21世紀の果物の立ち位置

果物は食料を探し求めた人類の歴史において自然の恵みでした。栄養価も高く美味でした。果物は一年に一度味わうことの出来る、いわば生き伸びたご褒美のような存在でした。

人類が知恵をつけ食料を自分達で増やすことが出来るようになり、食料の確保が容易になってきました。そうなると生き延びるのは当たり前になってきました。更に自分達で果物の栽培も出来るようになったため、美味しい果物を選んで育てるようになりました。資本主義が売れる果物の栽培を後押ししました。そうなるとご褒美のような存在から、快楽を追求する食べ物へと変化していきました。

果物はビタミンが豊富なため、美容と健康のために好んで食べられています。果物のビタミンが貴重だったのは、他の食べ物でビタミンを得ることが難しかったからです。不足したビタミンを補うために果物のビタミンは有難かったのです。

しかし食料が豊富に得られる現代においてはビタミンを補うために、わざわざ果物を食べる必要はなさそうです。むしろ果物に含まれる糖質が穀物の糖質と同様に病気を引き起こすようです。そうなると健康になる目的でわざわざ食べた果物で、健康を害するというおかしなことが起こります。

特に最近の果物は売れるために糖度の高いものが多いため、食べ過ぎると健康を害するのです。

21世紀の果物はビタミンの補給という役割は終わり、砂糖と同様の快楽の追求だと考える方が良さそうです。砂糖と同様に果物も猛毒ではありませんが、食べ過ぎると健康を害する可能性がありますので食べ方には気をつけましょう。具体的には血糖値を上げないような食べ方が良さそうです。

知らないと怖くない

知らないと怖くありません。

怖くないことを自慢する人がいますし、怖がりを馬鹿にする人までいます。怖くないのは、ただ怖さを知らないだけかもしれないのです。怖さを十分知った上で怖がる必要のない方法を見つけたのであれば良いのですが、怖さを知らないだけであれば困ったものです。

良く知らないだけで闇雲に怖がる必要はありませんが、怖さを知らないのも問題です。

そもそも恐怖心は人が無謀なことをして命を落とさないために、備わったブレーキです。知ることで恐れることも出来ますし、知ることで恐れを乗り越えることも出来ます。

例えば子供は怖いものがありません。危ないという概念がないからです。怖がることが出来ないのです。

怖さを感じることなく行動するのは危険な可能性があるのです。危険に気付く知識を得た上で、危険を乗り越える知恵も身につけることをお勧めします。

何しろ知らないと怖くないのですから。

怖くないのか、怖くなくなったのか、その違いを理解することが大切です。

自分にとっての適正価格を考える

自分にとっての適正価格を考えるという提案です。

自分にとっての適正価格を考えると、適正価格より安ければお得なので購入し、適正価格より高ければ損だから購入しないと考えるのです。あくまでも自分にとっての適正価格ですから、本来なら人の意見には左右されないはずです。何故なら人とは経済状態が異なるため、人の意見は参考にならないからです。

例えば私にとっての牛肉の適正価格は100g400円〜500円程度です。ステーキ用で600円〜700円程度です。何かのお祝いなどの特別な事情がない限りこの価格をこえている牛肉をわざわざ買うことはありません。お肉と考えれば鶏肉や豚肉であれば牛肉よりもはるかに安いお肉があるからわざわざ高い牛肉を食べないのです。スーパーやお肉屋さんでこの私にとっての適正価格よりも安ければ買いますし、この価格よりも高ければ買うことはありません。

他には何度も買う物ではありませんが、ビデオカメラやテレビなどでも適正価格を考えています。ビデオカメラでは3万〜5万円程度ですので4kのビデオは高すぎるのでまだ買いません。テレビでは4Kの50型で10万円が私にとっての適正価格です。まだそのようなテレビはないので買いません。

