空気を読む意味がわからない人の心理

知人から衝撃の一言を聞きました。
仕事の後輩に『何で空気を読まなきゃいけないんですか?意味がわかりません』と平然と言われ、その場を立ち去ったということです。
その知人はかなりショックを受けていました。

知人から聞いたその場面を再現してみます。

空気を読めない営業マン

車で移動中体調不良でぐったりしていたそうです。
何かと話しかけてくるので、体調が悪いからそっとしておいてと伝えたそうです。
それでも何度も話しかけてきて困ったそうです。その場では体調不良もあって、空気を読んでということは伝えられなかったそうですが後日伝えたそうです。
『私がしんどそうにしていたから体調不良はわかったでしょ。そのときは空気を読んだ方がいいと思うよ』
ここで衝撃の一言で先ほどの『何で空気を読まなきゃいけないんですか?意味がわかりません』といわれたそうです。

ちなみに彼は上場企業に勤める社会人、しかも営業マンです。
先輩から『空気を読んだ方がいいと思うよ』とたしなめられた結果がこの返答だそうです。わざわざ言ったことをかなり後悔したそうです。
空気を読む意味がわからない心理を考えてみましょう。

空気を読む意味がわからない心理

何故空気を読まなきゃいけないんですか?と逆質問しています。
空気を読むという概念がないわけではなさそうです。
概念がないのであれば概念から説明しなければ理解できません。
空気を読むという概念がありながら、何故空気を読む必要があるのか本当に意味がわからないまま社会人になることができたようです。
そして知らないことを指摘されても、自分が正しいと信じているので空気を読む意味を教えない周りが悪いと思っているのです。恐らく天動説型思考の持ち主言い訳人間と同じ心理だと思います。
いずれも自分自身が中心のため、周りに合わせるということの意味を知らないまま社会人になることが出来たのです。先輩からせっかく教えてもらったことを拒絶する態度から、知らないことを指摘されるのが嫌いなプライドの高いタイプなのかもしれません。

恐らくこれまで周りに合わせることをしなくても何とかなったのだと思います。
家庭では母親が世話を焼いてくれますし、友達も変な奴として受け入れてもらっていたのかもしれません。
そして親もまわりにあわせる大切さを教えることなく大人になってしまったのだと思います。
自分をみんなが受け入れて当然と思って生きてこれたのだと思います。俺様人間を受け入れてくれる人に恵まれて生きてこれたのだと思います。
しかし仕事となると話は変わってきます。
相手あっての仕事ですから、相手に合わせることが出来ない人は仕事ができません。だから空気を読まなければいけないのですが、言葉にはしていないけどその場の空気を読む、つまり相手の意図・状況を読み取るという能力がなければうまく仕事をすることは出来ないと思います。

対策

人の考え方を変えるのは困難ですから、一番は関わらないことだと思います。
何故なら空気を読む意味がわからない人の問題だからです。(問題論
空気を読まないことで困るのは空気を読めない人です。他人はアドバイスすることは出来ても、人の考え方を変えることなど通常はできません。本人が困っていないのに声をかけても余計なお世話と感じてしまいます。
空気を読まないと困ることを経験し、自分で気づかないと意味はわからないと思います。

どうしても何とかしたいのであれば、わざと空気を読まない場違いな場面での質問を仕掛けて、この場面で言われたら困らない?と相手に理解させることはもしかしたらできるかもしれません。ただし言い訳人間か天動説型思考の持ち主なので、逆恨みされてしまう危険性をはらんでいます。逆恨みされるだけのリスクを負ってでも空気を読める人間にしてあげる覚悟が自分にあるか自問自答してみることです。

私は関わらないことが一番だと思います。
出来ることがあるとすれば、人間関係で困ったら声をかけてみてと伝えることぐらいです。

患者さんを怒る医師の心理を考える

人の行動には意識しているか意識していないか(自覚出来ない、無意識のうち)は別にして、必ず目的があります(『目的論』)。怒る医師にも怒る目的が必ずあります。その目的を考えてみます。

私が想像する医師が患者さんを怒る目的は大きく二つに分かれます。

一つは患者さんのため、もう一つは自分のため。

患者さんのために怒る?

患者さんのために怒るのであればある意味では立派なのかもしれません。何故患者さんのために怒るのでしょうか?

