最低賃金1500円デモに思う

最低賃金を1500円に上がるためのデモ行進が行われたそうです。様々な視点から賛否両論の議論が起こっているようです。私は最低賃金が1500円になったら大変だろうなと思います。経営者も大変ですが、労働者の方が更に大変です。その内容を説明したいと思います。

デモに参加した人は最低賃金が時給1500円になれば、自分も時給1500円になると思ってデモに参加しているのでしょう。万が一最低賃金時給1500円が実現した場合、残念ながら3人でしていた仕事を2人でこなすことになります。下手をすると1人でこなすことになるのです。つまり3人に1人か2人は仕事に就くことが出来なくなる世の中がやってくるのです。当然今のままでは1人でこなすことの出来る仕事量は限りがあるので、機械の助けを借りて生産性を上げることになります。逆に考えれば、時給1500円支払う価値のある生産性の高い人だけが雇われて、時給1000円相当の生産性の人は雇ってもらえない世の中になるだけです。

経営者はお金を支払う側ですから、そのことを今でも当たり前に認識しています。しかし労働者にはお金を支払う側の視点がないため、高い賃金を支払う必要があれば支払わなくて済む方法を模索するという視点が抜け落ちているのです。

時給1500円で1人雇うより、代わりに機械に出来る作業は任せてしまうことを考えます。機械であれば文句も言わずミスもありません。今のところ機械には代わりが出来ない仕事をしているとしても、最低賃金が高くなるのであれば機械化される圧力が高まります。開発費をかけたとしても機械に任せる方がトータルとして安上がりなのです。

自分の賃金を上げる目的であれば、デモなど参加せず雇用者に賃上げ交渉を求めるべきです。雇用主や上司に対して賃上げ交渉が出来ないからと言って最低賃金を上げることで、自分の賃金を上げようと考えるのは世の中の仕組みを捉え違えていると私は思います。暗に自分の能力では賃上げしていないことを理解した上で収入を増やそうと考えているようにも思えますが、残念ながら直接交渉できる程度の能力を持ち合わせていなければ、万が一最低賃金が1500円になった場合には仕事をさせてもらえなくなる可能性が高いと思います。

最低賃金を1500円に上げるように要求するよりも、自分自身の生産性を上げるように知恵を働かせて努力する方が理にかなっているように思います。最低賃金で働くのではなく、それ以上の価値を発揮できるようにする視点を持ち合わせることこそが大切なのではないでしょうか?

デモに参加するのも要求するのも自由ですが、最低賃金しかもらえない生産性しか自分にはありませんと周囲にアピールしていることと同じなので、生き方としてはもったいないと私は思います。マーケット感覚を身に着けると視点が変わるかもしれません。(参考文献:マーケット感覚を身につけよう

話し合いが混乱する理由

会議などの話し合いで混乱することがあります。以前書いたことがあるように、混乱の一番の解決策は目的を明確にすることです。今回は話し合いが混乱する理由を考えてみます。

話し合いが混乱する最大の理由は、論点がズレてしまうことです。論点がズレるとは議論していることとは直接関係ないことを話しはじめることです。論点がズレたまま直接関係ない話が続くので、益々混乱してしまうのです。一番の問題は論点がズレていても論点からズレている自覚がないことです。論点が少しでもズレた時点ですぐに修正することが大切です。

議論の混乱を避けるためには、何よりも論点がズレたことをいち早く気付く知恵が必要です。つまり議論している内容と直接関係がないと判断した時点で、議論の脱線を切り捨てるのです。その議論の脱線に気付くことの出来る人が議事進行をするべきです。逆に議論がズレていても修正出来ないのであれば、議事進行を誰か別の人に変わるべきです。何故なら議論のズレに気付くことが出来ない人達がどれだけ時間をかけて議論しても、有意義な結論に辿り着くことの出来る可能性は限りなくゼロに近いからです。

話し合いが混乱する理由は、議事進行係が議論の論点わ把握出来ていないことです。

議事進行係を変更出来ないのであれば、せめて目的を明確にすることで目的を議論するようにして無駄な議論を避けましょう。

テレビの問題点

テレビの問題点は誰のために番組を作っているかということを考えると容易に理解出来ます。
一言で言えば、スポンサーのためです。言い換えるとテレビ局の利益のためです。決して視聴者のために作っている訳ではないのです。

