赤ちゃんが手づかみで食べることについて

患者さんと話をしていて驚いたことがあります。
その患者さんの読まれた子育て書には赤ちゃんが手づかみで食べることについて推奨していると書いてあるそうです。そのため手づかみで赤ちゃんが食べるのは当たり前だと思われていました。

私は日本ではその子育て書が間違っていると思います。
理由は簡単です。日本では大人は手づかみで食べないからです。
わざわざ手づかみで食べることを教える、あるいは許しておいて途中でスプーンやフォーク、箸での食事を強要することになるからです。
赤ちゃんの立場でいえば、手づかみという罠を仕掛けておいて引っかかったところで、スプーンやフォーク、箸での食事を出来ないことを責めているようなものです。
赤ちゃんにとっては手づかみで食事をする体験は余計な体験だと私は思います。

フォークやスプーンを使って食事ができるようになるまでは口に食べ物を運んであげればよいと私は思います。最初はフォークに食べ物を突き刺して手渡してあげればよいだけのことだと私は思います。慣れるまでには時間がかかるかもしれませんが、一度手づかみで楽に食べることを覚えた赤ちゃんに、わざわざ面倒なフォークやスプーンの使い方を改めて教えることに比べればはるかに楽だと私は思います。

どうしても手で食べる体験をさせたいのであれば、大人も手で食べるパンなどを手づかみで食べさせる体験をさせてあげればよいだけのことです。わざわざ手づかみを体験させて成長の遠回りをさせるのは赤ちゃんにとって、勿体無いと私は思います。

ちなみにたまに聞く、『この子はフォークやスプーンが使えなくて』と言って手づかみを許す親御さんがおられますが、親が子供にスプーンを使わせていないだけのことです。手づかみを覚えさせたから、フォークやスプーンを使う意味が子供にとってわからないだけです。そして教えなくても出来るはずだと思っているから、フォークやスプーンを使うことを教えていないだけのことなのです。
親自身がフォークやスプーンは自然に使えるようになったと誤解していることが原因だと思います。誰かが根気よくフォークやスプーンの使い方を教えてくれたことを忘れているだけのことだと私は思います。

赤ちゃんや子供は何も知らずに生まれてきているのです。
大人にとっては当たり前のフォークやスプーンの使い方も誰かから教えてもらったのです。
特に箸の使い方は練習が必要です。誰かに教えてもらわないとわからないのです。
気づいたら出来るのが当たり前だったので、生まれたときは知らなかったことを忘れてしまっただけのことなのです。

ペナルティー・罰則がないと人はズルをする

性善説と性悪説という考え方は無意味です。何故なら善悪は多数派が決めるだけのことだからです。人は善悪共に兼ね備えた存在です。善だけの人もいない代わりに悪だけの人もいないのです。

ペナルティーがないと多くの人はズルをしてしまいます。近道があるにも関わらずわざわざ遠回りするとすれば、何らかの制約があるからです。何の制約やペナルティーも無ければ人は誰でも近道をするでしょう。ペナルティーが無ければ遠回りをする理由を探す方が難しいかもしれません。

そもそも法治国家では法に従うのは律、罰則というペナルティーが嫌だからです。その仕組みに慣れてしまっているので、行動の判断が罰則・ペナルティーがあるかどうかによるのです。例えば駐車禁止の場所に一時的に車を停めると駐車違反で捕まります。捕まるから駐車違反をしてはいけないと考えてしまうのです。本来通行の邪魔にならない目的で駐車禁止とされているのですが、多くの人がその目的を理解していないか考えてもいないので捕まらないようにふるまうのです。このような観点では捕まらないと罰を受けないので、捕まらないように駐車してしまうのです。

法治国家では法を守ることを前提に仕組みが作られていますが、罰則を避けるために法を守るという意味合いのため人々は目的が罰を受けないことになってしまいます。ちょうど子供が怒られない目的で言いつけを守るようになることに似ています。どちらも本来の目的が抜け落ちて罰を受けないことが目的になってしまうのです。