患者さんのことを思って怒るというのは心理としてあり得ません。自分は患者さんのことを思って怒っていると主張する医師もいるかも知れませんが、勘違いです。患者さんのことを思っている振りをしま医師の立場で怒っているだけです。患者さんの立場で考えれば、怒る選択肢はあり得ません。患者さんのことを思っているのなら、怒る前に大丈夫だったか患者さんのことを心配されるはずです。怒る時点で患者さんの立場で考えていないことを表すと思います。

患者さんのことを考えて怒るということは矛盾していますので、論理が成り立つません。患者さんは病気で困って病院を受診するのですから、困っているから受診したのに怒らることが患者さんのためになる理屈は私には思いつきません。同じことに対しても怒るという感情を選択せず、心配するという選択も出来るのに、患者さんのために怒っているというのは二重の意味で偽善者だと思います。

患者さんを怒る心理

  • 自分が人に怒ることが出来る程凄い(偉い・特別な)人間だと思っている
  • 患者さんより医師の方が上だと思いこんでいる。
  • 患者さんの都合は診療に関係ないと思っている。
  • 自分の指示に従わない(思い通りにできない)と腹が立つ
  • 患者さんは医師に従って当然!と思いこんでいる。
  • 通院してくれないと自分の収入(再診料などの診察料)が減るから腹が立つ
  • 怒るほど真剣なんだとアピールしている(本人は心配しているつもりです)
    (私から見れば、怒っている自分に酔っているだけのように思えるのですが・・・)
  • 怒られた人が不快に思うことを知らない(もしくは解からない)

よくわかりませんが、怒る医師はどれかに当てはまるのではないかと私は思います。(もしかしたら私の思いつかないような心理で怒られている先生もおられるかもしれませんが・・・)
どうしてもその先生しか出来ない特殊な治療をされているなら仕方がありませんが、保険診療であれば治療に大きな違いはないと思います。(他院が通院できないほど遠方なら仕方がありません。その場合はそっとこの記事を印刷して院内に忘れていきましょうw)
診断能力と説明能力の医師による差は大きいとは思いますが・・・。(診断はともかく、怒る先生の説明が上手とは私には思えません)
治療だけ期待されているなら、他院を選ばれても良いのではないかと思います。

行かないと怒られる・・・。
怒られるから行く・・・。
→一種の洗脳(怒られることに対する依存?)みたいですよね。

怒る目的?

怒る医師が収入を増やす目的で定期的に通院を促し、自分の収入が減るから通院しないことを怒っているだけかも知れません。

一度他院を試してみられてはいかがでしょうか?案外定期的な通院の必要がないかもしれません。

人が失言する理由とその対策

最近でも元首相が「たった2500億円くらい」という失言をして話題になっています。批判する人もいますが、批判してもあまり意味がありません。その理由を解説していきます。

失言する人には自覚がない

人が失言するのは何故でしょうか?それは本人には失言だとわからないからです。自分で言った言葉が違う受け取られ方をされるこのことが想像出来ないのです。この話は失言の本質を既に知っている人には当たり前の話ですし、まだ知らない人にとっては意味不明だと思います。あれだけのことを言っておきながら、失言した本人が失言だとわからないことが理解できないことでしょう。失言した本人にとっては、失言でも何でもないのです。本気で思っているのですから。そして意図していない受け取られ方をするのは、想像すらしていない話で、失言は誤解だと思っているのです。

失言した本人は、失言だと追求されても失言とされる理由がわからず、頭の中はハテナマークばかりで混乱しています。変わったことを言ったつもりはなく、失言とされたこと自体が、失言した人にとっての常識の枠の外の話なので、全く理解できません。どうして失言と言われるのか、世間一般の受け取り方とのズレについて懇切丁寧に誰かに解説してもらわない限り理解できないのです。

失言の原因は話し手と聞き手の感覚の違い

元首相の『たった2500億円』発言の問題点は、庶民にとっては巨額なお金・税金を『たった』と表現していることです。言葉の裏には税金の何十兆円もの使い道を決めているうちの『たった』2500億円というつもりだったのでしょう。

ただ庶民にはそんな感覚は当然ありませんから、人々の払った税金を『たった』と言われたことに怒りを覚えるのです。世間一般の受け取り方の観点が欠落しているのはもちろんですが、自分の言葉が人にどのように受け取られるかを考えて説明する感覚が欠落しているのだと思います。それなら『たったとおっしゃるその度量感服いたします。ということは元首相個人で出してもらえるんですね?』と記者が詰め寄れば元首相も固まったと思います。

