卑怯な人の心理

卑怯とは

卑怯とは正々堂々としておらず、物事に正面から立ち向かうことの出来ない人です。姑息と同義語として理解している人もいるかもしれません。本来の姑息は一時しのぎという意味ですが、一時しのぎをすること自体が卑怯という意味合いで使われるようになり、姑息という一時しのぎという本来の意味よりも、卑怯という意味合いの方がより使われるようになったようです。

卑怯な人の心理

卑怯な人には二種類あります。自分が卑怯、つまり正々堂々としていないと自覚いるか自覚していないかの二種類です。

自覚していないのですから、卑怯だと指摘されても理解出来ません。何故なら概念そのものがないからです。そもそも正々堂々との違いも知らないのかもしれません。正々堂々ではないけども、楽な方法があるのにわざわざ面倒な方法をとるべき意味がわからないのです。例えば行列に並ぶ際に平気で割り込みしてしまうような人です。並ぶように指摘すると自覚が無いので怪訝そうにします。本来の立ち居振る舞いをわかってもらうことで、卑怯という概念を理解出来るかもしれません。知らなかっただけだからです。

対処法は教えてあげることです。

卑怯だと自覚している上であえて卑怯な行動をとる人は確信犯です。自分が他人から見てズルをしていると認識されることを理解しています。例えば行列に並ばなければいけないことは知っているけど、面倒なので割り込みをするのです。誰からも言われなければラッキーというスタンスです。言われて並び直しても元々は後ろに並ぶ必要があるのですから、ダメ元で割り込みをするのです。場合によっては卑怯だとわかっていることを隠す目的で激しく怒り出す人もいます。つまり卑怯だとわかっているから怒るのです。目的は自覚していることを隠すことです。

卑怯だと自覚している人の対処法は基本的にありません。そういう人だと理解して期待しないことです。どうしても関わる必要のある人が卑怯だと自覚している場合、卑怯な行動をされると悲しいと伝えることです。決して怒ってはいけません。卑怯な人には怒っても逃げ出すだけです。本当に逃げ出す人もいれば心理的に自分は悪く無いとして現実逃避をするだけだからです。卑怯な行動は人を傷付けることを繰り返し伝えることくらいでしょう。これまで卑怯な行動を咎められたことがないか、咎められたとしても変わらなかったので卑怯な行動を変えるのはかなり困難だとは思います。期待しなければ腹も立たないのでご参考まで。

嫉妬する人の見守り方

アクセス履歴を見ていると嫉妬する人と嫉妬しない人の違いに多くアクセスしていただいています。そこで今回は嫉妬する人の心理を読み解いてみたいと思います。そして嫉妬する人との付き合い方(見守り方)を提案したいと思います。

嫉妬する人は嫉妬する相手と同じだと思っているので、扱われ方の違いに心が掻き乱されて嫉妬するのです。嫉妬される人や周囲の人は努力や才能、立場の違いが扱いの違いになっていることを当たり前に理解しているのです。しかしその当たり前の違いを嫉妬してしまう人には理解出来ないため、嫉妬する人は同じ扱いをされないことに不満を抱くのです。

嫉妬する人は、人との違いを理解出来ない子供のような存在なのかもしれません。みんな同じ扱いをされるはずだという幼稚な考え方から抜け出せないだけなのかもしれません。

人は誰でも法のもとに平等だという考え方を、人は誰でも同じ扱いを受けて当たり前だと誤解しているのかもしれません。もしくはまだ物事をよく知らない子供のように、他人との違いを受け入れることが出来ないのかもしれません。

嫉妬する人の見守り方は、子供のような心理状態なので、生暖かい目で見守ることです。生暖かい目とは、呆れながら一歩引いて見守ることです。嫉妬自体が同じ扱いを期待していることから生じているため、そのことを理解させることは非常に困難です。自分で違いを受け入れることが出来るまで、一歩引いて見守ることをお勧めします。嫉妬心は時に他人を攻撃することがあるため、攻撃されないように離れましょう。

人が怒る理由 期待しているから

人が他人に怒る理由を考えてみたいと思います。人間関係には原因論よりも目的論の方が適切だと思います。他人に怒る目的は自分に従わせることが目的です。しかし今回はあえて原因を考えてみます。

