誰の問題か区別して考えましょう

誰の問題か区別して考えましょう。
他人の問題に介入するのは越権行為です。

他人の問題に介入しようとするから争いが起こるのです。

誰の問題かを区別する方法

誰の問題かを区別する方法は簡単です。
放置した場合、誰が困るかです。
困るのは誰かを考えるのです。
最終的に困る人の問題ということです。
親子であっても他人の問題に口出しをするから争いを生じます。

他人の問題への口出しは控えましょう

意見を言う場合、自分が困らない問題に口出しをするのは越権行為です。感想を求められた場合は別ですが、自分から感想を述べるだけでも議論が混乱するため他人の問題への口出しは控えるべきです。

基本的に他人の問題に口出しをしなければ争いは起こりえません。
争いの元をたどれば、他人の問題への口出しが原因だということはよくあります。

例えば、子供が宿題をしない。
困るのは子供ですから、子供の問題です。
そのことに口出しをすること自体が問題なのです。
子供が困ることを理解させることが大切です。
他人の問題に口出しをしない。
自分が困る自分の問題だけ口出しするように心がけましょう。
私はアドラーの心理学から学びました。

怒ることの意味 ~怒ることに意味はない?~

怒ることの意味を考えてみました。

あまり知られていませんが、怒ることで相手は怒られたことを反省すると考えがちですが、大きな勘違いです。

そもそも何故怒られているか理解していません。

何故なら多くの場合怒られるとわかっていて怒られるような行動をしているわけではないのです。怒られると知らないからこそやってしまったのです。
そして怒ることで伝わるのは怒っているという事実だけです。何か怒らせることをしたんだろうなという漠然としたことだけが伝わります。何故なら感情的に任せて怒っているだけで、怒っている理由を相手にわかるようには説明していないからです。
ありがちなのが怒っている際にガミガミ言った後で
『わかった?』と聞くことがあります。
ここで『わからない』などと言おうものなら振り出しに戻るので、怒られている人は実際には全くわからないと思っていても口が裂けても言えません。結果として『わかりました』という答えが返ってきます。
怒られる理由がわからないので、同じことを繰り返して余計怒るという無限ループに陥るのです。

そもそも何故怒られているか理解しないまま怒られているのですから、わかったと言われても本来はわかるわけがないのです。でも余計怒られるから言えない、結果再び怒られる、の繰り返しです。

怒るという行為は、わかりやすくいうと犬が吠えているような状態です。
怒っていることはわかるけど何を怒っているのかわからない。怒っている理由を聞きたいけど聞けない、その意味で犬が吠えるのと同じなのです。
怒られた側としては、エサを取られると勘違いしたのかな?と類推するしかないのです。

人間同士なのに吠えるだけなのは勿体無いですよね。何故なら人間には怒る理由を説明出来る言葉があるからです。

怒られている人にとっては犬が吠えているのと同じ

怒っている人も同じです。怒っている理由は怒っている人にとっては許しがたい当たり前のことですから、わざわざ口に出すのも憚られるほどの内容です。
怒っている人にとっては当たり前ということがポイントです。
怒られている人にとっては初耳です。当たり前でもなんでもなく、全く知らないこともよくあるのです。それこそ想像すらしていないことを怒られているかもしれないのです。想像すらできないことを言葉で言われても全く理解できないので、それこそ本当に犬に吠えられているのと変わらないのです。それを一方的に怒られるのですから、どうしたらよいのかわからないのです。

怒ることに意味はありません。

このことは三つの理由があります。

  • 怒る元はお互いの認識の齟齬(勘違い)だから。
  • 怒ったところで伝わるのは怒っているという事実だけだから
  • 怒ることで相手より優位だと示すことが目的だから(目的論

怒らない対策は?