税金は自分達が使い道を考えてやっているくらいの錯覚に陥っているのでしょう。

税金何十兆円のうちの『たった2500億円』という感覚と、庶民の生活費が年間数百万円でその一万年分もの金額という感覚とのズレ・ギャップが原因です。元首相の発言をテレビを通して聞く人は庶民なのですから、当然聞く人の感覚で話すことが求められると聞く側の人は思います。失言を繰り返す人には聞く人の感覚が欠落していますので、このことに気付くか口を閉じない限り何度でも失言を繰り返すのです。

失言を繰り返す人

失言を繰り返す人はそんなつもりで言ったわけではなかったから誤解だと言い訳をします(言い訳人間)。言い訳をする人は絶対に成長出来ないので、生暖かい目(諦めて、また失言するのが前提ということ)で見守ってあげて下さい。

失言する人の特徴の一つに自分が正しいと思い込んでいる節があります。正しいと思い込んでいるので、自分の言ったことが正しく、自分の意図と違う解釈をした人が悪いと思っているのです。そのため謝罪会見をしたとしても釈明会見、むしろ言い訳会見となりすっきりしません。自分は悪くないのに誤解されたから仕方なく会見を開いている。自分は悪くないから、悪くないことを少しでもわかってもらうために説明するのです。それが言い訳と受け取られるので逆効果だと理解する客観性も欠落しているようです。謝罪会見で言い訳をしているのを見ると、憐れにすら感じてしまいます。

誰かが教えてあげない限り、次の失言をすると思いますから、生暖かい目で見守ってあげましょう。

失言しない対策

政治家ほど大事にならないとしても失言はだれにでもあり得ます。意図していない受け取られ方をして戸惑うような場面です。友達同士なら笑い話かも知れませんが、ビジネスの場面やそれ程親しくない人との会話で失言と受け取られると取り返しがつかないかも知れません。

そんなことにならないように、日頃から気をつけておくことが大切です。

一番は聞き手の方々の感覚を身につけることです。話す前に客観的にどのように受け取られるかを想定することが出来れば、その想定自体が的はずれでは無い限り致命的な失言は避けることが出来ます。

聞き手の感覚と客観性を身につけるということは、似たようなことですがこれら二つに気をつけることが大切です。

失言を繰り返す人達に誰かこのことを伝えてあげて下さい。

もしよかったら失言から日頃考えていることがわかる大臣の失言・辞任に思うもご参照ください

不安の持つ2つの意味

不安には2つの意味があります。

知らないこと・わからないことに不安を抱くのは当たり前です。
ただし不安には二つの意味があります。
本来の意味である自己防衛本能としての不安と言い訳としての不安という意味です。

自己防衛本能としての不安

自己防衛本能としての不安が本来の存在理由です。
物事を後先考えず躊躇わずに行ってしまうという無謀な行動をしないように、人は不安や恐怖心というブレーキを備えています。
この不安や恐怖心は動物にもある本能であり、もし不安や恐怖心というブレーキがなければ、人類は滅びていたと思います。

人間が動物と異なるのは物事を冷静に考えることができます。
不安や恐怖心だけだと何もできません。かといってなんでも考えずに行動すると命の危険もあります。そこで人間には理性というものがあります。
物事を論理的に考えて不安や恐怖心を打ち消して行動に移します。

不安や恐怖心があるのは当たり前です。
動物にもあるのですから。
その不安や恐怖心をどのように打ち消すかを考えるのが人間です。

言い訳としての不安

人によっては不安をできない言い訳にします。
○○が不安だからできません。
この不安だからできませんは正確な描写ではありません。
やりたくないことが先にあり、やらないための理由を探してきて○○という不安を作り出しているだけのことです。
やらない言い訳に○○という不安を見つけたのです。
(参考文献:アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉

不安を口にする心理

わからないことに対する不安は誰でも当たり前のことです。
未来はわからないのですから必ず不安です。
逆に先のことを予測することのできる人は必ず不安を感じます。
不安を感じた上で、それを上回る準備をすることが大切です。

誰でも感じる当たり前の不安をわざわざ口にするのは、言い訳の心理です。
やらない言い訳なのか、やるとしても失敗した場合に備えての言い訳です。
口にするとしても、わからない未来に対する不安をいかにして最小にするかを口にするべきです。

不安は言い訳

不安を口にするのは言い訳人間の入り口かもしれません。
できない言い訳か、失敗したときに備えての言い訳か。
対策は、言い訳人間への対策と変わりません。
不安はやらないための言い訳でしかありません。
その不安を取り除くにはどうすればよいですか?
と質問するのです。