テレビ局の理想を考えれば、見てくれる視聴者のために正しい情報を適切に届けることが目的であるべきです。しかし資本主義の世の中のため、お金を支払う人達の都合で理想から歪められてしまうのです。

例えばスポンサーの不利益になることは、テレビ局は放送しないのです。いくら正しい情報であっても、視聴率が取れなければ放送されなくなるのです。逆に考えれば、視聴率さえとれれば多少いい加減な内容であっても放送してしまうのです。いい加減な内容で視聴者を騙してでも視聴率を稼ぐことが目的になっているのです。

直接お金を支払う人達の意向に沿って物事が動いている証拠です。

テレビは誰のものかを考えた時、理想的には視聴者のためのものであって欲しいところですが、現実的にはテレビ局とスポンサーのためのものでしょう。では彼等にとって視聴者は?お客さんではなく、視聴率を稼ぐための手段に過ぎないのではないでしょうか?何故ならヤラセをしてでも視聴率を稼ごうとしているからです。別の角度から見るとコマーシャルを見てもらう目的で番組が作られていることがわかります。テレビを見ていてよくあるのは、内容に期待させて期待させて続きはコマーシャルの後でというものです。チャンネルを変えられないためのテクニックかもしれませんが、大した内容でもないことを引っ張り伸ばしていることが見え見えです。

コマーシャルを見てもらうために、テレビ番組が作られている仕組みにウンザリした人からテレビを見なくなりつつあります。ビジネスモデルとしては限界に近づきつつあるのかもしれません。テレビ局の人達が危機感をいつ自覚するのか楽しみです。

人が死んでも商品を売ることが許される国…

日本は資本主義で比較的成功した国ですが、人が死んでも利用者の自己責任だとして商品を売ることが許される国でもあります。人が死ぬ商品とは某ゲームです。運転中にゲームをして人をはねて死なせる事故の件です。運転中ゲームをした結果の事故は、過失ではなく未必の故意の殺人事件だと私は思います。つまり事故ではなく事件なのです。そのきっかけを作り出すゲームの販売継続が許される不思議な国です。ゲーム会社に良心があれば自ら運転中のゲームを制限するはずです。しかし運転中のゲームを制限すると売り上げが減少するので、人の命より利益を追い求める企業であれば、ゲームに依存させておきながら利用者に責任を押し付けそのまま継続するのです。何件もの事故もう一つはコンニャクゼリーですが、それは別の機会に書きたいと思います。
ゲームをする人に運転中はゲームをしないように呼びかけても無意味です。何故なら運転中にゲームをする人は、ゲームに依存してしている状態だからです。依存していない人は運転中にゲームなどしません。何故なら普通の人は、ゲームという遊びで、これまで積み上げた全てを失いかねない事故を起こすような馬鹿なことをしないからです。一時の楽しさを追求してしまうのは、そもそも冷静な判断が出来る状態ではなくなっているので、自分では危険と安全の判断がつかなくなってしまっているのです。むしろ自分だけは安全だと錯覚を起こしてしまっているのです。

身体に悪いとわかっていてもお酒やタバコがやめられない人と同じです。手元にお金がないのに借金をしてまでギャンブルをする人たちと同じ心理です。

自分では良し悪しの判断がつかないので他人が事故を避ける仕組みを作ってあげるしかないのです。このゲームの場合、ゲームの運営を取りやめるか、少なくとも車での移動中には遊べなくするようにするのです。確かに遊んでいる人の責任ではありますが、その危険なサービスを提供している企業も、利用者の責任として逃げるのではなく、危険を避ける仕組みを考えるべきではないでしょうか。企業が危険を避ける仕組みを考えないとすれば、自分たちの利益を他人の命よりも優先して考えているのです。私は命よりも大切なお金があるとは、到底思いません。

企業が自主的に運転中のゲームを出来ない仕組みにしないのであれば、国民の命を守るために法律を整備するべきだと私は思います。ゲーム中に事故を起こした場合、加害者は殺人罪、ゲームメーカーも殺人幇助と設定すれば、事故を起こさない仕組みにすぐに対応するでしょう。それをしないのは、国民の命を軽んじているように私ら思います。飲酒運転も何人もの犠牲の結果、現在の仕組みになりました。某ゲームの規制、みんながゲームよりも命の方が大切と気付くにはもう少し時間がかかるのかもしれません。自分や家族が被害者にならないために、歩道も端を歩き、横断歩道では左右はもちろん斜め後ろも確認して歩くしかなさそうです。