いくら腹が立っても相手が知らずにやったことを責めても仕方がありません。同じことを繰り返さない目的で、知らないことは教えてあげればよいだけのことです。本来相手の立場であれば知っているべきことで、知らないこと自体が落ち度なのであれば、相手が理解できるようにその落ち度を伝えてあげればよいだけのことです。知らないのですから。
知らないことで、どれだけの損害を与えるのか、どれだけ不快な思いを相手にさせるかを説明すればよいのです。そもそも相手にわかるようにその落ち度を説明しても、理解することができないレベルの相手に怒っても時間の無駄です。(気分は少しだけ晴れるかもしれませんが)

実は怒る場面を振り返ってみると、多くの場合怒っている側にも落ち度があるのです。
それは前もってこちらの意向を相手が理解しているか確認していないことです。認識がずれていないかを前もって確認していなければ、怒る資格はほとんどないと言えます。
当たり前に相手は知っているはずと思い込んで、確認しないことが原因ということもよくあります。自分が確認を怠ったことを棚に上げて怒るのは私はフェアではないと思います。
怒る前に自分が確認を怠った落ち度がないか振り返ってみてください。通常怒る側が優位な立場です。優位な立場から確認をするようにすれば怒る場面は激減するはずです。
親子間でも同じことが言えます。その話は改めて。

不安の扱い方 不安だから出来ないは嘘?

アドラーの心理学から学んだことです。

よく不安だから出来ないと聞きます。アドラーの心理学での解釈は違います。

やらない決断をして、やらない動機付けの目的のために不安を作り出すんだそうです。

つまり不安を口にする人は、やらないことを先に決め、やらなくて済むように不安要素を探してきただけです。

正確な表現はこうです。

やらない。何故なら不安要素を見つけることが出来たから。

先にやらないことを決めているのですから、不安を口にする人と勧める人との議論は噛み合いません。

あたかも論理的に考えた結果のように話すので、相手は混乱してしまいます。

あくまでも不安はその人が目的を持って(無意識かもしれませんが)生み出す感情の一種です。

不安を口にする人が解決するべき問題です。他人が口出しをしても、余程のことがない限り永久に解決出来ません。

糖質回避の危険性に対する不安

糖質回避をした場合の危険性の不安の指摘がありました。確かに実際に寿命がどうなるのかはわかりません。

私の考えでは、身体の細胞やたんぱく質に障害を与える糖質を控えるわけですから、寿命は伸びると考えています。

全く新しい理屈は前例がないから過去のデータとの比較は意味がありません。

例えば今となっては当たり前のiPhoneの発売の際に、どれだけ売れるのかデータを出せと議論したとしても無意味だったことでしょう。幸いその判断をする経営者が言い始めたiPhoneですから、そんな不毛な議論は無かったはずです。何が示したいかというと、革新的な話は前例との比較は無意味だということです。

不安の内容は糖質を控えることでたんぱく質の摂取量が増え、腎臓の負担が増えるのが心配というものでした。確かに理論上はあり得るかもしれません。私からすれば、受け入れないそれらしい理由を探してきただけのように感じます。腎臓のたんぱく質の処理量が、現在全員がギリギリの状態で透析一歩手前ということなら成り立つ話です。一つの腎臓でも大丈夫なように、通常腎臓は十分な余力を備えていますから心配のし過ぎのようです。

別の例え話を考えてみます。命に関わる程ではありませんが体調を崩す部屋にいることがわかりました。(糖質を食べることで2型糖尿病、肥満を起こしていることを表しています)部屋にいることが体調を崩すのですから、外に出ることを提案しています(糖質回避の提案だと思ってください)。不安がる人は外の安全性が確実ではない。歩道を歩いても車に後ろから跳ねられるかもしれないから、外に出るのは不安と主張しています。(たんぱく質の取りすぎで腎臓に障害が出るかもしれないから糖質回避はしない)

2型糖尿病、肥満という明らかな糖質の害を前にして、起こるかどうかもわからない腎臓の障害を不安がる。(私は腎臓には余力が十分あるなで起こらないと思います)

もっとシンプルに極論すれば火事の部屋から、外に出ると車に跳ねられると心配して、明らかに危険な火事の部屋にとどまっているように思います。

ちなみにアドラーの心理学によると不安というのは、やらない言い訳をするために利用するものだそうですよ。

スタンフォードの自分を変える教室

スタンフォードの自分を変える教室
画期的な本です。
依存症の治療やどうしてもやめたい習慣をやめるための本です。
糖質依存の考え方を導き出すきっかけになった本の一つです。