無意識のうちに不安を口にしていませんか?
もしかしたらあなたのことを周りの人は言い訳人間だと思い始めているかもしれません。

怒る人の心理

怒る人の心理を考えてみました。

怒るというのは感情だから仕方ないと考えている人もいるようですが、若い頃に怒ることをやめた心理学者のアドラーによると目的があって怒りを利用しているに過ぎないそうです。(参考文献:アドラーの心理学)

怒りを利用する目的とは、相手の支配なのか、自分の正当性を認めさせることなのか状況により様々です。

怒る心理ですが、相手が自分の考えていることをわかってくれていないことに腹を立ているに過ぎません。

相手は知っているべきだと責めているだけのことです。わかっていて当然だと非難しているに過ぎません。

自分のことをわかってくれないと言って泣いている子供と本質は大して変わらないのかも知れません。子供の場合は怒っても相手にされないので、わかってもらえないことを責めるために泣くのですから。私を泣かせるなんて酷い人だと、感じてもらう目的で泣くのですから。(本人に自覚は無いと思います。人の行動には必ず目的があります。人前で泣く目的は相手を責めることだと私は思います。)

怒っている人を、何をわかってもらえなかったことを怒っているのか観察してみると面白いかも知れませんね。

怒られている当事者だとそこまでの余裕はないと思いますが、周囲で怒っている人を見かけたらこんな視点から読み解いてみてあげて下さい。

思いやりという名の価値観の押し売り?

今回思いやりの『意味』を深く考えてみます。

本来思いやりとは相手の事を考え配慮することです。この思いやりですが、無意識のうちに自分の立場から見た相手の事を思いやるという価値観の押し売りをしていないでしょうか?
本当の思いやりは相手の立場になって、相手の事を考えてあげることです。

みんなが本当の意味での思いやりを持って行動すれば、争いが減ると私は思います。

相手の事を考えていると口では言っても、本当に相手の立場に立って、相手の事を考えてのことでしょうか?実は相手の事を考えてという名目で、自分の立場からの価値観を押し付けてはいないでしょうか?

相手の立場に立って考える

最終的に困るのが相手であれば相手の問題です。(問題論)
その相手の問題を自分の立場から口出しするのは越権行為です。相手の立場に立って物事を考えた経験のない人には、相手の立場に立って考えるとは想像つかない考え方のようです。思いやりとは本来相手の立場で相手のことを一番に考えてあげることです。

例えばある親子の話

例えば子供が高校には行かないと言い出しました。親は高校くらい出ていないと将来困ると考えて子供に高校に行くことを強く勧める場面を思い浮かべて下さい。

親としては高校を出ていないと将来困ることを知っているので、高校に行くことを勧めるのは思いやりだと思っています。本当に相手の立場に立って相手を思いやる思いやりと言えるでしょうか?

子供の思い

子供は職人として一生生きていくことを決心し、高校に通う三年間が勿体無いと考えて高校に行かないと言っています。1日でも早く一人前の職人になるために高校に行かないと決心しているのです。それでも高校に行った方が良いと強く勧めるのは本当の思いやりでしょうか?

親の思い

親は子供が高校を卒業していないと将来苦労する可能性が高いことを知っているため、高校への進学を勧めています。親の立場からした思いやりではありますが、親の立場からの価値観です。職人として一人前になれなかった時のことを勝手に考えて、先回りして考えてしまうのです。

そして子供は親の知っていることを知らないのです。

子供の将来のことは明らかに子供の問題です。困るのは子供にも関わらず、本来困らないはずの親が自分の問題のように誤解してしまうことが良くあります。子供の問題に例え親だとしても口出しするのは越権行為です。

思いやる方法

では本当の思いやりであればどうすれば良いのでしょうか?

まず相手の思いの確認

ここでの問題は親と子の思いにズレがないかの確認がなされていないことです。生きている年数が違うので親と子では持っている情報量が全く異なります。

例えば職人さんの世界の厳しさを親は何となく知っていますが、子供は全く知らないだけかも知れません。職人さんの世界に入って逃げ出すかも知れないと親は心配しますが、厳しさを知らない子供は一人前になれると信じきっているかも知れません。

職人さんになれなかった場合、中卒での就職はかなり難しいことを親は当然知っていますが、子供は職人以外は考えたこともないだけかも知れません。

もしかしたら職人さんへの憧れもあって深く考えずに、職人を目指しはじめただけかも知れません。

本当の思いやり

子供の立場に立って考えてあげることです。子供は1日でも早く一人前の職人になることが目的なので高校に行くことを無駄だと考えています。

親は職人として一人前になれなかった時、中卒での就職を考えるとかなり不利になることを心配しています。親が子へ高校への進学を勧める場合、このことは親にとって常識なので子供も知っているはずとして説明せず、高校への進学だけを勧めてしまいます。