他の例ではスーパーなどで5割引などの値札を見かけることがありますが、5割引だから買うのではなく、5割引が適正価格を下回れば買うようにするのです。いくら5割引であっても自分にとっての適正価格よりも高い商品は買わないのです。5割引でも高いと感じる商品は、売れ残って元々で売れるとラッキーくらいの値付けなのではないかと思います。5割引でお得感を出して売れば良いと考えているのではないかと私は思います。自分にとっての適正価格を決めていなければ、5割引につられて買ってしまいがちです。そもそも元の値付けに無理があるのかもしれないのです。

電気製品の新商品なども需要と供給の関係により値段が上下します。一般的に発売当初は高く、新製品が出る頃には安くなります。自分にとっての適正価格を決めて、その価格を下回れば買うかどうか考えるようにすると良いと思います。

もし良かったら、自分にとっての適正価格という考え方を取り入れてみてください。

どんな状況でも現状が正常だと思い込む錯覚

どんな状況でも現状が正常だと思い込んでしまう錯覚に陥ります。

逆に言えば、人はどんな状況にでも当たり前に慣れてしまう素質を備えているのです。

現状を当たり前と考えて正常だと思い込んでしまいます。

例えば糖質依存はご飯を主食とする日本人には当たり前の感覚です。日本人のほとんどの人達が糖質依存に陥っているので、依存状態が当たり前過ぎて、気付くことが出来ないのです。糖質回避により、糖質依存から抜け出して初めて糖質依存だったと理解出来るのです。

現状の当たり前から抜け出すには、比較してみるしかありません。当たり前のものがなければどうなるのかを想像してみるのです。想像がつかなければ実際になくしてみるしかありません。

例えば高校にいくのが当たり前だと思い込んでいたとして、高校にいかなければどうなるのかを考えてみます。義務教育ではないので、必ずしも進学する必要はないので特に問題にはなりません。しかし就職という視点からみると不利になるので、高校卒業と同程度の資格を認める大検を受けるか、その先の大学に進学することを考えてみるのです。

働くことが当たり前でどんな状況でも正常だと思い込んでしまうこともあります。この思い込みにより俗にいうブラック企業が成り立ちます。過酷な労働条件も正常だと思い込んでしまうのです。他の企業と比較をしなければブラックだと気付くことが出来ないのです(実際には労働基準法との比較でも気付くことができます)。

全ての人がタバコを吸っていればタバコを吸うのが当たり前ですが、誰もタバコを吸わない国に行けば、タバコを吸うのが当たり前ではないことに初めて気付くことが出来るのです。

あらゆることを比較してみることで当たり前の思い込みから抜け出すことが出来るかもしれません。

形を変えた不謹慎狩り 法律違反の報道

不謹慎狩りとは震災時に書き込みに対して、不謹慎だとして非難することを表すものです。震災という非常時だから慎んで然るべきという風潮をかさにきて、他人を攻撃することが目的です。詳細は不謹慎狩りをする心理をご覧ください。

今日テレビで偶然見かけたのは、河川敷を違法に使う人達を取り上げた報道です。違法ですよと声をかけ、その反応を取り上げていました。

不謹慎狩りと目的が似ているように思います。やめさせることが目的であれば、行政と連携してやめさせる方法を探すべきです。報道ではそのような行動はとらず、法律違反をかさにきて咎めることが目的のように拝見しました。構図は不謹慎狩りと変わらないと私は思います。法律に違反している訳ですから褒められるものではありません。それなら法律違反が放置されているのは何故かという取材が本来の姿だと思いました。構ってもらうことが目的の不謹慎狩りと、視聴率が目的の報道とでは変わりがないように思います。

形を変えた不謹慎狩り、物事を見る角度を変えてみると結構多いのかもしれません。

世界の糖尿病人口が4億2200万人に思う

ヤフーニュースによると、世界の糖尿病人口が4億2200万人になったそうです。

世界保健機構(WHO)は、2014年に世界の糖尿病人口(成人の糖尿病有病者)が4億2200万人と、調査を開始した1980年の1億800万人から約4倍に膨れ上がり、他の疾患に比べ劇的に増加しているとする調査結果を発表した。このまま有効な対策を実施しなかった場合、2025年には7億人を突破すると警告している