今のところ自分の身は出来る限り自分で守るしかなさそうです。早く規制されることを祈っています。

日本の生産性が上がらない理由その2 残業

かつては生産性が高かった日本の生産性が上がらない理由その1 サービス残業を以前書きました。今回はその2として残業を取り上げたいと思います。

私は以前書いたサービス残業だけでなく、残業という制度そのものが日本の生産性を蝕んでいると思います。その理由を書いてみます。サービス残業では残業をしても残業代を支払わないので、企業側が残業をする方向に仕向けます。残業に対する対価を支払わないため、躊躇することなく残業させるのです。

では残業代を支払う場合に何が起こっているかというと、わざとゆっくり仕事をする輩がいるのです。目的は残業代を稼ぐことです。現在の仕組みでは手を抜けば手を抜くほど収入が増えるのですから、わざわざ急ぐ理由などありません。急いでいるふりだけすればいいのです。上司の仕事は急いでいるふりを見ることです。真剣に働いているかどうかを見抜くのが本来の仕事のはずです。

ちなみに本人はゆっくり仕事をしているつもりは全くありません。真剣に仕事をしているつもりになっているのです。つもりということがポイントです。真剣に仕事をしているつもりのため、真剣に仕事をしろと言われても、真剣にしていると言い返すのです。残業する本人たちは仕事の量が多いと不平を言いながら残業しますが、その実仕事の仕方が問題なのです。わざとゆっくり仕事をする人と、仕事の量が多くて止むを得ず残業になる人の区別がつかないからです。仕事が早くて定時で帰ることの出来る人の方が、仕事が遅く残業代をもらえる人より収入が少なくなるのです。それでも仕事を早くしようと考えるでしょうか?

ゆっくり仕事をする方が収入が増える仕組みを誰も訂正しないことが、日本の生産性が上がらない理由だと思います。問題は途中で仕事の質を判定せず、最後まで同じ人が同じ仕事をすることです。

対策

残業代が長時間労働を生むで書いたように残業代を目的にゆっくり仕事をしてしまいます。かといって残業代を支払わないサービス残業とすると前回書いたような問題が生じます。ではどうしたら良いのでしょうか?

残業代を支払わない訳にはいきませんが、かといって残業代を支払うと残業代を目的にしてしまうことが問題です。残業の仕方を変えるのです。わざとゆっくり仕事を出来ないように、仕事が残った時点で仕事の早い人に引き継ぎ、仕事の早い人が残業するのです。そうすれば仕事の早い人に残業代が支払われるため、能率も上がりますし、残業代が無駄にはなりません。残業を人に任せる場合、引き継ぎ出来ないという人がいますが、人に引き継ぎ出来ない時点で仕事の段取りに問題があるのです。もしくは自分の仕事を人に説明出来るほど理解出来ていないのです。自分の仕事を理解出来ていない人間に残業代を支払うので、ますます生産性が上がらないのです。

引き継ぎが出来ない場合、仕事の目的・到達点と現状を伝えることで代用するしかありません。目的・到達点すら伝えることが出来ないのであれば、そもそもの采配ミスなのかもしれません。采配ミスを炙り出すことが出来るのも、残業を人に引き継ぐ利点です。

当然残業する人の評価が高まり、残業を人にこなしてもらう人の評価は下がります。生産性の低い人と生産性の高い人を見分けることが出来るのです。生産性の低い人は、適材適所の考え方で、適正のある働き方を探す方が良いのかもしれません。人に残業してもらうことになると評価が下がるため、定時で仕事が終わるように全力を尽くすようになると私は思います。つまりゆっくり仕事をする人と、真剣に仕事をする人を見分ける必要がなくなるのが一番のメリットです。

日本の生産性が上がらない理由その1 サービス残業

日本の生産性は他の先進国と比較して高かったにも関わらず、最近では相対的に低迷しています。他の先進国では生産性が向上しいても日本の生産性は向上していないのです。その理由を考えてみます。一言で言えばサービス残業が最大の理由だと考えます。

