座る二宮金次郎氏の銅像に思う 追記

座る二宮金次郎氏の銅像に思うと題して以前記事を書きましたが、再びテレビでアンケートまでしていたので改めて書いてみます。

座る銅像が良いと考える人が多いのに驚きました。理由は歩きながら本を読んでいる銅像を見て育つとわスマホを歩きながらするようになるからというものでした。

座らせた方が良いと答える時点で、家の仕事である薪を運びながら本を読んでいる意味を理解していないことを示しています。そもそも何を意味する銅像か理解していないのであれば、歩いても立っても意味が無いと思います。

座って本を読む二宮金次郎氏の銅像が何を意味するのか私は教えて欲しいと思います。わざわざ銅像にして何を後世に伝えたいのか私は知りたいと思います。

銅像の目的と伝えたいことがズレていないか疑問です。

テレビで面白かったのは西郷隆盛氏の銅像は刀を持っているのに良いのか?という話でした。確かに刀を持って歩いても良いのかという議論にはなりません。

誰かが歩きながらスマホをすることを促すと考えついて、確かにと思った人が追随してしまったのでしょう。

しかし歩きながら本を読むということの意味を伝えることの出来ない人達の言い訳でしかありません。

逆に座る二宮金次郎氏の銅像にどんな意味が込められているのか説明して欲しいものです。

別人の万引きで自殺について思う

別人の万引きで入試で推薦してもらえず、中学3年生が自殺してしまった事実がありました。
亡くなられた方の御冥福を心よりお祈りいたします。

思ったことを書いてみます。
今回の一件は生徒さんが亡くなられたため隠し切れず大問題になりました。ということは似たような冤罪により人生が変わってしまった生徒さんが他にもいると考えるのが自然ではないでしょうか?
今回の問題は万引きした生徒の進路指導をした教師が苗字だけを記録係の教師に伝え、似た苗字の生徒さんの記録としたことが発端です。職員会議で間違いが確認されたため訂正する機会があったにもかかわらず訂正されることなく、1人の人生が終わりを迎えてしまいました。
進路という人生の一部に関わる重要な情報の管理が杜撰であったことは間違いなさそうです。
苗字だけで情報をやり取りし、確認しないというのは医療の分野ではあり得ない感覚です。医療の分野では患者さんの間違いを防止するために何度も確認するのが常識です。

この問題の根底にある闇を考えてみます。高校入試に絶大な影響を及ぼす内申を決める権利を握っている教師を見張る仕組みが無いことが根本原因では無いかと思います。もっと大きく論じると公務員を見張る仕組みが無いことが根元です。教育委員会が教師を見張ると言っても言わば仲間同士です。多くの場面でかばい合うのは仕方のないことです。全ての教師とはいいませんが、一部の教師は主観によって内申を決めているのではないかと思います。主観で決めてもお咎めは無いのです。このことが教師に感違いをさせているのでは無いかと思います。何をしてもお咎めが無ければ好き勝手してしまうのが人間ではないでしょうか?そういう意味で教師の勘違い(思い違い)から起こってしまったのではないかと思います。

少なくとも客観的に審査する仕組みが必要だと私は思います。生徒の名前を伏せて、審査することでプライバシーの問題は避けることが出来ます。公務員全てに客観的に審査する仕組みを導入するべきだとは思いますが、自殺者が出てしまった学校から取り組み始めても良いのではないかと思います。

非常に残念なことですが、失われてしまった命は戻りません。であればこのようなことが今後起こり得ない仕組みを作り上げることだけが、本当の意味での葬いになるのではないかと思います。関係者の責任を追求したところで少しでも責任を逃れるための言い訳を考えて真実が隠されるだけです。であるなら責任を追求しない代わりに、真実を包み隠さず公表することで、償いとする考え方が良いのではないかと思います。目的は再発防止だからです。再発防止に協力しないのであれば関係した教師の名前を公表するというルールにすれば協力せざるを得ないのではないかと思います。

様々な仕組みを「0から思考」により、全てをリセットしてゼロから作り変えるべき時ではないかと思います。

咄嗟に判断出来る人と出来ない人の違い

咄嗟に判断出来る人と判断出来ない人がいます。その違いを考えてみました。

咄嗟に判断出来る人

咄嗟に判断出来る人はあらかじめその状況を考えています。時間のあるうちにあらかじめ考えてあるので咄嗟に判断することが出来るのです。咄嗟に判断出来る人の中でも様々な状況に臨機応変に対応出来る人は、あらかじめ考えてある上に、様々な状況に応じてどの様に対応するべきかまで細かく想定しています。全く考えていないことに遭遇しても、あらかじめ考えてあることの中から一番近いものから一瞬で類推します。あらかじめ考えてあるので様々なパラメータ、考慮、確認すべきことについて予想しているのです。

