太るのが怖い?怖く無くなりました

まだ太るのが怖いと考えている人がいます。

怖いのは理由が良くわからないか、意図しないうちに陥るから怖いのであって、当然の結果であれば怖くも何ともありません。

太るのが怖いと感じるのであれば、太る理由がわからないか、意図せず太ることがあるからだと思います。

太る理由がわかった今、恐る必要は全くありません。ただ単に糖質を食べなければ太りませんし、糖質を食べ過ぎれば必ず太ります。

その太るメカニズムには糖質依存が関与しています。知らず知らずのうちに依存に陥る上に、糖質依存に気付かず太ることが糖質に対する恐れを生み出す原因です。糖質依存が自己抑制を妨げることで食べ過ぎてしまい、結果として太ります。禁断症状である強い空腹感が食べることを促し、一度食べ始めると止まらなくなることも食べ過ぎを引き起こします。

それ以上でもそれ以下でもありません。糖質を食べることで依存に陥り、依存になれば太る。ただそれだけです。糖質依存は糖質を避けるだけで簡単に改善します。ただし、禁断症状である空腹感が依存から抜け出すことを必死で邪魔をします。お腹が空けば食べてしまいたい欲求との戦いになりますが、糖質を食べずチーズや卵、枝豆で空腹感をやり過ごすのが近道です。何しろ糖質を避けさえすれば、お腹いっぱい食べることが出来るので、ストレスは少ないと思います。

太る理由がわかった今となっては、恐れる必要は全く無いと思います。上手に付き合うことだと思います。

糖質をやめるなんて無理!本当に無理?

ダイエットやアレルギーに対して糖質回避を提案すると糖質をやめるなんて無理!と即答される方がおられます。本当に無理でしょうか?

そもそも糖質をやめるのが無理だと思い込んでいるのは、糖質依存の一症状に過ぎません。

糖質をやめるのは難しい問題でも何でもありません。やめないのはただ単にやめたくないだけのことです。誰かが無理矢理食べさせている訳ではありません。糖質の魅力に取り付かれてやめないという決断をした上で、やめられないと言い訳をしているだけに過ぎません。

やりもせずに糖質をやめるのは無理という人は、そもそもやめることは検討していないのです。本当にやめることが出来るかどうか検討していないからこそ、無理と即答出来るのです。先にやめたくないあるいはやめないがあって、答えを探すから無理が答えになるのです。

やめる決心をする勇気が無いことを、(自分のせいではなく)やめられないと言い訳しているに過ぎません。

依存状態の激しい人は、本当にやめられない程病的なのかも知れませんが、病的な依存でなければ簡単にやめられるのかも知れません。

依存の状態の激しい人でも、物事を論理的に考えることで抜け出す糸口を見つけることが出来るかも知れません。

その糸口とは、糖質の食べ過ぎの症状や病気(肥満や糖尿病、各種アレルギーなど)と比較して、天秤にかけてみて良く考えることです。そもそも目先のことしか考えることが出来なければ天秤にかけるのは無理ですが、少しでも冷静に考えることが出来るのであれば検討の余地は十分あります。論理的に考えることが出来れば、やめることは簡単なのかも知れません。

糖質とアルコールとタバコの関係

糖質とアルコールとタバコの関係を考えてみます。
この一見すると関係なさそうな三つには共通点があります。
取りすぎると病気になるということと、依存性があるということです。

取りすぎると病気になる

糖質の害は先日書いた通りです。アルコールを取りすぎると、アルコール性肝障害から肝硬変を来す可能性があります。タバコを取りすぎると肺気腫などの肺疾患を来したり、肺癌を来す可能性があります。

依存とは?

取りすぎれば取りすぎるほど様々な病気になる可能性が高まります。そのため量を加減する必要がありますが、加減を邪魔してしまうのが依存の心理です。

依存の診断基準にもありますが、時間や量やタイミングややめたくてもやめられないなどの自己抑制が出来ないことが問題となります。

アルコール依存症

特にアルコールは精神・考え方に直接働きかけるため、過剰摂取(飲みすぎること)すると精神に変調を来し、自分で判断出来なくなることつまり理性を失うことが問題です。人によっては薬物依存に近い病態となり、いつでもアルコールが手に入る状態では依存を断ち切れないため、入院治療をしなければ改善出来ないようです。

