒る際に大人が子供にきちんと伝えていないことが原因にも関わらず、子供が知っていて当然として怒っているのは私には奇異に感じます。
例えていうなら大人が堀った落とし穴があったとします。
大人は気をつけて歩きなさいといいます。
大人は落とし穴があるのは当たり前だから、落とし穴に気をつけて歩きなさいとはいいません。
ただ気をつけてといえば落とし穴に気をつけるのは当たり前だと思っているのです。
子供達は違います。隠された落とし穴があることを見たこともなければ聞いたこともありません。気をつけるというのは目に見える石ころにつまずかないことや、転ばないことだと思います。見たことも聞いたこともない落とし穴に気をつけることができるわけがありません。
その見つけることができるわけがない落とし穴に落ちたといって責める親がいるのです。
『気をつけるように言ったじゃない!』と
大人にとっては落とし穴は当たり前だから、意識していないため落とし穴に気をつけると言ったか言っていないか定かではありません。当たり前すぎて言わなくても子供のわかっていると錯覚しているのです。
落とし穴を地雷に置き換えても構いません。
地雷を踏んだという比喩表現にも使われるので、地雷の方がわかりやすいかもしれませんね。
怒らない親は子供が騒いでも気にならないのです。
子供が何かをしても気にもとめません。
もしかしたら子供に関心がないのかもしれません。
子供に関心があれば人に迷惑をかけないように気を付けますし、子供の行動が気になります。
怒らない心理としてはプチ育児放棄に近い心境なのかもしれません。
怒らない親を見かけたら、そんな心理かもしれないと思いながら観察しているともしかしたら理解できるかもしれません。