どれだけのことを想定してあらかじめ考えているかによって、咄嗟に判断出来る範囲に違いが出てきます。ありとあらゆることを想定していれば、いかなることも判断出来るかもしれません。途中で状況が変わったとしても、臨機応変に対応することが出来ます。

咄嗟に判断出来ない人

咄嗟に判断出来ない人はあらかじめ考えていないようです。少なくともあらかじめ考えていないことに遭遇したため、咄嗟の判断が求められるような状況でもどうして良いかわからなくなるのです。

詐欺師がつけ込んでくるのは、意図的にこのような判断出来ない状況です。知らないことや考えたこともないことを矢継ぎ早に言われると混乱してしまうのです。あらかじめ考えてあることであれば、矛盾点も冷静に見極めることが出来るのですが、考えていないとどうすれば良いかわからなくなります。そして決断を迫るのです。

咄嗟に判断するために

何事においても考えることの出来る限り、様々な角度から考えておくことをお勧めします。

例えば災害対策などは考えておくと咄嗟の判断に役立ちます。いずれ起こるといわれている東海東南海地震とそれに伴う津波や、富士山の噴火は考えておいてもよい起こり得る自然災害だと思います。家族とどのように連絡を取り合うのか、食料の確保はどうするのかなどあらかじめ考えておいて損は無いと思います。ある程度行政が被害予想もしてくれているので、思考実験には最適です。被害予想に照らし合わせながら、咄嗟の際にどのように行動するか想定しておくのです。

 

子供がおねしょを繰り返す理由と対策

子供がおねしょを繰り返す理由とその対策を考えてみます。

おねしょとは寝小便のことで寝ている間におしっこをしてしまうことです。一度目は偶然寝ている間にしてしまうのでしょう。その対応で親の行動を子供が学ぶのです。親が自分にとって望ましい行動をしてくれることがわかるとおねしょを繰り返すのです。親が望ましくない行動をするとその行動を避けたいのでおねしょはしなくなります。

子供が求めている親の行動

おねしょを繰り返すということは、おねしょをすることで心地良い面があったのです。おねしょをすることで得をするのです。その得をするという感覚が親には理解出来ないので、知らず知らずのうちに同じ行動をしてしまうのです。そして子供は無意識のうちにおねしょを繰り返すのです。

子供の求めている親の行動とは、おねしょをすると子供に注目することです。本来なら子供は正の注目、すなわち褒められるような行動を取りたいのですがうまくいかない場合におねしょしてしまうようです。傾向としてお兄ちゃんかお姉ちゃんがいて、正の注目はしてもらえないから負の注目を集めようとするのです。

対策

おねしょをすることで注目してもらうことが目的です。対策は注目しないことです。おねしょをしてもおねしょをしなくても同じ行動を取るのです。おねしょして怒るのはもちろん注目していることになります。おねしょしないように寝る前に水を飲まないように促すことも注目していることになります。おねしょしても淡々と布団を替えて、おねしょしたことに触れないのです。おねしょをしても特別扱いしてもらえないことを理解するとおねしょしなくなります。

偏差値の本当の姿 〜偏差値の大逆転の謎〜

偏差値の大逆転として予備校や進学塾などが偏差値の急上昇を宣伝したりします。偏差値急上昇が珍しいらしく、小説が映画化されたりもしています。受験における偏差値の本当の姿を知っている人から見ると滑稽な宣伝です。何故なら努力を怠っていた人が心を入れ替えて努力を始めただけのことです。確かに努力の仕方がわからなかった状態から努力の仕方を教えたのかもしれませんが、全員に当てはまる訳ではありません。元々能力があるのに努力を怠り低偏差値だった人が、努力しはじめただけのことです。そういう人がいるから貴方も出来るはずというのは、無理がありますし騙されてはいけません。

偏差値とは?