多くの人は娯楽としてアルコールを楽しんでいますが、一部の人は薬物依存に近い病態に陥ってやめたいと思ってもやめられないのかも知れません。嗜好の問題か病気なのか、区別が付きにくいことも問題だと思います。現時点では日常生活に支障を来すか否かが区別する見分け方だと思います。

仕事中にアルコールに手を出してしまう程、これだけ飲酒運転取り締まりが厳しい中飲酒運転してしまうなどが病的かどうかの分かれ目だと思います。アルコールを飲んでも良いタイミングか飲んではいけないタイミングか判断出来なくなることを意味します。

ニコチン依存症

ニコチン依存症は厚生労働省が健康保険適応での治療を認めているれっきとした病気です。アルコールのように精神や意識に直接働きかけることがないため、タバコをやめられないだけで精神に変調を来すことがないのが特徴です。

しかしタバコを吸うことによって引き起こされる様々な病気が明らかとなっています。本来は国が税金を稼ぎ出すためにタバコを推奨していたところがあるようですが、ニコチン依存症の陥らせて病人からタバコ税として搾取する構造だったようです。一説によると現時点ではタバコによる税収が年間1兆円、タバコによる健康被害が3兆円で手痛いしっぺ返しを食らっているようです。

ニコチン依存症にはいくつかの治療法が確立されつつあることが特徴です。大きくわけて二つの治療法があります。ニコチンを使うかニコチンを使わないかです。ニコチンをタバコとしてではなく、ガムなどですり替えて少しずつ減らす方法か最初からニコチンを含まない薬剤を使う方法です。いずれも依存を引き起こす脳内の条件反射を忘れさせることが目的です。

糖質依存

糖質依存とは糖質に対する依存で、一時期の私は診断基準を明らかに満たしていました。

肥満になってもやめられませんし、強い空腹感という禁断症状まであります。

糖質の取りすぎによる様々な病気が明らかとなるにつれて、糖質依存の罪深さがみんなの知るところとなると思います。様々な病気とは肥満2型糖尿病高血圧、高脂血症、心筋梗塞や脳梗塞などの血管系の病気は恐らく間違いないと思います。更に私の糖化産物が様々病気を引き起こす原因であるという仮説が正しければ各種アレルギーやニキビ・イボなどの慢性感染症も糖質の取りすぎによって引き起こされるようです。

少なくとも肥満、2型糖尿病は直接糖質の取りすぎが問題です。
糖質依存によって食べ過ぎた結果引き起こされる病気、いわば糖質依存症です。

アルコールやニコチンは害があるので控えるように言われていますが、糖質の方がはるかにはるかに罪深いようです。
肥満と2型糖尿病だけでも十分アルコールやニコチンよりはるかに罪深いのに、アレルギーや慢性感染症の原因だとわかれば糖質の害は計り知れないものになります。
こうして考えるとアルコールもニコチンも依存性はありますが、健康被害は糖質に比べると本当に微々たるもののようです。その微々たるものに対して問題にしているわけですから、今後は糖質の問題は大問題に発展することだと思います。

いわば禁断の食べ物と表現しても過言ではない食べ物だとわかることになると思います。
幸い少し食べてすぐに病気になる猛毒ではないので、調理の仕方と食べる部位を気を付ける必要のある河豚と同じようなもので、食べ過ぎに気を付けながら病気や依存を引き起こさない適切な量を食べることになると思います。
少なくとも主食という考え方は、残念ながら人類の体にはあってはいないようです。
主食が正しいか正しくないかでは残念ながらありません。
いつ主食という考え方をやめるかです。

主食をやめるからといって糖質をゼロにする必要はありませんが、少なくとも主食という考え方は食べ過ぎだと思います。
よく食事のバランスが大切と言われますが、そもそも主食と副食の関係そのものがすでにバランスを欠いているようです。何しろ主食が6割を推奨されているようです。6対4の時点でバランスはよくないと思います。
21世紀なのですから、物事を冷静に合理的に考えることが大切だと思います。

共通点から考える糖質依存の扱われ方の未来予想

糖質・アルコール・ニコチンに共通しているのは取りすぎると病気になり、依存性があるという共通点があります。
そしてアルコールやニコチンに関しては病気を避ける目的というよりは、依存性があるのでやめられないだろうということで税金を取りやすいからという理由で課税が始まったようです。
今となっては健康のために取りすぎを制限する目的で、アルコールやニコチンには課税されています。(参考:健康被害があるものには課税されています
特に本来税金を得るのに適していたタバコは、年間1兆円の税金を得るために年間3兆円もの医療費が余分にかかっているようです。いずれはタバコによる健康被害に対する医療費はタバコを吸った人の自己負担になるのが適切だと思います。