ヤフーニュースより引用

特に2型糖尿病が増えているそうです。また先進国だけでなく途上国でも増えているそうです。

糖質依存の考え方を知っている人からすれば、依存症の人が多いと解釈するだけです。途上国でも糖質依存の人達はいるんだなと理解するだけのことです。

2型糖尿病の患者数が増加傾向にあるため対策が必要だとして、対策の仕方に困っているようです。2型糖尿病の発症メカニズムからすれば、対策は簡単なはずです。何も困る必要はありません。困っているのは2型糖尿病のメカニズムを理解出来ていないことを意味します。

2型糖尿病を改善するためには、まずは糖質回避により糖質依存から抜け出すことです。それだけでかなりの人達が改善するはずです。目安はお腹が空かなくなることです。何故なら強い空腹感は糖質依存の禁断症状だからです。禁断症状でないならば、何か食べるまでお腹は空きっぱなしのはずです。実際にはピークをこえる感覚があります。これこそ禁断症状の証拠です。

2型糖尿病の発症メカニズムは、頻回の糖質摂取により上昇した血糖値がインスリンで下げ切ることができなくなることです。紛らわしいのは、糖質を大量に食べていても必ず2型糖尿病を発症するとは限らないことです。食べる量によって発症するか発症しないかが違うのであれば非常にわかりやすい疾患でした。食べても大丈夫な量・許容量が人によって異なるのです。そして少なくとも2型糖尿病を発症している人は許容量をこえて糖質を食べ過ぎた結果なので、因果関係が成り立ちます。

何も恐れることはありません。2型糖尿病を発症してしまえば糖質を減らせば良いのです。既に糖尿病薬で治療中の方や腎疾患や肝疾患などで食事制限の必要がある方は糖質回避には主治医の先生との相談が必要ですが、理屈の上ではインスリンの働きが残っていれば糖質を控えるだけで血糖値は正常化するはずです。何故なら糖質・脂質・タンパク質で直接血糖値を上げるのは糖質だけだからです。食べ物から糖が供給されなければ身体はわざわざ糖を作り出しはしないからです。インスリンの働きが残っていれば、インスリンの働きにより少しずつ血液中の糖は消費され、糖が供給されないので血糖値はさがります。(参考:2型糖尿病が治癒?完全糖質回避の結果)

記事の話に戻すと、4億2200万人もの人が2型糖尿病の原因をまだ知らないようです。2型糖尿病の原因は、私が提唱した訳ではなく江部先生が提唱されている考え方です。

2型糖尿病に関しては議論の余地がないので、早く広まることを願っています。いつ世界保健機関(WHO)が糖質の害を認めるのか私は個人的に興味があります。そしてWHOが糖質の害を認めた時の世界の受ける衝撃にも大変興味があります。

それにしても糖質を控えるだけで良くなる可能性がある4億2200万人もの人達の健康を、世の中の医者はどのように捉えているのかにも興味があります。

食べ物の恨みが怖いと言われる理由

食べ物の恨みが怖いと言われます。その理由を考えてみます。一言で言えば恨むのは糖質依存の人達です。糖質依存の人達は食べ物、特に糖質に固執してしまうので、人のせいで食べ損なうと食べ物に対する恨みが残ります。

糖質依存ではない人は何らかのことで食べ損なっても、食べ物に対する執着心が弱いので、人を恨むことは通常ありません。

そもそも糖質依存でなければ大してお腹が空かないので、恨む程食べ物を食べたいとは思わないでしょう。

食べ物を奪った盗られたと騒ぎ立てるのは糖質依存の一症状です。

糖質の害を医者が受け入れない理由

糖質により様々な病気が引き起こされるのはどうやら間違いなさそうです。その証拠にアトピー性皮膚炎などの各種アレルギーやニキビは簡単に治りますし、尋常性白斑や円形脱毛症などの自己免疫性疾患などが糖質回避により治ります。しかし糖質の害をなかなか医者が受け入れないようです。これまで治療に苦労した病気が、糖質を控える(糖質回避)だけで治るという単純さが理解しがたいようです。

