無意識に親の思いを汲み取る子供の心理

無意識に親の思いを汲み取る子供の心理を考えてみます。文字にすると特殊な状況のように感じますが、良くあることです。無意識のうちに子供は親の思いを汲み取ることで、親の期待していることを叶えようとします。そしてこのような心理を知らなければ、子供を追い詰めてしまうことにも繋がります。

親の思いを汲み取るとは、例えば親同士が中学受験をして欲しい内容の会話をしていると、子供はその思いを汲み取ることで中学受験をしたいと言い出すことです。子供に聞こえないようにしておかないと、親の思いを子供が汲み取ってしまうのです。親の方も子供の前でわざわざ中学受験を話題にすることで中学受験して欲しいことを無意識のうちに伝えているのです。親がズルいのは中学受験して欲しいと直接子供に伝えていないことです。無意識のうちに子供が自分で中学受験を選んだように仕向けているのです。本当に子供の意思を尊重するのであれば、子供の前で中学受験の話をしてはいけません。子供の前で中学受験の話を一度もしたことがなければ、本当に子供の意思かもしれませんが、一度でも話を聞いていれば親の思いを汲み取ったのか見極める必要があります。

悲劇

悲劇とは親の思いを汲み取ることで中学受験を決めた子供が、中学受験にむいていない場合です。いくら優秀でも、まだ物事の考え方がわからないうちに詰め込む中学受験にむいていないこともあり得ます。本当の悲劇とは子供が追い詰められてしまうことです。親の思いを汲み取っただけなんですが、形の上では自分で中学受験を決めたことになっていることです。案に親の誘導されたのですが、自分から受験したいと言い出したと思い込んでいる子供は、中学受験をやめたいと自分からは言い出せないのです。嫌々受験してもうまくいくはずもありません。失敗したというトラウマだけが残ってしまいます。中学受験という余分な時間とお金をかけてトラウマを残すのは勿体無いと思います。

悲劇を避けるために

悲劇を避けるためには、助け船を出してあげることです。本当に中学受験したいの?と優しく声をかけてあげると良いと思います。間違っても、私としては中学受験して欲しいけどと前置きをしてから聞かないことです。その前置きを受けて親の期待を裏切りたくない心理に陥るからです。子供は自分一人では生きてはいけません。だから親に見捨てられないために精一杯無理をしようとしてしまうのです。本当は嫌だけどお父さん、お母さんが喜ぶなら頑張ろうとするのです。

これまでの行動が親の期待や親の思いを汲み取って頑張っていたのであれば、そのことを褒めてあげましょう。そして無理しなくて良いことを伝えてあげましょう。

今回は中学受験を例えに出しましたが、習い事や高校受験、大学受験などでも同じです。場合によっては就職活動でも親の思いを汲み取って行動しているのかもしれません。是非助け船を出してあげてみて下さい。お子さんの違う一面を垣間見ることが出来るかもしれません。

育児放棄による乳幼児の放置死の報道に思う

育児放棄により乳幼児の放置死の報道が散見されます。亡くなられたお子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
これらの報道を見て思うことがあります。
論調が、育児という当たり前のことをしないとして、親ひいては行政を責めているように思います。
親を庇う訳ではありませんが、親もどうしていいのかわからなかったのだと思います。親の心理としては、暗に死んでも仕方ないとは思ったとは思いますが、育児から逃げ出したい心理に陥っていた可能性が考えられます。

私は責め立てるような報道をしても意味をなさないと思います。何故なら亡くなった命はかえってこないからです。それならば再発を防止出来る知恵を報道する方がはるかに建設的だと思います。例えば検診に来ていなかったのであれば、その時点で強制的に面会する法律が必要かもしれませんねなどです。法的な問題で実現するかどうかは政治家や行政の方に考えてもらうとして、その解決策の一つを提案するような報道であるべきではないでしょうか?
他にも周囲の人達に取材し、よく泣いていたや様子がおかしかったという声を報道することもあります。解決策としては、不自然なことがあった時点で虐待の疑いで通報することを促すような報道が再発防止に役立つのではないかと思います。その際通報先の電話番号を表示するとより効果的だと思います。あるいは再発防止策を視聴者から募るという、集合知から解決策を探すのも一つの選択肢だと思います。