子供への伝え方を間違うと大変な誤解を招くことがあります。子供としては今から一生懸命頑張ろうとしているのに、上手くいかない場合の話をするのは子供にとって許し難い考え方に思えるようです。大人の駄目な場合を想定して、準備しておくという発想そのものがないため、あたかも親が失敗を望んでいるかのように誤解してしまうのです。

本当の思いやりであれば、子供が大人と同じ情報を得てから将来のことを判断したか確認してあげることです。例えば以下の3つです。

  • 職人さんの世界は厳しいけど耐えられるのか?
  • 職人さんになれなかった場合、就職は困難だから職人さんを諦めてから高校に行くことになるかも知れないけどそれでも良いのか?
  • 高校は勉強だけではなくて、三年間かけて同い年の友達を作る場でもあるけれどもその機会を失っても良いのか?

親も子供が憎くて言うわけではありませんが、子供の立場から考えてあげないと子供には全く理解できません。親子の持っている情報量の差が大きすぎるため、伝え方を間違うと関係がこじれてしまいます。親は子供と同じ立場を想像し、何故そのように子供が考えたのか、そして親の知恵を使って子供のためになる選択肢を広げてみてあげて下さい。

本当の思いやりとは相手の立場に立って考えることだと思います。自分の立場から相手を思いやるというのは思いやりという名の価値観の押し売りです。相手のためにならず、自分の価値観の押し売りになってはいないでしょうか?

怒る必要のない子育て 勝手なことをしたら?

怒らないではなく、怒る必要のない子育てを提唱しています。

子供が予想外の勝手なことをした場合、子供を怒ってしまうのは良くあることです。少し考えてみて下さい。

誰が悪いのでしょうか?

お隣に持っていく手土産のシュークリームを父親が、トイレに行く少しの間テーブルの上に置いておきました。たまたま家に帰って来た子供がお腹が空いていたのでそのシュークリームを食べてしまいました。トイレから出てきた父親はテーブルの上のシュークリームが食べられていることに気づき子供を怒ります。

『何でお隣に持っていく大切なシュークリームを食べたの!』

少し考えてみてください。誰が悪いのでしょうか?

悪いのは…

正解は誰も悪くないでした。
誰も悪気があって行動しているわけではありません。誰かを陥れようとしているわけでもありません。
子供はお隣にお持ちする大切なシュークリームだとただ知らなかっただけです。知らないことを怒るのは可哀想です。
誰も悪くはありませんが、敢えていうなら今回の問題のきっかけ、隙を作った父親です。

そもそもトイレに行く少しの間に子供が帰ってくること、そしてシュークリームを食べることを想定しなかった父親の落ち度です。

想像してみて下さい。もし間違って子供が食べると死んでしまうかも知れない毒団子(鼠を殺す殺鼠剤というものが本当にありました。鼠がいないのでわからない人もいるかも知れませんね)だとしても、同じようにテーブルに置くでしょうか?

この場合父親の取るべき行動は?

子供がシュークリームを食べてしまう隙を無くすことです。

子供が間違って食べてしまわないように、食べないでとかお隣にお届けとか張り紙をしておけば良いでしょうか?

たまたま張り紙に子供が気づかずに食べてしまう隙がありますし、張り紙に気付いても子供が我慢するという子供任せの隙があります。
食べないように書いてあるのに食べたとして張り紙に従わないことを怒る場面も想像できますが、そもそも子供に食べるか食べないかを任せることに無理があります。
食べるか我慢するか子供に任せた時点でどちらを子供が選択しても、責任は親にあると思います。

隙を無くす

少しの間でも目の届かないところにあれば何が起こるかわかりません。トイレだから目を離すのは一瞬のつもりですが、たまたま電話がかかってきて他に気を取られてしまうとシュークリームのことを忘れてしまうことも十分考えられます。
そう考えると子供に我慢させるのもかわいそうですし、子供任せの隙も問題です。
隙を無くすにはそもそも子供の目に触れさせないことです。
シュークリームを目の届かないところに隠してしまうのです。目に触れてしまうと子供が食べるか食べないかを悩ませるという隙を生みます。そもそも目に触れなければ子供も我慢する、食べてしまって怒られるという嫌な思いをする必要がありません。

いずれにしても親が気を付けることで隙を無くすことができると思います。

罠を仕掛けていた?