躾においても法律においても、約束を守らないと罰を受ける仕組みのため罰を受けないために約束を守るようになります。逆に罰を受けなければ約束を守ったりしなくなるのです。中にはモラルが高い人もいるので全員がずるをするようになるわけではありませんが、ズルをした人がペナルティーを受けることなく得をし続けると誰もがズルをするようになってしまうのです。その意味ではズルをしたら後々損をする仕組みを作ることが必要だと思います。法律で縛ることには限界がきつつあるのかもしれません。

人は隙があればズルをする生き物だということを認識した上で、21世紀にふさわしい法律を作るべき時がきていると私は思います。

例えば雇用の際に募集をかけた労働条件と実際の労働が異なっていたとしても、実際には罰則はありません。罰則がないので良い人材を集めるために誤魔化した労働条件で募集する企業があるのです。ズルをした方が得をするという世の中なのです。例えば募集条件に嘘偽りがあれば、雇用した人が辞める可能性が高いため雇用保険料を3倍に引き上げるとか、3年間募集禁止とするなどトータルで損をする仕組みを作るべきです。
他にも様々な分野でズルをした方が得なことがまだまだあるようです。
他に思いついた例えでは、脱税があります。脱税を試みて失敗しても時効になれば儲けもので、捕まっても全額没収される訳ではないので一か八か試してみる人がいるのです。見つかれば全額没収の上、追徴課税で脱税した以上の損をする仕組みにしてしまえば犯罪者になるリスクを犯す人は激減すると私は思います。
ズルをすると損する仕組みを作ることが出来れば、多くの人の生活が変わるのではないかと私は思います。

目的が利益だと利益のあるうちは努力しない

ある企業の方と話をしていて驚いたことがあります。
改善する方が更に上を目指せるという話をしましたが、現時点で利益が出ているのでそこまではしませんという返答がかえってきて驚きました。
つまりその企業の行動の動機は利益なのです。答え・正解が利益なので、利益という答えが出ていればより良い正解があったとしても努力する必要はないと考えるようです。
日本の企業が伸び悩んでいる原因を見つけた心境でした。

以前二つの最善 ~自称最善と絶対最善~に書いたように最善には2種類あるようです。利益が正解だと考えている企業は、利益が出ていることが答えなので自称最善で満足します。利益が出ている時点でご満悦という状態です。それ以上の努力など考えもしません。利益確定の時点が到達点だからです。利益が出ている間は思考停止してしまうのです。目的が利益だと、利益が出た時点で目的を達成してしまっているのでそれ以上の努力をしないのです。そもそも利益以外が目に入らないのです。

利益を目的としない企業、つまり絶対最善を目指す企業は利益が出ていても更に最善を目指します。利益だけが目的ではないため、利益が出ているからといって満足しないのです。利益に満足せず更なる最善を尽くすのです。絶対最善を尽くす企業にとっては利益が出ていることは目的ではなく、スタートラインでしかないのです。利益は企業の為ならずという私の考えた諺のように利益を目的としない企業が強いのです。

ちなみに利益を目的としない企業は日本にもあります。改善を世界に広めた企業です。
利益が出ているからといって努力をやめることなく、改善を続けるのは正に絶対最善を突き詰めているのです。しかも社員総出で改善を続けるのですから、強いのです。

利益が出ているから思考停止している企業は、環境が変わると慌てて努力をはじめますが日頃自称最善として最善を尽くしているつもりなので、すぐには対応できません。結果として利益を目的だと考えている企業は、環境の変化に弱いのです。目的が利益ではない企業は、絶えず絶対最善を絶えず尽くしているので日頃から様々な可能性を考えているのです。