依存症の概念。

人間の進化の歴史から、人間の脳が依存症に陥るメカニズムを説明しています。
あたかも人間の脳が自分自身に依存という罠を仕掛けているかのような仕組みです。
人類の進化の歴史からは大切な役割があったことが書いてありますが、今となっては自分自身の脳に試されているといった印象をうけます。

どうすればやめたい習慣をやめられるかが論理的に説明してあります。
良かったらご覧ください。
ニコチン依存で煙草をやめたい人。
アルコール依存気味でお酒を控えたい人
スマホ依存でスマホから離れたくても離れられない人。
様々な人に役立つ内容が書かれています。

 

アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉

私の考え方の元になっている参考文献です。

アルフレッド・アドラーは1937年に亡くなった心理学者です。
人間の心理を言葉で理解しやすく分解していることが特徴です。
特に秀逸なのが、目的論と感情を利用する考え方です。
怒りっぽい人はいない、人をコントロールする目的で怒りを利用しがちな人がいるだけだ
などです。
彼は子供のころに怒るのをやめたそうです。
私は怒るのを卒業するのに42年もかかりました。

私はこの本を読んで、頭の中の整理が一気に進みました。
そして他人の考えていることが少し理解できるようになりました。
人生に革命が起きるというのは、私にとって大袈裟な表現ではなかったです。
良かったらご覧ください。

 

何でも人のせいにする人の心理

何でも人のせいにする人がいます。
その心理を考えてみます。

人のせいにする人とは、自分の責任を認めず人に責任を擦り付ける人のことです。
口では自分が悪いと認めたとしても、でも聞いてくださいと説明を始めるのが特徴です。
その心理の元は、本当の意味での自分の責任と認める概念がないのです。
そして人のせいにしているつもりも全くありません。
全て自分が悪いわけではなく、人の責任もあることをわかってもらう目的で説明しているだけで、人のせいにしている自覚はないのです。
人のせいにしているという自覚がないからこそ、人のせいにするなと指摘されても人のせいにはしていませんと本気で主張します。

人のせいにするという自覚がないことは非常に厄介です。会話が噛み合わないからです。

対策は単純に、人のせいにする言動がはじまれば、『誰の責任?』『誰が悪いの?』と責任の所在を自覚してもらうことです。

次の対策は『改善策は?』『再発防止策は?』と立て続けに質問することで、言い訳に付き合う無駄な労力を削ぎ落とすことが出来ます。

改善策や再発防止策が出てきた時点で、改めて誰の責任だったか自覚を促すと認めるかも知れません。

最後まで人のせいにするのであれば、それ以上相手にしても意味がないかも知れませんね

性善説と性悪説なんて意味がない

性善説と性悪説という考え方がありますが、私は意味がないと思います。
理由は二つです。

人はいつも同じ行動をするとは限らない

一つ目の理由は人はその時その時で一般的に良いとされる行いも、一般的に悪い行いもする存在だからです。いつもは良い人がつい出来心ということもありますし、いつもは悪いことをしているのに仏心で良い行いをすることもあることは、出来心と仏心という言葉が存在することが証明しています。

善悪自体が曖昧

二つ目の理由は善悪自体が強者と弱者・多数派と少数派ということによって左右されるからです。人を殺すことは一般的には悪とされますが、戦時にはより多く殺すと英雄として扱われます。時代や状況、取り巻く環境により善悪は簡単に変わってしまうのです。

自分は善人と思い込んでいる人の理屈

元々性善説と性悪説は、自分は善だと思い込んでいる人の考え出した理屈だと思います。人を殺すこと一つとっても、状況によって善悪の判断が分かれるのです。つまり善だと思っていたことが悪に変わることだってありえるということです。その曖昧な善悪を生まれつきの性善説と性悪説と分けても意味がないと思います。