穿った見方をすれば、父親がシュークリームを食べる隙を残して、子供が食べたのを見計らって怒る罠を仕掛けたようにも考えられます。罠を仕掛けたのでなければ、何故子供の目に触れる隙を無くさなかったのでしょうか?
そこまでは考えられなかったとと父親は言うのでしょうか?子供は知らなかったといっても一方的に怒っているのではないのでしょうか?

街中で見かける怒っている親を見ると、親の配慮不足だと感じることがよくあります。
食べるものをこぼして服を汚して怒っている親。子供がこぼしそうならこぼしにくい食べ方を前もって提案すれば良いことです。その提案をせずに怒っているのは罠を仕掛けて、罠にかかった子供を怒っているようなものだと思います。そして親はこぼしにくい食べ方を知っているけど、子供はこぼしにくい食べ方を知らないだけなのです。罠を仕掛ける前に教えてあげれば、お互い嫌な思いをしなくて良いと私は思います。それでも前もって教えないのであれば、怒りたいからわざと教えないという正に罠をしかけている心理が根底に潜んでいるのかもしれません。

父親の取るべき行動は

同じことを防止するためには、子供が食べる隙を無くすこと。子供の目に触れないように高いところに置くとか冷蔵庫にしまっておくなどの防止策を考えます。
念のために自分がうっかり忘れてテーブルに置いてしまった場合の保険に子供にも予防策を伝えておくのも一つの方法です。もしかしたらお隣の荷物を預かっているだけかもしれないから食べてよいかどうかを確認してから食べるようにしてねと伝えておくのです。
人に頼らず自分でできることは自分で気を付けて防止はするべきなのですが、更にうっかり忘れてしまった時に備えて、子供にもダメ元で確認するように伝えておくのです。
子供には食べてはいけないと禁止するのではなく、お隣に持っていくものを勝手に食べたらお隣の人が悲しいよね。困るよね。お父さんが困らないように助けると思って食べないでね。と同意を求めるのです。
禁止されると受け入れにくいのですが、同意を求めると自分のこととして受け止めるので自分で考えるように促すことができます。
ただしこのように伝えていても食べてしまった場合も怒ってはいけません。
もともとの隙を作ったのは自分なのですから。保険が効かなかっただけのことです。

もし子供の方が立場が強ければ

もし子供の立場の方が強ければシュークリームの対応は異なると思います。
親が勝手に食べたことを伝え怒ろうとした時点で
『そこに置いた人が悪いのでは?』
『シュークリームが食べてほしそうにおいてあったよ。』
『食べてはいけないのなら、何故見えないようにしてくれなかったの?』
と強く言われたらどのように伝えるのでしょうか?

別の場面を想像してみてください。もし相手が自分の上司でも同じ対応をするでしょうか?
いつも甘いものが目の前にあれば食べてしまう上司がいても、同じようにテーブルの上に無造作にシュークリームを置いておくでしょうか?

子供は親の奴隷ではありません。

子供は親が養っているからといって親の奴隷ではありません。(奴隷という言葉は頭を書き換えるきっかけとして意図的に使いました。)
当然本当に奴隷のように扱っているわけではありませんが、親の心理として子供は親に無条件に従うべき・従って当たり前と考えてはいないでしょうか?

自分の思い通りにならないだけで怒ってはいないでしょうか?
親が自分自身がわかっているから子供もわかっているはずと思い込んではいないでしょうか?
子供の立場にたって冷静に子供の話を聞いてみると、子供の言い分に一理あることもよくあります。親の先入観を取り除いて子供の言い分に耳を傾けるのです。
一方的に親の立場から怒るのは、養っているのだから自分に従って当然と思い込んでいないでしょうか?

怒らない方法を探してみましょう

何も子供に媚びろというわけではありません。
子供に気を遣えというわけでもありません。
ただ怒らない方法を探してみましょう

何も知らない子供の立場にたって考えてみれば、怒る必要はありません。
子供は何も知らないだけなのですから。知らないことを教えてあげればよいだけのことです。
怒るより叱るより諭すでよいのです。

勝手なことをしたら

実はタイトルの勝手なこととは子供がシュークリームを食べてしまったことではなく、父親が子供を怒ったことです。
勝手なこととは怒ることです。怒ることは感情を使って人を支配することが目的ですから、怒らない方法を考えることだと思います。
何故怒ってしまったのかを考え、怒らない方法を探すことです。

子供を怒る必要はありません。
必ず怒らなくても済む方法があるはずです。
子供には何が足らず、何故怒りたくなるのかを根本を遡って防止策を考えてみてください。

今回のシュークリームの話であれば、怒りたくなる根本はシュークリームをもう一度買いに行かないといけないからではないでしょうか?結局父親自身が困るから怒ってしまうのではないでしょうか?それならもう一度買いに行かなくても良いように、食べられないように隠してしまえば誰も困らないのではないでしょうか?