他人に怒る理由は一言で言えば期待しているからです。期待していなければ怒る必要などありません。

子育てにおいて子供が後片付けをしないことに怒るのは、後片付けをしてくれると期待しているか後片付けを出来ると期待しているからです。一歳の赤ちゃんが後片付けをしないからといって怒る親はほとんどいないでしょう。

子育てにおいてパートナーが子育てを手伝ってくれないからと怒るのも、手伝ってくれると期待しているからです。そもそも手伝ってくれると期待していなければ腹が立つこともありません。ただすれ違っただけの赤の他人が子育てを手助けしてくれないとして怒ることは通常ではありえません。手伝ってくれると期待していないからです。

上司が部下の仕事ぶりに怒るのは期待しているからです。最初から期待していなければ怒ることはありません(期待していなければ仕事を頼んだりしないかもしれませんが…)。

物事をわかっているはずだと勝手に期待し、わかっていないことで怒る場面も見受けられます。

他人に対して怒ってしまう人は、他人に期待し過ぎているのかもしれません。他人に対して期待し過ぎないようにすることで、腹が立つのを控えることが出来るようになるかもしれません。他人に期待せず、何か役立つことを少しでもしてくれたらラッキーくらいの心づもりにすると怒ることはかなり抑えることが出来ると思います。

例えば何かしらの手伝いの場面において、手伝いをしてくれることを期待し前提とするのではなく、手伝いをしてくれないことを前提に考えるのです。手伝いしてくれると期待していないので、手伝ってくれなくても腹は立ちません。そもそも期待していないので、手伝ってもらえると有り難く感じることができ、相手に感謝することが出来ると私は思います。相手も手伝って当たり前という態度とは違い、手伝うことで感謝されるとまた手伝おうという心境になるでしょう。

他人に期待しないだけで、腹が立つことが無くなり、他人に感謝して生きることが出来るという人生に革命が起こるかもしれませんね。良かったら一度考えてみて下さい。

人は自分のことだけはわからない

人は自分のことが全てわかった気でいます。何故なら自分のことだからです。自分のことだけに、全てを正確に理解していると誤解・錯覚をしているのです。私を含めすべての人が正確に自分のことを理解することができません。なぜなら自分自身の考え方を切り離して客観的に見る方法がないからです。

自分自身のことがわからないのは、姿かたちのことを考えるとわかります。他人は自分自身のことを直接見ることが出来ますから知っています。しかし自分自身はわかっているようで直接見ることは出来ないのです。鏡を使うことで初めて自分自身を見ることが出来るのです。自分自身のことがわかっているつもりでも、鏡を見なければ自分自身の姿かたちを理解出来ないのです。姿かたちであれば、鏡を使うことで客観的に見ることができます。逆に鏡など道具を使わなければ、自分自身を直接見ることは絶対に出来ないのです。

姿かたちに関しては鏡を使うことで客観的な視点を持つことが出来ます。もし鏡など自分の姿を見ることの出来ない世界であれば、誰か別の人に自分を見てもらい、教えてもらうしかないのです。顔にご飯粒がついていないか、髪の毛が跳ねていないか、髭が残っていないか、お化粧がおかしくないかなどです。

残念ながら人格・人間性に関しては、鏡のような客観的に自分を眺める手段が今の所ありません。あえて客観的に自分自身のことを見ることを試してみるとすれば、自分の行動をビデオに撮って見て見ることぐらいしかできないでしょう。多くの場合鏡のように客観視する適切な方法がないため、他人の主観による評価により行動を修正するしかないのです。教えてくれた人の主観が歪んでいれば、 修正したつもりが更に悪化してしまうことになります。

そして大人になれば、行動が明らかに間違っていたとしても誰も訂正してくれなくなります。間違った行動が法に触れていれば、警察に捕まり罰せられる事はあるかもしれませんが、行動が法に触れていなければ倫理上の問題でモラルの低い人と周囲の人達に評価されるだけなのです。しかも本人が間違っていることを知らず正しいと信じ込んでいれば、間違っていることすら理解できないのです。間違っていると知らないまま一生過ごすことになるのです。