利益で思考停止している企業。
あちこちに見受けられるように思います。
利益が目的ではない企業には勝てないように私は思います。

どの企業が目的が利益で、どの企業が目的が利益ではないのか?そんな視点で企業を見てみると面白いですよ。

体重コントロールの秘訣は糖質の認識

体重コントロールの秘訣は食欲をコントロールすることだと誤解している人が多くいます。
秘訣は糖質に対する認識を改めることです。

そもそも人々が太る理由は糖質依存により糖質を食べる量のコントロールが出来なくなることです。糖質依存により糖質を食べすぎてしまうことで太るだけです。

体重コントロールの秘訣は糖質依存という概念を理解し、糖質に対する正しい認識を身に着けることです。

体重コントロールが困難な理由

多くの人が体重コントロールに苦労するのは、食欲と闘おうとするからです。生物が生きながらえるために用意された食欲という欲求をコントロールし続けることは不可能です。一時的には強い意志により食欲を押さえつけることはできるかもしれませんが、いつか負けてしまいます。
意識的にダイエットで体重を落としたとしても、身体が飢餓状態だと錯覚し食欲を増す仕組みが備わっているのでリバウンドしてしまうのです。

糖質の認識

糖質はアルコールやタバコと同様依存性のある食べ物だと認識することです。
みんなが生まれつき主食として糖質を食べているためなかなか糖質依存ということは理解しにくいのですが、そもそも我満出来ない程お腹が空くのは糖質依存の禁断症状です。空腹を我慢しているとピークをこえる感覚があるのがその証拠です。禁断症状ではないと仮定すると、尿意や便意のようにピークをこえることがないはずです。

糖質が太る原因であること。依存により太ることを受け入れることが一番です。
食べては駄目な猛毒ではありませんが、アルコールやタバコと同様に気を付けて楽しむべきものです。アルコールやタバコはその依存性により20歳以上から楽しむことになっています。
糖質を20歳以上にする必要まではないと思いますが、その依存性により病気を引き起こすことはみんなが知るべきだと思います。

特に体重コントロールをしたい人は糖質の本当の姿を認識することが一番だと思います。
ダイエットをしながら糖質を食べるのはブレーキを踏みながらアクセルを踏んでいることと同じです。糖質に対する正しい認識を身につけましょう。
人生が変わると思いますよ。何しろ食欲と闘う必要がなくなるのですから。
糖質の認識を改めると、お腹いっぱい食べても痩せていきます。
そして糖質依存に陥らない範囲で糖質を楽しめば太ることもありません。

EU離脱について

EU離脱について考えてみます。
すぐには離脱しない方針のようです。

まるで親戚同士で話し合って離婚することははっきりと決めたけど、肝心の配偶者にはまだ離婚したいと伝えていないようです。
そしてこの離婚は円滑にはいきそうにないで離婚条件の交渉が重要になりますが、離婚を口に出すと2年で離婚する縛りがあるのでまだ言い出せない状況のようです。(EUに離脱を通知すると2年間で離脱を完了する必要が生じるようです)

直接言われてないもののこれだけ離脱が大々的に報道されている現在、早く出て行ってほしいEU側と、予想外の離脱という結果に政治家達もどうしてよいかわからないイギリス側のお互いの腹の探り合いという状況のようです。

EUからの初めての離脱という出来事ですが、人類が初めて経験する離婚だと置き換えて考えてみれば大変なことが想像ができます。今でこそ離婚は珍しいことではありませんので、様々な経験と知恵の蓄積により困った際の対応策が容易されていますが、初めてとなると前例がないわけで様々なことを考える必要があります。1人対1人の離婚でさえ初めてとなると大変なことが、国同士の離婚に相当するEU離脱ですから想像を絶する困難が予想されます。

人類が戦争を回避するための知恵を得る一つのきっかけになるといいですね。

何度言っても行動が変わらない人の心理

何度言っても行動の変わらない人がいます。その心理を考えてみます。

何度も同じことを言っているにも関わらず、同じ行動を取る人がいます。何度も言う側は何故行動が変わらないのか理解出来ません。

言われた側の視点

ただ単に理解していないか、理解していても具体的に行動の仕方がわからないのです。中にはわかっていても面倒なだけで行動しない人もいるのかもしれません。

結局のところ行動を変えなくても言われた側は困らないのです。理解していないか、理解してもやり方がわからないか、面倒だからやらないかです。

少なくとも行動が変わらないことで自分にはデメリットがないのか、デメリットが理解出来ていないのです。デメリットが理解出来ていないので、わざわざ行動を変えることはしないのです。

