絶対に失望しない方法

絶対に失望しない方法を考えてみました。

非常に単純です。期待しないことです。人にも将来にも自分にも期待しなければ失望することはありません。

失望しないために人に期待しないという考え方は、ある種適切だと思います。勝手に期待して勝手に失望するのですから、相手にとっては良い迷惑かもしれません。期待というのは一定の成果を求めることです。相手に期待する時点で、その期待する成果に対する認識が相手と自分とでズレていることも良くあります。この認識のズレから失望、場合によっては怒りという感情を生み出します。

例えば明日までに仕事を仕上げるように指示を出したとします。当然相手が明日までに仕上げることを期待してしまいます。結果的に相手は仕上げたつもりでも、自分が思っていたようには仕上がっていない場合も失望します。相手の仕上がりの認識と自分の仕上がりの認識がズレていることが原因です。取り返しのつくことであれば失望するだけで済みますが、取り返しのつかないことであれば全てが台無しとなってしまいます。相手がうまくやってくれるだろう、うまくやってくれるはずだと期待するから失望するのです。最初から相手がうまくやってくれると期待しなければ、こちらの仕上がりの認識やイメージを明確に伝え、お互いの認識を擦り合わせることで勝手に期待して失望することを避けることが出来ます。もう一つの対策は途中経過を確認することです。明日までに仕上げるのですから、夕方には目処が立っていないといけません。夕方に目処が立っていなければ何らかの修正が必要なことは明らかです。しかし人によってはその修正が出来ないのです。全ての人が修正出来ると思いがちですが、人に期待せず自分が途中で修正しなければいけないかもしれないと思っていれば失望を避けることが出来ます。

絶えず相手が自分の期待通りには出来ないかもしれないと思いながら、対策を考えると失望しなくて済むようになります。

言い換えれば相手を信頼してしまわないことです。これまでの実績など裏付けを伴う信用することは構わないと思いますが、裏付けの無い信頼はしない方が良いと思います。

自分や将来に失望しないために、自分や自分の将来に期待しないのは一つの選択肢です。ただし人に期待しないのとは違って、自分や自分の将来は自分が変えることが出来る可能性があるのが大きな違いです。自分への期待は行動する動機付けになるからです。納得いくまで努力していれば失望とは違う感覚を味わうことが出来るかもしれません。

人に期待するのをやめて、自分に期待して前向きに生きてみませんか?

少なくとも私はそのように心がけたいと思います。

嘘について

先日嘘について書きましたが、世界を揺るがす大嘘が発覚したので改めて書こうと思います。
誰でも嘘はついてしまいます。最初から騙そうとしてつく嘘もあれば、咄嗟に言い逃れのつもりでつく嘘もあります。
それこそ嘘をついたことがないという人は、嘘をついたことがないということそのものが嘘です。

人は何故嘘をつくのでしょうか?その前にある種のお猿さんも嘘をつくことをご存知ですか?詳しくは参考文献の『現実を生きる猿、空想を語るヒト』をご覧いただければわかりますが、ある種のお猿さんは嘘をつきます。敵が来たと合図して仲間を追い払った後に自分だけ餌を独り占めするのです。仲間のお猿さん達は帰ってきても嘘つきお猿さんを責めることはしません。仲間の猿達は嘘だと見抜けないのか、オオカミ少年のように敵が来る情報が本当だったらいけないので嘘でも逃げて、責めないルールなのかは人間にはわかりません。ここで言いたいのはお猿さんにも嘘があるのですから、嘘は仕方のないことなのかもしれません。嘘だと見抜くのは人間にしか出来ないようです。

意図的につくか意図してつくかは別にして、どうしても小さな嘘をついてしまうことは誰にでもあることです。言葉にした時には本当だったとしても結果的に嘘となってしまうこともあり得ることです。

しかし日頃から日常的に嘘をつく人と、ほとんど嘘を付かない人は大きく分かれます。その違いは何でしょうか?お猿さんでも嘘はつくのですから、誰でも嘘をつく要素は持っています。しかし日常的に嘘をつくかつかないかを分ける決定的なことがあります。

それは嘘によってこれまで得をしたか損をしたかです。嘘をつくことで得ばかりの人は嘘をつくことが当たり前となります。特に嘘をついて見破られたり追求されたりといった損をしたことがなければ、嘘をつかない正直な生き方は損だという錯覚に陥ります。通常は嘘をつくと周りの人の信頼を失うため、結果的に損をするのですぐにバレる嘘はつかなくなります。嘘が平気な人はこれまで嘘で損をしなかったのだと思います。