一度おこってしまったことは変えられません。
それならおこってしまったことを教訓に次に同じことを繰り返さない知恵を得ることです。
そうすれば怒る必要はないと思いますがいかがでしょうか?

人が物事に飽きる仕組み

人には同じ物事を繰り返していると、飽きる仕組みが備わっています。

何故人は飽きるのでしょうか?

飽きることで別の物に興味を持たせるため

飽きるというのは様々な状況で障害になります。例えば勉強に飽きてしまえば、他の物事に興味をうつしたいのに、状況が許しません。勉強に飽きているのに勉強しなければならない状況は苦行とも言える我慢の時と化します。同じことの繰り返しの仕事に飽きてしまえば、それはお金と引き換えの作業でしかありません。

本来人間は知らないことやわからないことに対して興味を持つようです。興味を抱いた物事を知ることで脳の報酬系(脳に対するご褒美みたいなものです)が活性化されます。この脳の報酬系は記憶とも連携しており、記憶の分報酬が差し引かれるように設計されているようです。初めて知ることや経験に対しては過大な喜びが得られますが、記憶にあることは記憶の分差し引かれて報酬が与えられます。だから同じことを二度体験しても感動が少ないのです。何度も経験するうちに十分記憶した時点で、報酬系が報酬を与えなくなります。いわゆる飽きたという状態になります。

これは同じことに執着することで、他の物事を経験する機会を逃さないようにする仕組みだと思います。様々な物事を経験しておく方が、一つのことに執着しているより環境の変化に適応できる可能性が高く、生き残りに有利だからです。

飽きない仕組みの獲得

飽きない仕組みの獲得とは二つの意味があります。自分で獲得したもの。意図的に仕組みを作ったものです。

自分で飽きない仕組みを獲得してしまうのは、依存のメカニズムです。脳の報酬系が錯覚を起こし、飽きるのとは逆の反応でやり過ぎてしまうのです。

飽きない仕組みとは様々なゲームです。本来は同じことを何度も経験していると飽きるはずですからゲームのやり過ぎは起こりません。しかしゲームメーカーは飽きない仕組みの作り方を経験的に知っているため、ゲームから逃さない仕組みを作り上げてしまうのです。ゲームの問題はこの飽きない仕組みを意図的に作り出してしまったことだと思います。本来人間のもつ飽きる仕組みを回避するのですから、ズルいとも言えるかも知れません。

人間の遊び本来の意味から逸脱しているので、将来的にはある程度規制が必要になるのかも知れません。

一度飽きてもまたやりたくなる理由

一度飽きても再びやりたくなるには理由があります。一言で言えば覚えているかどうかです。もう一度やるかどうか考えた際に記憶が薄れていれば、再度報酬系が活性化されることが期待できますから魅力的に思えます。記憶が鮮明なら報酬系は活性化されませんから魅力的に思えません。

子供が一旦飽きた遊びを再び何度もやりたがるのは、以前の記憶が報酬系を差し引けなくなっているからです。

勉強・仕事などで飽きるのを防止するには?

同じことの繰り返しだと飽きやすいので、時間毎に区切って勉強や仕事をする。毎回新しい発見を探すようにする。例えば覚え方の工夫をし、覚えやすい覚え方を楽しみながら試す等。仕事であれば同じ作業なら時間短縮するための工夫をして何時もとは少しずつ変えていく。

何らかの工夫などを考えることで少しでも改善することを見つけ出す。世の中に完璧なことなどあり得ないので、探せば何かしらの改善点を見つけることが出来るはずである。

子供を怒る『意味』

結論を一言で言えば、子供を怒る『意味』はありません。怒ることに『意味』がないことと、怒らない方法を説明していきます。

子供が出来ていないかやってはいけないことをしたから、子供の落ち度を怒るのは仕方がないと親は考えがちです。子供のことを考えて、子供を怒るのはいわば常識だと思われています。しかし子供を怒ることでどんな『意味』が伝わるのでしょうか?

子供にはやってはいけないことだということは伝わると思います。今度同じことをすれば怒られることがわかります。ただそれだけです。そして子供は嫌な思いをしたという事実だけが残ります。

そのやってはいけないことを子供がやってしまうのは何故でしょうか?そしてつい怒ってしまうのは何故でしょうか?