サービス残業という愚

サービス残業とは残業しているにも関わらず、対価としての残業代が支払われない残業のことです。サービスといっても会社に対して従業員の方がサービスするという滅茶苦茶な理屈です。一見すると会社がタダで従業員を使うので会社が得をしているようにみえます。しかし実はサービス残業をさせるのは愚かなことです。何故なら結局会社が損をしているからです。その理由は本来の残業代が支払われる環境なら当然行われるはずの、労力の取捨選択することなく無駄な作業に時間を費やしてしまうからです。残業代が支払われるのであれば、生産性の低い労働は排除し、生産性の高い労働のみに労力を費やすはずです。わざわざ残業代を支払ってまで生産性の低い労働をさせる経営者はいません。

本当に必要な作業かどうか吟味する労力を惜しみ、無駄かもしれない生産性の低い作業を強いるのです。というよりも労働させる側の視点で考えると、サービス残業は生産性抜群です。何故なら実質人件費がゼロで労働が得られるからです。労働させる側からすれば、一見生産性は無限大になります。対価を支払うことなく労働の成果を搾取出来るからです。

労働者の視点からみると生産性はゼロです。どれだけ成果を出しても対価が支払われないからです。いわば強制されたボランティアです。自発的ではない強制ボランティアなのですから、積極的に急いで働くことはありません。仕事を早く終わらせると次の仕事を与えられる可能性が高いので、むしろゆっくり働きます。

サービス残業では労働することで対価を得るという目的を失っているため、労働する意欲がわかないのです。人間の心理としてどれだけ働いても報酬が支払われなければ、出来る限り手を抜こうとしてしまうのです。つまりダラダラ働くことになるのです。サービス残業を続ける限り日本の生産性が高まることはなさそうです。ただ日本の生産性が高くならないのはサービス残業だけが問題ではありません。実はサービス残業だけではなく、残業そのものが問題だと私は思います。残業の問題は次の機会で改めて書いてみようと思います。

企業が学歴フィルターにより学生を選別する理由

企業が新卒学生を採用する際、学歴フィルターを使用しています。その理由を考えてみます。

一言で言えば、学生を選別する適切なフィルターが他に見つからないためだから気をフィルターがわりに使っているのです。本来であれば仕事に必要な能力を見極め、仕事に必要な能力でフィルタをかけるべきなのです。実は企業側がその仕事に必要な能力の見分け方を把握できていないため仕方なく学歴をフィルターがありにしているに過ぎないのです。仕事に役立つ適切な指標がないため、記憶力と理解力を示す学歴だけでも優秀な学生を選ぶのです。学歴は優秀でも仕事で役立たないことがあるのは、学歴と仕事に求められている能力が異なるからです。

学歴の意味するもの

学歴は単に教科書を覚える記憶力とその内容を使って作られたパズルを解く能力を試された結果に過ぎません。しかも学歴の多くは入学時の能力を表すだけであって、卒業時の能力ではありません。

学歴と仕事のズレ

学歴は教科書を使った記憶力と答えの用意されたパズルを解く能力を競っているに過ぎません。通常仕事とは自分で問題を見つけつの問題を解決する能力が問われるのです。つまり問題を用意されるのか自分で見つけるかの違いがあるのです。しかも試験と異なるのは答えが存在するかどうかわからないことに挑む必要があるのです。正解があるとは限らず、与えられた制約の中での最適解を求めることになるのです。

仕事では問題に気づく能力が試されるのですが、問題に気づく能力自体が欠落していると仕事にはなりません。つまり問題を用意してもらわなければ、仕事を始めることが出来ないのです。

問題に気付くことが出来たとしても学歴が高い人に限って、必ず正解があると思い込んでしまい、答えが見つからないと混乱してしまうのです。

学歴フィルターを使う理由

仕事に求められる能力は問題を解く能力の前に、問題を見つけるあるいは作る能力です。そして与えられた制約の中での最適解を見つける能力です。残念ながら今の所、学歴のように客観的にそれらの能力を表す指標がありません。そのためせめて記憶力と理解力を表す学歴フィルターにより学生を選別しているのです。