嘘つきの対策は嘘をつくと損をする仕組みを作ることが大切です。そして嘘をつくと何らかの矛盾点を生じるので、その矛盾点を追求し嘘を認めさせ、損をさせることが一番の対策となります。

ちなみに嘘は自分が得をしようとする私心から生じます。企業の嘘も利益至上主義の結果、嘘が蔓延してしまいます。私の提唱する『利益は企業のためならず』の理念を全てこ企業が持てば、企業が嘘をつくことがあり得ない世の中が実現するのですが、そんな世の中はもう少し先の未来の話のようです。

それにしても今回の自動車会社の嘘はこれまでの企業の嘘のレベルをはるかにこえた嘘で、企業の行った詐欺的行為と言っても過言ではないと思います。今後の対応が見ものです。

反対だけなら猿にも出来る

かつて反省猿という反省のフリをするお猿さんが流行りました。反省したように見える行動はお猿さんにも出来る証拠です。
反省が出来るのですから、反対ぐらいお猿さんにも出来るでしょう。何事にも反対!反対!と手を上げて叫ぶだけですから。

流石に人間ともなると反対!反対!と叫ぶだけではなくて、それらしい理由も付け加えるので話が混乱します。ある理由のせいで反対していると勘違いするからです。反対が先にあって、それらしい理由を探してくるだけです。それらしい理由を論破しても次の理由を探してくるだけなので無意味ですし、そもそも反対が目的なので聞く耳を持ちません。理解しようともしません。

同じレベルでの議論は無意味です。相手はまず反対したいのですから、言葉の通じ無い反対お猿さんとかわりません。とにかく反対するお猿さんに議論は無理です。何故なら反対することしか考えていないので、どうしたら賛成になるのか考えていません。そもそも賛成する気は全く無いので、どうしたら賛成出来るかなんて考える気も無いのですから。そういう意味ではとにかく反対する反対お猿さんは反対と賛成の境界線がそもそも無いので、アナログ思考なのかも知れません。

とにかく反対と叫ぶ人の対策です。ここでも『原因論』よりも『目的論』が役立つと思います。論拠の原因となる理由を求めると、言い訳のように色々とそれらしいことを見つけてきます。言い訳みたいなものなのですから論破しても無意味です。次の理由を探してくるだけだからです。『原因論』は過去に拘り過去に引き摺られて、未来を語るので建設的とは言えません。『原因論』では過去を変えなければいけないので、議論が成り立たないのです。
『目的論』の立場から、反対する理由ではなく、反対する目的は何ですか?と聞くのです。理由は過去のことであり、目的は未来のことですからこれから話し合いで変えることが出来るからです。反対する目的を論破すれば代わりの目的というのは、なかなか探せるものでは無いと思います。
反対する目的の代わりに、このことがクリア出来れば賛成するという境界線を設定してもらうのも一つの方法です。出来る言い訳と同じ論理です。
もしくは反対するなら対案を出してもらうのです。
何れにしても、反対お猿さんとの議論は無意味です。目的は反対で、反対していることを周囲にアピールすることに価値を見出しているのですから。
ちなみに反対お猿さんの常套手段は、極端なことを言って周りの人達の不安を煽り、味方につけようとすることです。
給食費を払わない言い訳するモンスターペアレンツと同じような人種なのかも知れません。

自分が反対はしても反対お猿さんでは無いと思う方は

  • 対案を提案する
  • 賛成と反対の境界線を提案する
  • 反対する目的を明確にする

反対すると共にこのいずれかを行いましょう。

逆に反対お猿さんに悩まされていれば、この3つのうちのいずれかを求めましょう。同じレベルでの議論は意味がありません。反対そのものが目的ですから、議論が長引けば目的が達成されてしまうのです。

議論せず先に進めるために上記3つがオススメです。

悪いのは誤解する人?誤解させる人?