兎に角自分自身が絶対に正しいと思い込んでいる人は、間違いを指摘されても理解出来ません。ちょうど3歳児くらいの思考レベルと同じだと仮定してみると、行動や考え方が理解しやすいと思います。人は誰でも3歳くらいまでは自分が絶対正しく、やりたいことが全て出来る万能感を持っています。多くの人は他人の評価を受け入れ、行動を修正しますが、ごく稀に3歳児の万能感を抱いたまま大人になってしまう人がいるのです。人に間違いを指摘されても、自分は絶対正しいので、相手が間違っていると言い訳して行動を変えないままに大人になってしまうのです。

人は自分では自分のことがわかりません。人に教えてもらわなければ自分のことはわからないのです。一人の人から教えてもらうのでは、その一人の人の考え方・評価が正しいとは限りません。考え方が歪んでいるかもしれないのです。洗脳され突飛な行動を取る人がいるのは、洗脳者を正しいと思い込んでしまい、一人の人に行動が左右されてしまうからです。

自分のことを客観視する適切な方法が発明されるまでは、多くの人の意見を参考にして自分自身の行動を修正するしかないのです。だから友達は多い方が良いのだと思います。

姿かたちを客観的に見せてくれる鏡のように、自分自身を客観的に評価してくれるのは素直な子供の心しかないのかもしれません。だから子育てをすると、自分自身では気付くことの出来なかった自分のことを気付くきっかけが得られるのかもしれません。もしかしたら子供は大人の心をうつし出す鏡なのかもしれません。子供に腹が立ったら、それは自分の行動を子供が自分なりに解釈して真似をしているだけかもしれないのです。

何度言ってもわからない理由

何度同じことを言ってもわからない人がいます。何度言っても行動が変わらない人の心理は以前書きました。今回は理由を考えてみます。

何度同じことを言ってもわからない理由は大きく分けて二つあります。一つは言われる側の問題、一つは言う側の問題です。

言われる側の問題

言われる側の問題とは、理解の問題と行動の問題に分けることが出来ます。言われても理解出来る知能・能力が足らないか、言われている事柄の概念そのものが欠落しているので理解出来ないのかもしれません。行動の問題とは言われていることは明確に理解出来るものの、行動の仕方がわからないため行動が変わらないため、わかっていないように見えてしまうのです。

言う側の問題

言う側の問題とは相手が理解出来るように説明出来ていないことです。つまり説明の仕方の問題で、何度言っても相手に伝わっていないのです。

相手に合わせて、相手が理解出来る話し方をするしかありません。相手が理解出来ないことを何度言ってもわかるはずがありません。「説明した」と「説明したつもり」の違いで書いたように、何度言ってもわからないのではなく、何度も言ったつもりなだけで、言った側の独りよがりに過ぎず、言われた側はわからないだけなのです。

相手が理解出来るように話すしかありません。相手の理解力が低ければ低いなりに相手に合わせて説明するしかありません。何より大切なことは相手に伝わったか確認することです。確認とは相手が理解出来た内容を確認することです。わかった?と聞いても意味がありません。何故ならわからないとは答えなくからです。ハイ・イイエでは答えられない、今伝えたことは何?と質問するのです。こにらの伝えたいことが伝わっていればキーワードが出てくるはずです。わかっていなければ返事はないでしょう。相手が理解出来る話し方が出来なかったのです。もう一度言葉を変えて説明しましょう。

怒ることは無意味

怒ることは無意味です。何故なら理解する知能が足らなければ、怒ったところでその意味が理解出来ないでしょう。多少は気が晴れるかもしれませんが、怒ったというお互いに嫌な感覚しか残りません。

自分の説明の仕方が悪くて相手が理解出来ないのであれば、相手が可哀想です。

言い方を変えても理解してもらえなければ、根気よく言い方を変えるか諦めましょう。

いちいち言われないと行動しない人の心理

いちいち言われないと行動しない人がいます。今日はその心理を考えてみます。

言われれば行動するのですが、いちいち言わなければ行動しない人がいるのです。自分で考えて行動する人からみると、サボっているように見えてしまうため、苛立たしく思ってしまいます。言われても出来ないのであれば能力的な問題なので諦めもつくのですが、言えば出来るだけに腹が立つのです。