こう考えると糖質依存と糖質による健康被害はまだわかっていないだけで、今後は大きな問題になると思います。
アルコールやニコチンの考え方からすれば、糖質に対して税金がかけられるようになるのが適切だと私は思います。ただしみんなの理解が得られるためには20年くらいはかかるのかもしれません。合理的に物事を考えることのできる人が半分いれば多数決で即座に糖質課税は始まるのですが、どうやら物事を論理的に考えられない感情的思考・直感的思考をする人の方が残念ながらはるかに多いようです。

実は砂糖課税というのが検討されたようですが、残念ながら的外れでした。
砂糖の甘味に対して依存しているわけではないからです。
炭水化物に対して課税するのが合理的です。

依存性がある、健康被害があるものが判明すればかつて薬局で売られていた麻薬のように害がわかった時点で禁止するか、制限するしかありません。
制限の方法としては、課税するのが一番効果的で意味があると思います。
その課税の目的は糖質による健康被害の治療費として役立てることができるからです。

合理的に考えれば糖質課税をかけることしか私には良い手だてが思いつきません。
反対するのは私利私欲で言っているだけです。
反対する意味はありません。自分が利己主義だ、自分の利益しか考えていないと公言することになるので恥ずかしい思いをしますからやめておいた方が良いと思います。
動物的な感情的な思考しかできないことを公言することになるので、反対はやめておいた方が良いと私は思います。
糖質課税に賛成できないのであれば、合理的な更に良い知恵を考えて主張するべきです。
今の私には糖質課税で糖質の害を避ける知恵しか思いつきません。

もっと合理的な知恵が出てくるといいですね。

新幹線で倒した座席はそのままが合理的

新幹線や特急では座席にリクライニング機能がついているため、座席を倒すことが出来ます。駅に着く際に車内アナウンスでは倒した座席は元に戻すように呼びかけでいます。そこでふと思いました。

座席は戻さないことが合理的

次に座る人のために座席を戻すことを呼びかけていると思われますが、次に座る方が倒すのであれば、マナーとして改めて後ろの方に声をかけなければなりません。席に着く際に座席が最初から倒されていれば、声をかける必要がありません。またリクライニングさせないことを好まれる方が来られたとしても、後ろの方に声をかけることなく戻すことが出来ますので、最初から倒されている状態で次に座る方が自由に選ぶことが出来る方が合理的だと思います。

恐らく元に戻すことを促すアナウンスは、元に戻すのが当たり前という固定概念にとらわれているためではないでしょうか?

倒されていても元に戻すのは周囲に気を使う必要がない、倒すことには後ろの方に気を使う必要がある。であればわざわざ元に戻さず、倒されているままの状態で受け渡しする方が合理的だと思います。

少なくとも座席を元に戻すアナウンスはやめても良いのではないかと私は思います。

お腹が空いて困るのは?

お腹が空いて困るのは、糖質依存の禁断症状はないかと思います。

糖質依存の禁断症状

禁断症状の証拠に、お腹が空いたまま我慢していると、いつの間にか空腹感が気にならなくなります。俗にピークをこえたと言われる状態です。禁断症状でなければ食事をしていないにもかかわらず、空腹感が改善する理由が見当たりません。

糖質の血中濃度=血糖値ーベースの血糖値
糖質の血中濃度=血糖値ーベースの血糖値

禁断症状であるもう一つの証拠に、糖質回避をすることでお腹が空いて困ることが無くなります。お腹が空いて困っている方にとっては、お腹が空かなくなるということは、信じられないと思います。しかし糖質回避をする方の多くが、余りお腹が空かなくなったと言われることと合致します。

糖質依存を示唆する証拠に少し食べると余計お腹が空くという不思議な現象を経験することがあります。一度食べ始めると止まらなくなってしまう現象です。恐らくいつもの食べる量を予測してインスリンが分泌される条件反射が起こり、少し食べることでかえって血糖値が下がるのかもしれません(仮説)。

糖質を少量食べると余計お腹が空く理由(仮説)
糖質を少量食べると余計お腹が空く理由(仮説)

