わかりやすい解説書とわかりにくい解説書の違い

解説書にはわかりやすいものとわかりにくいものがあります。その違いは視点です。視点が専門家か素人かです。内容を元々わかっている人が書いているか、元々は知らない人が書いているかで大きな違いが出ます。

元々わかっている専門家が解説する解説書はわかりにくく、元々わからない素人がわかるようになった過程を解説している解説書はわかりやすいものになります。何故なら専門家は全て知っているのでわからない、あるいはわかりにくい場所自体がわからないのです。言い換えると専門家は知らないふりをして解説書を書くことができないからです。その点何も知らない素人は違います。全く何も知らない状態から物事を知っていくので、その過程でわかりにくいこと、紛らわしいことが容易に理解できるのです。そのわかりにくいところを明確に区別して解説を書くので、わかりやすい解説書になります。

解説書は説明の上手下手と同じです。言葉で伝えるのか文章で伝えるのかの違いです。
解説書では言葉での説明と異なり、図解することもできますが、そもそも相手の知りたいことを理解していなければ図解することもできません。
わかりやすい解説書とわかりにくい解説書の違いは、解説する人が何も知らない状態を想定できるかどうかです。何も知らない状態を想定できれば、理解しにくいところもわかるはずです。

解説書を見ていて明らかに言葉足らずでわかりにくいものだったので、何故こんなわかりにくい解説書があるのかを考えてみました。解説書を作った人が専門家で、知らないことを想定せずに作った結果だと思い至りました。解説書は素人が作るべきだと私は思います。少なくとも素人が理解できるように素人への説明し、その際に出た疑問を解説書に落とし込むとわかりやすい解説書になります。恐らくそういう視点が欠落した解説書を目にしてしまったのでしょう。

赤ちゃんが手づかみで食べることについて

患者さんと話をしていて驚いたことがあります。
その患者さんの読まれた子育て書には赤ちゃんが手づかみで食べることについて推奨していると書いてあるそうです。そのため手づかみで赤ちゃんが食べるのは当たり前だと思われていました。

私は日本ではその子育て書が間違っていると思います。
理由は簡単です。日本では大人は手づかみで食べないからです。
わざわざ手づかみで食べることを教える、あるいは許しておいて途中でスプーンやフォーク、箸での食事を強要することになるからです。
赤ちゃんの立場でいえば、手づかみという罠を仕掛けておいて引っかかったところで、スプーンやフォーク、箸での食事を出来ないことを責めているようなものです。
赤ちゃんにとっては手づかみで食事をする体験は余計な体験だと私は思います。

フォークやスプーンを使って食事ができるようになるまでは口に食べ物を運んであげればよいと私は思います。最初はフォークに食べ物を突き刺して手渡してあげればよいだけのことだと私は思います。慣れるまでには時間がかかるかもしれませんが、一度手づかみで楽に食べることを覚えた赤ちゃんに、わざわざ面倒なフォークやスプーンの使い方を改めて教えることに比べればはるかに楽だと私は思います。

どうしても手で食べる体験をさせたいのであれば、大人も手で食べるパンなどを手づかみで食べさせる体験をさせてあげればよいだけのことです。わざわざ手づかみを体験させて成長の遠回りをさせるのは赤ちゃんにとって、勿体無いと私は思います。

ちなみにたまに聞く、『この子はフォークやスプーンが使えなくて』と言って手づかみを許す親御さんがおられますが、親が子供にスプーンを使わせていないだけのことです。手づかみを覚えさせたから、フォークやスプーンを使う意味が子供にとってわからないだけです。そして教えなくても出来るはずだと思っているから、フォークやスプーンを使うことを教えていないだけのことなのです。
親自身がフォークやスプーンは自然に使えるようになったと誤解していることが原因だと思います。誰かが根気よくフォークやスプーンの使い方を教えてくれたことを忘れているだけのことだと私は思います。

赤ちゃんや子供は何も知らずに生まれてきているのです。
大人にとっては当たり前のフォークやスプーンの使い方も誰かから教えてもらったのです。
特に箸の使い方は練習が必要です。誰かに教えてもらわないとわからないのです。
気づいたら出来るのが当たり前だったので、生まれたときは知らなかったことを忘れてしまっただけのことなのです。

ペナルティー・罰則がないと人はズルをする

性善説と性悪説という考え方は無意味です。何故なら善悪は多数派が決めるだけのことだからです。人は善悪共に兼ね備えた存在です。善だけの人もいない代わりに悪だけの人もいないのです。

ペナルティーがないと多くの人はズルをしてしまいます。近道があるにも関わらずわざわざ遠回りするとすれば、何らかの制約があるからです。何の制約やペナルティーも無ければ人は誰でも近道をするでしょう。ペナルティーが無ければ遠回りをする理由を探す方が難しいかもしれません。