そもそも偏差値とはテストにおいて集団の中の自分の立ち位置を表すものです。集団の平均点を50としてその平均点からどのくらい離れているのかを表すものです。母集団が優秀な中であれば同じ学力でも偏差値は低くなりますし、それほどでもない母集団であれば偏差値は飛び抜けて高くなることもあります。受験とはその偏差値により志望校を序列化し受験校を決める際に活用されています。ある程度受験における能力を表しているからです。
誤解されているのは、偏差値は人の能力を指し示すと錯覚しています。この錯覚は誰もが目一杯勉強という努力をしてテストに臨んだ結果だと思い込んでいることです。適当にしか勉強してテストに臨んだ人の偏差値は低くなりますし、そもそもデータの信憑性が怪しくなります。

多くの人は目一杯努力していますし、他に最適な指標がないため止むを得ず偏差値を使っているのです。

偏差値の本質

目一杯努力した偏差値が本来の偏差値で、目一杯努力していない偏差値は努力の足らなさを測っているのです。低偏差値から大逆転ではなく、本来なら大逆転した後の偏差値が取れたのにサボってい低偏差値しかとらなかったことを喧伝していることになるのです。だから多くの人は恥ずかしくて偏差値の大逆転を自慢したりしないのです。

目一杯努力した人達だけで比べることで能力をはかることが出来るのであって、手を抜いている人の低い偏差値は参考にもなりません。

またレベルの低い人達だけを集めた母集団の中での偏差値を比べてみても、極端に高い偏差値が出て意味がありません。偏差値100以上という状態もあり得ます。

今の偏差値の問題点

偏差値の問題点は目一杯努力していない人の問題だけではありません。受験勉強の試験自体が暗記力と暗記を基にしたパズルを解く能力をはかっているだけです。暗記は正確性、検索性、汎用性において人間は機械には勝てません。パズルを解く能力は今の所人間の方が有利ですが、近い将来これも機械に負けると思います。機械に置き換えることの出来る能力をはかっても私は意味が無いと思います。増してや方程式で解けるようになる問題をわざわざ遠回りさせるつるかめ算なんて論外です。

かつては記憶し素早く検索することが出来るのは人間の脳だけでした。だから暗記力が必要とされたのです。これだけ機械が発達し、記録や検索が容易になった時点で人間の脳に求められるものは大きく変わってきました。受験業界がまだそのことに気付いていないようです。近い将来、このことに気付いている人達だけが得をして、気付いていない人達は取り残される時代がやってくると私は思います。

副鼻腔の存在する理由

私が学生時代、副鼻腔は様々な憶測はあっても存在する理由が分からないと言われていました。自然淘汰の理屈から副鼻腔が存在しなければ子孫が残せない理屈を考えてみると、存在理由がわかりました。副鼻腔が無ければ命に関わるあるいは子孫が残せない状況を想像してみれば良いのです。副鼻腔が無くても命に関わらないあるいは子孫が残せるのであれば、副鼻腔の存在する合理的理由とはなりません。

これまで考えられていた副鼻腔の存在意義です。

  1. 頭蓋骨の軽量化
  2. 声を共鳴させて音量を増幅
  3. 加温・加湿に関して鼻腔の補助
  4. 顔面への衝撃から脳を守る緩衝エリア

生物の進化の歴史から考えて、生き残る際に無駄な物は無くなっていきます。逆に生き残る上で必要だったからこそ残ったはずです。現在必要かはともかく、人類の進化の歴史においては副鼻腔があることが生き残る上で重要な役割があったはずです。これらのことを踏まえ自然淘汰の理屈から、生存に有利なものを検証してみます。

1.頭蓋骨を軽くするためという理由が言われていましたが、決め手に欠ける理由でした。何故なら軽くするだけであれば無駄な副鼻腔を削り落とし、その分顔が凹むことで副鼻腔が無くなるはずだからです。副鼻腔がある方が生存に有利なことが考えられます。

2.声を共鳴させて声を遠くまで飛ばすことを考えてみます。遠くまで声を届けることが出来ても生存に有利になる理由はありません。敵がいることを伝えるとしても、大きな声で伝えることで生き残るのは他の人です。更に付け加えるなら聞く人の耳が良ければ大きな声で伝えるよりも有利です。生き残るためには聴力が優れている必要がありますが、声が大きくても自身の生存には有利にはなりません。よって副鼻腔の存在理由にはなり得ません。ただし声が大きいと配偶者を見つけやすいという理由は考えられます。これは声が大きいと、本来の副鼻腔の存在理由が優れていること(副鼻腔が発達していること)が他人にもわかるため配偶者が声が大きい人を選ぶのです。あくまでも副鼻腔の発達が生き残りに有利だから、副鼻腔が発達している人が選ばれるだけで、声が大きいことは副鼻腔の発達している人を選ぶ手段でしかありません。