お腹が空いて困る場合の対策

元々の糖質依存を抜け出すことでお腹が空いて困ることは無くなると思います。

糖質回避教の勧めです。主食であるご飯、パン、麺類を避けることを続けると糖質依存は抜け出すことが出来ます。抜け出すことが出来る期間は異なるようです。私は2週間程度、3週間かかる場合もあるようですが、人によっては3日で抜け出すことに成功された方もおられました。糖質回避の具体的方法はこちらです。

糖質回避を始めた直後には、度重なる空腹感に悩まされることもあるようです。その都度間食として枝豆やチーズ、ゆで卵などのタンパク質で空腹感をやり過ごすことがお勧めです。

様々な制約が人々を賢くする

世の中には様々な制約があります。

様々な制約とは、縛りのことで具体的には資源やお金、時間や科学技術などの様々な制約のことです。

制約が知恵を生み出す原動力となる

日本には資源に制約があったから知恵を絞って工夫をし、様々な科学技術を生み出しました。もし日本から大量に石油などの天然資源が出ていれば豊かではあったと思いますが、ここまでの発展はしていなかったのではないかと思います。

資源という制約があったからこそ知恵を絞り出すのだと思います。

例えばお金が有り余る程あれば豊かだとは思います。しかしお金という制約が無いため、知恵を絞るという発想そのものが無くなります。何でもお金を湯水のようにかけることに疑問も抱かないと思います。国立競技場に対する元首相の発想みたいですね。

お金の制約があるからこそ、様々な創意工夫で乗り切ります。お金をかけずに似たような効果を得られるように工夫するのです。それはお金という制約があればこそです。制約がなければ絶対最善を尽くさず、自称最善を尽くして自己満足してしまいます。

物事に締め切りがあるのは時間の制約を作るためです。時間に限りがあるからこそ人は工夫を凝らして、最大限の効果を上げようと努力するのです。締め切りがないとダラダラしてしまうのは、制約が無いからです。

こう考えると制約のおかげで人類は賢くなったようです。人類の歴史を振り返ってみると、他の動物を狩る強力な爪や牙が無い制約のおかげで石器を使う知恵を得ました。生肉や生の植物は噛み切るのが大変で噛むことにかなり長い時間が必要だったため、時間の制約があったようです。その結果火を扱う知恵を身につけたことで、食べる時間と消化する時間を節約することが出来たようです。

食料を得るという制約のため、失敗することの多かった狩りの作戦を立て、反省するために言語という知恵も手に入れました。その後直接言葉で伝える制約から解放されるために、時間と空間を飛び越えて情報を伝えることの出来る文字を手に入れました。

制約を乗り越える毎に人類は賢くなります。今では地球の裏側とテレビ電話で話すことが出来ますし、宇宙にまで行くことが出来ます。

次に人類が乗り越える制約は何ですかね?

残念な営業マンは説得マン

飛び込みの営業マンの訪問や電話を頂くことがあります。例えば保険の勧誘であったり、広告の勧誘であったり、その他の医薬品や医療機器の販売です。電話の場合は不動産の勧誘です。用件を受け付けで確認し、売りたいものを聞いてもらいます。相手の売りたい物のカテゴリーが私に必要が無いものであれば、お互いに時間の無駄です。それでも受け付けに食い下がる営業マンがいます。私がお会いしても100%買うことは無いにもかかわらず、会いたい時点で目的が営業では無いように思います。

目的は説得か会うこと自体でしょう。説得とは別段欲しい商品ではなくてもその魅力を伝えることで欲しい気持ちにさせることです。言わば衝動買いをするように説得することが目的です。説得することが目的では無ければ、最初から⚪︎⚪︎の販売の目的にお伺いなりお電話しますと目的を告げて、面会か電話の取り次ぎを求めるはずです。

そういう場合は話術で惑わされるだけでどちらにしても買うことは無い訳ですから、会わないまたは話さないのが一番です。

本当に良いものであれば検討の上こちらからご連絡させて頂きますので、パンフレットをお願いしますと受け付けでお伝えします。これはたまたま自分の知識不足で本当に良いものを逃さない保険のようなものです。当然良いものであれば説得マンの話術に頼らず、商品の魅力で売れるはずですからパンフレットも良いものがあるはずです。そのパンフレットを吟味してから、後日会うかどうか検討しても遅くはないと思います。

このように対応すると、パンフレットも持たずに面会を求める説得マンが多いことには驚かされます。余程トークに自信がある方が飛び込み説得をされるようです。

衝動買いを狙う説得マンが減り、最初から面会の目的を告げる本当の営業マンが増えるといいですね。

8月15日を平和記念日として祝日にしては?