何事にも誤解というのは良くあることです。

一般的には誤解してしまった方が損する仕組みになっています。しかし誤解はさせた方が責任を取る仕組みが必要です。何故なら誤解させる方が情報発信を行い、誤解する方が情報を受け取るからです。誤解をさせる情報発信をした人が責任を取らなければ、情報を受け取る側はコントロール出来ないからです。誤解の元は曖昧な表現です。2通り、3通りの解釈が可能な表現をしていることがあります。誤解させる人はAしか解釈があり得ないと考えています。確かに一般的にはAと言う解釈ですが、Bと言う解釈も出来るし、特殊な環境ではCという解釈もあり得ることを知っていれば誤解してしまうことは仕方のないことです。誤解させる人は失言する人と同じで、他の解釈が出来るかもしれないという想像力が働かないのです。

誤解されたとしても誤解した人が悪いと考えるのではなく、誤解される隙のある表現をしていたと反省するのです。誤解させる隙を無くすのです。

少なくとも誤解させる表現をしてしまっていれば、誤解されにくいように表現を改める方が良いと思います。わざと誤解させたり騙すつもりが無いのであれば、誤解はお互い無駄だからです。

情報を受け取る側は表現の曖昧さに気付けば、情報発信者に確認する方がお互いのためになります。

誤解する人・誤解させる人どちらも悪くはありません。悪くはありませんが、誤解はお互いの無駄なので誤解は極力無くす方が良いと思います。誤解はお互いの貴重な時間を無駄にしてしまいます。1人でも誤解した人がいればより誤解の少ない表現を検討してはいかがでしょうか?

無から有を生み出す能力

今から求められる人材は無から有を生み出すことの出来る人だと思います。
元々有るものを工夫するのは多くの人が出来るでしょう。そして10年もしないうちに機械がちょっとした工夫はしてしまう世の中になってしまうでしょう。
30年もすると人工知能が人類の知恵をこえてしまうそうです(特異点:シンギュラリティ)。すなわち無から有を機械が生み出してしまう世の中が来ることになることを意味します。

いずれは機械にとってかわられるとしても、少なくともこれからは無から有を生み出す能力が求められます。
何もないところから仕事を作り出すのです。1人の天才がiPhoneやiPadを作り出したように。

無から有を生み出すことは多くの人には難しいと感じてしまうことでしょう。何故なら学生時代必ず答えの準備された問題から、答えを探し出すトレーニングを繰り返されるため、今有るものの中から答えを探すように頭の使い方が出来上がっているのです。(常識の話)

しかし子供の頃は違っていました。何でもないものから何かしら意味を見出して遊ぶことで、無から有を生み出すトレーニングをしていたのです。具体的にはただの石ころに意味を見出して遊んだり、ただの鬼ごっこに捕まえる側と捕まえられる側とに分けて警察と泥棒の意味を見出して遊んだりしていました。

小さい子供は何もない広場でも石ころや落ち葉を見つけて何かしらの自分なりの意味を見出して遊ぶことで、無から有を生み出すトレーニングをしていたのです。そこに携帯ゲームやスマホなどの遊び方を人に決められた遊びに慣れてしまうと、無から有を生み出す能力を失ってしまうようです。携帯ゲームや無料ゲームは飽きない仕組みを作り出すので、子供達が本来の遊びの目的から遠ざけてしまう厄介な存在です。

無から有を生み出す能力はゲームや受験勉強で削ぎ落とされてしまうようです。

無から有を生み出す能力について改めて意識してみることから始めてみると良いと私は思います。例えば何か新しいイベントを考えてみてはいかがでしょうか?家族や親しい友人とのイベントです。自分自身が楽しくなければ意味がありません。そして新しい家族や親しい友人も楽しめなくては、迷惑なだけのイベントです。参加する人が楽しむことが出来るなら、外でバーベキューでも家でタコ焼きパーティーでも、何でも良いのです。これまでやったことのないイベントを企画してみるだけでも、無から有を生み出す能力のトレーニングになります。無理のない簡単なことから楽しみながらトレーニングしてみましょう。

人の問題に口を出さない ~問題論~

そのまま放置すると誰が困るのかを考えるのが問題論です。
放っておくと自分が困るのであれば、自分の問題です。
放っておくと他人が困るのであれば、自分の問題ではありません。他人の問題です。
他人の問題にも関わらず、口を出すから話がややこしくなります。
自分が困るから困ることを避けるために口を出すのは当然のことです。
一方自分が困らないことに対して口を出すのは越権行為です。一言で言えば余計なお世話です。