3.加温・加湿において鼻腔の補助をする。補助が無ければ生き残ることが出来ない程過酷な環境であれば鼻腔その物が発達するはずです。わざわざ副鼻腔が存在する理由にはなりません。副鼻腔が別の理由で存在するので、加温・加湿に利用しているのと考えるのが妥当です。

副鼻腔の存在理由

今の私にははっきりと存在する理由が分かります。先入観にとらわれることなく物事を考える「0から思考」で考えると簡単でした。副鼻腔があるのが頭の前面というのも大きなヒントです。軽くするのが目的なら頭の周囲に満遍なく存在しなければ理屈が成り立ちません。何故前面だけに副鼻腔という空間があるか?それは4.脳を守るための衝撃を吸収するための衝撃吸収エリア、つまり頭部を衝撃から守るバンパーのようなものだったのです。今の平和な世の中では想像がつきませんが、他の動物や他の人間との争いにより怪我をするのが当たり前だった遥か昔、脳を守ることが最重要課題でした。怪我をすることが前提で脳にまでダメージを受けないことが重要です。木の棒や拳で殴られても副鼻腔があることで衝撃を吸収することが出来ます。副鼻腔が車のバンパーのように働くのです。ちょうどバンパーが物にぶつかることを想定して作られているように、人の頭も進化の歴史の中では、頭に衝撃を受けることを前提で脳を守るように進化した可能性が高いと思います。他の動物や他の種族との戦いにおいて顔面に強い衝撃を受けた場合、副鼻腔が無ければ脳に直接衝撃が加わります。脳が身体の動きの司令塔ですから副鼻腔の小さな者は直接衝撃を脳に受け、動けなくなって殺されてしまいます。衝撃の際事故時のバンパーのように副鼻腔が潰れることで脳に直接衝撃が加わることを抑えることが出来ます。結果として脳に損傷がないためすぐに動くことが出来、命を守ることが出来るのです。

車のバンパーは前後にありますが人間の頭部には副鼻腔は前面にしかありません。この理由を考えてみます。自然界では後ろから衝撃を受けることはほとんどありません。車は一方向に並んで進むという自然界では考えられないような特殊な状況で、後ろから追突されることに備えたものです。人間が頭の後ろから衝撃を受ける場合には、副鼻腔のようなものがあったとしても守りきれないので後頭部にはバンパーは存在しないようです。その代わり後頭部の頭蓋骨の厚みが厚く作られています。

これまでわからなかった理由

何故このような簡単なことがわからなかったかと考えてみました。副鼻腔の使い方を考えてしまったようです。研究者達が常識にとらわれてしまい「0から思考」が出来なかったことに起因します。何故なら木や拳での殴り合いの時代が何万年・何十万年も続いたことが抜け落ちているのです。剣や銃など武器が発達してしまった今となっては、研究者には副鼻腔があることで生存に有利だとは想像出来なかったのだと思います。剣や銃では副鼻腔を簡単に突き抜けてしまうからです。木の棒や拳であれば副鼻腔が衝撃吸収のバンパーの役割を果たしてくれるのです。

簡単な思考実験でも容易に理解出来ることですから、恐らく今ならコンピュータシミュレーションで上記のことを計算すれば簡単に証明できると思います。

「0から思考」は文字通り0から物事を考えます。0から考えてみると、如何に日常的に常識にとらわれて思考しているかが良くわかります。

はっきりと物を言わない人の心理

はっきりと物を言わない人がいます。

考えられることは二つです。物事を良く理解していないか、理解しているが責任を取りたくないためはっきりと言わないかです。前者ははっきりと言えないのであり、後者ははっきりと言わないのです。

はっきりと言えない人

物事を理解出来ていないためはっきりと言えないのであれば、物事を理解してもらうしかありません。能力的に理解が困難であれば、はっきりとさせることは諦めましょう。

はっきりと言わない人

わざとはっきりと言わない人は意識的にはっきりと物を言わない人と、無意識のうちに責任を逃れるためにはっきりと物を言わない人に分かれます。
意識的にはっきりと物を言わない人は目的をもってはっきりと言わないようにしています。何かを隠したいのか、責任を逃れたいのかはっきりと物を言わない目的は人それぞれです。はっきりとさせたければその目的を踏まえた上で質問を工夫するしかありません。
無意識のうちに責任を逃れるためにはっきりと物を言わない人は、恐らく言い訳人間なのだと思います。はっきりと物を言わない目的が自分は悪くないと言い訳することかもしれません。何事も自分以外のせいにして物事をはっきりとさせない傾向があるのではないかと思います。そして会話のうちに意図を読み取ってもらおうとする話し方が随所に見られます。はっきりとは言わないものの困ったような表情を浮かべ、暗に助け船を求めていたりします。