少なくとも優秀な学歴を得た学生は、勉強に対して継続して努力したことを表します。そのため仕事の上でもある程度耐性を期待出来ると考えるのでしょう。

更にインターネットが学歴フィルターを助長しました。何故ならインターネットでの出願は簡単だからです。手書きとは異なり、いくつものエントリーが容易だから、学生は莫大な数の出願を行うのです。そのため莫大な数の出願を仕分けするために、止むを得ず学歴フィルターを使っているに過ぎません。企業も学歴フィルターが最適と考えている訳ではなくても、学歴の高い人材は低い人材よりは役立つ可能性が高いと考えているのでしょう。

もう一つの理由は無料で入社試験をしているからです。入試のように受験料を徴収すれば良いのです。実は入社試験の受験料を徴収し寄付すると宣言した企業がありましたが、世間の批判に耐えきれず断念しました。営利目的ではなく、本気の入社希望者を振り分けるためにお金を使うのは適切だと私は思います。つまり無料でしているから学歴フィルターを使わざるをえなくなっているに過ぎないのです。学歴にとらわれず優秀な人材を集めたい企業が、入社試験の受験料を適切に徴収するようになることが合理的だと私は思います。私立大学の入試のように営利目的にしても構わないと私は思います。企業の営利活動を部外者が批判するのは的はずれです。

学歴フィルターの今後

学歴の表すものと、仕事で求められる能力とがズレていることに企業が気付いていないはずがありません。とりあえず学歴でフィルターにかけた後で、仕事に役立つ能力を身につけているかどうかを面接などで見極めているのです。これからの時代記憶力は大した意味は無くなります。何故ならタブレットやスマホなど記憶媒体が進化しているため、頭の中に細かく記憶する必要が無くなったからです。

今の所仕事をする上で必要とされる能力を見極める指標を各企業がノウハウとして蓄積していますが、もし普遍化することが出来れば学歴は全く意味をなさなくなります。私は近い将来仕事が出来る能力を見極めることの出来る指標を考え出す知恵者現れると思います。

日頃から問題を見つける能力と、最適解を見つける能力を養うことをお勧めします。

悪い利益と良い利益

実は利益には悪い利益と良い利益があります。悪い利益とは暴利を貪る利益のことで、事業の目的そのものです。悪い利益は利益が事業の目的そのものなので、とにかく利益を追い求めます。良い利益とは適切な利益のことで、事業を継続するための必要経費のようなものです。

一昔前までは全ての企業が悪い利益を追求していました。というよりも良い利益という概念が無かったので、利益を目的として追い求めることは資本主義では当たり前と考えられていました。今でも良い利益という概念を知らなければ、利益といえば当たり前に悪い利益のことを表します。

悪い利益

悪い利益とは周りのことを全く考えず、自分だけの利益を追求することです。仕入れをする取引先のことはもちろん、お客さんのことも利益を追求するための手段としか考えていません。そこまで極端ではなくても、取引先やお客さんよりも利益を優先するのが悪い利益です。

とにかく利益を上げることが目的なので、なりふり構わず利益を追い求めていました。少しでも売るためにお客さんに誤解させてでも有りましたし、場合によっては嘘をついてまで売っていたのです。悪い利益を追い求めた結果食品産地偽装や、燃費の偽装などが行われたのです。悪い利益を追い求めているとお客さんのことが後回しになってしまいます。お客さんを蔑ろにしていることが発覚すると、お客さんに相手をされなくなるので淘汰されてきました。

利益を生み出す仕組みを考えるのですが、企業の利益とお客さんの利益が相反してしまいます。上手な仕組みを考えなければ、お客さんの利益を損なってしまいます。一時的な利益を得ることは出来ても継続出来ない企業が多いのは、企業の利益とお客さんの利益という相反する利益の手加減が難しいからです。企業のことしか考えていない悪い利益は、いずれお客さんにわかってしまいます。利益を生み出す仕組みがお客さんの思惑とズレてしまうと、突然利益を生み出すことが出来なくなります。