子供がやってはいけないことをしてしまう理由

そもそも子供はやってはいけないことを理解していないのです。以前似たようなことで怒られたからやってはいけないことは、もしかしたら知ってはいるかも知れません。いずれにしても良く理解できていないのです。

特に大人にとって当たり前・常識で子供も知っていると思い込んでいる場合があります。大人が説明しなくても子供も理由を理解していると思い込んでいるのです。

大人はやってはいけないと知っているはずのことをやるので怒るのです。子供はやってはいけないことは知らないだけなのに怒られるのですからたまったものではありません。

この時子供は怒られるとは全く思っていないので、怒られると驚きの表情を浮かべます。

全く知らずにやって怒られるだけではなく、怒られることを覚悟してやる場合もあります。以前怒られたことを少し変えてみて怒られるかどうか試す場合(怒られる境界線を探すようなイメージです)と、怒られることが目的でやる場合です。以前とは少し変えてやってみるのは、どうすれば怒られるのか境界がわからないので興味本位でやってみるというものです。怒られることが目的というのは寂しいなどの感情をうまく表現できないため、構って欲しくて怒られることをするという心理です。

この二つに共通せるのは怒られた時に、怒られること自体に驚きはなく、ある程度納得しているということです。

怒らず、叱らず、諭す

怒ることは感情をぶつけること、叱ることは責めることです。子供に罪はないので、諭すが正解だと私は思います

子供の知らないことを教えてあげるのです。何故やってはいけないのか?その意味と目的を伝えることで、似たようなこともやってはいけないと理解させたあげるのです。意味と目的を伝えることで、やってよいこととやってはいけないことの境界線を興味本位で試すようなことはなくなります。

明らかにやってはいけないことだとわかっていて、怒られる目的でしたことが疑われたら、どうしたの?寂しかったの?と声をかけてあげましょう。怒ることを期待しているので、驚くと思います。そしてどうしたいのか相談していくとよいと思います。

怒る必要のない子育て 片付けをしない場合

怒る必要のない子育てです。

子供が片付けをしない

良く聞くのが子供に何度言っても片付けをしないという意見です。

何故何度言っても片付けをしないのでしょうか?何度も言っていれば片付けをするということ自体は理解しているかもしれません。

意味・目的がわからない

片付けしないのは片付ける意味・目的がわからないのです。何のために片付けするのかよくわからないのです。『あなたのために片付けるのよ』と言われてもその意味を理解できないのです。意味・目的がわからなければなかなか行動にはうつさないものです。意味・目的がわかれば片付ける動機付けに繋がります。

片付けるのは怒られないため?

なかなか片付けをしないと言われる場合、片付ける動機付けが怒られるから片付けるになってはいないでしょうか?怒られないために片付けるという動機付けだと、子供は怒られるタイミングを見計らうようになります。親の顔色を伺って、怒られそうになると片付ける。まだ大丈夫だと思うと片付けません。本気で怒られたら仕方なく片付けるのです。

片付ける意味・目的

片付ける意味・目的は次に使う時に素早く取り出して使うことが出来るようにすることです。片付けていないとどこにあるのかわからず、探す手間がかかります。片付けると探す手間がいらないのでお得なのです。このことを子供に教えてあげると良いと思います。

散らかっているから親が片付けて、探し物を言われてすぐに出てくるので子供は片付ける意味・目的を理解できません。親に言えば出てくるものをわざわざ自分で探さないので、その元になる片付けをしないのです。

片付けをしたら探し物が早く見つかること。片付けをしないとなかなか探し物が見つからないこと。探し物を探す時間はもったいないことを伝えるのです。

それでも片付けない場合

片付けの意味・目的を言葉で伝えても片付けない場合は、本当の意味が分かっていないのだと思います。

ここで親が困ると子供は成長しません。困る人の問題なので子供が困る仕組みを作り出します。(問題論)

片付けしていないものを放置しても構いませんが、親の精神衛生上良くないので対策を考えます。片付けしていないものを全て大きな箱に放り込むのです。子供が探し物をしても子供に探させます。探すのが大変なことを実感させ、片付けをした方がお得だと分からせるのです。最初は探し物の手伝いをしても二度目三度目はしばらく子供だけで探させるようにして、子供が困るように仕向けるのです。

身を以て片付けがお得だと分かると自然と片付けるようになると思います。

少なくとも大きな箱にまとめていると、親はイライラする必要はないと思います。

片付けしなさいではなく、片付けの意味・目的を伝えてあげてみて下さい。