例えばお金に困っているとしきりと言う割にお金を貸してくれとははっきりと言わない場合などです。自分から貸してくれと言った訳ではないと言い訳するために、自分からは貸して欲しいとは言わないようです。

例えば仕事がはかどらず困っていることをアピールしますが決して手伝って欲しいとは言わないような場合です。はっきりと手伝って欲しいとは言わないものの、暗に手伝って欲しいことを伝えてくるのです。手伝ってくれと言われたから手伝ったとされることを逃れたいのです。頼んでもいないのに手伝おうかと提案されたように装いたいのです。

これは日本人の良いところである相手の意をくみ取ることを逆手に取った振る舞いです。

言い訳人間の物言いに付き合っても得るものはありません。
はっきりと物を言わなければ相手にしないことです。
大変だと言われてもはっきりと助けて欲しいと言われなければ、わざわざこちから助けてあげる必要はありません。はっきりと物を言わない相手の意をくみ取らない方が無難だと思います。
はっきりと物を言わなくても周囲の人達が意をくみ取ることが繰り返されると、成功体験として更に物事をはっきりと言わなくなります。そして何かあっても責任をとろうとしません。何故ならはっきりと物を言っていないからです。

人の感違いを受け流す余裕を持とう

人は誰でも勘違いするものです。感違いは自分ではなかなか気付くことが出来ません。感違いに悪気は無いのですから怒っても仕方がありません。人は誰でも何がしかの勘違いをしています。自分も他人も。

勘違いとは事実と異なることを正しいと思い込んでいることです。

勘違いを指摘して無理矢理訂正したりやり込める必要はありません。何故なら勘違いは間違っているのですから、間違いに気付いた時点で恥ずかしい思いをするのは相手です。場合によっては教えてあげても良いかもしれませんが、相手の思い込みが激しいと聞く耳を持ってもらえません。お互い嫌な思いをしても損なのでそっと受け流すようにしましょう。

中には死ぬまで勘違いに気付かない人もいますが、それはそれでその人は幸せだと思いますのでそっとしておきましょう。

勘違いの具体例

例えば信号の見間違いで交差点に進入した車を思い浮かべてみて下さい。勘違いで青信号だと思い込んで進入していますので、歩行者が横断しているはずがないと思い込んでいます。歩行者は青信号を渡っていれば、車が来るはずがないと思い込んでいます。ここに齟齬を生じ事故に至ります。今回のケースでは歩行者が運転手の勘違いを受け流すために、横断歩道の信号が青信号でも左右の確認をすることです。特に効果を発揮するのが、車の右左折においてです。運転手は巻き込み確認を行いますが、歩行者や自転車が死角に入っていると誰もいるはずがないと思い込んで交差点に進入します。人がいるはずがないという心理的な死角にもなるので、人を巻き込んでも本当に気付かないこともあるようです。右左折をする車が自分がいないと勘違いしているかもしれないと予測しておくのです。あらかじめ予測していれば止まらず進んでくる車にいち早く気付くことが出来、車を避けることが出来ます。運転手さんの勘違いを受け流すことで、自分の命を守ることが出来るのです。

糖質の勘違い

何でも糖質の話に持ち込んでいる気もしますが、事実多くの方が勘違いしているので書いてみます。

糖質の害は明らかですが、まだ知らない人は勘違いしているのです。糖質回避・糖質制限が危険だと主張される方もおられます。これまで当たり前に食べている主食が悪い訳がないと。そのように主張される方の多くが糖質依存に陥っておられます。依存対象をやめたくない言い訳に糖質回避の危険性を主張されているだけです。糖質をやめることに害があると思われているのですが、実は糖質依存による勘違いの主張なのです。糖質の害を説明して説得しようとせず、まだ知らないんだとして受け流しましょう。糖質制限が危険だと言っている人も10年もすれば勘違いに気付く日がやってきます。勘違いに気付いて恥ずかしい思いをするのは相手なんですから、今は受け流しましょう。

少なくとも糖質の害に関しては明らかで、受け入れるか受け入れないかではありません。いつ勘違いを受け入れるかです。真実は一つなので生暖かい目で見守ってあげましょう。

無から有を生み出すことの出来る人だけが生き残る

これからは無から有を生み出すことの出来る人だけが生き残ることの出来る時代がやってきます。既に有るものを工夫するだけなら、恐らくすぐにでも人工知能でも出来るようになるでしょう。今の所無から何かを生み出すことは人間にしか出来ません。もしかしたら機械が無から何かを生み出す時代がやってくるかもしれません。逆に言えば、無から有を生み出す以外は何でも機械がするようになる時代がやってくるのです。人間のする仕事がなくなることを防ぐために、わざわざ機械化せずに人間に仕事を残すかどうか議論される時代がやってくるのではないでしょうか?