そして今の報道でも虐待をしてはいけませんというメッセージは伝わると思いますが、現時点で虐待してしまっている人に向けてもメッセージを発信出来ると良いと思います。多くの場合虐待している人達に虐待しているという自覚が無いからです。虐待してしまいそうという場合の親からの相談先も報道すると、再発防止に役立つと私は思います。もしそういう相談先が無ければ、相談先を作ってもらえるように行政に働きかけると良いのではないかと思います。

報道の目的が見てもらうこと、つまり視聴率なので仕方がないのかもしれませんが、そろそろ再発防止を目的とした報道があらわれても良いと思います。

非常識な人に非常識だと言っても通じない

非常識な人に非常識だと指摘しても通じません。何故ならそのことに関して常識という概念を持ち合わせていないか、確信犯だからです。

常識という概念がない

説明しても概念がないのですから話が通じません。雪を見たことのない熱帯地方の人に言葉で雪を説明するのが困難なのと同じです。

そもそも常識と非常識の概念がないのですから非常識だと非難しても、意味が理解出来ません。

非常識だと指摘した際のの反応は何が非常識?と戸惑います。意味がわからないのでどう反応したらよいのかわからず、困ってしまいます。指摘して困っていれば悪気は無くて、常識を知る機会が無かっただけなのがしれません。知らないことを怒っても意味がないので、常識を概念から丁寧に教えてあげましょう。

非常識の確信犯

非常識だと理解した上であえて非常識な行動をしている確信犯なので非常識だと指摘しても話は通じません。指摘された場合、多くの人は無視するでしょう。あえて怒り出す人もいるでしょう。自分の欠点を隠す目的で怒り出すのです。言葉尻をつかまえて揚げ足をとることもあります。

非常識を指摘して無視したり、惚けたり、怒ったりした場合には確信犯です。相手にするのはやめましょう。時間の無駄です。指摘されてやめるくらいなら最初からやりません。自分が嫌な思いをしないために、関わらなくてすむ方法を探しましょう。どうしても関わる必要があれば、法律や規則、ルールを突きつけて従わざるを得ない手段を探すしかありません。そのような手段が取れなければ、諦めるしか無いのかもしれません。極力距離をとりましょう

人の行動は衝動買いの心理に左右される

人の行動は衝動買いの心理に左右されるようです。衝動買いのメカニズムはこちらをご参照ください。一言で言えば脳内で分泌されるドーパミンが「衝動買いの心理」の元で、どうしても欲しくなるようです。

人類の進化の歴史の上で「衝動買いの心理」は非常に重要でした。今でこそ「衝動買いの心理」ですが、かつては命に関わること心理でした。食料を確保するという命を守る為の心理でした。危険でも少し無理をすれば手に入る物に対して、「衝動買いの心理」が働かなければ手に入れようとしないのです。何故なら危険だとわかっていることが怖いからです。人間は進化の歴史の上で様々な知恵がついたため、怖いという感覚を身につけました。危険なことを無闇にしないようにし、無駄な怪我や命を落とすようなことを出来るだけ避けるようになったのです。この怖いという感覚が進化し過ぎて、言わば怖がりになってしまったのです。しかし怖がってばかりいては食料は手に入りません。そこで「衝動買いの心理」の登場です。元々は手に入りそうな食べ物を実際以上に魅力的に脳に錯覚させることで、予想できる危険性という恐怖に打ち勝つ勇気を与えることで食べ物を確保してきました。この心理が「衝動買いの心理」になってしまったのです。

現代の文明社会では命懸けで食料を確保することは稀な話です。命懸けの部分わお金をかけて食料を確保するのです。命をお金に置き換えてみると「衝動買いの心理」が良くわかります。物を手に入れる手段が命をかけるかお金をかけるかの違いに置き換わったのです。その際に命を失いたくない心理が邪魔しますが、「衝動買いの心理」が恐怖を封印し食料の確保に行動します。お金を失いたく心理が物を買うことに抵抗しますが、命を失うかもしれない恐怖を封印出来る「衝動買いの心理」の前では無力に近いようです。

実は衝動買いだけでなくても「衝動買いの心理」は働いています。例えば各種の依存は「衝動買いの心理」を繰り返してやめられなくなった状態です。アルコールを飲むことで楽しいということを覚えます。次にアルコールを飲むかどうか悩んだ際に、ドーパミンによる「衝動買いの心理」が働きアルコールが欲しくて仕方がなくなります。何度も繰り返しているうちに、ドーパミンの分泌量が減るため、更なる刺激を求めるためアルコールの量が増えて依存に陥ります。タバコのニコチン依存もパチンコなどのギャンブル依存も同じ心理です。依存に共通しているのはいきなり依存になる訳ではないことです。一度も経験したことのないものは魅力がわからないからです。生まれてからいつの間にか陥っている糖質依存は依存しているという認識が難しいのが問題です。