悪い利益を継続して生み出すことは非常に困難ですが、極々稀に企業の利益とお客さんの利益の手加減が出来る天才的な経営者がいます。残念ながら天才的な経営者から引き継いだ人が上手く経営出来ないことが多いのは、その時その時で絶えず変化する状況に合わせて利益の手加減を変えることが普通の人には出来ないからです。代がわりの際に悪い利益の手加減の調整が出来ない時点で、良い利益の得方に変えることが出来るかどうかです。初代経営者が天才だと2代目、3代目が苦労するのは、悪い利益を追い求める手加減の仕方がわからないからです。

企業の方針が利益が出るかどうかで判断しています。全てを間違うことなく当てることが非常に困難なのは周知の通りです。

悪い利益を追い求める人達はどうすれば儲かるかを考えています。お金が目的ですからお金のことしか考えられないのです。お金を得ることに知恵を絞ります。そしてお金が全ての判断基準であり、お金のことしか考えられない人達の集まりになってしまいます。いわばお金の魔法に取り憑かれてしまった考え方なのかもしれません。

利益が出なければ誰かが責任を取らなければならなくなります。だから余計利益を追い求める悪循環に陥ります。

良い利益

賢い企業は良い利益に既に気付いています。お客さんの利益になるような仕組みを考えるのです。当然企業も経営していく上で利益は必要です。この場合の利益は経営を継続するための必要経費のような位置付けです。

良い利益とは目的ではなく、継続するための手段としての利益です。

良い利益を表す諺を提唱しています。

利益は企業の為ならず

利益を追い求めることは企業の為にはなりません。利益は企業のためにあるのではなく、お客さんのためにあるべきなのです。

このように考えることの出来る企業は経営がブレることがありません。企業の方針は利益が出るか出ないかではありません。お客さんのためになるかならないかです。お客さんのためになるなら行う、お客さんのためにならなければ行わないのでブレることがないのです。お客さんのためになることの中から、如何にして利益を生み出す仕組みを作り出すことに知恵を絞るのです。

もし利益が出なければ継続が出来ないだけです。少なくともお客さんの利益にはなっているので、継続出来ないことが残念なだけです。お客さんの利益によりお客さんさんを喜ばせることが出来たという結果が残るのです。

良い利益とは継続するための必要経費としての利益と、お客さんの利益という二つの『意味』を合わせ持ちます。

この二つの『意味』に気付いた企業は無敵になることが出来ます。まだ数は少ないのですが、確実にいくつかあります。良い利益を追い求める企業がどこなのか考えてみて下さい。

営業職と人工知能

あるサイトを見ていると人工知能に置き替わりにくい仕事という内容がありました。
経営者や企画が人工知能に置き替わりにくいとあったことには納得出来る内容でした。
しかし営業職と弁護士が置き替わりにくいとあったことには疑問があります。
先に弁護士のことを書くと、確かに裁判所の法廷に立つのは生身の人間が残ると思います。しかし下調べの過去の判例の検索は既に人工知能が活用されています。法廷に立つことを除くと生身の人間である必然性は乏しくなりそうです。少なくとも今の弁護士の人数は必要無くなるでしょう。

営業職が人工知能に置き替わる可能性が低いとありましたが、営業職の内容で分けてありました。技術系、金融系の営業職は残り、単純な営業は人工知能に置き換わるという内容でした。

私は営業職はほとんど無くなると思います。何故なら情報社会であり、人は欲しい物があれば自分で検索するからです。自分でも気付いていない欲しいものを提案してくれる営業職には価値があります(理想の営業マン)が、偽りの営業マンである説得マンはいらないからです。そして多くの営業マンは実は説得マンに過ぎません。お客さんの要望に合わせるのではなく、説得によりお客さんに合わせてもらうのです。

将来営業マンがいなくなる合理的な理由に書きましたが、営業マンの多くが説得マンなので人々が営業マンと話すこと自体を警戒してしまうのです。営業マンと話すと「衝動買いの心理」を刺激して買うように仕向けるのです。お客さんの必要な物を売るべきですが、売り上げを上げるために欲しいと錯覚させて買わせようとするのです。営業マンが「衝動買いの心理」を刺激して買わせようとすることを知っている人は、営業マンと話すことはしません。時間の無駄だからです。このことを知る人が次第に増えるので、営業マンの仕事は減ってしまうでしょう。