そもそも法治国家では法に従うのは律、罰則というペナルティーが嫌だからです。その仕組みに慣れてしまっているので、行動の判断が罰則・ペナルティーがあるかどうかによるのです。例えば駐車禁止の場所に一時的に車を停めると駐車違反で捕まります。捕まるから駐車違反をしてはいけないと考えてしまうのです。本来通行の邪魔にならない目的で駐車禁止とされているのですが、多くの人がその目的を理解していないか考えてもいないので捕まらないようにふるまうのです。このような観点では捕まらないと罰を受けないので、捕まらないように駐車してしまうのです。

法治国家では法を守ることを前提に仕組みが作られていますが、罰則を避けるために法を守るという意味合いのため人々は目的が罰を受けないことになってしまいます。ちょうど子供が怒られない目的で言いつけを守るようになることに似ています。どちらも本来の目的が抜け落ちて罰を受けないことが目的になってしまうのです。

躾においても法律においても、約束を守らないと罰を受ける仕組みのため罰を受けないために約束を守るようになります。逆に罰を受けなければ約束を守ったりしなくなるのです。中にはモラルが高い人もいるので全員がずるをするようになるわけではありませんが、ズルをした人がペナルティーを受けることなく得をし続けると誰もがズルをするようになってしまうのです。その意味ではズルをしたら後々損をする仕組みを作ることが必要だと思います。法律で縛ることには限界がきつつあるのかもしれません。

人は隙があればズルをする生き物だということを認識した上で、21世紀にふさわしい法律を作るべき時がきていると私は思います。

例えば雇用の際に募集をかけた労働条件と実際の労働が異なっていたとしても、実際には罰則はありません。罰則がないので良い人材を集めるために誤魔化した労働条件で募集する企業があるのです。ズルをした方が得をするという世の中なのです。例えば募集条件に嘘偽りがあれば、雇用した人が辞める可能性が高いため雇用保険料を3倍に引き上げるとか、3年間募集禁止とするなどトータルで損をする仕組みを作るべきです。
他にも様々な分野でズルをした方が得なことがまだまだあるようです。
他に思いついた例えでは、脱税があります。脱税を試みて失敗しても時効になれば儲けもので、捕まっても全額没収される訳ではないので一か八か試してみる人がいるのです。見つかれば全額没収の上、追徴課税で脱税した以上の損をする仕組みにしてしまえば犯罪者になるリスクを犯す人は激減すると私は思います。
ズルをすると損する仕組みを作ることが出来れば、多くの人の生活が変わるのではないかと私は思います。

目的が利益だと利益のあるうちは努力しない

ある企業の方と話をしていて驚いたことがあります。
改善する方が更に上を目指せるという話をしましたが、現時点で利益が出ているのでそこまではしませんという返答がかえってきて驚きました。
つまりその企業の行動の動機は利益なのです。答え・正解が利益なので、利益という答えが出ていればより良い正解があったとしても努力する必要はないと考えるようです。
日本の企業が伸び悩んでいる原因を見つけた心境でした。

以前二つの最善 ~自称最善と絶対最善~に書いたように最善には2種類あるようです。利益が正解だと考えている企業は、利益が出ていることが答えなので自称最善で満足します。利益が出ている時点でご満悦という状態です。それ以上の努力など考えもしません。利益確定の時点が到達点だからです。利益が出ている間は思考停止してしまうのです。目的が利益だと、利益が出た時点で目的を達成してしまっているのでそれ以上の努力をしないのです。そもそも利益以外が目に入らないのです。

利益を目的としない企業、つまり絶対最善を目指す企業は利益が出ていても更に最善を目指します。利益だけが目的ではないため、利益が出ているからといって満足しないのです。利益に満足せず更なる最善を尽くすのです。絶対最善を尽くす企業にとっては利益が出ていることは目的ではなく、スタートラインでしかないのです。利益は企業の為ならずという私の考えた諺のように利益を目的としない企業が強いのです。

ちなみに利益を目的としない企業は日本にもあります。改善を世界に広めた企業です。
利益が出ているからといって努力をやめることなく、改善を続けるのは正に絶対最善を突き詰めているのです。しかも社員総出で改善を続けるのですから、強いのです。

利益が出ているから思考停止している企業は、環境が変わると慌てて努力をはじめますが日頃自称最善として最善を尽くしているつもりなので、すぐには対応できません。結果として利益を目的だと考えている企業は、環境の変化に弱いのです。目的が利益ではない企業は、絶えず絶対最善を絶えず尽くしているので日頃から様々な可能性を考えているのです。

利益で思考停止している企業。
あちこちに見受けられるように思います。
利益が目的ではない企業には勝てないように私は思います。

どの企業が目的が利益で、どの企業が目的が利益ではないのか?そんな視点で企業を見てみると面白いですよ。