そして今の日本ではその越権行為である意見に振り回されています。
ここで問題となるのは多数決の論理と、少数意見を尊重することです。
多数決の論理とは、正解がわからない問題に対して大勢の知識を集めた集合知によりより優れた選択肢を選び出す方法のことです。
そして多数決の大多数の意見が正解とは限らず、少数意見の中に実は正解が潜んでいることもあるので少数意見に耳を傾けることも大切なことなのかもしれません。
しかしここで問題となるのは多数決に関わるのは自分の問題である人々です。少数意見を出すのも自分の問題となる人たちの立場に立った意見であるからこそ尊重すべきことです。

そもそも多数決に関わることの出来ない無関係の人たちの意見に振り回される必要はありません。
例えばある自治体の問題が新聞やテレビで報道されても、自治体に住んでいる人たちの問題です。
自治体の問題に対して他の自治体に住んでいる人が苦情の電話を入れるのが良い例です。
越権行為であり余計なお世話でもあります。

個人同士でも同じことが言えます。本来自分が困らないはずの人の問題に口を出すことで争いが生じます。

多数決も当事者での多数決です。
当事者ではない人の意見は責任を伴わない無責任な意見、すなわち雑音でしかありません。
言論の自由がありますから意見を言うのは自由だと思いますが、無責任な意見に判断が左右される必要はないと思います。

世の中を見回してみると人の問題に口を出しているから、混乱していることもあります。口を出すなら責任を取る方法を提案した上で口を出す必要があると思います。

ただし人が騙されているあるいは騙されそうな場合には、人の問題でも口を出して良いと私は思います。

最も大切なことは正しい情報


情報が無ければ人間は食べるものすらわからないか弱い生き物です。情報が無ければ何も出来ないのはちょうどコンピューターと同じです。

他の動物は食べる物が決まっているので生き方が自然と決まってしまいます。人間は食べる物が決まっていないだけに無限の可能性がありますが、情報が無ければ何も出来ません。コンピューターは何でも出来る無限の可能性がありますが、ソフトという情報が無ければ何も出来ません。計算機やゲーム専用機は計算だけ、ゲームだけという機能を特化することで特に情報を得なくても機能を発揮することが出来ます。コンピューターが人間で、計算機やゲーム機は各種動物に相当します。

人間には無限の可能性がある代わりに情報が無ければ、何一つ出来ません。そのため親や先人から食べることの出来るものを情報として受け継ぎます。自分でも食べることの出来る情報を知識として蓄積することで更に情報の幅を広げていきます。

例えば今では多くの人が知っている河豚の毒ですが、毒の存在を知らなければ食べてしまうこともあるでしょう。毒の味自体は無い上に加熱しても解毒されません。食べてしまえば命を落としてしまいます。他にはキノコには毒を持ったものも多数あります。このように食べても大丈夫なものと、食べると危険なものの情報を得ていなければ命の危険と隣り合わせなのです。確かに文明が発達するにつれ命に関わるものを口にする危険性はほとんど無くなりました。しかし命に関わる情報だけは最低限得ていなければ、ふとしたことで命を落としかねません。例えば乳児にハチミツは危険であるなどです。

正しい情報一つあれば、人間は生活を変えることが出来ます。新しい情報一つで常識を書き換えることが出来るのです。

例えば糖質回避の情報一つで人生が変わった人もいます。

インターネットが発達したおかげでありとあらゆる情報が手に入るようになりましたが、情報の扱い方には注意が必要になりました。以前なら情報が広まる前に情報を広める誰かが情報の真偽や価値を判断していました。何故なら情報を伝えることに印刷などのお金がかかったからです。価値のない情報を広めようとしても広まらず、損をしてしまいます。お金をかけて嘘の情報を広めれば、お金をかけて自分の信憑性を下げることと同じなのでわざわざやる人はいませんでした。情報を伝えるお金をかける前に、真偽と価値を検討していたからこそ読むに値する情報だったのです。

インターネットでは正しい情報もただアクセスを集めたい情報も混雑しているのが現状です。これからはインターネットの中から素早く、正しい情報を引き出せる人だけが生き残ることが出来るようになると思います。

インターネットから正しい情報を引き出すにはどうすれば良いのでしょうか?それか自分の知識と照らし合わせて正しいもの・矛盾のないものを選び出すしかありません。

とにかく正しい情報をたくさん身につけて知識を広めましょう。

大腸ガンの原因も糖化産物?(仮説)