心の声は何度言われても何故やらないといけないか意味がわからないと叫んでいるのだと思います。

何度も言う側の視点

何度言ってもわからないとして、怒りたいと思っているかもしれません。何故何度言っても行動が変わらないのか意味がわかりません。腹が立って怒ってしまう人もいることでしょう。何度も言っているのですが、伝わっているか確認はしているでしょうか?確認していなければ、その伝達は一方通行です。つまり説明したつもりということです。説明したと思い込んでいるから相手が何を考えているのかわからないのです。何度言っても行動が変わらないのは、ただ単に相手に伝わっていないとしたら簡単に理解出来るのではないでしょうか?もしかしたらそれだけのことです。

何度も言っていることの目的が伝わっていないと、何故行動を変えなければいけないか理解出来ないため行動が変わらないのです。相手が目的をわかっているはずだと思い込んで、目的までは説明していないのです。

もしくは行動が変わらないと起こり得るデメリットが理解出来ていないのかもしれません。何度も言っている側からすると、行動が変わらないデメリットは当たり前で言うまでもないと思い込んでいることがあります。その当たり前のことをしないので混乱してしまうのです。

客観的視点

第三者の客観的視点から見ると、お互いが思い違いをしていることが簡単にわかります。言われた側は何度言われても意味がわからない。言った側は何度も言っているのに行動が変わらないから意味がわからない。そのお互いの勘違いにより状況が混乱しているだけなのです。

対策

1つの簡単な対策は目的を確認することです。言う側も言われる側も目的が明確ではないため、認識のずれを生じお互いが混乱するのです。お互いで目的を確認すれば認識のずれに気付くことができます。

もう一つの簡単な対策は予想されるデメリットをお互いで確認することです。言う側も言われる側も被るデメリットが明確になれば、混乱を減らすことができます。

そもそも困るのが言われる側であれば、わざわざ言ってあげる必要はないのかもしれません。もしかしたら言う側が自分が困ると錯覚して、余計なお世話を焼いているだけなのかもしれません。課題の分離をすることも大切です。

 

日本における学歴の意味

日本における学歴の意味を考えてみます。
ここ二、三十年で学歴の意味が変わってしまいました。しかしそのことに気付いていない人もいるようなので、今回日本における学歴の意味を書いてみます。

インターネットが存在せず、パソコンを扱う人がオタク扱いされていたほんの三十年前までは学歴には大きな意味がありました。何故なら情報の検索において人間の頭脳以外選択肢がなかったからです。人間の頭脳を検索システムとして活用するため、その検索システムの優劣を見極める手段として学歴に意味があったのです。

検索システムとしての頭脳

教科書を暗記・理解し、理解度を測るクイズである入試問題を解く能力が検索システムとその活用能力の測定に使われているのです。確かに記憶力と検索システム、そしてそれらを活用する能力を測るためには入試というのは合理的な仕組みです。何故ならみんな学校の教科書をいう暗記の課題が揃っているからです。その中身を覚えているかどうか、そして活用出来る程解釈しているかどうかを入試問題で測るのです。

偏差値とはこの入試問題を解く能力を全体から見た分布で数値化したものです。平均を50とし、通常であれば30〜70の間におさまります。というよりもそのような分布になるように問題を設計しているのです。そのため満点でも偏差値は80程度になるような問題が出題され、暗記力と出題に対する理解力、活用能力がはかられているのです。

ちなみに出題者が試験を受ける母集団に対して問題のレベルを間違うと偏差値が優に100をこえてしまうことがあります。イメージとしては中学生に高校生レベルの問題を解かせてしまった場合です。平均点は一桁から10点台になるでしょうが、多くの人が解けない中で解くことのできる人がいた場合、偏差値は100をこえてしまうでしょう。出題者の想定をこえた人がいると偏差値は全く意味のないものになってしまいます。

話が逸れましたが、かつては他に適切な検索システムがなかったからこそ、記憶力と検索能力とその活用能力を見極めることに意味があったのです。ここ20年で大きく変わりました。何故なら情報の取り扱い方が大きく変わったからです。

現在では情報の保存、アクセスは容易になり、検索システムも格段に進歩しています。そうなると人間の頭脳に頼る必要は無くなりました。では何故変わらないのでしょうか?