他にも「衝動買いの心理」が行動を左右しているのは、ふと誰かに会いたいと思って後先考えずに行動するのもドーパミンによる「衝動買いの心理」と同じです。後で考えるとどうしてそのような行動をとったのかわからなくなるのは、正にドーパミンの働きによります。何かをして遊びたいと考える際にも「衝動買いの心理」と同じでドーパミンが働きかけているのかも知れないのです。

「衝動買いの心理」の持続時間は約10分だそうです。本当に行動したいのか「衝動買いの心理」で錯覚が起こっているのか判断するために、10分以上経ってから改めて行動するかどうか考えると良いと思います。他にはその行動で得られる効果や満足感が、わざわざ行動する価値があるかを冷静に考えてみると良いと思います。

性善説の観点で制度設計するのはただの怠慢

問題が起こった際に性善説で制度設計をしているから仕方ないという話を聞くことがあります。そもそも性善説と性悪説という考え方に無理があります。善悪自体が相対的なものだからです。
そしてただ単に制度の隙に思い至らなかっただけのことで、性善説の立場だから仕方ないと言い訳しているのです。制度の隙をつこうとする人がいるという想像力が欠落しているか、ただ単に想像力を働かせる手間を惜しんだだけのことです。
性善説の観点で作っているのではありません。制度設計の隙を探すという手間を省くという手抜きをしているだけのことです。
性善説の立場でしか考えられない人は制度設計をしてはいけないのです。つまりあらゆる角度から物事を考える知恵のない人間は、悪意を持って制度の隙をつこうとする人がいることを想像出来ないことを性善説という言い訳しているだけです。

例えば盗むような人がいるとは思わなかったから、鍵をかけずに外出するようなものです。盗まれるかもしれないという想像力が足らないだけです。性善説に立って行動している訳ではないはずです。

どうにでもなれ効果

どうにでもなれ効果という反応があります。

何かを我慢していると我慢していることばかり考えてしまいます。我慢しなければいけない、我慢・我慢と考えていると他のことが考えられなくなってしまいます。その結果、耐え切れなくなって「どうにでもなれ」と我慢すべき対象を楽しんでしまうのです。(参考文献:スタンフォード自分を変える教室)

例えばダイエットしようとして食べ物を我慢しなければいけないと考えていると、食べ物のことばかり考えてしまします。全く別の他のことを考えるだけで良いのですが、考えていなければ忘れてしまいそうな錯覚に陥り、絶えず食べ物のことを考えてしまいます。ついに耐え切れなくなって「どうにでもなれ効果」発動です。あれだけ頑張って我慢していたことにも関わらず、大量に食べてしまうのです。

タバコでもお酒でも同じです。せっかくやめようとしても「どうにでもなれ効果」により、我慢の限界に達してやめられなくなるのです。一度はじめると止まらなくなります。

せっかくこれまで我慢していたのに、堰を切ったように我慢がきかなくなるのです。そして一度自分を許してしまうと、再び続けても無駄な錯覚に陥ることで次の日もその次の日も「どうにでもなれ効果」が働いてしまうのです。

「どうにでもなれ効果」の対策

我慢する対象のことを考えないことです。しかし考えてしまうのが厄介なところです。スタンフォードの自分を変える教室ではその対策も書いてあります。考えないようにしようとすると逆に考えてしまいます。そして考えてしまったことに気付いた時点で否定するのではなく、考えてしまったことを受け入れることです。考えては駄目ではなく、考えても仕方がないけど今は考えないと受け流すのです。

考えないようにすれば我慢する必要があるのはわずか10分です。衝動買いの心理と同じです。その場合も絶えず考え続けていれば考える負担に耐え切れなくなって買ってしまうのです。衝動買いを避けるためには少なくとも10分他の売り場に移動し、他のことを考えることです。それでも欲しければ真剣に買うかどうか考えるのです。

話が脱線しましたが、我慢しようとすれば他のことを考えるために場所を移動することは有効です。そして少なくとも10分他のことを考えることです。そうすれば「どうにでもなれ効果」に陥らなくてすむかもしれません。