糖質を控えるとたまたま治る人がいるという相関関係のレベルではなく、確実に治るという因果関係の状態です。それでも医者はなかなか糖質の害を受け入れることが出来ません。その理由を考えてみます。

これまでの治療が否定されるから

糖質の害を受け入れてしまうと、これまでの治療法を完全に否定されてしまうのでプライドが許さないのかもしれません。患者さんの病気が治る機会を医者のプライドが奪うと考えると残念でなりません。

医者の存在意義を失うから

医者がいなくても病気が治るため、自分の存在意義を失うから糖質の害を受け入れたくないのかもしれません。

あくまでも自分が治す存在でいたいから

糖質の害を受け入れてしまうと、糖質回避により自然と病気が治ってしまいます。医者が関与する余地がなくなるので受け入れたくないのではないでしょうか?

関与したい医者は目的が、治療をすることであって病気を治すことではないのかもしれません。治療する目的が自分の存在意義の実感、感謝されること、お金を稼ぐことのいずれかはわかりません。少なくとも病気を治すことが目的であれば、病気が治るかもしれない糖質の害は早い段階で受け入れるはずです。

そもそも医者が糖質依存かもしれない

そもそも糖質の害を受け入れることの出来ない医者は、糖質依存に陥っているのかもしれません。依存状態であれば依存対象に対して、冷静な判断は出来ません。冷静な判断が出来ないから糖質の害を受け入れることが出来ないのかもしれません。

医者中心の医者か患者中心の医者かの見分け方

いずれにしても糖質の害を指摘しても受け入れない医者は、医者中心の考え方をする医者なのでしょう(糖質依存であれば病気のようなものですから、責め立てても仕方がないかもしれません)。糖質の害を早い段階で受け入れる医者は患者中心の考え方をしていることがわかるのではないかと思います。

子供が物を買ってと言うようになったら

怒る必要のない子育てを提唱しています。怒らない子育てでは子供の自主性に任せる子育てと、放置プレイのような放任主義の子育てとの区別がつかないため、怒る必要のない子育てを提唱しています。

子供が成長するにつれて物を買って欲しいと言うようになります。小さい子でもお店でお菓子を買って欲しいと言うようになりますし、もう少し大きくなるとゲームなどを買って欲しいと言うようにならます。

物を買う際の落とし穴

買って欲しくて泣き叫ぶようになることがあります。何かを買って欲しくてせがんでも買ってもらえないと悲しくて泣いてしまうことはあるでしょう。初めて泣いたのは偶然だと思います。しかし泣いたことで結局買ってもらえると、成功体験として学習してしまいます。2回目からは泣くと買ってもらえた成功体験から、少し大袈裟に泣くようになってしまいます。回数を重ねるごとに更に大袈裟に泣くようにならます。

親が意識しないうちに何度も成功体験として、子供は泣き叫ぶと買ってもらえると学習してしまいます。子供は難しく考えている訳ではありません。欲しい物が買ってもらえないとわかると悲しくて泣いて、泣いていると買ってもらえると理解しているのです。だから泣き叫ぶ子供を泣かないように怒っても意味がありません。泣くのは買ってもらうための手段でしかないのですから。

子供は何かを差し出すことで物を買う訳ではありません。強いていえば泣いて怒られることを我慢したご褒美に買ってもらえると理解しているかもしれません。

物を買う場合に考えること

通常大人は物を買う際に、対価であるお金を支払います。物の価値とお金の価値が釣り合うか支払うお金よりも物の価値の方が高い、つまりお買い得な場合に購入します。物を買う際に必要なお金、そのお金を稼ぐための労働と釣り合うかどうかを考えて購入するのです(衝動買いは別の思考回路です)。大人は対価という考え方をするので歯止めがかかります。持っているお金に限りがあるので自然と物を買う際に買う物を選ばざるを得ないのです。

しかし子供には物を手に入れるための対価という概念がありません。言わば無限にお金があると錯覚して物を欲しがるのです。だから直感的に欲しいと思えば、欲しくて仕方がなくなるのです。そこに今手に入れたいという衝動買いの心理が子供にも働くので厄介です。