学歴が重宝される理由

未だに学歴が能力の判定に使われている理由で考えられるのは2つです。一つはインターネットの出現とコンピュータやスマホ・タブレットの性能の向上により検索システムの意味が変わったことにまだ気付いていない。もう一つは学歴の他に能力を見分ける適切な手段が今のところないため、以前から使用している学歴を引き続き使っていることです。

つまり学歴に以前ほどの意味がなくなったことをまだ知らないだけか、知っていても他に見分ける手段がないため仕方なく使っているかのどちらかです。

特に入社試験において学歴フィルターなるものの存在が噂されるのは、ほかに適切な指標がないため次善の策として学歴の示す暗記力・理解力・理解力を指標にしているのです。

社会に出て必要な能力

社会生活において学歴が重宝されていたのは上記の理由です。決して社会に出て必要な能力が学歴だと考えた上で学歴で選んでいる訳ではないのです。他の指標を考えだすことがまだできていないので次善の策として活用しているに過ぎません。
では社会に出て必要な能力は何でしょう?一つは問題解決能力です。投げかけられた問題に対して最善の答えをいかに早く出せるかです。正解が存在しない問題も多々ありますが、答えのない中での最善の答えに近づけるかどうかが問われます。もう一つは問題そのものを見つける能力です。問題を創造すると考えてもかまいません。問題を解決する能力は他人に問題を出してもらわなければいけません。問題を見つける能力もあれば、次々問題を見つけた上で解決もしていけるのです。具体的には発明家や起業家は問題を見つけて解決する能力に長けた人達です。そこまで大がかりなことでなくても、身近なことでも問題を見つけたり、解決出来る能力が必要とされるのです。

学歴・偏差値は用意された答えを如何に早く正確に見つけるかが問われる問題です。社会に出てからは、存在しない正解を手探りで探し、最適解を見つけることの出来る能力が求められます。もしくは自分で問題を見出す能力が求められます。
このずれが学歴・偏差値が高くても役に立たない人がいる理由です。

学校に行く意味

学校でわざわざ学ぶ意味はほとんどなくなってしまいました。
授業形式であれば、よりわかりやすい授業がインターネット上で見つかることでしょう。
もし大学の授業など専門的な分野であれば、まだインターネット上では見つからないかもしれません。その場に行かなければ知りえないのであれば、その大学には行く意味があるのかもしれません。
少なくとも中学や高校の授業であれば、インターネット上を検索すれば様々な授業を見つけることができると思います。教えるのが上手な人の話であれば、ライブで見る必要はないと私は思います。唯一の欠点は直接質問が出来ないことです。逆に言えば質問しない授業であればネット・録画で構わないはずだと思います。

それでも学校に行く意味があるとすれば、友達を作ることとクラブ活動以外ありません。
インターネットやビデオ授業では学ぶことのできない、人と人との関わりを学ぶ目的に学校に通う意味があると思います。小学校・中学校では通常地域毎に分かれているため、様々な能力や家庭環境の人たちを触れ合うことになります。人々の多様性を学ぶ良い機会です。
高校では受験という選別によってある程度似通った人たちだけが集まることになります。例えば多くが就職する学校と大学に進学する学校に分かれることを意味します。その結果価値観が似ているため、会話が成立しやすく友達が作りやすい環境になります。

友達を作ることの次に意味があるのが、学校でしか味わえないクラブ活動という体験だと思います。
限られた年限の学生生活において、クラブ活動を行うことでえられる経験で様々なことを学ぶことができます。スポーツであれば身体の動かし方であり、クラブの仕組みであったり学ぶつもりになれば何からでも学ぶことができます。

学校が提供しているのはもはや学業ではなくなりつつあるのです。その証拠に学校での学業では足らないので、塾に行くことになるのです。
卒業後同窓生として仲間意識をもって関わることのできる友達と知り合うきっかけを提供する場であり、クラブ活動を行う場を提供する組織となりつつあるのです。
何故なら暗記力や理解力や問題を解く能力は社会は求めなくなっているのです。
形式上今でも学業を提供していることになってはいますが、社会から求められていないことをいくら提供したところで、誰も喜ばないのです。

多くの人はまだ気づいていないだけなのです。

サービス残業が日本を弱くした?