それでも「どうにでもなれ効果」の罠にはまってしまった場合、気をとり直してでも次からはやらないよとして「どうにでもなれ効果」を繰り返さないようにするのです。

「どうにでもなれ効果」は勉強などでも当てはまります。せっかく頑張って勉強していても、嫌になってどうにでもなれと考えてしまうことはあります。そんな時も気をとり直して次から気をつければ良いのです。

3人転落死させた元職員の心理

3人落とした元職員の心理を考えてみます。直接話をした訳ではないので間違っている可能性も十分あり得ます。もしかしたら本当かもしれない一つの仮説、フィクションのようなものとして読んでいただければと思います。

救急救命士の資格を持っているとのことです。そして日頃は周囲の人達に飲食を奢ることで称賛されることを望んでいたようです。お金が足らないので入所者の人達のお金を盗んでいたようです。

また転落の直前に口論していたという証言が報道されていました。
証明出来る訳ではありませんが、これらのことを考えてみると1つの心理が浮かび上がります。

救急救命士の資格を持ちながら介護士として働いていることを考えると、何らかの不満を抱えていたことが推察されます。更に口論の証言から考えると、カッとなって衝動的に落としてしまったことが考えられます。

そして第一発見者としてかけつけ、救急救命士の資格を持っていることから救命処置を行ったことが考えられます。その際同僚から救急救命士の資格を持っているから自分達が対応しなくて済んで助かったと称賛されたことが類推出来ます。口論になる程自分をイライラさせた相手を殺したにもかかわらず、疑われることなく称賛される。入所者の方に対して職員が口論する時点で自己中心的な思考がうかがえますので恐らく歪んだ思考回避なのではないかと思います。

代理によるミュンヒハウゼン症候群?

この称賛が自己の承認欲求を満たし、代理によるミュンヒハウゼン症候群のような心理に陥らせたのではないでしょうか?代理によるミュンヒハウゼン症候群とは、人を病気や治療が必要な状態にさせることでその人の介護や治療をすることで称賛してもらうことを求める精神疾患です。子供が病気になることで優しく介護する親に多くみられます。子供を病気にするために消毒液を飲ませるなどの常軌を逸した行動をとります。ちなみにミュンヒハウゼン症候群とは自分が病気になることで、周囲の人達から特別扱いしてもらうこと(疾病利得)を求める精神疾患です。代理というのは自分の代わりに他人に病んでもらうのです。

更に自分がイライラする相手を消し去ることをしても疑われないことが、自分には特別な力があると錯覚したのかもしれません。

発覚しなかった理由

入所者の人を窓から落とすということは、周囲の人達が想像すら出来ない出来事だったため、疑いもしなかったのです。疑われないから犯行を繰り返したのです。同じ人間が当直の際に3人もの転落があって初めて疑われました。本来手すりを乗り越えることの困難な方だっために第三者の関与が疑われました。もし疑われなければ、4人目5人目の犠牲者が出ていたかもしれないのです。

そもそも物事を理解するためには概念が無ければ困難です。つまり今回の場合、自分の身勝手な欲求を満たすために入所者の人を殺す人が存在するということです。普通の人であれば人を殺すという心理は理解出来ません。しかし高額の金銭や余程の恨みがあれば人を殺すという心理は何とか想像することは出来るかもしれません。仕事にもかかわらずサービスを提供すべき入所者の方に対して殺意を抱く人間が存在することが、想像も及ばない思考回路だったので理解出来なかったのです。施設の人も警察の人達も。

嘘つきは泥棒のはじまり。殺人で終わり

報道によると元介護士は周囲の人達に飲食を奢っていたそうです。奢ることで称賛され、自己の承認欲求が満たされたようです。奢ってもお金がある理由を、他でも働いているという嘘をついていたそうです。その嘘を誤魔化すために入所者の方からお金を盗むようになりました。正に嘘つきは泥棒のはじまりでした。恐らく善悪の区別がつかなくなり、やって良いこととやってはいけないことがわからなくなったのだと思います。通常の人は倫理観がストッパーとなり行動を制限し、やってはいけないことを自重するのですが、ストッパーが外れてしまったような心理状態だったことが類推出来ます。3人亡くなるまではあからさまに疑われないことで、自分の行動は正しいと錯覚してしまったのかもしれません。