現時点で製薬会社の営業マンであるMRさんは減りつつあります。リストラを勧めています。これまで人海戦術で医者に処方をお願いしていましたが、営業により処方内容が変わることが患者さんの不利益につながるので営業を控える製薬会社が出てきました。患者さんの利益になる情報以外は案内出来なくなるかもしれません。

そもそも薬剤の必要な情報はインターネットで収集することが出来ます。わざわざ処方して欲しい気満々の営業マンからもたらされる情報は、処方して欲しいバイアス(情報の偏り)がかかっています。そのバイアスを取り除いて判断する必要があるので、営業マンと話す際には注意が必要になります。自分の好きな時間に情報収集出来るインターネットにとってかわられてしまうでしょう。

営業マンの顔を立てて買って下さいという説得マンが成り立つのは、長くて5年程度だと思います。その先も営業マンが生き残るためには、相手の欲しい情報を提供出来るようにすることです。特にお客さんがわざわざ検索する程ではなくても興味があることを、検索無しで即座に提供出来る営業マンは生き残ることが出来ると私は思います。話の内容から検索したいことを類推する能力を手に入れることが営業マンとして生き残る手段だと私は思います。そのためには専門分野にとらわれない幅広い知識を身につけるしか無いのかもしれません。

医者も余るし歯科医も余る時代、営業マンも仕事は減らそうです。今の子供達はどんな時代を生きることになるのでしょう。不安では有りますが、楽しみでもある未来がすぐそこまできています。

サンクコストの取り扱い方

サンクコストとは一度支払うと戻ってこないお金のことです。サンクとは沈むという意味で、沈んでしまった取り戻すことの出来ないお金のことです。多くの人はサンクコストの取り扱い方により判断を誤ります。

映画館で映画を見ることを思い浮かべてみてください。映画館に入る時点でお金を支払います。これがサンクコストです。どんなに面白くない映画で文句を言ったところでかえしてもらうことは出来ません。映画館に入って面白くない時点で選択肢は、見るか見ないかの二択でしかありません。払ったお金を勿体無いと考えて我慢して見るか、せめて時間は無駄にしないために映画館を出る2つだけです。

払ってしまったお金に引きずられて判断が歪みがちです。映画館を出てしまえば、払ったお金が全くの無駄になるからです。払ったお金を惜しいと考えてしまうので、多くの人が判断を誤ります。取り戻せないお金を判断の根拠にしてはいけないのです。

市場の移転問題で何千億円ものお金が無駄になると問題になっています。何千億円に引きずられて判断を誤りそうです。私利私欲にまみれた輩は、既に使ってしまった何千億円を担保にして、思い通りに事を運ぼうとしています。決してかえることのない既に使ってしまったお金の事は忘れて、使う価値があるかどうかを見極めるべきです。実は原発も同じです。既に原発に使ったお金を無駄にしないために原発を稼働させるのはサンクコストを理解していない人達の考え方です。

払ったお金が勿体無いからといって面白くもない映画を見続けるのは、お金だけでなく時間まで無駄にする愚かな行為です。何千億円という巨額であっても、駄目なら駄目と面白くない映画のように見切りをつける必要があるのかもしれません。巨額であれば巨額である程判断は難しくはなりますが、かえってこないお金に振り回されることなく判断するべきです。

サンクコストに見切りをつけることが出来ないだろうとタカをくくって、計画を無理に進めようとする人がいます。ダムや干潟の灌漑、五輪施設など様々な計画がサンクコストを無駄に出来ないだろうとタカをくくって推し進めているように思います。サンクコストは無視して「0から思考」により、改めて考え直すべきだと思います。

サンクコストに拘るのは過去に拘ることに似ています。過去を変えることは出来ませんから過去に拘るのは無意味です。サンクコストに拘るのも過去に拘るのと同様に無意味です。何故ならサンクコストは今更変えられないからです。変えられないのであれば、変えることの出来ることを考えるようにしましょう。

コストは支払う前に検討するべきことであり、支払ってしまったものをウジウジ考えても『意味』がありません。支払う前であれば支払わないという選択肢がありますが、支払った後であれば取り返すという選択肢はないからです。

サンクコストの取り扱い方は、コストをかけたことを忘れることです。その上で価値があれば利用すれば良いし、価値が無ければ切り捨てる方がお得です。成功する企業はサンクコストを切り捨て、失敗する企業はサンクコストに振り回されています。