言われないと行動しない人の心理は、自分のすることあるいはすべきことが理解出来ていないのです。受け身の人生だったのでしょう。恐らく自分で考えて行動することが無かったのだと思います。あらかじめすべきことを念入りに伝えたとしても、行動しはじめるタイミングがわからないのです。そもそも自分で何とかするという概念が乏しいようです。概念そのものがないのですから、自分で考えて行動するように言ったところで全く理解出来ないのです。

恐らく言葉で説明しても、自分で考えて行動するようにはなりません。対策は自分で考えて行動しなければ、その人が困る状況を設定してあげることです。自分で何とかしなければ、状況が変わらないことを理解させるのです。これまで周囲の人達が説明しても理解出来ないので、面倒になってあれこれ指示してしまったのでしょう。自分で考える必要がないので、ますます自分で考えることができなくなってしまうのです。そして指示を待っている方が楽なので、ますます自分で考えて行動しようとはしません。

困るような状況作られたとしても、行動が変わらない場合には、明確なルール作りをすることしかないでしょう。つまりマニアルを作成するのです。様々な状況を想定し、決まった行動取れるようにルール作りをするのです。機械に作業を指示するようなものです。機械の能力が高ければ曖昧な私でも機会が作動しますが、機械の能力が低ければ事細かな指示が必要となります。人間でも同じです。能力が高ければ曖昧な指示でも意図・目的を読み取り、適切な行動が取れますが、能力が低ければ明確な指示があっても適切な行動が取れないのです。

どうしてもいちいち言わなければ行動出来ないのであれば、目的を明確にしておくことだと思います。例えばお客さんを待たせないことを目的として、どうすれば良いかを考えるように指示するのです。コンビニではもっと明確に指示がなされており、お客さんが2人以上並べば新しくレジを開けると言う具体的なルールになっているようです。

いちいち言わなければ行動できない人は悪気があって行動しないのではありません。ただ本当に気づかないいちいち言わなければ行動できない人は悪気があって行動しないのではありません。ただ本当に気づかないのです。目的を伝えたとしても行動が変わらないのであれば、残念ながら適性がないのかもしれません。のです。配置替えや別の作業をしてもらうほうがお互いが得かもしれません。

人を褒めて育てるのは間違い

世間一般では子供にしろ部下にしろ褒めて育てることが持て囃されていますが、残念ながら間違っています。何故なら褒めるのは出来ないと思っていることが前提だからです。人は相手が出来ると思っていることに対して褒めたりはしないのです。人から褒められた場合、ただ喜ぶだけでなく相手は出来ないと思っていたことを理解すべきです。

褒めて育てることが間違っているのは、褒めることが相手に期待していなかったことを暗に伝えてしまうからです。そして褒めて育てていると、相手が褒められることに依存してしまうからです。褒められるために行動するようになることが一番の問題なのです。褒められないと行動出来ない心理に陥ってしまうのです。更に厄介なのは、頑張ったにも関わらず褒めてもらえないと、褒めてくれない人に対して敵意を抱く場合があることです。褒めて育てていると、褒めてもらうためだけに行動することになり、自立出来ない心理に追い込んでしまうのです。

褒めて育てないのであればどうすれば良いのでしょうか?結果ではなく、途中経過の努力を認めてあげるのです。そして出来ないと思っていたことが初めて出来た場合などは、一緒に良かったねと喜んであげるのです。褒めるという上下関係ではなく、相手のことを認めるという対等な関係が望ましいと思います。

闇雲に褒めて育てていると、褒められることに依存した人間になってしまいます。そうならないように気をつけて育てましょう。

次々不安を口にする人の心理

事あるごとことに次々不安を口にする人がいます。

今日は次々不安を口にする人の心理を考えてみます。人の行動には必ず目的があります(アドラーの心理学目的論)。不安を口にする人にも目的があるのです。その目的とは不安を理由に人を自分の思い通り動かすことです。あるいは自分の思い通りに人を振り回すことです。本人は不安を訴える目的を意識・自覚していないことが多いことが問題を複雑にします。