善悪の区別がつかないので、やってはいけないことつまりタブーがなくなります。最悪の行き着く先が殺人となってしまうのです。

恐ろしいのは2人亡くなった時点で職場を変わっていれば、事件として発覚しなかったかもしれないことです。発覚するかもしれないという警戒心に乏しかったため3人もの犯行ん繰り返すことで発覚しました。もし警戒心もある犯罪者であれば発覚しないかもしれないのです。

代理によるミュンヒハウゼン症候群という常人では計り知れない心理で行動する人が存在することを多くの人が知っておくことが、同じような事件を繰り返さない唯一の方法だと思います。

自己中心的な人の心理

自己中心的な人の心理を考えてみます。気の利かない人と同じで相手の立場がわからないのです。

いつも自己中心的な考え方をする人は限られています。多くの人は相手の立場も考えて行動することが出来ます。しかしそれは相手の立場を思いやる心を人から教えてもらってはじめて身につけることが出来るのです。

究極の自己中心的存在、赤ちゃんを例に考えてみましょう。赤ちゃんはお腹が空けば、親の状況などお構いなしに泣いておっぱい求めます。排便をしてお尻が気持ち悪いと泣いてオムツを替えてもらおうとします。その際も親の状況など関係ありません。忘れてしまっていますが、誰もがその赤ちゃんでした。つまり誰もが自己中心的な存在からスタートしたのです。

大人になっても自分のことだけ考える自己中心的な行動する人はごく稀です。大人になる過程で相手の立場を思いやる心を身につけることで、自己中心的な行動は恥ずかしいことだと理解し、自己中心的な行動を慎むようになります。多くの人は幼いうちから少しずつ人を思いやる心を身につけます。

自己中心的な人は、相手の立場を思いやるという概念が欠落したまま大人になってしまったのです。概念が無いので自己中心的であるという自覚は全くありません。悪気もありません。そもそも相手を思いやる概念そのものがないので、自己中心的だと指摘されても理解出来ません。

周りの人達の反応を全く気にしない性格か、自己中心的に振舞っても許される環境で育ったのだと思います。

人の行動を変えることは非常に困難です。周囲に自己中心的な行動をする人がいれば、距離をとるのが無難かもしれません。

どうしても関わる必要があれば、覚悟を決めて親が子供に言って聞かせるように人を思いやる概念から教えてあげる必要があります。そして自己中心的な行動は恥ずかしい行動で、損することを教えてあげるしかありません。

危険だと考えるのは人間だけ?

危険を予測して考えるのはもしかしたら人間だけかもしれません。

ふと気づいたことですが、危険をわざわざ予測するのは恐らく人間だけだと思います。何故ならそもそも動物にとっては全てが危険で、安全という概念が無いからです。元々の状態が安全で危険なところに行くとか危険を冒すというように考えるのが人間です。動物は周囲が全て危険なので根本から異なります。動物は安全な行動をとっているわけではなく、危険が比較的少ない行動を選んでいるに過ぎないと思います。
人間と動物では前提条件が異なるのです。
(人間でも混沌とした社会では、動物のように危険が当たり前で少しでも危険が少ない選択をするようです)

安全だという概念は人間だけなのかもしれません(もしかしたら巣を作る動物は巣の中は安全だと考えているかもしれませんが…)。

特に治安の良い日本では安全が当たり前で、殺人事件はもちろん場合によってはひったくりや空き巣などがニュースになる程です。その結果、余りに安全が当たり前過ぎて、危険を察知する能力を失いつつあります。

あまりに安全が当たり前になってしまうと、危険だとわざわざ予測する必要が生まれます。動物にとっては危険が当たり前ですが、人間にとっては危険が特別な状況なのです。そして危険だと予測することの出来る人と出来ない人が存在します。危険だと予測出来ない人にとっては、いくら危険だと言われても理解できません。そして実際に害が及ぶことがなければ、危険であったことが理解できないのです。想像力の欠如なのかもしれません。この危険が予測出来ない人が一定割合で存在することを理解しておく方が良いと私は思います。
この危険を予測出来ない人が車を運転していると危険きわまりない行動を取ります。真っ直ぐ走るだけなら問題ありませんが、様々な状況に対して前もって予測が出来ないので危険を察知する人からすると考えられないくらい危険な行動をとることが出来ます。何故なら危険が予測出来ないので、怖くないのです。俗にいう怖い物知らずという状態です。