過渡期においては機械にドンドン仕事を奪われ、収入を失った人達が路頭に迷う時代がやってくるかもしれません。

少なくとも考える必要のない作業はいつでも機械に仕事を奪われる可能性があります。無から有を生み出す仕事だけが最後まで人間の仕事として残りそうです。

今のうちから無から有を生み出す仕事を考えてみて下さい。

ちなみに作曲家ですら人工知能にとって代わられそうです。既に人工知能による作曲がはじまっていますし、別の人工知能によりヒットする可能性があらかじめ予測できます。組み合わせることで、作曲した中でヒットする可能性の高い物だけを選ぶことは簡単なことのはずです。作曲は限られた記号の組み合わせに過ぎないから、現時点で実現出来たのだと思います。

発明家や起業家、様々なプランナーなど無から有を生み出すことを考えてみて下さい。少なくとも今の子供たちには無から有を生み出すことを伝えてあげましょう。

無意識に親の思いを汲み取る子供の心理

無意識に親の思いを汲み取る子供の心理を考えてみます。文字にすると特殊な状況のように感じますが、良くあることです。無意識のうちに子供は親の思いを汲み取ることで、親の期待していることを叶えようとします。そしてこのような心理を知らなければ、子供を追い詰めてしまうことにも繋がります。

親の思いを汲み取るとは、例えば親同士が中学受験をして欲しい内容の会話をしていると、子供はその思いを汲み取ることで中学受験をしたいと言い出すことです。子供に聞こえないようにしておかないと、親の思いを子供が汲み取ってしまうのです。親の方も子供の前でわざわざ中学受験を話題にすることで中学受験して欲しいことを無意識のうちに伝えているのです。親がズルいのは中学受験して欲しいと直接子供に伝えていないことです。無意識のうちに子供が自分で中学受験を選んだように仕向けているのです。本当に子供の意思を尊重するのであれば、子供の前で中学受験の話をしてはいけません。子供の前で中学受験の話を一度もしたことがなければ、本当に子供の意思かもしれませんが、一度でも話を聞いていれば親の思いを汲み取ったのか見極める必要があります。

悲劇

悲劇とは親の思いを汲み取ることで中学受験を決めた子供が、中学受験にむいていない場合です。いくら優秀でも、まだ物事の考え方がわからないうちに詰め込む中学受験にむいていないこともあり得ます。本当の悲劇とは子供が追い詰められてしまうことです。親の思いを汲み取っただけなんですが、形の上では自分で中学受験を決めたことになっていることです。案に親の誘導されたのですが、自分から受験したいと言い出したと思い込んでいる子供は、中学受験をやめたいと自分からは言い出せないのです。嫌々受験してもうまくいくはずもありません。失敗したというトラウマだけが残ってしまいます。中学受験という余分な時間とお金をかけてトラウマを残すのは勿体無いと思います。

悲劇を避けるために

悲劇を避けるためには、助け船を出してあげることです。本当に中学受験したいの?と優しく声をかけてあげると良いと思います。間違っても、私としては中学受験して欲しいけどと前置きをしてから聞かないことです。その前置きを受けて親の期待を裏切りたくない心理に陥るからです。子供は自分一人では生きてはいけません。だから親に見捨てられないために精一杯無理をしようとしてしまうのです。本当は嫌だけどお父さん、お母さんが喜ぶなら頑張ろうとするのです。

これまでの行動が親の期待や親の思いを汲み取って頑張っていたのであれば、そのことを褒めてあげましょう。そして無理しなくて良いことを伝えてあげましょう。

今回は中学受験を例えに出しましたが、習い事や高校受験、大学受験などでも同じです。場合によっては就職活動でも親の思いを汲み取って行動しているのかもしれません。是非助け船を出してあげてみて下さい。お子さんの違う一面を垣間見ることが出来るかもしれません。