サービス残業が日本を弱くしたのかもしれません。

サービス残業とは残業代の支払われない、資本主義社会から切り離されたボランティアのような労働のことです。良く言われるのが残業代を支払うと会社が潰れてしまうから、残業代は支払えないということです。であれば何らかの無駄があるはずです。非効率で無駄な会社の生き残りを支えるのがサービス残業をする社員です。最近では日本の生産性の低さが指摘されつつあるようです。効率化しなくても支払う賃金が同じにので、効率化する動機が生まれにくいようです。

本来なら資本主義社会では労働にはそれなりの対価が支払われます。だからこそ競って労働を提供するのです。一方社会主義・共産主義が行き詰まるのは、努力しても扱いが同じだからです。サービス残業は労働しても賃金が変わらないという社会主義・共産主義と似通ったところがあります。だから生産性が下がるのです。

サービス残業の問題点

企業は業務が増えるとそれに従い賃金・コストも増やさざるをえません。だからこそ無駄な業務を削減するのです。賃金・コストを減らす目的で業務を効率化するのです。サービス残業の問題点は、賃金・コストが増えないことです。必要な業務か不必要な業務か考えるのが面倒なので、どうせサービス残業でコスト無料だからやらせるのです。コストがかかっていないから、無駄を省く発想がないのです。賃金・対価を支払うのであれば、本当に必要かどうか吟味されることはあっても、無料なら対価を支払う必要がないので無駄を積み重ねるのです。新たな業務が発生すれば、不必要な業務を削減するべきです。サービス残業をしていると、支払う賃金が変わらないので不必要な業務を削減する気にならないのです。

サービス残業の中にも必要な業務もあるのかもしれません。しかし本当に必要な業務であれば対価を支払うべきです。この場合の残業代を支払う目的は、効率化です。必要な業務と不必要な業務の仕分けのために、残業代を支払うのです。無駄な業務を削減することこそ生産性を高めることにつながります。

サービス残業している側は、どうせ残業代がでないからとダラダラと仕事をしてしまいます。素早く仕事を終わらせようとしても、次々仕事を言い渡されます。それならゆっくりと仕事をしようと考えてしまいます。ちょうど社会主義・共産主義がうまくいかないのと同じような構図です。

サービス残業をさせているから業績が悪いのです。

サービス残業をさせている企業もそろそろこの仕組みに気付くべきだと思います。残業代が支払うことが出来ないなら、そもそも仕組みに問題があるのです。サービス残業に甘えて無駄が削減出来ないのです。この積み重ねが日本を弱くしていると私は思います。

賢者の食卓 糖質摂取の1つの選択肢

様々なアレルギーや自己免疫性疾患は糖質との関連が示唆されています。理屈の上では糖質をやめてしまえばほとんどのアレルギーや自己免疫性疾患、免疫の関わる病気が治りそうです。かといってなかなか糖質をやめられない人が多いのも事実です。

糖質の何が問題かを考える際に、食べる順番を気をつけるだけで小児のアトピー性皮膚炎がステロイド剤を使わず治癒することから、血糖値が原因である可能性を強く示唆します。つまり糖質を食べても血糖値が上昇しなければ、アレルギーや自己免疫性疾患を発症しない可能性があるのです。

糖質を食べなければ多くの病気が治りそうですが、糖質を控えることが難しい方々に提案です。

大塚製薬の賢者の食卓です。

食物繊維(難消化デキストリン)が糖質の吸収を邪魔するので血糖値の急激な上昇を抑えてくれるようです。味がないらしいのでお茶やお水に混ぜて飲めばよいそうです。イメージとしては野菜を食べてから糖質を食べるような状態だと思います。糖質回避で病気は治したいけど糖質がやめられない方にオススメです。