多くの人は不安を口にされると、不安だから仕方がないと受け止めてくれます。その相手を思いやる心につけ込むのです。次々不安を口にする人の目的は、相手に不安だから仕方ないと思わせることなのです。更に深い目的があります。その目的を考えてみます。

不安だから私の話を聞いてとか、不安だから私の言うことを聞いてとか、不安だから私は安心させるように行動してと暗に求めているのです。不安を言い訳に直接こうしてと行動を求めることもありますが、多く場合は不安を口にすることで相手を自分の目的に沿った行動を取るように、自然に仕向ける目的があるのです。直接行動を求めない場合、自分は不安を訴えただけで相手が勝手に行動したと都合良く考えています。つまり自分が不安を口にすることで相手を動かしていることを意識してはいないのです。いわば無意識の内に不安を言い訳にして人を振り回しているのです。不安を口にすることで周囲の人達が世話を焼いて不安の元を解決してくれることがあるので、駄目元で不安を口にする癖がついているのです。

不安を言い訳にして直接行動求める人は、ある程度人を振り回している自覚があります。何故なら自分が行動を求めているからです。しかし直接行動求めようとしない人は、これまで不安を口にするだけで周りがその心情を斟酌することで不安を口にした人の思い通りに動いていたのです。不安を口にすることで人を操ることを成功体験として何度も経験したことにより、不安を口にするだけで魔法使いのように周囲の人達を動かす事に慣れてしまっているのです。

普通の人は不安を感じた場合には他人に口にする前に、出来るだけ不安を解消できるように自分で出来る範囲で準備や対策をします。わざわざ他人に不安を口にするのは他人に対策をとってほしい目的があるのです。

不安は誰にでもあります。具体的にはいつ地震が襲ってくるか分かりませんし、いつ交通事故にあうかもわかりません。不安の種をあげればキリがないでしょう。かといって交通事故に遭うことが不安だから外に出ないといったところで誰も共感はしてくれないでしょう。アドラーの心理学によると不安により行動できないのではなく、行動したくないことが先にあり、不安を行動しない言い訳に利用しているに過ぎないそうです。

不安により行動が左右されるのではなく、不安は行動の言い訳として利用しているに過ぎないのです。

逆に何らかの目的があれば人は不満をいくらでも作り出すのです。不安を作り出す目的とは、人に相手にしてもらうことです。不安を口にすると相手にしてもらえる、親身になって話を聞いてもらえることを成功体験として経験していると、仕切りと不安を口にするのです。不安を口にしても相手にしてもらえないと不安を口にしなくなります。人によっては不安を口にしても親身になってもらえないだけで相手に敵意を抱く場合すらあります。これだけ不安で悩んでいるのにわかってくれないなんてひどいと言う具合に相手に敵意を抱いてしまうのです。

不安の解消はその人の問題です。不安の解消の手助けはできたとしても、最終的に不安を解消できるかどうかは、不安を感じる人自身の問題なのです。なぜなら不安はいくらでも生み出せるからです。不安を訴える目的が話を聞いてもらうことであれば、1つの不安を解消したとしても、次の不安を訴えるのです。

次々不安を訴える人は、不安を訴えること自体が目的であって、そもそも不安の解消が目的では無いのだと思います。そして次々不安を訴える人自身が何故不安に感じるのかを理解出来ていないのです。何故なら人はなかなか客観視出来ないからです。

次々不安を訴える人の対策は、課題の分離を提案することです。課題の分離とは誰が困る問題か明確にし、他人の問題には口出ししないことです。そして不安の解消は他人には出来ないことを伝えてあげることです。不安を言い訳に行動を変えないように提案してあげることです。決して不安の解消を請け負わないことをお勧めします。何故なら不安の解消を請け負うと、相手の目的を達成するまで延々と振り回されてしまうからです。

人がミスを隠そうとする理由

人はミスを隠そうとしてしまいます。その理由はミスを人から怒られたり責められたりするからです。ミスを隠そうとする目的は、怒られることや責められることを避けることです。逆に責められることがなければ、隠そうとはしません。