かつては大腸ガンは欧米に多く日本では少ないガンでした。最近では日本では増える傾向にありアメリカでは減る傾向にあるそうです。日本で大腸ガンが増えているのは食の欧米化だと言われ、アメリカで大腸ガンが減っているのは野菜食の啓蒙活動の結果と言われています。

確かに肉食との関連はありそうです。しかし肉の主成分はタンパク質であり、消化されればアミノ酸となります。植物にもタンパク質は含まれていますが植物性タンパク質の食べ過ぎで病気になるとは聞いたことがありません。素朴な疑問です。肉の何が発ガンを促すのかです。

何が違うのかゼロから考えてみました。あくまでも仮説ですが、私はタンパク質と糖が熱で結合するメイラード反応による糖化産物が原因ではないかと考えています。

体内で生じる糖化産物が病気を引き起こす仮説を立てていますが、その延長で体外で生じた糖化産物が病気を引き起こす仮説を考えてみました。実は体外で生じる糖化産物は良く見かけています。それは肉を焼いた際の焼き色のことです。この反応のことをメイラード反応といいます。つまり肉を焼いて焼き色がついた状態で食べると自然と糖化産物を食べているこのになります。

私は肉食が問題ではなく、糖化産物の食べ過ぎで大腸ガンを生じるのではないかと考えています。いわゆる焼き色ですから高温で肉を調理することが大腸ガンの原因ではないかと考えています。つまりステーキや焼肉が問題で、茹でたお肉は大腸ガンには関係ないのではないかという仮説を考えています。何故大腸ガンに関連が考えられるのは、糖化産物がそのまま消化・吸収されず大腸に到達する可能性が考えられるからです。もしかしたら糖化産物が腸内細菌と反応することで大腸ガンを誘発している可能性も考えられます。

中には実際に動物実験で発ガン性が認められている糖化産物が見つかっています。

お肉の焼き色は確かに美味しそうには見えるのですが、この糖化産物の心配を勝手にしていますので、ステーキや焼肉は焼き過ぎに注意してあまり食べないようにしています。いわば私が焼き色のついたお肉は避けることが出来れば避けるという、怪しく緩い戒律の宗教を信じているのようなものです。状況証拠から私が勝手に疑っているだけのことです。

疫学調査で焼いたお肉を好むか茹でたお肉を好むかで大腸ガンの罹患率が異なることがわかれば、この仮説が証明されるかもしれません。他に考えられる糖化産物は植物性で、具体的にはパンの焼き色です。同じ小麦製品でもパン好きと麺好きかによって大腸ガンの罹患率が異なると、植物性の糖化産物でもガンになる可能性が示唆されます。もし差が無ければ大腸ガンには無関係であることがわかります。

大変興味はありますが、私はこれらの疫学調査をする能力がないので誰かが興味を持って調べてもらえると良いですね。

 

これから必要なのは何かをやめる勇気

これから必要なのは何かをやめる勇気だと思います。

これでの考え方は足し算の考え方でした。何かを足すことばかり考えていました。

そして何か失敗すると評価は掛け算でなされてしまいます。ゼロかマイナスをかけられてしまうのです。積み上げた分マイナスを掛けるとマイナス分も大きくなります。マイナスを恐れて何もしないことが、失敗しないという最大の得策と錯覚してしまうこともあります。大成功を狙うよりも大きなマイナスを避けるために、冒険をしない

何れにしても何をするのか、何をしないのかという観点がほとんどです。

これからはこれまでやってきたことの何をやめるのかを検討するべき時代に来ていると思います。これまでやってきたことを続けるのが一番楽な発想です。何故なら何も考えなくても、これまで通り続けるだけで良いのですから。通常は続けることに理由が求められることは少ないと思いますが、やめるとなると皆が納得する理由が必要となるからです。

本来ゼロから合理的に考えるのであれば、一つのことを続けることとやめることは対等なはずです。続けるメリット・デメリット、やめるメリット・デメリットを冷静に比較検討して続けるのかやめるのかを考える方が合理的です。続けるには理由が必要無くても、やめるには理由が必要となれば何事も冷静な判断をされることなく続ける方向に向かってしまいます。

要するに何事もやめるのは面倒でも続けるのは簡単なことが多いということです。

やめるのが面倒なことが判断を鈍らせてしまいます。

例えば新聞をとっている御家庭もあるかも知れませんが、大して読まなくなってもやめる機会をみつけられず惰性で取り続けているのは良くあることです。続けるメリット・デメリットとやめるメリット・デメリットを冷静に比較すると、案外これまで続けていた理由が惰性以外に見つからないこともあります。考えられるメリットは知人が新聞に載ったことを見逃して後日知っても記事を探せることくらいでしょうか?