子供が物を買ってと言いだしたら

子供が物を買って欲しいと言いだせば、怒ったところで意味がありません。怒られるという嫌な思いを我慢したご褒美に買ってもらえると誤解してしまうからです。

そこで大人には当たり前の物に対する対価という概念を教えるのです。小さな子供ならその代わりに何を我慢するのか?例えば物を買う代わりにお菓子を我慢する?と聞くのです。ある程度大きくなればお手伝いや宿題以外の勉強を一定量するなら買ってあげるけどどうする?と聞くのです。例えば100マス計算を5枚するなら買ってあげるなどです。5枚は多いから3枚にしてと子供がいえば、そこであらたに相談するのです。

物を買う際に支払うお金の代わりになるものを我慢したり、行動をしたりする仕組みを考えるのです。

最初のうちは口だけで行動しないかもしれません。その場合、次は買わないのです。前回口だけだったからと取り合わないのです。そこで泣き叫ぶようになっても困ってはいけません。子供は親が困るのを見逃しません。もう少し泣けば目的達成と気付くからです。泣いても買わない。と宣言して立ち去るのです。それでも欲しいなら代わりにどうする?と笑顔で話しかけるのです。

買うか買わないかを親が決めると泣いたり頼み込んだりしてきます。子供に選ばせるのです。子供に考えさせるのです。物を買う代わりに何を差し出すのかを。

原因論は過去にこだわり、目的論は未来を切り拓く

良く物事を考える際に原因をおい求めることがあります。

原因論

原因とはある結果に対して過去を振り返ることです。過去を客観的に振り返ることには意味がありますが、通常人は自分の責任を追及されたくないので、責任逃れのそれらしい言い訳を考えます。それらしい言い訳を原因だと誤解して議論することになるので、論点がズレてしまいます。ズレた原因の解決策を見つけ出しても、本当の原因とは異なる言い訳なので、次の言い訳を探してしまうことになります。原因を追及しても解決策がうまく見つからないのはそのためです。ちなみに人間の作り出した機械に対しては原因論は抜群の効果を発揮します。全て人間が目的を持って作り出した物だからです。うまく機械が動かなければ、どこかに原因があるからです。機械は再現性が高いので原因を特定し、修正が容易なのです。

人間に対しては原因論は無意味です。何故なら人の行動はその時その時に置かれた状況で簡単に変わってしまうからです。人間の心理まで正確に再現することは困難なのです。

原因論が無意味なのは、責任逃れのため本当の原因を隠す傾向があることと、再現性が乏しいのです。しかもタイムマシンはないので過去にこだわっても、何も生み出しません。

目的論

目的論は人の行動には必ず目的があるという考え方です。本人が自覚しているか自覚していないか、意識しているか無意識のうちかは別にして必ず目的を持って行動するのです(参考:アドラーの心理学)。その目的をすり合わせるのです。目的に沿っていれば行動し、目的に沿っていなければ行動しないのです。目的論に従えば、未来を見据えた行動をとることが出来るようにならます。原因論であればそれらしい言い訳を考えることが出来ても、目的論では言い訳のしようがありません。それらしい目的を言ってしまえばそれらしい目的に沿った行動を取らざるを得なくなるので、いい加減なことが言えなくなるのです。

大切なのは過去か未来か?

原因論では過去のことを議論するので、タイムマシンがないので結局仕方ないという結論になりがちです。しかし目的論では未来の行動の仕方を議論するので、言い逃れが出来ないのです。大切なのは過去でしょうか?未来でしょうか?私は未来だと思います。何故なら過去は変えられないからです。過去にはこだわらず、未来への参考にするべきです。過去を言い訳にして未来の行動を制限するのはもったいない話です。

未来を切り拓くために目的論を取り入れましょう。

そして絶えず行動の目的を考えみるようにしてみましょう。自分の行動の目的も他人の行動の目的も考えてみると、これまでとは違った景色が見えてくるかもしれません。