危険の予測が出来ない人は子供と同じです。子供は道路が危ないと言っても、どのように危ないのか想像がつかないので道路でボール遊びをすることが出来たり、道路で鬼ごっこが出来るのです。

危険だと指摘しても理解出来ない人も大勢います。危険が理解出来ない人は、これまで大丈夫だったから大丈夫というよくわからない理屈で押し通そうとします。本当にちょっとした違いで結果が大きく異なることが理解出来ないのです。

動物のように危険が当たり前という考え方になるのは難しいかもしれませんが、安全が当たり前で危険に気付くことが出来ないのは問題だと思います。考えつく範囲の危険を察知する、危険を予測することは、出来る限りする方がお得だと思います。自分や家族の命やお金を守るために、様々な危険に気付くことの出来る知恵をつけたいものだと思います。怪我で済めば次に気をつけることが出来ますが、特に命を失ってしまうと取り返しがつきません。

危険を予測出来るかどうかの見分け方

危険を予測出来るかどうかの見分け方は簡単です。ちょっとしたことでも危ないと感じるかどうかです。怖いと思うことが出来ない人は危険の察知能力があまり発達していない可能性があります。

例えば道路を歩いていて車がスレスレで通り過ぎていった場合、怖いから一歩車から離れようと考えるか、当たらなかったから別に気にいないかです。怖いと感じる人は不測の事態(運転手のハンドル操作ミス、自分が車側につまづく等)を想定するので、万が一のことを考えて安全策をとって車から離れるのです。

日常生活でどれだけ危険を見つけることが出来るかにかかっています。

どれだけ危険を見つけて、どのように避けていますか?その危険回避の積み重ねが怪我をするかどうか、命を失うかどうかの違いになると思います。

誉められないようにしようね?

怒らない子育てや誉めて育てる子育てがもてはやされています。
私はただ怒らないだけではなく、怒る必要のない子育てを子育てを提案しています。
私は基本的には誉めることは良いことだと思います。しかしアドラーの心理学によると誉めることに否定的です。何故なら誉めるというのは深層心理で相手が出来ないことが前提だからです。(出来ないと思っていることが)出来たから凄いねというようになるのです。出来て当たり前だと思っていれば誉めたりはしないのです。

このことから何でも誉めれば良いということが間違いだとわかります。
相手の心理としていつも誉められていると、誉めてもらうために行動するようになります。逆に誉めてもらえないと行動しなくなったり、誉めてもらえないことを攻撃するようになるのです。

誉めて育てると誉めることに依存してしまい、誉められないと何もしない子供になってしまいます。
以上のことを考えますと、相手が出来ないと思っていたことや、これまでは出来なかったことが初めて出来るようになった際には誉めてあげると良いですが、何でも誉めるのは弊害も大きいようです。何しろ出来ないと思っているのが前提ですから、何でも誉めるのは出来るはずがないとしてバカにしているようなものだからです。

誉められないようにしようね

相手が自分のことを出来ないと思っているから誉めてくれるのです。
出来ると思っていることは誉めてはくれません。
つまり誉められないようにしようねとは、相手にとって自分は出来て当たり前だと思ってもらえるようにしようねという意味です。
出来ないはずだなんて思わせないぞという心意気を表すための、誉められないようにしようねです。

大人は誉められても無邪気に喜んではいけない

大人は誉められても無邪気に喜んではいけません。
何故なら、相手は出来ないと思ったことが意外にも出来たから誉めてくれたのです。
自分でも出来ないと思っていたことが予想外に出来たのであれば、誉めてもらって喜ぶのは当たり前ですが、自分は出来ると思っていることを誉められた場合には相手は出来ないと思っていたのだということを心にとめておくべきです。

人を誉める場合に気をつけること

相手が喜ぶから誉めるのは間違った行為で、相手の行動心理を歪めてしまいます。
相手は誉められることに依存し、誉められないと行動しなくなるからです。
誉められるから行動するようにしないために、誉めすぎないようにしましょう。
そして相手が当たり前に出来ると思っていることを誉めるのは、誉める心理を知っている人から見ると相手を馬鹿にしているのと同じです。
人を誉める前に、相手を喜ばせるために誉めようとしていないか自分自身の深層心理を見つめ直すべきです。

誉める場合には相手が出来ないと思っていたことが出来た時だけ誉めるようにしましょう。