私は8月15日を祝日にすることを提案します。2つの意味があります。一つは今のところ終戦記念日とされている日だということ。もう一つは日本の風習であるお盆で、元々お休みの企業もあることです。

平和記念日

終戦記念日を祝うことは戦争を賛美するという批判を受ける可能性がありますので祝日にするのは適切では無いかも知れません。だから終戦記念日を祝日にする訳ではありません。同じ8月15日を平時に限り、日本が戦争をしないことを祝う平和記念日として、日本が戦争に巻き込まれる日(未来永劫無いことを祈っています)まで平和の有り難みを祝う日にしてはいかがでしょうか?

支持率の落ちた今の政権では難しいかも知れませんが、平和を心から願う思いがあれば、平和記念日の制定は実現可能な祝日だと思います。少なくともこれから30年後の戦後100年まで戦争をしなければ、戦後100年の時点で世界に胸を張って平和の有り難みを祝って良いと私は思います。私は70年戦争をしなかったことを祝っても良い時期だと思います。

出来れば戦争を経験された方々が1人でも多くご存命の間に平和記念日を制定し、戦争を経験された方々と平和の有り難みを分かち合うことが出来れば良いなと思います。

平和記念日のもう一つの意味

日本の企業ではお盆休みを取る習慣がありますが、宗教的な習慣でもあるため公共機関は暦通りです。企業によっては休みなのに公には仕事というダブルスタンダードです。

お盆に近く祝日に適していると私が考えるのが、今は終戦記念日とされている8月15日です。

8月15日を平和記念日として慣習的に休みではなく、公式に祝日として休みにすると経済的にも意味があると思います。

政治家の方に提案を

もしこの考えに賛同頂けるようでしたら、政治家の方に提案してみて下さい。何人もの政治家から意見が出れば本当に実現するかも知れませんから。

ちなみに父にこの話を話してみると、政治家になって考えることだと言われました。残念ながら私は政治家をするような器ではありませんから、立候補することはありません。

是非お知り合いの政治家の方にこの話を話してみて下さい。

人には限界を超えない仕組みがあるのに…

限界をこえない仕組み

人には限界を超えない仕組みが備わっています。例えば手足の筋肉は壊れてしまうことを防ぐために、筋肉の限界よりも遥かに低めにリミッターがかかっています。自分では限界と感じても、筋肉の物理的な限界は遥かに丈夫に出来ています。そのおかげで筋肉が断裂する危険をおかすことなく過ごすことが出来ます。瞬間的に限界近くまで筋肉を使えるようにトレーニングを行い、自分自身の限界まで筋肉を使う方法を習得します。努力に努力を重ねてようやく限界をこえるイメージです。いつでも限界ギリギリの筋肉の使い方をしているとちょっとしたことで壊れてしまうため、壊れてしまわないように余裕を持たせてあるのです。

健全に限界をこえる仕組み

人間には時として限界をこえる仕組みも備わっています。

一つは俗に火事場の馬鹿力と言われる現象で、一時的に限界・リミッターが解除され筋肉の限界まで力を引き出すことの出来る現象です。元々身体を守るために限界が作られているのですが、命のなくなれば身体を守るための限界など意味が無くなります。そのため命の危険がある場合に限り、限界を取り払うことの出来る仕組みが備わっているのです。

その反面、日頃は身体を壊してしまわないように、限界をかなり低めに設定してあります。

スポーツ選手が行う筋肉の限界近くまで能力を引き出す方法に自己暗示と大声を出すことがあります。自己暗示により脳が感じる限界を忘れさせて、限界近くまで引き出す方法と、大声を出すことにより限界を忘れさせる方法です(一時的に命の危険に曝されていると錯覚を起こすのかも知れません)。

これらは言わば健全に限界をこえる仕組みです。一つは命を守るため、一つは元々余裕がある設定の限界に近づくためです。

もう一つの限界をこえる仕組み

人にはもう一つ限界をこえる仕組みがあります。脳の錯覚・騙しによるものです。

限界をこえるとは脳の錯覚・騙しによる糖質依存の際に見られる現象です。本来なら太り過ぎないためと胃が破れることを防ぐために余裕を持って満腹と感じる仕組みがあるはずです。その満腹に感じる仕組みが、脳の錯覚により満腹感が誤魔化され限界をこえて食べることが出来るようになってしまいます。お腹いっぱいに感じる限界を糖質依存があっさりこえさせてしまうのです。