様々な状況証拠から積み重ねた仮説なので、現実に良くなるかどうかは試してみないとわかりませんが、私は改善する人がいると思います。良かったらお試し下さい。効果があるとすれば数日で違いが出るはずです。

「説明した」と「説明したつもり」の違い

説明したのに期待した結果にならず腹が立ったり、イラついたりすることはありませんか?
もしかしたら、「説明した」のではなく「説明したつもり」になっているのかもしれません。
その違いを考えてみます。簡単に分ければ確認して初めて双方向の「説明した」のであって、確認していなければ一方通行の「説明したつもり」です。

説明した

物事を正しく意図通りに伝えることが出来た時点で、説明したと言えます。よく誤解されているのが、一方的に話しをするだけでは説明したとは言えません。相手が情報を正しく受け取った時点でようやく説明したと言えるのです。つまり説明には相手が必要であり、相手が情報を正しく受け取ることでようやく「説明した」と言えるのです。「説明した」と断言出来るのは、相手に伝わったことを確認した後です。しかも「わかった?」という言葉では「確認した」にはなりません。「わかった?」だけでは「確認したつもり」に過ぎないのです。言葉を変えて「確認」して初めて「説明した」ことが完了するのです。例えば「何がわかった?」とハイ・イイエでは答えられない質問で確認するのです。返答が怪しければ追加で質問すると理解出来ているか確認することが出来ます。

あくまでも説明したといえるのは、相手が理解した結果です。何時間説明しようとも、どれだけ丁寧に説明しようとも相手が理解していなければ、説明したとは言えないのです。

説明したつもり

一方的に伝えるだけではなかなか伝わらないことも多々あります。何故なら人はそれぞれ持っている知識や経験が異なるため、同じ言葉であっても人によって受け取り方は様々です。危険なのは一方的な説明で相手が理解したつもりになることです。

説明したと説明したつもりの勘違い

良くあるのが怒る側は説明した、怒られる側は聞いていないというものです。説明した側は説明したつもりになっているのです。怒られる側は説明を聞いていない(少なくとも理解していない)ので、怒られる意味がわからないのです。説明したつもりになっているだけで、相手が理解したかどうか確認していないのです。

他にも良くあるのが説明したのに理解していないとして、理解していないことを怒るのです。誰に問題があるのでしょう?説明する側です。説明される側は全く聞いたことがないのだからどうしようもありません。説明する側が知恵を働かせて理解させるしかないのです。

説明したのに理解していないと怒る前に、理解できたかどうか確認してみるべきです。理解できたかどうか確認を怠ったのであれば、怒る側の怠慢でしかありません。説明したつもりになって、説明したと怒られても言いがかりにしか聞こえません。

一番困るのは

一番困るのは「説明した」と「説明したつもり」の区別が出来ない人です。「説明したつもり」でしかないのに、「説明した」と思い込んでいるので、理解していない相手が悪いと責め立てるのです。

説明する側に理解させる責任があります。確かに理解する側にも努力は必要ですが、説明する側が知恵を働かせて理解出来るように説明するべきです。何故なら説明する側は情報を持っており、説明される側は情報が不足しているのです。だから説明しお互いの知識が同じになるように情報のやり取りをするのです。説明する側が説明される側よりも多くの情報を持つため、説明する側が情報を噛み砕いて相手が理解出来るように処理して伝えるしかありません。説明される側は情報そのものが足らないので、そもそも何を聞いたら良いのか見当がつかないのです。このことを知らない人が一方的に話したことを説明したつもりになって、理解していないことを責め立てるのです。

理解させるのは説明する側の責任

説明するなら相手が理解できるように説明しましょう。決して説明したつもりになってはいけません。そして理解しているか確認しましょう。

相手が知らないだけで怒ってはいけません。ましてや自分自身が説明したのに理解していないことを責め立ててはいけません。何故なら理解出来るように説明できなかった自分の落ち度だからです。そんな視点で物事を考えてみて下さい。世の中の見え方・景色が変わると思いますよ。