ミスを隠すと更に深刻なミスを防ぐことが出来ません。だから深刻なミスを未然に防ぐためにミスを分析する必要があります。小さなミスから深刻なミスを防ぐ目的で行われるのが、医療業界におけるヒヤリハットという考え方です。ヒヤリとしたりハットするような経験から、ミスをする隙を無くすために自己申告する仕組みです。更に深刻なミスを防ぐ目的なので個人を怒ったり責めたりしないことが特徴です。怒ったり責めたりすると無意識のうちに隠そうとしてしまうからです。

ミスを隠そうとすることを責める人がいますが、二重の意味で勿体無いと私は思います。責めるから隠そうとするのです。責めたところで一度起こったミスは取り返しはつかないのです。つまり責めても無意味です。無意味な上に、わざわざ隠されるのを暴かなければいけませんから二重の意味で勿体無いのです。故意にしたことであれば、再度同じような行動をさせないために責める意味はあるかもしれません。しかしミスであれば責めても無意味です。

責めている限りミスを隠そうとするのは仕方ないことです。目的が懲罰を与えることであれば責めるのも仕方がありませんが、再発防止を目的としているのであれば責めないことです。責めないこと明確にすると隠そうとはしなくなります。ミスの根本原因を見つけ出し、ミスをする隙を無くす仕組みを考えましょう。

薬の副作用恐怖症

薬の副作用恐怖症とは、薬の副作用を過度に恐れることをさしたものです。もしかしたら不安神経症の一つの症状なのかもしれません。

薬とは病気を治す、あるいは症状を軽減する目的で使うものです。副作用ももちろんありますが、得られる効果と副作用のバランスにより使用するか使用しないかを判断します。その役目は長い間医者が担っていました。患者さんと医者のもつ情報のアンバランスさを解消するために、インフォームドコンセントという概念が提唱されました。多くの医者は得られる効果と副作用の程度、起こる頻度のバランスを考えて治療法を考えます。

一部の患者さんは、薬を使うことにより生じる副作用を過度に恐れることにより薬を使うことが怖くて仕方ない状態に陥ります。何故なら薬を使わなければ副作用は絶対に起こらないからです。医者は頻度・確率を考えて治療法を選びますが、過度に恐れる方は頻度や確率が抜け落ちて、あたかも必ず副作用が起こると錯覚してしまうようです。

ほぼ確実に得られる薬の効果と、副作用のバランスを見極めることがお得だと私は思います。ただ薬を過度に怖く感じること自体が不安神経症という病気の一つの症状かもしれません。薬を過度に怖く感じることから抜け出す良い手立てがないのが現状です。

私が薬が怖くて仕方ない人へアドバイスするのは、万が一起こった場合の副作用の深刻さとその頻度をお伝えすることです。万が一起こる副作用が後遺症などの不可逆的な結果を招くのであれば、慎重にならざるを得ません。しかし万が一起こるとしても薬をやめることで改善する副作用であれば、過度に恐れる必要はないことを提案しています。

それでも怖くて仕方ない方を説得するのは難しいので、ゆっくり考えてもらうようにしています。何故ならこれこそがインフォームドコンセントの本質だからです。そして薬を使わないことで困るのはあくまでも患者さんだからです。いくら症状があっても患者さん自身が薬を使いたくないにもかかわらず、薬を使うように説得するのは越権行為だと私は思うからです。薬を使うか使わないかはあくまでも患者さんの問題です。

医者に出来るのは、薬を使うことで得られる効果と、考えられる副作用の頻度と程度を説明して理解してもらうことだけだと私は思います。

丁度宗教の改宗に似ています。薬を使いたくないと恐れているのがある宗教を信じている状態で、薬を使うというのが別の宗教を新たに信じることに似ているように思います。これまで信じていたことを捨てて、新しい考え方を取り入れるには頭を整理する時間が必要だと思います。

ただ薬に関しては、得られる効果と副作用のバランスが問題です。物事を論理的に考えることで解決すると私は思います。

ちなみに私は、薬を使うことに心理的に抵抗のある患者さんには、「得られる効果と副作用のバランスから、薬を使う方がお得だと思いますよ」とお伝しています。良かったら参考にしてみてください。