他の例えで考えると、宣伝広告をこれまで長年行っていると、やめる機会を逃してしまっていることは良くあるようです。やめる検討すら考えたことも無いかも知れません。本来であれば宣伝広告は費用に見合った広告効果がなければ、即座にやめるべきものです。毎年宣伝広告を続けるかどうか、宣伝広告を始める場合と同様に検討し、効果の方が高ければ続ける方が得ですし、効果が低ければやめる方が得です。

何かを続ける場合には、やめるか続けるかを良く考えてから行う方が良いことが良いことがあります。惰性で続けてしまいがちですが、再度ゼロから考えて始めるかどうかを慎重に検討する方が良い思います。

何事も深く考えることなく楽をしたいという心理に引きづられてしまい、惰性で続けてしまいがちだからです。

最後に一番言いたいことは、糖質をやめる勇気を持ってもらいたいと思います。実際には糖質をやめる勇気ではなく、冷静に何故糖質を食べるのかをゼロから考えてみて欲しいと思います。糖質を続ける理由は何ですか?と自分に問いかけてみて欲しいと思います。

この糖質の問いかけが人によってはお酒だったりタバコだったり、もしかしたらギャンブルかも知れません。人によっては仕事なのかも知れませんが、やめる勇気と続ける理由について深く考えてみてください。

このように考えることが人生の転機になるのかも知れません。

争いの原因は相手を理解出来ないこと

様々な争いの原因を探してみると、相手を理解出来ないことです。親と子、友達同士から恋人同士や夫婦、親子間に至るまで争いの元を辿れば争いの原因は、相手を理解出来ないことです。

腹が立つのも喧嘩になるのも結局のところ相手のことが理解出来無いからです。理解出来なくても受け入れることが出来れば争いにはなりませんが、受け入れることが出来なければ何らかの争いに発展してしまいます。

人間は人それぞれ考え方が異なります。十人十色どころか百人いれば百色、千人いれば千色、人の数と同じだけ異なった考え方があります。何故なら育った環境や経験・知識が人によって全く異なるので、考え方が人によって全く異なるのは当然と言えば当然です。

その考え方の違う人同士が分かり合うことの方が難しいのです。相手を理解するという難しいことが、簡単に出来るはずだと考えているから、腹も立つし喧嘩にもなるのです。

相手を理解出来ると思っているからこそ腹も立つし喧嘩にもなるのです。自分の想像も及ばない考え方のため、相手を理解出来ないかも知れないと思いながら対応すると、腹も立たなくなりますし喧嘩にもなりません。

つまり争いの元は、本来なら理解することが難しい相手を、自分の尺度で理解出来るはずだと思い込んでいることです。

そもそも考え方が根本から異なれば、争っても解決の糸口は見つかりません。お互いの尺度が異なるので争っても比べようが無いのです。

お互いの考え方が相容れないものであれば、最初から争わずお互い折り合いのつく妥協点を探すのが得策だと思います。争ってもわだかまりが残るだけで、何も良いことはありません。

特に親子間など力関係が明らかな場合、力の強い親の意見を押し付けてしまいがちとなります。その結果子供が納得出来無いまま受け入れるしか無くなることで、考え方が歪んでしまう可能性があります。その積み重ねが将来親が想像もしない行動に出てしまうきっかけになるのかも知れません。子供には子供なりの考え方がありますので、例え子供といえども折り合いのつく妥協点を探すことで争いを避けることが出来ると思います。

親子間ですらお互いわからない考え方が、他人同士でわかるはずがありません。まず相手の考え方はわからないものだと受け入れた上で、理解出来ないことに腹を立てないだけで争いを避けることが出来るのです。その上で相手の考え方と自分の考え方の折り合いがつく妥協点を探すことで相手の考え方の一部を受け入れることが何より大切だと思います。

人と人はわかりあえると私は信じたいと思います。そしてわかりあうことが出来れば、全ての争いが無くなると私は思います。