本当に胃がはちきれそうになって胃が物理的に満杯になることで満腹と感じるようです。糖質依存がない状態で満腹と感じるはずの限界が糖質依存状態の腹八分程度ではないかと思います。昔から腹八分程度が健康には良いことを経験的に知っていたようですが、糖質依存にまでは思い至らなかったようです。つまり糖質依存状態の腹八分が本来なら満腹と感じる限界ではないかと思います。その証拠に糖質を食べなくなった糖質依存から解放された人は、胃が小さくなったと感じるようです。実際には糖質依存により脳の騙しが無くなって本来の胃の大きさになっただけのことです。

依存という病的な状態により限界をこえてしまうと、様々な病気を引き起こしてしまうようです。

タバコも本来なら煙なので煙たいはずですが、依存により煙たいのを乗り越えて吸うことが出来るのだと思います。

アルコール依存や薬物依存は限界をこえて意識そのものに働きかけてしまうため、なかなか抜け出すことが出来ないようです。

依存は本来なら働くはずの自己抑制が働かなくなるので、意識して気をつける必要があります。実は世の中には本来なら備わっている限界を容易にこえてしまう依存になり得る罠・落とし穴があちこちに散りばめられています。本来なら備わっている限界を意識することで、脳に騙されることなく快適に過ごす方法を見つけましょう。

説明の極意 聞き手の立場に立って考える

説明の極意の一つとして聞き手の立場を想定することを考えてみました。今回アメリカに本社がある外資系企業が『誕生日ではない日おめでとう』と言う意味のツイートをしたのですが、『なんでもない日おめでとう』と日本語訳をしてツイートしたことが問題となりました。

日本人にとっては意味のある日でも、アメリカ人には意味のない日ととられかねないツイートだけに問題になったようです。(実際には長崎の原爆記念日だと知らなかっただけか、忘れていただけだとは思います。)

物事は人によって受け取り方が異なる

物事はそれまでの経験や知識によって受け取り方や判断の仕方が異なります。そのことに留意せずに発言や発信を行うと、今回のことや政治家の失言で問題になり得ます。

例えば日本人にとって8月6日、8月9日、8月15日は戦争があったことを振り返る意味のある日です。ただ残念なことに同じ日本人でも何の日か覚えていない人もいるでしょう。

例えば今日8月11日は、多くの人にとっては特にこれといった日では無いかも知れませんが、誕生日の人にとっては1年で掛け替えのない1日です。ただ誕生日の人個人にとって大きく意味のある日ですが、多くの人にとっては365分の364の日でしかありません。誕生日では無くてもある人にとっては大切な人の忘れられない命日かもしれないのです。

つまりその人その人にとって、同じ日付でさえも意味が全く異なることを知っておく必要があることが広まるきっかけとなりました。

日付一つとってみてもこのように人それぞれの受け取り方が異なるのですから、ましてや他のことの受け取り方が人によって大きく異なることは容易に想像がつくと思います。聞き手の知識や経験、考え方によっては何気なく言った一言が大変な結果を招くことに繋がります。

相手の立場に立って考える

私自身もいつでも相手の立場に立って考えることが出来る訳ではありませんが、極力相手の立場に立って理解出来る言葉を選んで説明するようにしているつもりです。

今回の『なんでもない日』の問題は誰も長崎の原爆の記念日が何でもないと言っているわけではなく、ただ単に配慮不足だっただけだと思います。何でもないとツイートする前にグーグルで念のために調べることを怠ってしまった結果だと思います。

個人個人への配慮は難しいとしても、大衆への配慮は必要だったかも知れませんね。ツイートも個人がつぶやいただけなら大した問題にはならなかったと思いますが、原爆を落とした国の会社だったことも問題を大きくした一因だと思います。おそらく意図的に8月9日に『なんでもない日』としたわけではなく、ただ単に『なんでもない日』としたのが偶然8月9日だったのだと思います。

このことから聞き手の思い掛けない解釈により窮地に追い込まれることがあることを教訓にすると良いと思います。

アメリカに進出した日本企業が9月11日に『なんでもない日』などと言うことはあり得ないと思います。

相手の立場を考えるとは、おもいやりの話です。相手の立場も考えることの出来る余裕を身に付けたいですね。