善悪の概念自体が絶対的なものではなく、相対的なものだということを意識すると、新しい感覚を身につけることが出来るかもしれませんね。

人に任せるより自分がやったほうが早いと考える心理

比較的仕事のできる人が陥りがちな、人に任せるより自分でやったほうが早いと考えてしまう心理を考えてみます。

人に頼んでも自分の求めている結果がかえってこないので、人に任せず自分でやったほうが早いと考えてしまうのです。
このことに二つの問題がはらんでいます。
一つは人に頼んでも結局自分でやってしまうのであれば、頼まれた人も真剣にはやりません。最終的に頼まれた人が困らない仕組みなので、頼まれた人がどこか他人事で対応してしまうのです。
一つは人に頼んだ頼み方の問題です。頼みたいことを正確に伝えることができていないコミュニケーション能力の問題のため、求めている結果がかえってこないのです。頼みたい内容を、全く予備知識がない人に説明するつもりでたとえ話を使いながら説明することで求めているものに近づくと思います。

そして人に頼むより自分でやった方が早いと考えている人は、自分が優秀だからだと内心思っているのです。
頼み方に問題があるということが原因なので、『人に頼むより自分でやった方が早い』と周囲に言っているのは、物事の伝え方・仕事の頼み方が下手ですよと周りに言って回るようなものですから実は恥ずかしいことだと思います。しかしその本質(自分が優秀だと勘違いしていること。頼み方が下手であること)に気づいていないので2重の意味で私は恥ずかしいと思います。

確かに人に頼むより自分でやった方が早いと思うこともあると思いますが、どうしたら人に自分の思う通りにやってもらえるかを考えるとよいと思います。
人に頼むことを前提として、頼み方を工夫するということです。

わざとゆっくり仕事や行動する心理

わざとゆっくり仕事や行動する人の話を書きました。
今回は心理を考えてみます。
何故わざとゆっくり仕事をするかを考えてみます。
人の行動には必ず目的があります(目的論)。
わざとゆっくり仕事をすることにも目的があります。
その目的は楽をすることと、ゆっくり仕事をすることで見かねた誰かが手伝ってくれるのを待っているのです。
一度でも誰かに手伝ってもらった経験があれば、手伝ってもらうことを狙ってわざとゆっくり仕事をするのです。迷っているふりをしたり、困っているふりをするのです。その目的は二つ。一つは迷っていること・困っていることで仕事が進まないことをアピールし、仕事がゆっくりなことを仕方ないだと思ってもらうこと。
もう一つは助けてもらうことを暗に要求しているのです。

子供の宿題もそうです。一度親に手伝ってもらうと、ゆっくりしていると手伝ってもらえると無意識のうちに認識してしまうのです。わざとゆっくりして見かねた親に手伝ってもらうことが目的なのです。だからわざと親にアピールするようにゆっくりするのです。

心理学的に共通しているのは、結局誰が困るかということです。
誰かが手伝ったことがあるということは、仕事でも宿題でも誰か他の人が困ると考えているのです。さすがに意識はしていないと思いますが、無意識のうちに最終的に他の人が困るというようにどこか他人事のように感じているのです。
最後まで自分がやるしかないという自覚に乏しいため、ゆっくりするのです。困るのは手伝う人だと誤解しているのです。

対策

対策はどうすればよいでしょうか?
それは自分の問題だと理解させることです。
今後はどれだけ困っても直接助けない。
やり方やわからないことをアドバイスをすることはあっても、代わりには決してやらないし手助けもしない。
このことを理解させるだけで意識がガラッと変わります。
またできない言い訳をすることも多いですが、できない言い訳とはやらない理由を探してくるだけなので聞いても意味がありません。できるようになる言い訳をするように仕向けるのです。

どうしても時間に追われていると、代わりにやってしまいたくなりますが、そこはぐっと我慢しないと相手の思うツボです。
作業工程の目安時間を設定し、細かくチェックすると少し意識が変わります。

またゆっくり仕事しても早く仕事をしても評価が変わらないことも、ゆっくり仕事をするメリットと考える一因です。ゆっくり仕事をして目標時間に仕事が終わらないと、その時点でほかの人に仕事を割り振り、給料やボーナスが下がる、働く時間が減らされるなど金銭的損失となる仕組みを考えるのも一つの対策かもしれません。

いずれにしてもわざとゆっくり仕事や行動をする人の対策は、お金にしろ時間にしろ作業にしろ、当事者が困る仕組みを考えることだと思います。